クメルはあれから何度か王城に呼び出された。

 妹のファノンと会った話を王女に話すと、ファノンのほうでもクメルの素性について王女に確認があったようだ。クメルが話した内容の裏取りのためだろう。

 魔法学校で痴漢に間違われたり、頻繁に王城に呼び出されたりで、ごたごたとして生活は落ち着かなかった。

 ラズベルがいなくなった寂しさが紛れるのは良かったが、少しはゆっくりしたいとクメルは思っていた。

 なにせ元いた世界は常に気が張っており、メタリカルドからの攻撃に対して気が抜けるなんてことはなかった。

 クメルは王女に貸し与えられている家の中で、安物のソファにぎしりと体重を乗せながらため息をつく。

 呆れた顔で正面に目を向けた。
 目の前には見目麗しい美女がいる。

 ラズベル用に買ったもう一脚のソファにはなぜか王女ファルナが腰掛けていた。背もたれからは背中を離し、まっすぐに姿勢を保っている。

 安物のソファに座っていてもなお、王女としての風格が漂っていた。

「で、なぜ王女様が俺の家に来るんだ?」
「あら、いけなかったかしら。クメルに住む場所を用意するように申し付けたのですが、実際にどんなところに住んでいるのか気になりまして。屋敷を与えるように指示したのですけれど、まさかこんな狭いところだったなんて」

「一人なら十分さ」
「そうですわね。ラズベルさんもいらっしゃらないですし、このくらいのほうが寂しくなくてよろしいかもしれませんわね」

 王女の両脇には二人の警護の兵士が立っている。重装備の兵士は鏡合わせのように立っており、後ろ手に腕を組んだまま微動だにしない。

「用があれば城に呼び出せばいいだろ」
「あなたに用があったのではなく、どんな場所に住んでいるのかを確認しに来ただけです。ラズベルさんがいなくなったことですし、女の方を連れ込んでいるんじゃないかと思いましたが、無用な心配でしたね」

