数日後、クメルが一人で自宅にいると、三名の兵士がクメルの自宅の扉を叩いた。王女からの緊急の呼び出しであった。

 とはいえ、王女からの呼び出しはこれで八度目だ。毎回毎回、緊急だ緊急だと急かされて王城へ向かうのだが、王女はとりとめのない雑談を何十分も続け、雑談のあとに近況報告をさせられたり、アーガストの点検だの確認だのと言って狭い操縦席にいっしょに乗り込んでこようとする。

 まったく王女が何を考えているのか分からないクメルであったが、どうせ今回も緊急の用事ではないだろうと呼び出しを断るつもりでいた。

 魔法学校にはかなりの数に及ぶ文献が保存されており、ファノンのはからいで図書室への入室が許可されることになっていた。クメルはラズベルの再起動のヒントになるような情報を得るために、今から魔法学校の図書室へ行くつもりでいた。それもあって王女からの呼び出しは断るつもりでいたのだ。

 ところがそれは許されないと兵士は告げる。
 今すぐに王城へ来るようにと頑として譲らない。

 仕方なくクメルはしぶしぶ王城へ向かうことにした。準備があるからと三名の兵士を家の外に待たせたまま、わざと時間をかけて支度をする。

 支度といっても特に用意するものは何もないのだ。家に置いてあった黒パンを二口ほどかじり、三着しかない服のうちどれを着ていこうかと数分かけて迷う。

 やたら接近してくる王女の香水の匂いが服に付いているのではないかと思い、鼻を近づけて嗅いでみる。三着のうち、青い服だけから微かに香水の匂いがした。確かこれはこの間アーガストの中で密着された時に着ていたものだ。

 どうせまた匂いが付くかもしれないと思い、それを着ることにした。

 兵士を十五分ほど待たせたクメルは、家の前に停められていた馬車に乗り込む。馬車は王城へ向けて進みだした。

 途中で馬車を止めさせ、市場を覗きながらうろうろと歩き回る。備蓄用の食糧を補給しようかと思ったが、買い物は帰りで良いかと考え直して三十分ほど歩き回ったあと馬車へと戻った。

 城へ到着した。そこから先はクメル一人で城内を歩く。
 城内を守る兵士にもクメルの顔は知れ渡っているからクメルは一人で城内を歩くことができた。のんびりと城内を見て回ってから回り道をして王女の待つ部屋へと向かった。



 王女の部屋の前には二名の警備兵が立っている。
 扉をノックして、王女の返答を待ち、入室を許可されると、クメルは部屋へと足を踏み入れた。部屋には王女が一人でクメルを待っていた。

「遅かったではありませんか、クメル」

 クメルを自室に引っ張り入れ、王女は扉を閉めた。
 部屋の中で王女と二人きりになる。

 機嫌の悪そうな声を王女ファルナは発するが、その声にはどこか甘えも含んでいる。自分のことを弟か何かと思っているんじゃないかとクメルは思うのだが、きっと男の兄弟がいなかったので姉の役でも演じたいのだろうと捉えることにした。姉のファルナにしろ妹のファノンにしろ、王族にはクメルの理解できない複雑な事情でもあるのだろうと。

