翌日、係官たちと一緒に沙苗たちは帝都を出立し、春辻の里に向かった。
 およそ二ヶ月前に離れた里に再び戻る。
 あの時は半妖であることがばれないだろうかという不安と、あの家を出られたという開放感を抱き、生まれ故郷を後にした。
 今は身も心も穏やか。
 恐怖の対象だったはずの里へ向かうことに対して、ひるむこともない。
 景虎がすぐそばにいてくれるというだけではない。
 都で多くの経験をし、沙苗は確実に強くなっていた。

 煉瓦造りの建物がなくなり、山や田園風景が目につくようになる。
 空気感も変わる。
 里に戻ってきて良かったと思うのは、綺麗な空気と、自然の豊かさくらい。
 自動車が実家の前に止まった。
 ずっと閉じ込められ続けて来た、忌まわしい離れが庭の奥にちらっと見えた。

 ――うちってこんなに小さかったんだ。

 帝都の建物に馴れたせいだろうか。ふとそんな感想を抱いた。

「大丈夫か?」
「はい」

 景虎は係官たちを待たせると、沙苗と一緒に肩を並べて屋敷へ入る。
 扉を叩くと、何も知らぬ使用人が「いらっしゃませ」と出迎え、景虎と沙苗を前に、深々と頭を下げる。

「どのようなご用件でしょうか」
「家政に会いに来た。いるか?」
「どちらさまでしょうか」
「都から重要な知らせを届けに来た」
「わ、分かりました」

 使用人に客間に通されると、「すぐに呼んで参りますと」と使用人は席を外す。

 ――私がいるのに、眉ひとつしかめなかった……。

 あの使用人はずっと、沙苗に嫌がらせをしてきた。それなのに、今日は沙苗にも笑顔を見せた。
 まさか、たった二ヶ月で沙苗の顔を忘れたということはないだろうが。
 嵐の前の静けさのようで、沙苗はかすかな戸惑いを覚えつつ、客間で家政たちを待つ。

 しばらく待っていると、忙しない足音と一緒に家政、そして八重が入ってきた。
 家政は憔悴のせいか顔が青白く、体も一回りは痩せたように思えた。一方の八重は目をつり上げ、景虎を睨み付けた。

「うちの娘と百瀬さんが逮捕されたなんてどういうことなの! どうせ、あの半妖が嘘をついているに決まっているわ!!」
「座れ。立っていられては落ち着いて話もできない」

 激昂する八重に対して、景虎は冷静に応じる。
 家政からも「座りなさい」と言われ、八重は景虎を睨み付けながら座る。

「……それで、そちらの方は一体どなたなの?」

 ――え?

 八重の言葉に、沙苗は虚を突かれてしまう。

「分からないのか?」

 景虎もかすかに驚いている。

「どういうこと?」

 沙苗をじっと見つめていた家政の顔が変わる。

「……まさか、さ、沙苗、か?」
「はあ!?」

 八重が目を剥く。
 沙苗は背筋を伸ばし、胸を張ったまま、「お久しぶりで御座います、お父様、八重さん」と告げた。

「う、嘘でしょ……あの、ボロボロで汚らしかった娘が……?」

 なるほど。さっきの使用人も、沙苗だと分からなかったからあれほど愛想が良かったのか。

「あ、あんた! よくも顔を出せたわねええ! この化け物めぇ!」

 掴みかかろうとするが、すかさず景虎が庇ってくれる。

「それ以上、近づいてみろ。ただではおかないぞ」

 声そのものは淡々としていながら、殺気を秘めた眼差しに射竦められ、八重は「ひ……」と喉奥から悲鳴を漏らす。

 家政はまだ信じられないという顔で沙苗を見ながら、「今度のことは何かの間違いなんだろう。あの子が、お前を誘拐するなんてありえないっ」と言う。
 親馬鹿というか、その愚かさに、沙苗は溜め息を禁じ得なかった。

「この期に及んでもあんなひどい人をかばおうとなさるんですね」
「かばうもなにも、姉妹じゃないか……。なんとか助けてやらないのか」
「私を誘拐した人ですよ。とても許せません。それに、向こうは私と姉妹だと言われるのは我慢ならないと思います」

 八重は我慢できというように叫ぶ。

「景虎さん! あなたの婚約者はね、化け物なんですよ! 半分、あやかしの血が流れているのですよ!? この女は、あなたに嘘をついているんですよ!!」
「知っている」
「は?」
「沙苗が半妖だと知っている、と言ったんだ」
「な、なによそれ! それでも一緒にいる!? き、気持ち悪い! あんた、頭がおかしいわ! 異常よ!」
「お前たちには、沙苗の価値が分からないのだな」

 金切り声を上げ続ける八重に呆れかえったのか、景虎はため息をこぼす。

「本題に入る。帝におかれては、こたびの一件により、春辻の家そのものを処罰する命を出された」

 景虎は懐から出した菊のご紋が染め抜かれた命令書を突きつけた。

「ちょ、勅命……?」

 家政は震える手で、その命令書を受け取る。

「土地家屋はすべて没収となり、お前たちも拘束される。今日、俺たちが来たのはそれを見届けるため。沙苗、行こう」
「はい」

 景虎に従い、立ち上がった。命令を受け取った家政は呆然としてぴくりとも動かず、八重は顔を赤黒く変色させた。

「冗談じゃないわよ!」

 八重が今だこりずに景虎に掴みかかろうとしてくる。
 沙苗が立ちふさがる。

「邪魔よ、化け物ぉぉぉぉぉぉ!」

 沙苗は迷うことなく、八重の頬めがけ平手を見舞った。

「っ!」
「いい加減にして。これ以上、春辻の家名に傷をつけるような真似はやめてください」
「化け物に触られた! いやああああああ……!!」
「沙苗、お前というやつは! 親に手をあげるとはぁ!」