「王女様が心配するようなことではないのでは」
「ええ、そうですね。この部屋にはまったく女性の気配がありませんからね」

 王女はにこっと笑いクメルを見つめた。妹のファノンとは違い、大人びた美しさを王女は持っている。眩しすぎて、クメルは思わず目を逸らした。

 クメルの家の玄関扉が開かれた。
 入ってきたのは王女が外に待機させていた別の兵士だった。

「クメル殿に客人です。女性の方です」
 ぴくりと王女の片眉が吊り上がる。

「どなたかしら? クメルさん」
 王女の冷たい声が響いた。

「さ、さあ?」

 クメルに思い当たる人物はいない。それでも王女の気迫に押されるように身を縮ませしまった。

「フードを被った怪しい女です。追い返しましょうか?」

 兵士はクメルに向けて言ったのだが、王女が立ち上がった。

「私が追い払いましょう」

 それを両脇の兵士が制止する。

「いえ、王女様。お下がり下さい。王女様に何かあったら問題です」

 しかし王女はその細い腕で兵士を力強く払い除け、玄関の外に飛び出した。遅れてクメルも玄関を出る。

 外にいたフードを被った女と王女が対面した。女がフードを取り除いた。茶色い尻尾がぴょこっと顔を出す。

「あら、お姉様」
「あらあら、ファノン」

 姉妹が顔を合わせた。二人同時にクメルに顔を向ける。
 音にならない「どういうことですの」という二人の声が聞こえた気がした。



 二脚のソファにはそれぞれ姉妹が座っている。クメルは王女の警護にあたる兵士の脇に立った。

「なぜ、お姉様がここに?」
「クメルさんに用事があったからよ。ファノンこそ、なぜここに?」

「クメルに魔法を教える約束をしていたから」
「呼び捨てですのね」

「ええ、クメルは執行猶予中ですから」
「執行猶予?」

 王女は不思議そうな顔で首をかしげる。

 ファノンはクメルが魔法学校で校舎の中を覗き込んだことを王女ファルナには話していないようだった。

 王女はクメルの目を見てくる。「説明なさい」と言いたげな視線だった。当然のようにクメルはそこから目を逸らす。王女は諦めたようにファノンに向き直る。

「よくわかりませんが、だいぶ仲がよろしいようね」
「一度お会いしただけですわ、お姉様」

 ファノンはソファの肘掛けに肘をつき、手を顎に当てる。王女のすっと伸びた背筋とは違い、ファノンはリラックスしている様子だった。

 二人は少し話すと、ファノンが魔法学校を卒業したあとの話題になった。

「ファノン、私はあなたに魔法部隊には入って欲しくないの。いくら才能があるといっても王族が自ら先頭に立って戦う必要はないんじゃない?」
「いいえ、お姉様。王族であるからこそ、前に立ち、戦いたいのです。特に私はお姉さまとは違って、正妻の子ではありませんから。前に出てお姉さまを守る義務があると思っています」

「ファノン……」

 王女はそれ以上は何も言えないでいた。「帰ります」そう言って立ち上がると護衛の兵士を連れてクメルの家を後にした。

 クメルとファノンだけがこの家に残された。
 兵士が部屋を出て、扉が閉じられると同時にファノンが口を開いた。

「本当にお姉様と知り合いだったんだ」
「まあな、ファノンには護衛はいないのか」

「うーん、魔法が使えるから必要ないと思われてるし、さっき聞いたと思うけど、国王の正妻の子じゃないからね」
「いろいろあるんだな」

「いろいろあるのよ。それよりクメル、あなたお姉様のお気に入りのようね」
「どういうことだ?」

「姉妹だから分かるのよ。でもクメルは平民かー。じゃあ、ちょっと無理ね」

 ファノンは両手を頭の後ろに回してソファに体重をかけながら、クメルを見てにやにやと笑う。

 ファノンは無理だと言った。「何が」は口にしていない。
 何がどう無理なのかはクメルには理解できなかった。



 クメルとファノンは家を出て、周辺に人気のない荒れ地へとやって来た。ここで魔法の試打を行うとファノンは話す。

「まずね、自分の内側にある魔力の奔流をイメージするの。人によって炎だったり氷だったり得意分野があるけど、まずは炎をイメージしてみて。その炎を極限まで濃縮して小さくするの。そうすると別次元から魔法の根源を吸い上げることができる。そうしたら一気にその炎を最大限まで拡大させるの。それこそ自分の体より大きく、果てしなく」

 やってみるから、と言ってファノンは体の前に両手を広げてかざす。
 少し遅れて黄色い炎が現出すると勢い良く前方へと走った。五メートルほど進んだところで炎は激しく膨らみ、爆散した。

「ただ、魔法を放出するだけでなく、こんな感じに敵に当たった時に爆散させるほうが、より大きなダメージを与えられる。爆散させなかった場合は、見た目の派手さの割に大したダメージは与えられない。わかった?」

 ファノンは簡単そうに言うが、クメルにはまるで、できそうには思えなかった。

「魔力の奔流っていったいどうイメージするんだ?」
「うーん。おへその下辺りに意識を集中して、そこにイメージで蝋燭の炎を灯してみて。もちろん体の内側だよ」

 クメルは試してみるが、魔力の奔流など感じられない。

「なんか、くすぐったいような、むずむずするような、あるいは熱くなるような感覚がない?」
「……ないな」

 クメルは何も感じ取ることはできなかった。

「すぐにできる人も珍しいからね。とにかく練習するしかないよ。私だって最初は八時間くらいかかったし」
「八時間?」

 クメルは目を丸くした。

「遅いと思った? これでも早い方なんだよ。人によっては三日とかかかるし」
「いやいや、たったの八時間かと思って。それに遅くても三日ってことか?」

「そうだね。三日以上かかる人は稀だね。まあ、そもそも魔力を持たなければ何年やってもできないし、魔力さえあれば平均で一日半って言われてる」
「なるほど……。意外と簡単なんだな」