「いつも緊急だとかおっしゃりますが、緊急だった試しがないじゃないですか」

 それでもクメルは苦言を呈しておく。

「クメル、今回は本当に緊急なのです。今から二時間後に緊急会議が開かれます。クメルにもそれに参加してほしいのです。遅いですよ、クメル」

 今から二時間後ということは、クメルはまっすぐここに来たら三時間近くの時間を持て余すことになったのだ。ずいぶん早く呼びつけるものだなとクメルは呆れる。

「それで王女様、緊急会議の内容は?」

 クメルはわざと感情の起伏を押さえて、平坦な口調で訊ねた。

 王女は「そこにお座りになって」とクメルに着席を促し、クメルは王女の自室に置かれた二人掛けのソファに座る。

 以前来た時は確か一人掛けのソファであったが、何回目かにこの部屋を訪れ時に、気がつくと二人掛けに変わっていた。

 クメルがソファに座り、王女はクメルの横に座った。ぴたりと寄り添ってくる。

 妙に距離が近いことが、クメルには気になった。また香水の匂いが服に付きそうだと感じた。やはり青い服を着てきてよかったとクメルは思う。

 王女が緊急会議の理由を口にした。
「クメル、メタリカルド化されたという魔物の出現ポイントを魔法部隊が捕捉したそうです」
「本当か!?」

 それはクメルにとっても朗報だった。
 王女の話によると、国境付近でメタリカルド化されたという魔物が数体出現し、うち一体をわざと逃し、そのあとを追ったのだそうだ。魔物はとある洞穴に逃げ込んだとのことだった。

「それで今回は少数の精鋭で部隊を編成し、洞穴の周辺を調査することになりました。ですからアーガストの出番はなさそうなのですが、近くに待機していただ
いて、もし魔物の数が想定よりも多いようでしたら対応をお願いしたいのです」
「分かりました、王女様。おまかせ下さい」

「でも、わたくし――」

 ファルナはクメルの右太ももに手を落とし、俯く。
 体を寄り添えてくることはこれまでもあったのだが、手で直接触れてくることはこれが初めてだった。クメルの心臓はどきりと跳ねる。

 それでも冷静を装ってクメルは王女に向かう。

「王女様、どうかなさいましたか」

 王女は顔を上げてクメルの目を見つめる。

「あなたが――心配――」

 王女は言いかけたが口をつぐみ、また俯いてしまった。
 アーガストはクメルにしか操縦ができない。だからクメルが行くしかないのだが、王女はそれを心配してくれているのだ。

 自分を弟のように感じてくれているのなら、その心配もクメルには理解できる。

「大丈夫ですよ、王女様。アーガストの中にいれば安全ですから」
「そうでしたね。わたくしもいっしょに参りたいのですが、さすがに無理というもの――」

 再度、王女は顔を上げ、クメルを下から覗き込む。
 泣いているわけではないのだろうが、王女の瞳には潤いが見られた。色気すら感じる紅潮した顔の下には、ファルナの豊満な胸が寄せられて谷間を生み出している。

 これほどまでに自分を心配してくれている存在はかつていただろうか。クメルは過去を思い出す。小さい頃に別れた母親が生きていたら、こんな風に心配をしてくれたのかもしれない。母親の顔が浮かんだ。黒髪のボブカットが綺麗な母親だった。

 クメルのそんな思いをよそに、下から顔を覗き込んでいた王女は、ずいと彼に顔を寄せた。鼻と鼻が触れそうになる。

 その時、王女の部屋の扉がノックされた。
 外から兵士の声が室内に届く。

「王女様、妹君のファノン様がいらっしゃいました」

 王女は慌ててクメルのふとももから手を離し、背筋を伸ばした。軽く自分の頬をぱんと叩き、兵士に答えた。

「ファノンの入室を許可します」

 扉が開く直前、クメルは立ち上がって王女から少し距離を取った。なぜその行動を取ったのか自分でも理解できなかったが、そうすることが最善だと判断した。

 扉が開いた先に、正装をしたファノンの姿があった。

「いらっしゃい、ファノン。何かご用かしら」

 ファノンは丁寧に腰を折り、挨拶する。

「ご機嫌麗しゅう、お姉様。いえ、王女様。今日は大切なご報告がございまして、ここへ参りました。お時間よろしいでしょうか」

「かまいませんよ。二時間後に会議がありますが、それまでは時間があります。どうぞ、お入りになって」

 王女ファルナは妹のファノンを部屋に招き入れた。
 ファノンはクメルを目に留めて、微笑をクメルに向けた。

「クメルもいたようでよかったです」
「あら、クメルさんも関係があるのかしら」
「はい」

 クメルにはファノンがここを訪れる理由は分からなかった。
 王女に促されて、二人がけのソファにファノンが座り、その隣の右側に姉のファルナが座った。その正面にクメルは立っている。

