何も見えない、真っ暗な空間。まるで深海のような静寂の中で、自分の鼓動と息遣いだけが響く。
 ──なぜ、私はこんなところにいるんだろう? そんな疑問を抱きつつ、思いあぐねる。次の瞬間、ふとあることに気づいた。

(ああ、そうか……いつもの夢か……)

 というのも、私は昔からよく同じ夢を見ているのだ。
 ウルス邸に来て以来、この夢を見る機会が減っていたので油断していた。
 しかし、一度気づいてしまえば、あとはもういつも通りの展開だ。
 私は暗闇を彷徨いながら、ひたすら出口を探す。しかし、どれだけ歩いても一向に光が差すことはないし、誰かに助けを求めることもできない。
 そして、最終的には深い闇に飲み込まれて目が覚める──それが、この悪夢の結末だ。

(早く起きないと……)

 焦燥感に駆られながら、必死に夢の中の世界から脱出しようとする。けれど、なかなか目が覚めない。
 仕方がないので、私は首にかけているロケットペンダントから魔蛍石を取り出そうとした。……が、どういうわけかいつも肌身離さず身につけていたはずのペンダントがない。

(な、なんで……?)

 この夢を見る時、私は大抵ロケットペンダントの中から魔蛍石を取り出してその明かりを頼りに行動している。
 それがないということは、この暗闇の中を手探りの状態で進むしかないということだ。
 私は困惑しながらも、慌てて周囲を見渡す。だが、希望とは裏腹に深い闇が果てしなく続いているだけだった。

(だ、大丈夫……だって、これは夢なんだから)

 そう自分に言い聞かせるが、不安は拭えない。絶望的な状況に、頭を抱えたくなったその時。

 ──ピチョン。

 どこかで、水滴が落ちるような音が聞こえた。
 次の瞬間──私は、なぜか自分が全身ずぶ濡れになっていることに気づく。
 しかも、髪や服から水が滴り落ちており、足元には水溜りが出来上がっていた。

(何……これ……)

 訳が分からずにいると、今度は甲高い子供の声が聞こえてきた。
 驚いて声がしたほうを見ると、そこには三人の子供の姿があった。
 どこか見覚えのあるその子供たちは、何やら揉めている様子だった。

「転んだ挙句水たまりに頭から突っ込むなんて、とんだ間抜けね!」

 子供たちの中の一人が、勝ち誇ったような表情を浮かべて言う。
 すると、もう一人の子供がしゃくりあげて泣き出した。泣いている子供の顔を見た私は、思わずぎょっとする。

(あれは……もしかして、幼い頃の私……? ということは、一緒にいるのはビクトリアとクリフかしら……?)

 困惑しつつも成り行きを見守っていると、「おい、泣くなよ。うるさいぞ」とクリフが苛立った様子で幼い私を睨む。
 すると、幼い私はさらに大声でわんわんと喚き散らした。その様子を見て、ビクトリアは嘲笑う。

「ほーんと、愚図で役立たずなうえに泣き虫で困っちゃうわよね」

 ビクトリアの話しぶりから察するに、恐らく彼女が足をかけて意図的に転ばせたのだろう。
 彼女の言葉に同調するように、クリフが意地の悪い笑みを口元に浮かべて言った。

「お前みたいな奴と同じ血が流れていると思うだけで、吐き気がするよ」

 容赦ない罵詈雑言に、幼い私はとうとう限界を迎えたのか、その場にうずくまってしまった。
 すると、頃合いを見計らったかのように少し離れたところから「おーい、ビクトリア! クリフ!」と彼らを呼ぶ声が聞こえてくる。
 ──若かりし頃のお父様だ。当たり前だけれど、私のことは眼中にないらしい。

「こんなところにいたのか。捜したぞ、二人とも」

「お父様っ!」

 お父様の姿を見るなり、ビクトリアは嬉しそうに飛びつく。

「今日は、みんなでパーティーに行く日だろう? 忘れたら駄目じゃないか。さあ、早く着替えなさい」

「そうだったわ! どんなドレスを着ていこうかしら?」

「この間、買ってあげたドレスがあるだろう? あれを着ていきなさい」

「あ……そういえば、お父様に素敵なドレスを買ってもらったんだっけ。すっかり忘れていたわ!」

 そう言いながら、ビクトリアはこれ見よがしに幼い私に視線を向けると、くすりと笑う。

(ああ、そうだ……思い出した。この日は確か、お父様の知り合いが主催するパーティーに一家で招待されていたんだっけ)

 とはいえ、当然のことながら私はその中に含まれていない。
 家族の中で一人だけ除け者にされるあの感覚を思い出し、胸がぎゅっと痛くなる。

「さあ、行こうか」

「はぁーい! ねえ、お父様。アレ、どうするの? あんなずぶ濡れのままお邸の中に入られたら、床が汚れちゃうわよ?」

 ビクトリアが問いかけると、お父様は眉根を寄せつつも答えた。

「……ああ、アレのことは気にするな。あとで使用人に言って、適当な服に着替えさせておくから。それに、今日はあの部屋に閉じ込めておくしな」

 お父様の言う「あの部屋」とは、庭師が使っている小屋のことだ。小屋といっても、ほぼ物置きである。
 幼い頃の私は、事あるごとにその部屋に閉じ込められていた。そう、月明かりすら届かない真っ暗な空間に。
 お陰で、私は暗所恐怖症になってしまった。お守り代わりに身につけている魔蛍石がないと、未だに取り乱してしまうほどである。

「ふーん……そうなのね。じゃあいいわ。行きましょ!」

「ま、待って! お願い、行かないで! 一人にしないで! 私、いい子になる! いい子になるからっ……! だから、私も一緒に──」

 幼い私の悲痛な叫びが、暗闇に響き渡る。しかし、その声は誰にも届くことはなかった。

(…………)

 幼い日の嫌な記憶が蘇り、私は呆然とする。
 しばらく立ち尽くしていると、目の前で繰り広げられていた光景は闇に溶けるようにして消えていった。
 最初はいつも見ていた夢と同じかと思ったけれど、どういうわけか今回は全然展開が違う。私は困惑しつつも足を踏み出した。

(とにかく……出口を探さないと……)

 けれど、いくら歩いても一向に光が差す気配はない。それどころか、どんどん深い闇へと沈んでいくような気がしてならなかった。
 このままではいけない。そう思った私は、必死に足を動かした。
 でも、どれだけ頑張っても前に進んでいる気がしなかった。私は、ついにその場に座り込んでしまう。
 次第に絶望感や恐怖に支配されていく中、不意に誰かの声が聞こえてきた。聞き覚えのある、優しい声だった。

「──コーディ」

(え……?)

 そう、私を初めて愛称で呼んでくれたあの人の声だ。

(ジェイド……様……?)

「コーディ」

 もう一度、はっきりと自分の名を呼ぶ声が聞こえてくる。

(そうだ……早く、この悪夢から目を覚まさないと……)

 だって、今はもう自分を虐げる家族とは一緒に暮らしていないのだから。
 今の私は、優しくて親切な人たちに囲まれている。だから、何も悩むことはない。

『俺と友達になってくれないか?』

 あの時、ジェイドが言ってくれた言葉を何度も反芻する。気づけば、私は自然と笑みを浮かべていた。

(うん。私……もっと、あなたと仲良くなりたい)

 そう強く願いながら目を開けると、見慣れた風景が視界に飛び込んできた。