「あ、舐めたこと言って。じゃあクメルはどのくらいでできるかな。楽しみだ」

 そしてクメルとファノンは延々と魔法の練習を続けた。結局この日は魔法を使えることはなかった。

 一日開けて、再度クメルとファノンは練習を重ねた。ファノンと会っていない時間にもクメルは一人で練習をしていた。

 ところが、三日経っても、五日経っても、一週間が経過してもクメルが魔法を使える様子は見られなかった。

「おかしいわね……。根本的に何かがおかしいような」
「俺としては、魔法を使える状態のほうが非常識であって、魔法を使うってことがまったくイメージできないんだ」

「それでもね、何も反応がないってことはないの。何らかの反応が見られるはずなのに、クメルの場合はまったく魔法の力が汲み上げられてきていない。ものすごく巨大なポンプがあるのに、枯れた井戸から水を汲み上げようとしているみたいに」
「巨大なポンプね――」

 クメルはアーガストを思い浮かべた。まさにアーガストこそ、巨大なポンプを内包しているのだろう。2・5次元から大量のエネルギーを汲み上げている。

 クメルにはそれが感じ取れないのだが、目の前のファノンはどうなのだろうか。

「ファノン。たとえば俺が魔法を使う力を汲み上げられているとして、その時ファノンは何かを感じ取ったりしているのか?」
「そうだね、クメルだけじゃなくて、例えば魔法師を前に一騎打ちで戦うとするでしょ」

 ファノンの言う魔法師とは、魔法部隊に所属して魔法を使って戦闘を行う者のことだ。

「相手の魔法師が強大な力を汲み上げようとしていたら、それはこちらにも伝わってくるの。もちろん、それから対応しても遅いんだけどね。逃げる暇すらないほどに」
「たとえば、味方魔法師が横にいて魔法を使おうとする時も同じか?」

「同じね」

 クメルは少し考え込む。

「じゃあ、どのくらいの力が汲み上げられているのか、見て欲しいやつがいるんだけど」
「ん? 誰のこと?」

「巨人のこと」

   ◆ ◆ ◆

 王城に忍び込むのは簡単だった。何しろファノンは王女ファルナの妹なのだ。
 城にファノンの顔を知らない者はいない。

 おそらくは王女も眠りについているであろう真夜中に、クメルとファノンは城の廊下を歩いていた。たまに出会う警備兵にも「ども、お疲れ様ー」と小さい声だが明るくファノンは声をかける。

