沙苗に見送られ、いつものように家を出る。
正直、沙苗の先見の力は頭から信じたわけではなく、半信半疑だった。
しかしこれまで突飛なことを一度も言い出さなかった沙苗が真剣な顔で伝えてきたことだ。
今さら景虎の関心を引くような子どもぽいことをするはずもない。
――信じるべきだな。
内容が内容だ。それこそ、何もなければそれに越したことはない。
しかしもし本当にそういう事態が起こるのであれば、部下たちの命を守るためにも気を配るべきだ。
分かっていることは、夜であること、尖塔の建物がそばにあることと、そして空を飛ぶあやかしが出てくること。
と、馬車の向かいに座っている三船が小さく笑う。
「三船。なにがおかしい?」
「笑っていたのではなく、微笑ましいなと思っておりました。今日も沙苗様のお弁当ですね」
三船は、膝においた弁当の包みを見ている。
「せっかく作ったものを無下にはできないだろう。それだけだ」
「最近、大佐の雰囲気が変わったと皆が噂しております。これも、婚約者のおかげなのだろうか、大佐も人の子だったんだ、と」
「……誰がそんな馬鹿なこを言っている」
景虎の目が鋭くなったことに、三船は慌てる。
「それは!」
「人の子だとかほざいてるのはどうせ一臣だろう。馬鹿なやつだ」
三船は曖昧に笑う。
庁舎へ出勤し、いつものように仕事をこなしていく。
その日は結局何事も起こらずに過ぎていった。
沙苗にそれを話すと安心していたようだが、それでも彼女の表情にある影は去らなかった。いつかは絶対に起こるということを経験しているからだろう。
景虎も夜の出動要請に関しては常に気を配るようにした。
そして沙苗から先見を聞いた一週間後、日が暮れた時間帯。
あやかしの出現を三船が伝えてくる。
現場指揮は他の狩人が任されたが、景虎は自分も向かうと半ば強引に了承させた。
退魔部隊が保有する自動車に乗り込み、現場に急行する。
「……大佐がご自身が行かれるとは、なにか予感があるのですか?」
常にない強引さで現場に急行している景虎を、ハンドルを握る三船は不安そうに眺める。
ただの人間であれば虫の知らせというのは、本人も周りも大して気にも留めることはないが、こと常人にはもてぬ強い霊力をもつ狩人――特に、全ての狩人諸家の頂点に立つ天華の当主の虫の知らせというのは、特別な意味を持つ。
「杞憂であればそれでいい」
景虎はそう言葉少なに答えるに留めた。余計なことを言って必要以上に不安にさせる必要はない。
無線通信機により現場の情報が逐一、伝えられる。
出現したあやかしは蝙蝠型。そして急行する現場には、教会の尖塔がある。
「三船、もっと急げっ」
「は、はいっ!」
現場に到着するなり、景虎は三船の制止も聞かずに飛び出した。
景虎は頭上高く飛び回るあやかしではなく、尖塔を見る。そしておそらくあれが崩れた場合の落下地点にいるだろう部下たちに目を向ける。
「お前ら! そこから離れろ!」
景虎の叫びに、部下たちがびくっとして振り返る。
「命令だ!」
景虎がどすのきいた声で叫べば、部下は慌てたように指示に従う。
直後、あやかしが尖塔のそばを横切ると同時に、その巨大な翼が、尖塔を裂いた。
ぐらりと揺らいだ尖塔が切断され、ついっさきまで部下たちがいた場所に落下した。
巨大な土埃が巻き上げられ、辺りに立ちこめた。
その全てが、沙苗から聞いていたとおり。
――次に起こることは……。
刀を抜く。
――あやかしの襲来!
