この度、猛獣公爵の嫁になりまして~厄介払いされた令嬢は、旦那様に溺愛されながらもふもふ達と楽しくモノづくりライフを送っています~

 カーテンの隙間から月明かりが差し込む、薄暗い部屋。
 いつ来ても、ここは足を踏み入れただけで威圧感を覚える。できるだけ音を立てないように静かに扉を閉めれば、部屋の奥から「こっちに来なさい」という声が聞こえた。
 私は慌てて声の主のそばに歩み寄ると、執務机の前に立った。

「なぜ、ここに呼び出されたのか──もちろん、理由はわかっているな?」

「お、お父様……どうか、お許しください!」

 涙ながらに訴える私の頬に、お父様の右手が触れた。

「全く……残念だよ、コーデリア。役目さえ果たしてくれれば、お前もこんな目に遭わずに済んだというのに」

 だがしかし、とお父様は言葉を続ける。

「だが……私の娘として生まれたからには、その幸運に感謝するべきだ。こんな風に父親の手で楽に死なせてもらえる()()()などそうはいないのだから」

「お、お願いです……どうか、それだけは……」

 私は声を絞り出すように、必死に懇願する。そして、後ずさった。
 そんな私を追い詰めるように、お父様は剣を振りかぶる。
 次の瞬間――突然、腰まで流れる長い黒髪を手で掴まれたかと思えば、ぱらぱらと自身のものであろう髪の毛が何本か床に落ちた。

(……え?)

 私は呆然と床に落ちた自分の髪の毛を見つめる。
 その光景をどこか他人事のように感じながらも、思考は徐々に状況を理解し始めていた。
 お父様の手を見てみれば、自分のものと思しき髪の毛の束が握られていた。
 そう、私は剣で体を斬りつけられたのではなく、ただ髪を切られただけだったのだ。肩につく程度の長さになったせいか、随分と頭が軽く感じられる。

「たった今、過去のお前は死んだ。一先ず、これで許してやろう。情けをかけてやったことに感謝しなさい。本来ならば、お前のような役立たずには死んでもらわねばならんのだが……そんなお前を欲しがる奇特な人物がいてな」

「ど、どういうことでしょうか……?」

 真意を掴みかねて問いかけると、お父様はふっと笑みを浮かべた。

「喜べ。お前を娶りたいと言ってくださる貴族が現れたぞ。……とはいえ、社交界ではその方に関する悪い噂話が立っているようだがな」

「え……?」

「ああ、そう言えば……あの方は珍しいものが好きだと言っていたな。つまり、お前はあの方に気に入られたということだ。──そう、()()()姿()をしたあの恐ろしい公爵にな」

 ──それは、まるで地獄への招待状のようだった。


 ***


 動揺しながらも、何とか寝室に戻った私は力なくベッドに倒れ込んだ。
 私──コーデリア・ラザフォードは世界的に有名な魔導士を多く輩出している名門伯爵家の次女だ。
 二卵性の双子の姉であるビクトリアは魔力に恵まれているため、幼い頃から将来を有望視されていた。

 ビクトリアは魔法の才能があるだけではなく、美の女神すら嫉妬するほど整った顔立ちをしている。
 透き通るような長い銀髪に、青い瞳。そして、陶器のように滑らかな肌。まるで氷の花のように美しい彼女を前にすれば、誰もが見惚れてしまうだろう。
 対して、私はと言えば──持っている魔力は微々たるもので、容姿も野暮ったい上に黒髪と緑色の目を持っている。
 特に右目は金色がかった緑色なので、さらに珍しい。だから、できる限り他人に見られたくなくて日頃から右目を前髪で隠していた。
 実は、この国では黒髪に緑色の目は凶兆とされており、縁起が悪いとされてきた。
 そのため、私は両親をはじめとする関わる人間全てに『忌み子』と蔑まれ虐げられてきたのだ。

 忌み子である私がこの歳まで邸に置いてもらえたのには、理由がある。
 というのも、ラザフォード家には代々伝わる精霊降臨の儀式──いわゆる降霊術のようなもの──があるのだが、私はその依代になるために生かされてきたのだ。
 どういうわけか、その儀式を行うことでラザフォード家は強大な力を得ているらしく、王家に信頼される存在にまで上り詰めた。
 お父様が言うには、依代となった人間は魔力を消費するため数日間寝込むことになるのだという。つまり、私にうってつけの役目なのだ。

 自分は、精霊を憑依させるための依代として必要とされているだけ。ただ、それだけの存在。
 それを知った時はショックだったけれど、立派に役目を果たせば両親から認めてもらえると思い努力してきた。
 そして、十七歳の誕生日を迎えた一週間前。依代になるために必要な条件を満たした私は、意を決して儀式に挑んだ。
 結果は大失敗。精霊を降ろすどころか、呼び出すことさえできなかった。その結果に激怒したお父様は、私を部屋に閉じ込めた。恐らく、役立たずの娘をどう処分するか考えていたのだろう。
 そして、今日。お父様に呼び出され、いよいよ殺されるかと思いきや──縁談を持ちかけられた。
 きっと、金の亡者であるお父様のことだから、公爵家から贈られる結納金に目が眩んで二つ返事で承諾したのだろう。

(どうして、私なんかに縁談を持ちかけたのかしら……)

 お父様の話しぶりから察するに、私に結婚を申し込んできた相手はジェイド・ウルス。名門公爵家の当主だ。
 優れた魔法の才を持っており、王家から一目置かれているという噂を聞いたことがある。
 そんな彼と私は、今まで一言たりとも会話を交わしたことがない。それなのに、縁談を申し込んでくるとは一体どういうことなのだろうか。

 お父様が言っていた通り、その人は猛獣の姿をしているらしい。そう、文字通りの意味で。
 とはいえ、元々は普通の人間だったそうだ。しかし、ある時を境にどういうわけか獣の姿に変身してしまったのだという。
 誰かから恨みを買っていて呪いをかけられたとか、変なものを食べてそうなっただとか──流言飛語が飛び交っているが、真偽の程は定かではない。
 しかし、その見た目とは裏腹に聡明な人物だという噂も耳にしたことがある。
 そんな彼から求婚されたということは、とても名誉なことに違いない。でも……。

(彼は、本当に私を妻にしたいと思っているの……? 一体、何が目的なんだろう?)