 そのたびに警備兵は立ち止まり、敬礼の姿勢を取る。クメルはそんなファノンの後ろに小さくなって付き従った。

 中庭に到着した。
 巨大な布をめくり上げ、アーガストの足元に潜り込む。

 月明かりが布越しに透けていて、アーガストを構成する水晶を含む素材は幻想的な煌めきを生んでいた。

「この子、綺麗だね」そんな緊張感のない台詞がファノンの口から漏れる。

 あらかじめアーガストの容貌については話しておいたので、ファノンに驚く様子は見られなかったが、それでも口数が少なくなったことは間違いがなかった。

 好奇心旺盛な目がアーガストをくまなく観察している。
 胸の搭乗口を開き、クメルに続いてファノンが乗り込んだ。

 一歩足を踏み入れたところで、ファノンの動きが止まる。
 ファノンとクメルの眼前には前席に座る鋼鉄の少女の姿があった。

「人間!? いや、人形……?」

 そこでクメルはラズベルのことを話し忘れたことを思い出した。なるべくラズベルのことは口にしたくなかったからだ。後部座席に乗り込みながら口を開く。

「メタリカルド、今は動かないけど」

 クメルの言葉を理解したわけではないが、ファノンはそのままクメルが座る後部の操縦席に向かった。

 ファノンがラズベルの脇をすり抜けると、ラズベルの白髪のボブカットがふわりとなびいた。

 ファノンもクメルの脇に密着して座る。

 クメルはアーガストの搭乗口の扉を閉めた。操縦席が暗闇に包まれた。わずかな光すらも入らない中で、前席に座る鋼鉄のアンドロイドの存在感だけが伝わってくる。

「それじゃあ、アーガストを起動する。どんな感じがするか教えてくれるか」

 そう言ってクメルはアーガストのエネルギーポンプを作動させた。軽い振動のあと、周囲を取り囲むモニターが一斉に透過され、アーガストに被せてある布を映し出した。

 暗闇だった操縦席に、薄暗いながらも光が差し込んで視界を取り戻した。
 わずかな風があるのか、月明かりを受けている布は、仄かに白い色を携えてはためいていた。

「どうだ?」

 クメルが訊ねるが、ファノンは無言だった。
 だめだったか、そう思った時にファノンが口を開いた。

「すごい……」
「すごい?」

 何がどうすごいのかクメルには分からなかった。

「クメル、これが分からないの? このアーガストは尋常じゃない魔力を持っている。魔法の根源を吸い上げる能力がとんでもない。これは人間業じゃないよ。あ、人間じゃないのか。それでもこれは……」

 クメルは推測が正しかったかもしれないと思う。アーガストのエネルギー源と魔力は共通点があるのだ。そしてもしかしたらこれを応用してラズベルを再起動できるのではないか。クメルはそう考えていた。つまり07型は魔法の原理を応用しており、それは03型でも同様ではないかということだ。

 ならばラズベルも……。
 考え込んでいたクメルに、ファノンから声がかかった。

「クメルが魔法を使えなかった理由がわかったかもしれない。クメルとアーガストは似ているの。たぶん同じくらいの魔力を持っている。だけど、クメルがアーガストのように大量の力を汲み上げたら、クメルはそれに耐えきれないはず。だから何らかの安全装置が働いていると考えたら理屈が通る」
「つまりそのままではエネルギーを吸い上げすぎるって、そういうことか?」

「エネルギー? エネルギーって魔法を使う力のこと? なら、そう。エネルギーを大量に汲み上げようとしてしまっているの」
「ようするに、一生懸命魔法を使おうとしたことが間違っていたってことか」

「そう、エネルギーをたくさん汲み上げようとするんじゃなくて、逆だったの。汲み上げないようにしなきゃいけなかったの」



 翌日からのクメルとファノンの練習はまったく違うものになっていた。
 魔力の奔流を凝縮するのではなく、拡散させる。これがやってみると、とてつもなく難しかった。

 一度だけ、本当にたまたま、クメルの魔法は発動した。
 しかし爆散させることもできず、炎が前方に走っただけだった。

 そのあとは、魔法の元となるエネルギーを汲み上げることはできているようなのだが、上手く魔法の形として具現化できないようなのだ。

 手のひらに炎こそ現れるのだが、すぐにくすぶるように消えてしまう。エネルギーのコントロールが極端に難しかった。

 一ヶ月ほど練習したが、炎がまともに走ったのは一度だけだった。

「別の方法を考えなきゃ駄目かもね」

 ファノンは諦め顔で言った。ファノンにはクメルの魔力で汲み上げたエネルギーの流れがわかるのだと言う。それはとても不安定で、少しでも膨らみすぎると制御装置が作動したかのように一気にしぼんでしまうのだそうだ。

 エネルギーを適度な大きさにコントロールすることはかなり困難そうに思えた。

「練習でどうにかなる問題じゃないと思うよ、クメル。そもそもが巨大過ぎる魔力を持っている事自体がおかしいんだけど、これを制御できる装置か何かが必要なんじゃないのかな? ちっちゃいアーガストみたいなのがいればいいのだけど」