顔を覆って怯んでいた部下を突き飛ばした景虎は、襲いかかってきたあやかしの攻撃を、受け止めた。
まさかこの状況で、冷静に動ける人間がいるとは思わなかったのだろう。
あやかしの顔が驚きに包まれる。
一刀の元に、あやかしを斬り伏せた。
「全員、体勢を立て直せ! くるぞ!」
あやかしは一体ではない。
尖塔の落下から間髪いれずにやってくる襲撃に一時は恐慌状態に陥っていた部下たちだったが、景虎の叫びが彼らに理性を取り戻させた。
彼らは冷静にあやかしに対処する。
あやかしも体制の立て直しの速さに慌てているようにも見えた。
景虎は闇夜にも映える美しい白髪を振り乱し、あやかしを両断する。
周囲に気を張り巡らせる。あやかしの気配は完全に消失した。
「全員、すぐに撤収準備に入れ!」
「はっ!」
敬礼する部下たちにあとのことを任せ、三船の元に戻る。
「大佐……どうして尖塔が崩れることが分かったのですか?」
景虎の行動は明らかに、尖塔が崩れることを前提にしたものだったから、疑問に思うのも当然だ。
まさか沙苗が教えてくれたとは言えない。
「あのあやかしは飛び回るばかりで一向に攻撃をしてこなかった。だから何か思惑があると思ったんだ。すぐそばに、崩しやすい建物があることに気付いたから、念の為に避難させた。それだけだ」
もし無防備なままの部下たちの上に、あの尖塔が落下していたらと思うと、背筋がぞくりとする。
部下の多くが下敷きになり、さらに巻き上がった土埃によって視界が奪われるとい
う最悪の副次効果も合わさって、どれだけの命が奪われていたか分からない。
――被害が出さずに済んだのは、沙苗のおかげだな。
景虎があやかし出現に関する処理を終えて帰宅する頃にはまたも深夜近い。
しかし気持ちは晴れやかだ。
――明日は、三船に言って、沙苗にショートケーキを届けさせようか。それとも食べたことがない、アイスクリーム、パンケーキもいいかもな。
本当は連れていってやれればいいのだが、非番は当分こなから仕方がない。
そんなことをあれやこれやと考えて、はっと我に返る。
――また沙苗のことばかり、考えていたな。いや、これは正当な礼のためで……。
誰に言い訳をしているのか分からないが胸の内でそう自分に言い聞かせるように呟く。
三船に礼を言い、馬車を降りて屋敷に入った。
そして居間に入るなり、
「景虎様!」
沙苗が縋るような眼差しを向けてきた。
「どうしてまだ起きてるんだ」
「胸騒ぎがしたんです。気のせいだと言い聞かせたんですが、どうしても気になってしまって眠れず……」
「……胸騒ぎ。春辻の血、かもな」
「はい?」
「いや、こっちのことだ。お前の胸騒ぎは正しかったようだな。安心しろ。お前から聞いていたから、被害は出ていない。あやかしも倒せた。お前のおかげで、将来有望な連中を失わずに済んだ。ありがとう」
「景虎様もお怪我は……」
「平気だ」
「良かった……!」
沙苗は少し涙ぐみながら、はにかんだ。
先見というのはまるで現実の出来事のうように生々しいと沙苗は言っていた。
大勢の人間が崩れた尖塔の下敷きになるのを沙苗はまるで自分が体験しているかのように生々しく感じ取っていたということになる。
今の安堵の表情は、先見で一足早く体験していたということもあるのだろう。
泣き笑いの表情の沙苗を前に、胸が締め付けられるように苦しくなった。
普通の夫婦であればこういう時、抱き寄せ、安心させるべき言葉をささやけるのだろう。
しかし景虎にはそれがそうすることが叶わない。それが悔しい。
「景虎様? ぼうっとしてどうされましたか?」
沙苗に呼びかけられ、我に返る。
「お茶を淹れましょうか?」
「あ、ああ……頼む」
「はい、すぐにっ」
すぐにお茶を運んで来てくれる。
切なかった気持ちを押し流すように、茶を一気に飲んだ。
「先見で見るのは、怖ろしいことばかりだったのか?」
「ほとんどは。でも一つだけ……幼い頃からずっと見ていたものがあったんです」
「ずっと?」
「先見でそれまで見えたものは近い将来の出来事のはずでしたが、それだけが違ったんです。それに、怖いことでもありませんでした。それどころか私にとってはとても素敵な先見で……」
沙苗は、ちらっと景虎を見てくる。
「まさか俺と関わり合いがあるか?」
「関わり合いどころか、そのものです。景虎様のお姿を、幼い頃から見ておりました。寂しげに、切なそうに笑う、景虎様です。そして私にとって…………初恋の人でした。あ、初恋と言っても、あの、その気持ちを今も引きずっているということではありません! 幼い私にとっては、景虎様のように輝くように美しい方を見るのが初めてで……! ちゃんと自分の分は分かっているつもりですので……」
景虎が『愛するつもりはない』と口にしたことを気にしているのだろう。沙苗はしどろもどろになりながら言葉を重ねた。
「……そ、そうか」
景虎はぎこちなく頷くのがやっとだった。
こういう時、どう反応を示すべきなのが正しいのだろう。
景虎には分からなかった。
「とにかく俺は無事だ。だからもう眠れ」
「はい。おやすみなさいませ」
沙苗は小さくお辞儀をすると、居間を出ていく。
――初恋……こんな俺に?