 彼に関する噂の中には、「獣の姿になって以来、狂ってしまった」とか「心まで猛獣になってしまったから、密かに人間を食べている」とかそういった物騒なものまである。
 所詮、荒唐無稽だとは思うが、もしそれが事実なら身の安全の保証はない。
 ぐるぐると考え込んでいるうちに、私はいつの間にか眠りについてしまった。


 ***


 翌朝。
 昨晩の出来事で疲れ切ってしまった私はなかなかベッドから出る気になれず、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 不意に、扉がノックされる。どうぞ、と返事をするとゆっくりと扉が開かれた。

「おはようございます、お嬢様」

 そう言って、気怠げな様子で入ってきたのは私の身の回りの世話を担当している下女──イザベルだった。

「朝食をお持ち致しました。……とりあえず、ここに置いておきますね」

 イザベルは心底面倒くさそうにテーブルの上に食事を並べ始める。
 そう、私は使用人にすら舐められているのだ。昔からこうだから、今はもう大分慣れたが。

「あ、ありがとう……」

 小さく呟くと、彼女は無表情のまま私を一睨みし、部屋から出て行こうと歩き始めた。……が、突然「あっ」という声を上げて立ち止まると、こちらを振り返った。

「そういえば……今朝、小耳に挟んだのですけれど。お嬢様に縁談が来たそうですね。それも、あの猛獣公爵から!」

 ニヤニヤと醜悪な笑みを口元に浮かべながら話す彼女を見て、私は眉をひそめる。
 彼女のこういう態度を見る度に憎悪や嫌悪感を抱くのだが、それを咎める度胸は生憎持ち合わせていない。

「え、えっと……」

「お可哀想なお嬢様。よりによって、あんな男に気に入られるなんて。きっと、骨の髄まで吸い尽くされて死んでしまいますよ。だって、相手は猛獣ですもの! ふふふ……いい気味ですわ。あらやだ、ごめんなさい。私ったら、つい本音が出てしまいましたわ!」

「……」

 私は、流石に耐えかねて抗議しようとする。だが──

「それでは、何かあったらいつでもお呼びくださいませ」

 彼女はそう言い残し、鼻歌を歌いながら足早に部屋から出て行ってしまう。
 残された私は、唇を噛み締めることしかできなかった。



 数時間後。
 気分転換に庭園を散歩していると、不意にワンワンと吠える犬の鳴き声と共に誰かの声が聞こえてきた。

(あの声は……ビクトリア?)

 そう思いながらも、声がするほうへ向かうと──案の定、そこにはビクトリアと彼女の愛犬であるレオンがいた。

「おいで、レオン! こっちよ! って……あら? なんだ、コーデリアじゃない」

 私が顔を見せるなり、彼女はパッと顔を輝かせた。
 だが、すぐに嘲笑うような表情を浮かべる。

「それにしても……相変わらず、みすぼらしい恰好をしているわねぇ」

 その言葉に思わず泣きそうになるが、ぐっと堪えた。ここで泣けば、相手の思う壺だとわかっていたからだ。
 私は、忌み子であるが故に最低限の衣食住を与えられているだけだった。
 だから、彼女が身に纏っているような綺羅びやかなドレスや装飾品などは一切持っていない。
 一応学校には通わせてもらっていたけれど、魔法の才能がないため初等部の頃から平民と同じ普通科の学院に通っていた。
 とはいえ、高等部には進学していない。王立魔法学園に首席で入学したビクトリアとは雲泥の差だから、本当に姉妹なのかと疑われることもしばしばある。

「そう言えば……今日、あなたのところに縁談が来たって聞いたけれど。あなたなんかと結婚したいと思う方がいるなんて驚きだわ。なんでも、獣の姿をした殿方なんですって? 身分は高いみたいだけれど、社交界では随分と評判が悪いらしいじゃない。でも、まあ……疎まれている者同士、お似合いかもしれないわね」

 ビクトリアは楽しげにそう言った。
 恐らく、反応を見て面白がっているだけなのだろう。
 それでも私の心は深く傷つき、みるみると血が流れていくようだった。
「ねえ! そんなことよりも聞いて頂戴よ!」

 突然、ビクトリアは大きな声で叫ぶようにそう言った。
 気圧されて呆然としている私を見て、彼女はくすりと笑う。

「実は私、王太子殿下の婚約者になったの!」

「え……?」

「この間、夜会でユリアン王太子殿下からダンスのお誘いを受けてね。その場で、プロポーズされたのよ。まさか、こんなことになるなんて夢にも思わなかったわ!」

「そ、そうなのね……。おめでとう。でも、どうしてそれを私に教えたの?」

 そう尋ねると、ビクトリアは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。そして、得意げに語り出す。

「決まっているでしょう?  可哀想な妹に、幸せのおすそ分けをしたかったからよ」

 その言葉に、私は顔を引きつらせた。
 つまり、優越感に浸るためにわざわざそれを私に伝えたということだろうか。

「私は王太子殿下から求婚を受けたというのに、あなたは猛獣公爵と揶揄される殿方と結婚させられようとしている──人生って不公平よねぇ? でも、それも全部あなたが役立たずで無能だからいけないのよ? 私みたいに才能に恵まれていたら、こんなことにはならなかったのにね! あははははは!」

 ビクトリアは、そう言ってけたたましく笑った。
 そんな姉の姿を見ていると、吐き気がしてくる。

「ああ、本当に愉快だわ! まあ、精々、猛獣公爵に怯えながら夜な夜な一人で枕でも濡らし続けることね!」

 そう言い残し、彼女は満足げな表情を浮かべて去っていく。
 一人取り残された私は、地面に崩れ落ちるようにして座り込む。
 そんな私を、何故かレオンは何度も振り返りながら気にしていた。

(犬にすら心配されてしまうなんて……)

 己の不甲斐なさと無力さに苛立ち、奥歯を噛み締める。だが同時に、もう何もかも諦めたいという気持ちもあった。
 私はただひたすら、自分の境遇を受け入れようとしていた。
 それからしばらくすると、辺りが薄暗くなってきた。

「……帰らないと」

 私はよろめきながらも立ち上がり、邸へと戻ることにした。
 邸に入ると、使用人たちの好奇に満ちた視線が突き刺さる。
 皆、今後私がどんな目に遭うのか想像して楽しんでいるのだろう。

「あら、コーデリアお嬢様。お散歩に行かれていたのですか?」

 廊下を歩いていると、前方から歩いてきたイザベルがニヤニヤしながら話しかけてきた。

「……え、ええ」

「それでは、夕食の準備ができましたらお呼び致しますので」

 彼女はそれだけ言い残すと、再びどこかへ歩いて行った。


***


 縁談を申し込まれてから、数日が経った。
 その日──いつにも増して憂鬱だった私は、気分転換をするために王都の図書館に足を運んでいた。しかし、思うように読書が捗らず溜息をつく。
 窓の外を見ると、どんよりとした曇り空が広がっていた。そのせいか、外は昼間だというのにも関わらず少し薄暗い。
 ふと、ビクトリアの顔が頭をよぎる。同時に憂鬱な気分になり、私は慌てて首を横に振った。

「……別の本を探そう」

 そう呟いて席を立つ。
 館内を歩いていると、ふとある本が目に止まった。
 それは『動物図鑑』と書かれた本だった。何気なく手に取ってパラパラとページを捲ると、様々な種類の動物の絵が載っている。
 狼や熊、虎などの猛獣類は勿論のこと、鹿や馬といった草食系の生き物も載っていた。

(そういえば、ジェイド様は猛獣の姿をしていると言っていたわね……一体、どんな姿なのかしら)

 そう考えていると、不意にある動物の絵が目に入った。そこに描かれていたのは大きな体躯と鋭い牙を持った凶暴な生き物──真っ白な毛を持つ熊だった。
 その姿に思わずハッとする。その熊を見た瞬間、なぜだか胸が高鳴るような感覚に陥ったのだ。