 ちっちゃいアーガスト。それはまさにラズベルのことなのだろうか。でも、それはクメルとラズベルが同化でもしない限りは無理な話だ。

「なんか悪かったな、成果の出ないまま練習に付き合わせてしまって」
「いいわよ。私が好きで勝手にやっていただけだから。でもさすがにこれだけ結果が伴わないと疲れたわ。一時、休息を取りましょう」

 クメルとファノンは王都に戻り、適当な食堂を探す。「外のほうが気持ちいいから」と言うファノンに従って、街路にまでせり出したテーブルが置かれた店に入り、二人分のお茶を注文した。

 暖かい日差しが降り注ぐ中、外のテーブルで二人は対面に座ってお茶を飲んだ。
 街の雑踏が耳に入ってくるが、クメルはここでも戦争から離れていることの幸せを感じずにはいられなかった。

「この世界は平和だな」
「ここまでは魔物が襲ってこないからそう感じるんじゃない? 国境付近はけっこう大変そうよ」

「いや、平和だよ。この世界は」

 クメルにとっては形状を維持している建造物が存在するだけで、平穏な世界に思えた。それでもこの世界に来て一ヵ月半ほどが経過していた。

 なんとなく戦時下にいたあの頃の情景を忘れかけている自分がいることに気がつく。忘れかけているのは、戦争のことだけではない。ラズベルのこともだ。

 ラズベルが停止してしまった時のショックが薄れていることに、罪悪感と嫌悪感とを抱いていた。

 大切な人が死んでしまった時もこうして時が経つに連れ、自分は忘れていってしまうのだろうかとクメルは思った。

 そして両親の顔を思い浮かべる。あれだけ悲しかったはずの両親の失踪も今のクメルにとっては過去の辛い思いでの一つでしかない。あれからたくさんの辛い思いをしてきた。多くの仲間の死も目にしてきた。

 ファノンは大切な人の死を目にしたことはあるのだろうかとクメルは目の前の少女に顔を向ける。

 朗らかな微笑を浮かべながら、くつろいだ表情でお茶を飲んでいる。平和な世界に染まり、辛さを知らない王族の少女。王女の妹。

 この少女のようにクメルもこの世界に染まっていくのだろうかと考える。それも悪くないのかもしれない。心残りなのはラズベルと話ができないことだ。できることなら、ラズベルとこの世界で生きていきたい。ラズベルを思い出にしてしまうのはまだ早いように思えた。

 ふいに、野太い声が響いた。
「ファノンじゃないか」
 声をかけられたファノンはお茶の入ったカップを置き、声がした方向に顔を向けた。

 ファノンと同じ魔法学校の制服を着た少し小太りの青年がいた。身長はファノンと同程度だが、ファノンよりはわずかに高い。

「マズロットじゃない。何か用?」
 クメルが遅れて目を向けるとそこには見知った顔――マズロット・バロンがいた。ラズベルに腹を殴られて嘔吐した、確か序列一位とか言っていた男だ。

 マズロットはクメルを一瞥するがすぐにファノンに視線を戻した。
「最近授業もサボりがちじゃないか、ファノン。こんな平民相手に何してんだ」
「あんたには関係ないでしょ」

 ファノンは再びお茶の入ったカップを手にして口元へ運ぶ。
「関係あるさ。こんなことで成績が下がったんじゃ、俺が一番になっても何の意味もない」
「あら、あなたとの差はまだかなりあるはずよ、万年二位のマズロット・バロンさん」
 ファノンはマズロットとは目を合わせない。