 父が怒りに声を上擦らせた。

「……私はずっと、この家であなたたちに虐げられてきました。それをもう忘れてしまったのですか?」
「……あ、あれは……虐げるなどと……春辻家の名誉を守るためで……」
「遅かったですね。あなたがするべきだったのは、私を虐げるのではなく、薫子へ真っ当な教育をほどこすこと、でした。もう何もかも遅すぎますが……」

 八重の壊れたような声を背に、沙苗たちは屋敷を出た。

 ――もっとすっきりするかと思ったけど……。

 拍子抜けするほど何も感じなかったことに、驚いてしまう。
 これまで手も足も出なかった相手だ。
 それに一糸報いたのだから胸がすくかと思った。
 しかし沙苗の胸には何の感慨も湧くことがない。
 文字通り、何も感じなかった。

 ――もう私は春辻の家に対して何のこだわりも、何の思いもない、ということなのね。

 外に出ると、景虎は外で待っていた係官たちに頷く。係官たちは母屋へどんどん入って行った。

「沙苗……」

 景虎は言いにくそうに口ごもる。
 虐げられた、という言葉を聞きたいのだろう。

「……付き合ってくれますか?」
「お前が行く場所ならどこへでも」
「そんな大層な場所じゃありません」

 沙苗は庭を横切り、日の当たらない場所にぽつねんと立てられた離れへ向かう。そこにもすでに係官が何人か入り込んでいる。

 忌まわしい場所。
 竹で作られた格子のはまった丸窓に胸が締め付けられる。
 足がすくみそうになるのをこらえ、離れへ向かう。

「ここは? 使用人が使っていたのか?」
「いいえ。ここで私は育ちました」

 景虎の目がかすかに見開かれた。

「悪いが、少し二人きりにしてくれないか」

 景虎は係官たちに告げる。
 出ていく係官たちと入れ違いに中に入る。古ぼけた台所、一日を通して日が当たらないせいで、じめっとした湿気が肌に絡みついてきた。

 何もかもが、出ていった時のまま。
 いや、今では誰も使うような人間がいないせいか、そこかしこに埃がたまり、汚れがひどく目立っている。

 ――こんなに狭かったんだ……。

 天華家の屋敷になれすぎてしまったせいか、余計にそう思う。
 板張りの床がギシギシと軋むのを足裏で感じながら奥へ向かう。

「……座敷牢」

 景虎がぽつりと呟く。
 何もかも、あの頃のまま。
 漆喰壁の汚れも、ひび割れも、ところどころ腐食した床板も、何もかも。

「ここに、私はいました」

 無人の座敷牢を見ながら、沙苗は言った。

「……いつから」
「物心がついてから、です。あの日、パーティーから帰った時、ここに入っていた時の夢をみたんです」
「……今すぐ、あいつらを殺してやりたい」

 冷え切った声で、景虎は言った。
 刀の柄に手がかかっている。今、目の前に両親がいれば、景虎は迷いなく殺していただろう。

「殺す価値もありません。あんな人たちのせいで、景虎様の手が汚れるほうが、私には耐えがたい……」

 座敷牢の扉を押すと、軋みながら扉が開いた。
 入る気にはもちろんなれない。

「ここも更地になるんですよね」
「そうだ」
「それなら、良かったです」

 沙苗はにこりと微笑んだ。

「……行きましょう」

 離れを出ると、里の人間たちが騒ぎを聞きつけて集まってきていた。
 彼らの視線の先には、係官によって拘引される家政たち。

「あの人たちはどうなるんですか?」
「身柄を他家に預けられて軟禁状態におかれる。ある程度時が経てば解放されることになるだろうが、あの離れを見て気が変わった。一生解放されないよう手を回す。お前が二度と、あいつらに会わぬように」
「ありがとうございます。もう一つだけ行きたいところにいかせてもらってもいいですか。ただ、その場所が分からなくて」
「場所が分からないのに、行きたいのか?」
「……生みの母のお墓に一度でいいので、参りたいんです」
「あやかしに襲われて亡くなられた、という……」
「はい」

 景虎は係官に命じ、使用人をひとり連れてくるよう言った。
 びくびくしながら使用人が近づいてくる。上目遣いで沙苗たちの様子を窺う。

 沙苗が目を合わせると、恥じるように目を伏せた。
 さんざん沙苗に悪態をつき、いびってきた世話係。
 沙苗は、じっと見つめる。

「母の墓にいきたいの。場所を教えて」
「こ、この畦道をまっすぐ上っていった先の二股道を右下。その先に……」
「ありがとう」

 沙苗は言われた通り、道を進んでいく。途中で野花をいくつか積んだ。
 道の先に、お墓が見えてきた。小さな里で、決してお墓の数は多くはない。
 お陰ですぐに母の墓は見つかった。
 春辻家の墓とは別に、操の墓が別に建てられていた。

 ――これだけは父に感謝するべきかもしれないわね。

 墓前に花をそなえ、手を合わせる。

 ――お母様、私は今とても幸せです。こちらにいらっしゃる景虎様と一緒にいられ
ることが私の幸せです。景虎様は私の全てを受け入れた上で、大切にしてくださっています。

 顔を上げた沙苗は溌剌とした笑顔を向ける。

「お母様、また来ます」