(なんだろう、この気持ち……なんだか、凄く落ち着く)

 しばらくの間、私はじっとその熊の絵を見つめ続けていた。

「とりあえず、借りておこう。他にも、何冊か借りていこうかな」

 私は次々と本を物色していく。そして、気づけば歴史関連の棚の前で足を止めていた。
 ふと、ある本のタイトルが目に飛び込んでくる。
 本の見出しには、『世界の風変わりな儀式』と書いてある。

「これは……」

 私は吸い寄せられるように、その本に手を伸ばす。
 手に取ると、意外と厚みのある本だった。表紙は革製で、金箔が施された美しいデザインをしている。
 本を開いてみた。どうやら、世界各国で行われている奇妙な儀式を紹介しているらしい。中には眉唾物の儀式もあったが、とても興味深い内容も含まれていた。

「え……?」

 夢中になって本を読み進めていた私は、あるページで指を止める。そして、そのまま硬直した。
 そのページに書かれていた内容を要約すると──

 今から数百年前、一部の地域では悪魔召喚が盛んに行われていたらしい。生贄を使って悪魔を呼び出した彼らは、様々な悪行を重ねたという。
 中でも最も忌み嫌われていたのは、「人身御供(ひとみごくう)の儀」と呼ばれるものだった。
 その名の通り、生きた人間を生贄として捧げるという行為のことである。
 当時の風習としてはごく普通のことだったようだが、当然現代においてこのような非人道的な儀式が行われることは許されない。
 だがその一方で、現代でもなお、一部では秘密裏に行われているのだとか。
 生贄となる人間には、予め『降霊の儀』であると嘘を教えておくのだという。さも安全かのような話をして、儀式を行わせるのだ。
 そこまで読んで、ふと私はあることに気づく。

(あれ? これって、ラザフォード家に代々伝わる儀式に似ていない……?)

 最初は、どこか遠い国で実際に行われていた儀式なのだと思っていた。
 しかし……よく考えると、ラザフォード家で行われている儀式の内容と酷似していることに気がついたのである。
 その瞬間、全身の血の気が引いた。

(ま、まさか……)

 心臓が早鐘のように鳴り響き、呼吸が苦しくなる。私は恐ろしくなって本を閉じると、元の場所に戻す。
 その後もしばらくは館内にいたのだが、全く読書に集中できなかった。
 結局、私は何も借りることなく図書館を後にすることとなった。

 そして、邸へと戻った私はベッドに横になった。
 先ほど読んだ本の内容を頭の中で反覆させながら、大きく息を吐く。

(もしあの時、儀式が成功していたら──私は、死んでいたのかも……)

 ゾッとしながら、思わず両腕で自分の体を抱きしめた。……が、同時に怒りや憎悪といった激しい感情が湧き上がってくる。
 儀式さえうまくいけば、お父様やお母様から認めてもらえると思っていた。でも、それはとんだ見当違いだったようだ。

(家族からどう思われようが、もうどうでもいい)

 不意に、自分の中で何かが吹っ切れた。なぜなら、自分は誰からも望まれていない存在だから。
 そう思うと同時に、私は無意識のうちに笑っていた。
 邸に戻ると、すぐにイザベルが呼びに来た。どうやら、夕食の時間らしい。

(どうして、私まで一緒に……?)

 そう思い、私は首を傾げる。というのも、私はいつも家族とは別々に食事をとらされていたからだ。
 それも、毎回残り物である。今朝、イザベルが持ってきた朝食だって使用人が食べるまかないだった。
 これは何かあるに違いない。そう思いつつも、食堂へと向かうと──既にそこには両親、ビクトリア、そして兄であるクリフが席について待っていた。

「遅いぞ、コーデリア」

 クリフが不機嫌そうな表情を浮かべながら言った。そんな彼を無視して、私は席につく。
 長いダイニングテーブルに並んでいるのは、豪華な料理の数々だった。
 怪訝に思いながらも席に着くと、上座にいる父が口を開いた。

「コーデリア。お前が嫁ぐ日についてだが……実は、先方から『できる限り早いほうがいい』という旨の連絡があってな。急遽、来週に決まった」

「え……?」

 お父様の言葉を聞いて、私は唖然とする。
 一般的に、貴族令嬢の結婚は十八を過ぎてから行うものだ。
 いくらなんでも、急すぎるのではないかと思った。

(まだ、心の準備もできていないのに……)

 そう思った瞬間、私の脳裏にあの噂がよぎった。
 ──心まで猛獣になってしまった公爵は、密かに人間を食べている。そして、その血肉を食すことで、己の力と寿命を保っているのだと。
 もしそれが事実なら、私は──。

「そ、それはあまりにも早すぎます!」

 思わず抗議の声を上げると、お母様が冷たく言い放った。

「お黙りなさい。これはもう決定事項なのです」

 そう言われ、私は押し黙った。さしずめ、この豪華な夕食は最後の晩餐といったところだろうか。
 私は密かに自嘲すると、ゆっくりと口を開く。

「……仰せのままに」

 そう答えると、私は黙々と目の前の食事を口に運んだ。
 急に聞き分けが良くなった私を見て、彼らは少し驚いていた。
 そして、数日後。
 いよいよ、私が嫁ぐ日がやってきた。
 結婚相手は予想通り、巷で『猛獣公爵』と呼ばれ、恐れられているジェイド・ウルス公爵。
 ウルス公爵領は、ここレヴァイン王国の北方にある領地だ。広大な草原地帯や豊富な鉱山資源があるため、国内有数の裕福な土地として知られている。
 また、その豊かな自然から良質な木材も多く取れるため、家具や調度品などの木工製品も有名らしい。

「それでは、行って参ります」

 馬車の前で、私は見送りに来ていた家族に向かって頭を下げる。
 いや、見送りというよりは監視と表現したほうが正しいかもしれない。
 彼らは、基本的に私を信用していないのだ。隙あらば逃げるかもしれないとでも思っているのだろう。

「くれぐれも、粗相のないようにしなさい」

 お父様が釘を刺してきたので、とりあえず「かしこまりました」と答えておく。
 私は背伸びをしてお父様の耳元に口を寄せると、囁くように言う。

「ご心配なさらずとも、私は逃亡などしません。ああ、それと……ラザフォード家で代々行われていた儀式のことは、決して口外致しませんからご安心ください。あの儀式の真相が明るみに出れば、きっと大変なことになりますものね」

 含みを持たせつつそう告げると、お父様の顔色が変わった。その反応を見て、私はあの本に書いてあったことが事実であることを確信した。
 お父様が私に何かを言おうとしていたけれど、無視して馬車に乗り込む。扉が閉まる直前、ビクトリアがこちらに鋭い視線を向けているのが見えた。
 父だけに言ったつもりだったが、恐らく近くにいた彼女にも聞こえていたのだろう。
 ビクトリアが真実を知っているかどうかは定かではないけれど、きっと自分たちが何か弱みを握られたことを悟ったのだ。
 私は少しだけ溜飲を下げると、座席に腰掛ける。

(……旅立つ前に、一矢報いることができたかしら?)