 横に座る姉にファノンが切り出した。

「わたくし、結婚をしようと思いまして。それで、お姉様には事前に報告をせねばと思ったものですから」
「あら、マズロットとの結婚は二年後じゃなかったかしら。てっきり乗り気じゃないのかと思っていたのですが、良かったわ」

「いいえ、相手はマズロットではございません」

 ファノンは王女の目を真っ直ぐ見て言った。王女は首をかしげる。

「どういうことかしら?」
「そのこともあって、ここへ参りました。私は王家の利益に貢献できないことを申し訳なく思います。ですので、王族から追放され、平民として生きることすら覚悟をしております」

 ファノンの言葉を聞き、その内容が理解できない王女は動揺する。

「ちょ、ちょっと待って。話が見えてこないわ。詳しく話して」
「私は平民と結婚します。クメルから求愛されました。それを受けることに致します」

 ファノンの力強い言葉に「はあ!?」という素っ頓狂な声が王女の部屋に響いた。王女の「はあ!?」とクメルの「はあ!?」が見事に同調していた。



 ファノンはマズロットとの結婚を嫌がっていた。クメルはファノンに対して、望まない結婚ならやめろと、そういう意味で「やめろ」と言ったのだ。ファノンはそれを「俺のために結婚はやめてくれ。そして俺と結婚してくれ」と拡大解釈した。

 その情景をクメルははっきりと思い出す。
 あの時ファノンは、クメルの「やめろ」に対して「そうだね」と答えた。そして真っ赤な顔でクメルの胸に頭をうずめたのだ。

 求愛されたと思い込んだ少女の言動だったのか――。クメルはここですべてを理解した。



 クメルはすべての事情を話し、勘違いだと知ったファノンは座ったまま両手で顔を覆った。そのまま腰を折って、顔を膝の上に突っ伏している。

 その頭を姉であるファルナはぽんぽんと叩く。
 茶色い尻尾がぴょこぴょこと跳ねた。

「誰にでも勘違いはあるものよ」

 王女のその声は、姉のものであると同時に、恋路の先を行く者の優越感と、報われることのない悲恋を抱えている哀れな妹に対する憐憫の情を含んだものだった。

 それでもクメルにとっては王女は何に対して優越を感じているのか、まったく理解ができるものではなかったのだが。

   ◆ ◆ ◆

 緊急会議が開かれる。一同が会議室に集結した。
 そこに参加した面々は、以前にクメルが会議に参加した時とさほど変わらなかった。

 魔法部隊の部隊長を名乗る人物が発言した。

「ここから北東122キロ地点におきまして、先に報告してあります通り、洞穴が存在します。逃げたメタリカルド化した魔物はこの洞穴に入っていったものと見られ、また、付近には偵察隊を置いておりますが、数体のメタリカルド化した魔物の目撃報告がございます」

 続いて貴族の一人であるスエットが口を開く。スエットはバロン家の長男だ。

「そこが敵の本拠地であると思われるか」
「いえ、まだそこまでは分かっておりません。洞穴の内部がどこくらいの広さなのかが不明であります。ですが、入り口の大きさからいって、さすがに本体がこの中にいるとは到底思えません。ですが、異なる種類の魔物が出入りしていることから、拠点の一つであるのは間違いないものかと」

 この報告はバロン家に所属する魔法部隊からスエットに対してすでに報告がいっているはずであった。この場にいる者すべてに情報を共有するために話している。

「それで、今回の作戦でありますが、この洞穴の内部の調査が主となっております。そこで、現在確認されております洞穴を出入りする魔物の数十二に対して、半数の六体以上が外に出ているタイミングを狙って、強襲をかけます。目撃例よりも多くの魔物がいることも想定しておき、仮に二十体までの魔物であれば対応が可能です。そして我々では対応が困難になった段階で、あらかじめ待機させておいたアーガストに対応を移譲致します」