この顔も美しいだなどと言われたのは初めてだ。
他人は元より奇異なものとして見ていた。それが普通だったし、景虎自身それに対して特別な気持ちを抱くこともなかった。
今でこそ馴れたとはいえ、この白い髪に赤い目は景虎にとっては忌まわしいものでしかなかったのだから。それは今も変わらず、鏡に自分の顔をうつすことさえ嫌っていた。
それなのに、美しい、と彼女の澄んだ声で聞くと、胸が締め付けられるような錯覚を覚える。
※
沙苗は部屋に戻ると、布団にもぐりこむ。
しかしなかなか眠気はこず、ずっと、さきほどの景虎とのやりとりを思い返す。
――景虎様からお礼まで言ってもらえるなんて。
まるで夢を見ているような心地。
自分の先見がはじめて、誰かの役に立った。そのことが嬉しい。はじめて先見を役立ててくれたのが景虎で嬉しい。
気味悪いと思うことなく、その場で話を聞くだけのふりをするわけでもなかった。
だからこそ、そのあとの己の軽率さが悔やんでも悔やみきれない。
「いくらなんでも、初恋なんて言うべきじゃなかったのに……」
きっと最悪の事態を回避できた上に、景虎も無事でいたことに心から安心したせいで、話さなくてもいいことが口からこぼれてしまったのだ。
「今ごろ、“俺たちの関係が契約にすぎないというものだと忘れたのか?”って、思われたらどうしよう……」
思い返すと、初恋と聞いたあとの景虎は口調が心なし、ぶっきらぶだったように思える。
今からでもさっきのことは嘘ですと言ったほうがいいだろうか。
いや、そんなことをしたら余計、煩わせるだけだ。
これだったら、未来予知なのではなく、人の心が読める力であってくれたらどれだけいういだろう。
相手の心さえ手に取るように理解できるのなら、こんな風に戸惑うこともなかっただろう。
でも景虎のことを先見ではじめて見たときの気持ちは、沙苗にとってかけがえのないものであることに他ならない。
傷だらけの身心に、あの時の気持ちがどれだけ救いとなってくれたか。
だからこれからも出来ることはしよう。少しでも役に立てるように。
沙苗はそう思いながら眠りに落ちていった。
景虎はうんざりした気持ちで、自分がこれから入って行く建物を見上げる。
皇居外苑にある、兵部省である。
兵部省はこの国の軍事を一手に担う機関。
西洋文明に対しては迷信の類いは捨てたということになっている政府の秘密組織である退魔部隊の管轄をしている場所でもある。
なぜここに来るのが憂鬱なのかと言えば、ここは現場よりも、足の引っ張り合いを常とする政治の舞台だからだ。
そんなものとは距離を置きたい景虎だったが、退魔部隊の隊長を務める以上、呼び出しに応じないわけにもいかない。
出かける際、一臣と鉢合わせ、兵部省に呼ばれたと愚痴るといつも軽口しかたたない男に「頑張れ」と励まされてしまった。そういう場所だ。
秘書の三船を車と一緒に外で待たせ、景虎が出向いたのは、兵部省陸軍部軍務局局長室という長たらしい札のかかった部屋だ。
戸を叩いて名乗ると、「入れ」と声がかかった。
軍帽を外し、「失礼します」と入室する。
相手は茶褐色の軍服姿の、初老の男。制服ごしにもでっぷりとした肉付きの良さが隠しきれていない。