 もちろん、決定的な証拠がない限り「ラザフォード家は倫理に反する儀式を行っている」などと触れ回ることはできない。
 けれど、少なくとも彼らが後ろめたいことをしているという事実を突きつけることはできたはずだ。
 そして、それは今後彼らからの嫌がらせを未然に防ぐための牽制にも繋がる。そんなことを考えながら、私は馬車に乗り込んだ。


 馬車の中には、既にイザベルが乗っていた。
 彼女はあくまでも付き人なので、私をウルス公爵領に送り届けたらそのままラザフォード邸に戻ることになっている。

「では、出発致します」

 御者が鞭を打つと同時に、馬が甲高い鳴き声を上げた。そして、そのままゆっくりと走り出す。
 しばらくすると、イザベルが口の端を吊り上げて言った。

「あら、お嬢様。靴が泥で汚れていますわよ」

 そう指摘されて足元を見ると、確かに彼女の指摘どおり私の足は土で薄茶色に染まっていた。

(ああ、なるほど。確か、私にこの靴を履かせたのはイザベルだったわね。ということは……)

 恐らく、イザベルは嫌がらせをするために意図的にこの靴を履かせたのだろう。
 そう思いつつ、私は冷静に答えた。

「ありがとう、イザベル。わざわざ教えてくれて」

 すると、イザベルは拍子抜けしたのか、キョトンとした表情を浮かべる。
 しかし、すぐに気を取り直したのか嫌味っぽく笑った。

「いえ、お気になさらず。それにしても、困りましたわ。生憎、ハンカチを持ち合わせていないのです。もし、このまま公爵邸へ向かえば、旦那様に顔をしかめられてしまうかもしれません。ああ、どうしましょう……本当に困りましたわねぇ」

 わざとらしくそう言うと、イザベルはちらりと横目でこちらを見てくる。
 そんな彼女を見て、私は小さく嘆息する。

「向こうに着いたら、自分で拭くからいいわ。気にしないで」

「え? ああ、左様ですか……」

 私の反応があまりにも淡白だったからだろうか。イザベルはつまらなそうに口を尖らせた。
 馬車は公爵領に向かってひた走っていく。窓の向こう側には、見渡す限り一面の大草原が広がっていた。


 それから、どれくらい時間が経っただろうか。馬車は、ようやく目的地であるウルス公爵邸に到着した。
 馬車から降りる際、ふと顔を上げると真っ赤に染まった太陽が沈みかけていた。
 空はすっかりオレンジ色に染め上げられており、もうじき夜の帳が下りようとしている。
 その景色を眺めていた時だった。公爵邸に仕える家令と思しき茶髪の青年が私の元に駆け寄ってきた。
 彼は、深々と頭を下げて言った。

「ようこそ、コーデリア嬢。本日は遠路遥々、我が領地までよくぞおいでくださいました。さぞかし、お疲れになったことでございましょう」

「いえ……お心遣い痛み入りますわ」

「ああ、申し遅れました。私は、当公爵邸の家令を務めておりますアランと申します。以後お見知りおきを」

 家令にしては随分と若い。恐らく、二十代後半くらいだろう。
 しかし、その振る舞いにはそういった事情を微塵も感じさせない堂々としたものがあり、そこには家令としての貫禄が滲み出ていた。

「ええ、よろしくお願いしますわ」

 私は軽く会釈をしてそう返す。
 役目を終えたイザベルは、私が無事ウルス邸に到着したのを確認するなり「それでは、私はここで失礼いたします」と言って、そそくさと馬車に乗って立ち去ってしまった。
 アランは門を開けるように合図を送る。すると、門番たちが鉄柵を開けてくれた。

「ささ、こちらへどうぞ」

 彼の案内に従って敷地内に足を踏み入れる。中に入ると、手入れされた美しい庭園が広がっていた。

(素敵……)

 庭師の腕が良いのか、どの花も生き生きとしていてとても美しかった。
 そのまましばらく歩いているうちに、やがて大きな邸が見えてきた。
 邸の中に入り長い廊下を通り抜けると、そこには豪奢な応接室があった。私は、アランに促されるままソファに腰かける。

「それでは、暫くしたら旦那様がいらっしゃいますのでこのままお待ち下さい」

 そう言うと、彼は一礼して部屋を出て行った。一人きりになったところで、改めて室内を見回す。
 壁に飾られた絵画、高価な調度品──恐らく、かなりの名工の作品なのだろうけれど、あまり芸術に興味のない私はそれが何という作者の作品なのかまでは分からなかった。
 そんな風にぼんやりとしていると、扉をノックする音が聞こえた。
 慌てて「はい」と返事をすれば、扉がゆっくり開いていく。私は、慌てて姿勢を正した。
 そして──現れた人物を見た瞬間、私は思わず目を疑った。

(し、白熊っ……!?)

 そう、部屋に入ってきたのは、白い毛皮に覆われた大きな熊だったのだ。
 一応、貴族らしい服を身に纏ってはいるものの、どこからどう見ても人間以外の生き物にしか見えない。

「…………」

 あまりに予想外すぎて、一瞬固まってしまう。しかし、すぐに我に返ると慌てて目を擦った。
 しかし、何度目を凝らしてもそこにいるのはやたら毛並みが良い、二足歩行する白熊で──。

「大丈夫か……?」

 その白熊は、怪訝そうに私の顔を覗き込んできた。

「あ、あの……もしかして、ウルス公爵でしょうか?」

 恐る恐る尋ねると、彼は小さく頷いた。
 次の瞬間、私はようやく目の前にいる方が公爵様なのだと気づいた。

「し、失礼しました! まさか、公爵様だとは思わず……」

 急いで立ち上がり深く頭を下げると、彼は慌てて首を横に振った。

「ああ……いや、構わない。驚かせてすまなかった。それより、まずは楽にしてくれたまえ」

 そう言われても、この場で気安く寛げるほど図太い神経の持ち主ではないので困ってしまう。
 とりあえず、私は再び席に着いた。

(ど、どうしよう……)

 内心冷や汗をかきつつ様子を窺うと、彼は私の向かい側に座った。
 私は、食い入るようにまじまじと彼を見つめる。

(それにしても、毛並みがいいわね。この間、図鑑で見た通りだわ……)

 公爵様に対してこう表現するのは失礼かもしれないけれど、正直言って可愛い。
 本物は北国にしか生息していないらしいので実物は見たことがないけれど、想像以上の愛らしさだった。
 それにしても……事前にウルス公爵は猛獣のような姿をしているとは聞いていたが、まさか白熊だったとは。

(可愛い……抱きついて、もふもふしたい……)

 実のところ、私は大きくてもふもふしている可愛い生き物が大好きなのだが、当然のことながら両親にペットなど買い与えてもらえなかった。
 だから、ビクトリアが大型犬を──レオンをペットにしているのを見て、いつも羨ましいと思っていたのだ。
「君の名前は、コーデリアだったな?」