「ふむ、しかし、洞穴の中にアーガストは入れないよな」

「ええ、ですから、非常時の際にはアーガストにより洞穴の入り口を塞ぐことも考えております」

「その場合は味方の脱出の猶予はあるのか」

「わが部隊が完全に脱出してからアーガストによる対応に移る予定ではありますが、万が一の場合は味方の損傷もやむを得ません」

「なるほど、だが、極力被害は抑えるように」

「かしこまりました」

 会議はバロン家の者同士の会話がほとんどを占め、あらかじめシナリオが組まれているかのように淡々と進んで終わりを迎えた。
 今回派遣されるのはアーガストの他に、バロン家の魔法部隊、そしてバロン家の騎士団が対応に当たる。

 王族以外で構成される貴族の三派閥のうちでもっとも権力を握っているのがバロン家を筆頭とする派閥だ。

 バロン家当主である、マニラス・バロンは八十を超える高齢であり、実質的に統制しているのは長男であるスエットと、次男のエラックである。ちなみにファノンの婚約者であるマズロットはバロン家の三男に当たる。
 会議はバロン家の発言で終始し、一時間ほどで終わった。



 出発は明日の早朝四時。
 朝早くの出発とあって、王女はクメルのために王城の中に寝室を用意させた。
 小さいテーブルが置かれ、二脚のソファが対面で置かれている。

「それで、なぜ王女様は自室に戻られないのですか?」

 クメルの正面には王女ファルナが背筋を正して座っていた。

「なぜって、少しクメルさんとお話ししようかと思いまして」
「私のほうでは特に話すことはありませんが」

「わたくしのほうにはありますわ。ファノンのことです。クメルはファノンと仲良くやっていらしたのではなくて? そうであるとするなら、ファノンが勘違いするのも無理のないことです。あの子は恋愛経験なんてないんですから。クメルさんもクメルさんです。浮気性の男性は嫌われますわよ」
「浮気?」

 聞き返すクメルに、ファルナは視線を外す。
 王女は何かを勘違いしているようだが、それがなんのことだかクメルには見当もつかない。

「王族と平民が結婚するなど……。家を捨てなければとても実現できることではありません。私にはファノンの気持ちは痛いほどよくわかります。王家を捨ててまで愛する人の元へ行こうとする。ああ、私にはとてもできることでは……」

 ファルナは目を閉じて、指を軽く額に当てて悲痛な声を漏らす。そのまま、ほう、とため息をついた。そして静かに目を開く。

「しかし、方法がないわけではないのです。平民であれば、貴族となればよいのです。戦場において武勲を立てればその可能性があります。そしてアーガストを操るクメルさんであれば――」

 王女の言葉をクメルは遮る。

「ちょっと待って下さい。私はファノンと結婚するつもりは――」

 逆にそれを王女が遮った。

「わかっておりますわよ。そんなことは。クメルさんとファノンの間に何かがあっただなんて思っておりませんわ。男を信じられなくなったら女は終わりです」

「はあ」

 ではいったいなぜクメルが貴族になる必要があるのか。だからそのまま思ったことを口にした。

「私はこのまま平民でかまわないのですが……」

 その答えに王女が目を丸くする。

「まだ理解されていらっしゃらないの? 平民と王族は結婚することができな――」

 何かに気づいたように、王女は、はっとした表情を浮かべた。

 ファルナは自らの口を手で塞ぐ。そして小さな声で呟く。「まさか、あなたは私に王家を捨てろと……。そうおっしゃりたいの……」口を手で押さえたまま、王女は苦悶の表情を浮かべる。

 その呟きはまったくクメルの耳には届いていないのだが、代わりにクメルの寝室の扉が激しく叩かれて、廊下にいた兵士の叫ぶ声が扉を通して聞こえてきた。

「大変です! 城の中庭にガーゴイルの大群が出現しました!」