「それだけじゃない。婚約者ともあろう者がどこの馬の骨ともしれない男と一緒にいることが問題なんだ。変な噂が立つなんてごめんだ」

 ファノンは眇めるようにマズロットを見てからクメルに向けて言った。

「行きましょうクメル。お茶がまずくなる」

 さっさと一人でファノンは立ち上がり、クメルを置いたまま歩き出した。慌ててクメルも立ち上がり、ファノンの後を追う。

「ファノン、明日は学校へ来いよ。学校は花嫁修業の一環でもあるんだからな。バロン家の嫁として――」

 後ろでマズロットが喚いていたが、ファノンは早歩きでマズロットから遠ざかった。一度も後ろを振り返らずに、路地を何度か曲がった。クメルもその後を追う。

 途中、クメルが何度もファノンに呼びかけたのだが、一度も反応を返さなかった。しばらく歩いてからクメルの呼びかけにやっと応じた。

「ファノン、いったい――」
「クメル。私、あいつのこと嫌いなの」

 ファノンはくるっと反転し、クメルに向かい合った。ファノンの早歩きに追いつこうとして急いでいたクメルはそんなファノンと正面からぶつかりそうになる。それでもファノンは微動打にしなかった。

「嫌いって……。婚約者とか言っていなかったか?」
「ええ、マズロットは私の婚約者よ。貴族の力が強いこの国は王族の私のような正妻の娘でない者が、派閥をまとめ上げている貴族の息子と結婚させられる。よくある話でしょ」

「そうなのか?」

 クメルにはわからない。平和なこの世界においては、何にも縛られずに好きなように生きればいいのにと思う。

 それでもこの世界にはこの世界の、この国にはこの国の事情というものがあるのだろう。

 ファノンの愛らしかった顔が、暗く影を帯びたものに変わっていた。
 ファノンの幼さと純朴さを象徴するものは頭の茶色い尻尾だけで、その下のファノンは王族が抱える事情とやらに呑み込まれそうになっている力を持たない人形でしかなかった。

 クメルはラズベルと比較してしまう。人形でもアンドロイドのほうがまだましだ。ラズベルは自分の意志――AIの判断を押し通す。合理的でない判断はすべて切り捨てる。

 どちらがいいというわけではないが、人間には人間の複雑な事情を抱えている。だが、それが複雑になりすぎるとファノンのようにアンドロイド以下の人形になってしまうのではないか、クメルはそんな風に感じた。

 能面のようだったファノンは頬を緩ませ、笑顔をクメルに向けた。
 純真無垢な少女に戻っていた。

「でも、まだすぐ結婚するってわけじゃないから。時間があるんだよ。私もそれまでは執行猶予中――」

 ファノンは執行猶予だと言った。
 下着の覗きとは違って、結婚は罪ではないだろう。

 それでも、ファノンは自分自身に与えられた罪状のように感じているのだ。罪を犯したというわけでもないのに。

 それは幻想の罰でしかない。
 幻想の鎖で自らを縛っている。

 こんな平和な世界で――。本当にくだらない――。クメルは心の底から思った。
 思わずきつい口調で口を開いていた。

「やめればいいだろ、そんなの」
「やめられたら楽なんだけどね」

 ファノンは俯く。

「やめろ」

 クメルの言葉にファノンは何も言わなかった。
 ファノンが俯いたまま、数十秒の間、二人は無言のままだった。

「やめろ。結婚なんてやめろ」

 クメルはもう一度はっきりと言った。「誰かがさらってくれたら、いいんだけれどね」と小さく呟いて、ファノンは顔を上げた。クメルを見つめてくるその顔は紅潮していた。

「結婚は自分が好きになった相手とするべきだ。家の事情があって、どこか遠くへ行かなきゃならないのなら、俺が連れて行ってやる」
 しばらく二人は見つめ合った。

「私がさらって、と言ったら、さらってくれるの?」
「ああ。だから、望まない結婚なんてやめろ」

 ファノンは右手で拳を作り、クメルの胸元を軽く小突いた。そのまま頭をクメルの胸に埋めた。頭頂部の茶色い尻尾がふわっと揺れた。

「そうだね。クメルがそう言うなら、やめる」ファノンは小さく呟いた。