 そう問いかけられ、私はハッと我に返る。

「は、はい!」

「俺のことは、ジェイドと呼んでくれて構わないよ」

「え……? よ、よろしいのですか?」

「勿論。というか、夫婦になるのだから名前で呼び合うのは当然だろう?」

 まさか、名前で呼んでもいいと言われるなんて思いもしなかったから面食らってしまう。
 とはいえ、流石に呼び捨てにはできない。

「そ、それでは……ジェイド様とお呼びしますね」

 すると、なぜかジェイドは少し不服そうな顔をした。

「ん……? まあ、今はそれでいいだろう」

 その言葉に違和感を覚えて、私は首を傾げた。
 それにしても、噂とは真逆の人物だ。今のところ、常識人にしか見えない。

「それじゃあ、早速だが話を始めよう」

 そう言うと、彼は真剣な表情を浮かべた。私は気持ちを引き締める。
 すると、ジェイドは話を切り出した。

「まずは、なぜ俺がこのような姿になったのかについて説明しておこうと思う」

 そう言って、ジェイドは静かに語り始めた。
 一体、彼はどんな事情があって、こんな姿になったのだろう。
 私だって忌み子と揶揄される容姿を持っているため他人のことは言えないが、それでも彼がどうしてこうなったのか非常に気になった。

「俺がこのような姿になってしまった原因は──恐らく、瘴気のせいだ」

「え……? 瘴気、ですか……?」

 聞き慣れない言葉に、私は思わず困惑する。
 ジェイドは苦虫を噛み潰したような顔を浮かべると、忌々しそうに呟いた。

「やはり、知らなかったか。ならば、そこから説明する必要があるな」

「申し訳ございません……」

 ジェイドの態度を見る限り、かなり重大な問題らしいことが伺える。
 私が謝罪を口にすると、彼は首を横に振った。

「いや、謝らなくていい。知らなくて当然だ」

 それから、彼は詳しい経緯を説明してくれた。

「ウルス領は鉱山をいくつか所有しているんだが、この辺り一帯は特に良質な鉱石が多く採れることで知られているんだ」

「あ、そのことなら存じております」

 私が住んでいた地域でも様々な装飾品として加工されているくらいだし、とても有名なことだ。

「しかし、数年前から採掘量が目に見えて減ってしまってな。というのも、鉱山内に魔物が棲み着くようになったことが原因なんだ。しかも、その魔物たちは見たこともないような強力な個体ばかりで……」

「そうだったんですね……」

「そこで俺は、魔物が棲み着くようになった理由を突き止めるために調査隊を派遣したんだ。ところが……」

 そこまで口にしたところで、彼の瞳が大きく揺れ動く。どうやら、何かあったようだ。

「──戻ってきた隊員は、僅か数人だけだった」

「えっ……」

 衝撃的な事実に、私は絶句してしまう。

「それから、数週間後のことだった。今度は、領民たちが次々と体調不良を訴え始めたんだ」

「領民たちが……?」

「ああ。最初は咳や発熱といった風邪のような症状だけだったが、徐々に悪化していき──最終的には、獣の姿へと変わり果ててしまったんだ」

 生還した隊員曰く、鉱山内では大量の瘴気が発生しているらしい。
 その瘴気の発生源を突き止めようと鉱山の奥に進んだところ、運悪く魔物に襲われてしまったそうだ。

「そんな……」

 あまりにも非現実的な出来事の連続に、私の頭は混乱していた。

「その後、領内の至るところで同じような現象が起き始めてな。今では、すっかり手遅れの状態になっている。前述の通り、鉱山内で発生している瘴気が街にまで流れ込んできたことが原因ではないかと言われているが……」

 ジェイドは拳を強く握りしめながら話を続ける。

「つまり、領内で奇病が流行っているということでしょうか……?」

 恐る恐る尋ねると、彼はこくりと頷いた。

「ああ、その通りだ。この奇病は、『獣化の病』と呼ばれている」

「なるほど……。ジェイド様も、その病に罹ってしまったのですね」

 私がそう言うと、彼は「ああ、そうだ」と頷く。
 聞けば、ジェイドがその奇病に罹ったのは二年ほど前なのだという。

「あの時は、まさか自分がこんな姿になるとは思わなかったな」

 彼は自嘲気味に笑うと、ぽつりと呟いた。私はかける言葉もなく黙り込んでしまう。
 ふと、ジェイドがこちらに視線を向けたのが分かった。
 一体何を言われるのだろうと身構えていると、質問を投げかけられた。

「コーデリア。俺のことは怖くないか?」

「え……?」

「いや、その……元々は人間だったとはいえ、今はこんな姿だからな。やはり、怖いのではないかと心配になったんだ」

 私は思わず目を丸くしてしまった。

(いや、全然怖くないし、寧ろ可愛いです……!)

 そう……今すぐ抱きついて、もふもふしたい衝動に駆られるほどに。
 しかし、流石に馬鹿正直に答えるわけにはいかないのでぐっと堪えた。

「いえ、そんなことありませんよ」

「ほ、本当か? 無理をしなくてもいいんだぞ」

「本心ですよ!」

 私は、きっぱりと言い切る。すると、ジェイドはほっとしたような表情を浮かべた。

「そ、そうか……それを聞いて安心した」

「ふふ、良かったです」

 ジェイドが目を細めて笑ったのを見て、私は緊張の糸が解けていくのを感じた。
 けれど、同時に頭にある疑問がよぎった。領内で奇病が流行っているということは、私もその病に罹る可能性があるのだろうか。
 そう考えていると、ジェイドがその疑問を払拭するように語り始めた。

「ああ、それから……まず安心してほしいんだが、君がこの奇病に罹る可能性は低い」

「え……? どうしてですか?」

「最近になって色々わかってきたんだが、どうやら他の地域から移住してきた人間はこの奇病に罹り難いらしいんだ」

「そうなんですか……?」

「ああ。というのも、この地域は他の地域よりも空気中のマナの濃度が高くてな」

「マナ……ですか?」

 魔力に恵まれず、学院でも魔法について学んで来なかった私は思わず首を傾げる。

「簡単に言えば、魔法を使うために必要なエネルギーのようなものだ。この地域で生まれた人間は、そのマナを体内に多量に取り込みながら育ってきたんだよ。そのことが、瘴気に当てられる原因になっているんじゃないかと言われているんだ。一般的に、マナが少ない地域で生活していた者のほうが病気に対する抵抗力が高いという研究結果もあるしな」

「なるほど……」

 確かに、言われてみれば納得できる部分もあった。
 この辺りは、ウルス領の中でも特に自然豊かな場所だ。だから、空気中に漂うマナの量も他と比べて多いに違いない。

「つまり、私は外部から入ってきた人間だからその奇病に対する抵抗力があるということですよね?」

 私が確認すると、ジェイドは頷いた。

「そういうことだ。それに、感染する病気ではないから獣化した者との接触も問題ない」

「わかりました。あの……その病気の治療法は見つかっていないんですか?」

「……残念だが、今のところ見つかっていない」

 ジェイドは、苦々しい面持ちを浮かべる。

「領内の現状はこんなところだ。さて、もう一つの話だが……」

 そこまで言いかけたところで、ジェイドは急に黙ってしまった。一体どうしたのだろうか。
 不思議に思って顔を見つめていると、彼はどこか迷う素振りを見せながら口を開いた。
「この度、俺たちは婚姻を結んだわけだが……その、夫婦というのはあくまでも形だけにしておきたい」

「え……?」

 予想外の発言に驚きながらも、私は必死に思案した。
 そして、ジェイドの真意を探るため恐る恐る尋ねてみる。

「それは……どういう意味でしょうか?」

「言葉の通りの意味だよ。俺のことは、ただの同居人だと思ってもらって構わない。言わば、契約結婚だ」

 ジェイドはそこまで言うと、少し間を置いて再び話し出した。

「いくら結婚したからといっても、こんな猛獣が夫では君も嫌だろう。それに……俺自身も、このような姿で夫と名乗るのは君に対して申し訳ないと思っているしな」

 ジェイドはそこで一旦言葉を切ると、眉尻を下げた。
 きっと、私のことを気遣ってくれているのだろう。

(私のことを考えてくれた上での提案なのね……)

「わ、わかりました……」

 一先ず、そう返事をする。
 だが、彼の心情を考えるとその優しさが嬉しくもあり、辛くもあって複雑な気持ちだった。
 とはいえ、ジェイドの提案はもっともだろう。元の姿に戻る方法が見つからない限り、跡継ぎ云々は二の次なのだから。

(以前から気になっていたことだけれど……ジェイド様は、なぜ私に縁談を持ちかけたんだろう? それも、予定よりもずっと早く……)

「あの──」

 尋ねようと口を開いた瞬間。部屋の扉がノックされた。
 ジェイドが返事をすると、使用人と思しき女性が入ってきて恭しい態度で一礼する。

「お話中、失礼します。お申し付けいただいた通り、コーデリア様のお部屋の浴室に湯を張っておきました。いつでもご入浴いただけます」

「そうか、ご苦労だった。とりあえず、話も一段落ついたことだし夕食の前に入浴を済ませてくるといい。長旅で疲れただろう?」

「あっ……はい! ありがとうございます!」

 慌ててそう返事をする。どうやら、気を遣って湯浴みを済ませるよう勧めてくれているようだ。
 確かに、今日は朝から一日中馬車に乗っていて汗ばんでいるし、何より疲労感が強い。
 私は、ありがたく提案を受けることにした。ジェイドは頷くと、下女のほうに視線を移して言った。

「ああ、そうだ。紹介しておこう。彼女の名前はサラだ。今後、君の身の回りの世話を任せることになると思う。何かあれば、彼女に言ってくれればいい」

「よろしくお願い致します。コーデリア様」

 そう言って、サラは一礼した。
 薄墨色の髪に、鮮やかな空色の瞳が印象的な女性だ。メイド服のスカートの裾を両手でつまみながら、丁寧な物腰で挨拶をする姿は品行方正な使用人そのものだった。
 年齢は、まだ二十歳前後といったところだろうか。

(これから、彼女とも一緒に暮らすことになるのよね。仲良くできたらいいな……)

「……はい! よろしくお願いします!」

「それでは早速ですが、こちらへどうぞ」

 私は促されるまま部屋を出る。
 そして、サラに連れられて浴室へと向かった。



「ふぅー……」

 湯船に浸かりながら、思わず声が出る。
 広い浴槽には薔薇の花びらが浮いているほか、柑橘系の爽やかな香りまで漂っていてとてもリラックスできる空間になっていた。
 ちなみに、今入っている浴槽は大理石のような石造りになっていて、足を伸ばしてもまだ余裕があるくらい広々としている。

(こんなに広い浴槽に入るなんて初めてだわ……。本当に、贅沢すぎる環境ね……)

 恐縮してしまうが、こうしてゆったりとお風呂に入れるのはとても有り難かった。
 そんなことを考えつつ、私は手足を伸ばす。

 大きな窓から景色を眺めれば、一面の夜景が広がっていた。まるで宝石のように輝く美しい灯りを見て、改めて自分が公爵邸にいるのだということを実感させられる。
 ふと、私は遠くに鉱山地帯らしき場所が見えることに気がつく。

(そういえば、この辺りは鉱山があるんだっけ……)

 瘴気が発生しているというのは、あの山だろうか。
 ここからは距離があるので、詳しい状況は分からないが……。

(いけない……あんまり長い間入っていると、のぼせちゃうわ。そろそろ出なきゃ)

 名残惜しさを振り切り、浴槽から上がる。そして、脱衣所に置いてあった着替えを手に取ると、手早く身支度を整えて浴室を出た。
 すると、待機していたサラに化粧台の前の椅子に座るよう促される。

「どうぞ、お座りになってください」

 言われるがまま腰掛けると、彼女は温かい風が出る魔導具で私の髪を乾かし始めた。

(気持ちいい……)

 丁寧にブローしてもらうと、それだけでかなり髪質が変わったように感じる。
 頭皮マッサージを施してもらった後、「お疲れさまでした」と言われ解放されれば、目の前の鏡に映る自分に思わず見惚れてしまった。
 驚くほど艶々とした黒髪を持つ自分が、そこに映し出されていたからだ。

(こ、これが……私……?)

 そう思っていると、不意にサラが話しかけてきた。

「あの……失礼ながら、ジェイド様がラザフォード家の次女を娶ると仰られた時は心配でした。忌み子と揶揄されているくらいだから、一体どんな方がいらっしゃるのかと身構えていたのですけれど……」

 そこまで言うと、サラはくすりと笑った。

「でも、実際にお会いしてみると、噂とは寧ろ正反対で……まさか、こんなに可愛らしい方だとは想像もしていませんでした。あ……勿論、見た目だけじゃなく中身もですよ? やはり、噂というものは当てになりませんね」

「え!? えっと……その、ありがとうございます……」

 突然の褒め言葉に、戸惑ってしまう。
 私は、今までほとんど他人に褒められた経験がない。そのせいか、ひどく動揺してしまった。
 すると、サラは微笑んだまま話を続ける。

「それにしても、ジェイド様も負けず劣らず社交界では悪い噂を流されているというか──色々、誤解を受けていますよね? それなのに、どうしてこの縁談を受けたんですか?」

「ああ、ええと……それは……」

 私は言葉に詰まってしまう。

(単純に、拒否権がなかった──実際のところ、それに尽きる。けれど、この場でそれを口にするのも失礼に当たるわよね)

 そう思い、言い淀んでいると、サラがハッとした表情を見せた。

「あっ、すみません。立ち入ったことをお聞きしてしまいました」

「あ、いえ……大丈夫です」

 そう答えると、サラは安心したような表情を見せた。
 次の瞬間──突然照明が点滅したかと思えば、室内が真っ暗になった。
「え……?」

 何が起こったのか分からず暗闇の中で呆然としていると、サラの取り乱したような声が聞こえてくる。

「申し訳ありません! すぐにランタンを持って参りますので、少々お待ちを……!」

 そんな声と共にパタパタと慌ただしく走っていく音が聞こえたので、とりあえずそのまま待つことにした。
 そして、数分後。サラが「遅くなってすみません」と言いながら戻ってきた。
 確か、ランタンを持ってくると言っていたはずだが……なぜか、部屋は一向に明るくならない。

「あの……どうかしたんですか? サラさん」

 不思議に思って尋ねると、サラは申し訳なさそうな声で言った。

「申し訳ありません。ランタンに火が灯らないのです……」

「どういうことですか?」

「瘴気の影響です。今日は一段と瘴気が濃いようでして……そのせいで、火がつきにくいようです」

 それを聞いて、私は愕然としてしまう。

「もしかして、突然照明が消えてしまったのも瘴気のせいなんですか?」

「ええ……実は、鉱山から流れ込んでくる瘴気の量が多い日は、この辺り一帯の照明が消えてしまうことも珍しくないのです。数時間後には復旧すると思うのですが……」

「そうなんですね……」

「ご不便をおかけしてしまい、申し訳ありません」

「そんな……サラさんのせいじゃないんですから、気にしないでください」

 そう返したものの、暗い部屋の中にいると徐々に不安な気持ちが高まっていく。

(何か、灯りになるものはないかしら……)

 しばらく考え込んだ後、あることに気がついた。

(そうだ、これがあった!)

 私は首から下げているロケットペンダントを開くと、その中に入っていた石を取り出した。これは以前、魔道具屋で購入した光る鉱石だ。
 実家では虐待を受けていたため、明かりのない真っ暗な部屋に一晩中閉じ込められることなんて日常茶飯事だった。
 だから、私は日頃からこの石をお守り代わりに肌身離さず持ち歩いているのである。

(これを照明の代わりにできないかしら?)

「あの……サラさん。この石をランタンの中に入れてもらえませんか?」

「え?」

 サラは一瞬戸惑ったような声を上げたが、すぐに私の意図を察してくれたようだ。
 魔蛍石を受け取ると、言われた通りにランタンの中へと入れる。
 すると―――

「すごい……十分過ぎるほど明るいです!」

 ランタンは幻想的な緑色の光を放ちながら、その周囲を照らし始めた。
 これなら、暗闇でも手元を確認することができるだろう。

「それにしても、この石は一体……」

 サラは興味深げに石を観察している。
 この石は『魔蛍石(まけいせき)』と呼ばれている。以前読んだ本には、『魔蛍石とは、大気中のマナに反応し淡く輝きを放つ性質を持っている鉱物である』と書かれていた。
 詳しい産出場所などについては書いていなかったが、恐らくは一部の鉱山でしか採掘されていない鉱石なのではないかと思っている。

「魔蛍石と言うらしいです。以前、魔導具屋で買ったんですよ」

「魔蛍石……? それなら、私も何度か見たことがあります! でも、どれもぼんやりとしか光っていなかったような……。こんなに強い光を放つ魔蛍石を見たのは初めてです」

 サラは感心したように言った。

「ああ、それは多分磨き方の問題だと思います。研磨の仕方を変えれば、どの魔蛍石もこれぐらい発光しますよ」

 私がそう返すと、サラは目を丸くしていた。

「そ、そうなんですか?」

「ええ。実は、磨き方にコツがあるんです」

 そのコツとは──自身の魔力を流し込みながら石を研磨することだ。
 とはいえ、ただ闇雲に磨いても駄目だ。魔力量を調節しないと本来の効果を発揮しないのである。
 私自身が持っている魔力は微々たるものだが、それでも全くないわけではない。だからこそ、魔力を流し込みすぎて失敗することが少ないのかもしれない。
 磨き方のコツについて一通り説明し終えると、サラは驚いた様子で口を開いた。

「なるほど……そんな方法があったとは知りませんでした」

「とりあえず、これでなんとかなりましたね」

 ほっと胸をなで下ろしていると、不意に自分たちを呼ぶ声が聞こえてくる。

「コーデリア! サラ! 大丈夫か!?」

 ジェイドの声だ。もしかしたら、私たちの身を案じて駆けつけてくれたのだろうか。
 そう思っていると、血相を変えたジェイドとアランが部屋に飛び込んできた。

「二人とも、大丈夫か!?」

「ええ、この通り。なんでもありませんよ」

 そう返すと、ジェイドは安堵の表情を浮かべる。

「そうか、良かった。既に、サラから説明を受けているかもしれないが……この地域では、瘴気の影響で照明が消えてしまうことがしばしばあるんだ。最初から、それを説明しておけば良かったな。うっかりしていた」

「いえ、気にしないでください。それより……わざわざ様子を見に来てくださってありがとうございます」

 お礼を言うと、ジェイドは「無事なら何よりだ」と返した。
 ふと、彼は何かに気づいた様子でサラが持っているランタンに視線を移す。
 恐らく、煌々と光る魔蛍石のことが気になっているのだろう。

「これは……一体、どうなっているんだ?」

 ジェイドはしげしげと魔蛍石が入ったランタンを眺めている。

「魔蛍石ですよ」

 そう言うと、彼は首を傾げた。

「魔蛍石……? だが、魔蛍石と言えば弱い光しか発しないことで有名じゃないか。なのに、どうしてこんなに強い光を放っているんだ……?」

 怪訝な面持ちをしているジェイドに、私は事情を説明することにした。
 先程サラにしたのと同じ内容の説明を終えると、彼は納得したように頷く。

「そういうことだったのか……」

 ジェイドが目を見張っている隣で、アランがぽつりと呟いた。

「とても幻想的ですね……なんだか、夢の世界に迷い込んだみたいです」

「ふむ……」

 ジェイドは何かを考え込むような仕草を見せた後、おもむろに口を開く。

「コーデリア。君は一体……」

 何やら言い淀んだジェイドを見て、私は首を傾げる。

「え……? どうしたんですか?」

「ああ、いや……なんでもないよ」

 尋ねると、ジェイドは首を横に振った。

「少し驚いただけだ。まさか、君が魔蛍石を加工する術を持っていたとは思わなかったから」

 尋ねると、ジェイドは何やら誤魔化した様子で答えた。
 そんな彼を見て、私はますます首を傾げてしまった。
 深夜零時を回り、日付が変わった頃。
 ようやく消えていた照明が灯り、室内が明るくなる。
 それを確認したジェイドは、アランを連れて別室へと移動する。
 本来ならば、とっくに床についている時間なのだが、先ほどの騒動ですっかり目が冴えて眠れなくなってしまったのだ。
 読書でもしようと思い、ジェイドはソファに腰掛ける。すると、アランが静かに口を開いた。

「あの、ジェイド様。コーデリア様のことなのですが……」

「彼女について、何か気になることでも?」

 ジェイドが尋ねると、アランが躊躇うように口を閉ざす。
 それからしばらく沈黙が流れた後、意を決した様子で彼は続けた。

「あの力……彼女、本当に魔法が苦手なのでしょうか? 私には、どうもそれが信じられなくて」

 彼の疑問に対し、ジェイドは「ふむ」と考え込む。

「……確かに、俺もそこが気になっていたんだ」

 コーデリアの力は、生まれつき魔力が少ないと自称している人間とは思えないほど驚異的なものだった。
 それは、彼女が作ってみせた簡易ランプ一つを取ってみても明らかだ。

「本当に魔法が苦手な人間は、鉱石に流し込む魔力の量を調節するなんていう器用な真似はできないはずだからな」

「そうなんです。それに、何よりも……あの石からは強い魔力の波動を感じるのです」

 アランの言葉を聞いて、ジェイドは思わず眉根を寄せた。

「やはり、お前もそう感じたか。──本人の言う通り、生まれつき保有している魔力が少なかったとしよう。なのに、どうして石から溢れるほどの魔力を感じ取れるのか……」

 ジェイドが腕組みしながらそう呟くと、アランは頷いた。

「そう、ですよね……ですから、私はどうしても気になって仕方がないのです。もしかしたら、彼女は本当は──」

 そこまで言ったところで、アランは言い淀む。

「……彼女の真の力は、俺たちが思っている以上に未知数だということだな」

「え、ええ……」

 沈黙が続き、何とも言えない空気が流れる。
 それを払拭するように、アランが再び口を開いた。

「でも、個人的には彼女はとても信用できる方だと思いますよ。思い出してください。昔──夜会でジェイド様にすり寄ってくる女性たちと言えば、皆、揃いも揃って打算的だったじゃないですか。そういう意味においても、彼女は違うような気がするんですよ」

 アランの言葉を聞いて、ふとジェイドは自分がまだ人間の姿をしていた頃のことを思い出す。
 デビュタントをして間もなかった頃のジェイドは、婿探しのために必死になっている令嬢たちにいつも囲まれていた。
 しかも、夜会に出席するたびに絡まれるものだから、心底辟易していたのだ。

(そういえば……あの頃すり寄ってきた令嬢たちは俺がこの姿になった途端、手のひらを返したように近づかなくなったな)

 あまつさえ、陰口を叩かれる始末だ。所詮、彼女たちはジェイドの外面しか見ていなかったのだろう。
 そんなことを考えているうちに、段々と気分が沈んでいく。

「確かに、コーデリアが他の女たちとは違うということだけは分かる。何より、俺のこの姿を見て驚いてはいたものの嫌悪感を示すような素振りは見せなかったからな」

 そう、嫌悪するどころか、寧ろ好意的な態度を取っていたように思う。
 心なしか、ジェイドに向ける彼女のきらきらとした眼差しが犬や猫などの愛玩動物に向けるそれに近い感じがしたが……きっと、気のせいだろう。
 確かに、この姿は人によっては愛らしく感じるかもしれない。
 だが、ジェイドは断じて愛玩動物ではない。こう見えて、心は人間の頃のままなのだ。

「彼女が嫁いできてくれて、本当に良かったですね」

 そう言って、アランはジェイドに向かって片目を瞬かせる。

「……しかし、彼女にとってこの結婚は酷だったかもしれないな」

 コーデリアからしてみれば、一度も会ったことがない相手にいきなり縁談を持ちかけられた挙句、その結婚相手が猛獣の姿をしていたのだ。
 そんな状況に置かれたら、誰だって困惑してしまうだろう。

 両親を不慮の事故で亡くしたジェイドは、若くして公爵家の当主となった。幸いにも、領地経営に関しては優秀な人材に恵まれていたため何とかやっていけた。
 そんな中、不運にも奇病に罹り獣化してしまったのである。
 ジェイド自身は当面の間独身でも構わないと思っていたのだが、当然ながら親戚はそれを許さなかった。そこで焦った叔父が、無理矢理コーデリアとの縁談を取り付けたのだ。
 勿論、最初は抵抗した。だが周囲の人間からしつこく説得され続け、とうとう根負けしてしまったのである。とはいえ、ジェイドにとってこの結婚は渡りに船でもあった。
 というのも、ジェイドが人間に戻れない限り結婚相手など見つかるはずがないからだ。

 ジェイドは、結婚するにあたってコーデリアの身辺調査を行った。
 その結果、全てではないものの大体の事情は把握できた。
 というのも、彼女は幼い頃から両親やきょうだい達から疎まれ随分と肩身の狭い思いをしていたことが分かったのだ。
 ジェイドは当初、彼女にとってこの結婚は厄介払いされたようなものだろうが、「少なくともあのままあの家にいるよりはマシだろう」と考えていた。
 けれど、よくよく考えてみれば彼女も年頃の少女だ。いくら本人が承諾した縁談だとしても、猛獣の姿をした男と結婚させられるというのは苦痛以外の何物でもないはずだ。

 そう考えて、ジェイドは今更ながら罪悪感に苛まれた。
 しかし、結婚してしまったものは仕方がない。だから、せめて彼女が何不自由なく暮らせるよう努力しようと心に決めたのだった。

「後悔していらっしゃるのですか?」

 まるでジェイドの心を見透かすように、アランが問いかけてきた。

「……分からない」

 正直、ジェイドは自分でもよく分からなかった。
 確かに、自分の元に嫁いできてくれた相手に対して酷い仕打ちをしたと思っている。
 けれどそれ以上に、彼女を──コーデリアを大切にしたいとも思っていたのだ。
 だからこそ、ジェイドはコーデリアが実家で虐げられていると知るなり予定より早く彼女を邸に呼んで婚姻を結んだのだ。

 別に、ヒーローになりたかったわけではない。ただ、人と違うことで奇異の目に晒され周囲に疎まれ続ける辛さは痛いほど理解できたから、自然と彼女の気持ちに寄り添うことができた。
 ジェイドは、自分と同じような思いをしている少女を放っておけなかったのだ。そして、気づけば行動を起こしていたのである。
 それが同情心からくるものなのか、それとも別の何かなのか──ジェイド自身もよく分かっていなかったが、とにかく彼女の力になりたいと思ったことに変わりはなかった。

「……でも、彼女を手放したくないと思っているのも事実だ。出来ることなら、幸せにしてやりたい」

 そう呟くと、アランは微笑みを浮かべた。

「大丈夫ですよ。きっと、彼女はジェイド様のことを好きになりますから。私が保証します」

 そう言って、アランは悪戯っぽく笑った。
 彼の反応を見て、ジェイドは狼狽する。

「あ、いや……別にそういう意味ではなくてだな。コーデリアを実家に帰したら、また家族から疎まれることになるだろう? そんなことは、俺の正義に反するからだ。それに……せっかく嫁いできてくれたのだから、彼女には出来る限り快適に過ごしてもらいたいという意味であって……」

 しどろもどろになるジェイドの様子を見たアランは、「ふっ」と吹き出した。

「ふふ、冗談ですよ」

「お、お前……人が真面目な話をしている時に……」

「すみません。あまりにも、可愛らしいことを仰られるもので」

 口元に手を当てながら笑うアランを見て、ジェイドの顔には朱が差していく。
 ジェイドは「どうも、最近こいつに弄ばれているような気がする」と内心ぼやいた。

「ああもう、お前と話していたらいつまで経っても眠れないだろう! ほら、俺は寝るぞ!」

「はい、私もこれにて失礼致しますね」

 アランはそう言って一礼すると、そそくさと部屋から出ていった。
 その後ろ姿を見送りながら、ジェイドは大きな溜め息を吐いたのであった。