それがこの男が軍人としてよりも、役人としての嗅覚が優れていることを示している。
――今出川少将、だったか。
「座れ」
今出川は対面の席を示す。失礼します、と景虎は座る。
「この間の活躍は聞いている。味方の犠牲を事前に食い止めたらしいな。さすがは、天華の御曹司、というところかな」
褒めながらも、小馬鹿にしたような眼差し。
狩人への反応はだいたい、これだ。霊力などというものへの失笑。
だがその旧態依然として表向き捨て去ったものに縋らなければ、この国の平穏はないのも事実。
「ありがとうございます。それで御用向きは」
景虎は軽く流して、さっさと話を進める。ここへ来る時は、用件は来てから話すと言われたきりだった。
素っ気ない態度がつまらないのか、今出川は不満そうに鼻を鳴らしながらも、話を進める。
「鹿鳴館で開かれるパーティーに出席しろ。お前は退魔部隊の隊長であると同時に、伯爵家の当主でもある。出席し、政財界の大物たちに広く資金を求めるのも大切な務めだ」
高い霊力を持つ狩人は異相持ち。異相は不気味がられる一方、生きる宝石と称して愛でたがる好事家が、政財界には一定数存在する。
「ちょうど婚約者もいるだろう。彼女も一緒に連れて行け」
「……なぜです」
「将来の伴侶と出席するのは当然のことだと思うが? なにかできない事情があるのか?」
「私の婚約者は、パーティーのような賑やかな席が苦手なんです。客寄せが必要ならば、私だけで十分でしょう」
「駄目だ」
「なぜです」
つい、視線が厳しくなると、今出川の顔にかすかな怯えの色が入るが、若造相手に臆していると思われたくないと、強気の顔で身を乗り出す。
「彼女も男爵家の娘だし、なにより帝の勅命で決まった婚約だろう。賑やかなものが苦手だ、などとそんな理由で出席を控えれば不仲を疑われる。それではお前も困るだろう。ただでさえ狩人という古くさい存在が、帝との距離が近いことを不服に思う者もいる時世だ」
――お前のように、な。
「……分かりました。話してみます」
「いや、出席するよう説得しろ。これは上官命令だ」
今出川は話は終わりだと言わんばかりに、腕を組んだ。
※
「景虎様!?」
まだ日が落ちていないにもかかわらず、景虎が帰宅したことに、沙苗は思わず変な声をあげてしまう。
「お仕事でお怪我でもされたのですか!?」
「いや。今日はお前に少し話さなければならないことがあって、早めに帰ってきた」
「私に……?」
――あの初恋の話のこと!?
まさか早めに帰宅してまでも、あの発言が我慢できなかったのか。
「今なにをしていた?」
「ゆ、夕食の支度を」
「そうか、なら、悪いが俺の分も用意してくれ。食事をしながら話そう」
「…………か、かしこまりました」
「どうかしたか?」
「い、いえ……」
――まさか、離縁? 半妖ごときが自分に初恋なんて調子にのったことを言うな、とか……。
景虎の背中を見送った沙苗はどきどきしながら料理をおこなう。
そして景虎と食卓を囲む。
沙苗は心ここにあらずで、俯きぎみで機械的に食事を口に運ぶ。
――謝ろう。全力で。
「……話ついてだが」
沙苗は箸を置く。
「沙苗?」
その場で土下座をする。
「お、お許しください! この間のことは本当に、言うべきではなかったと思います! でも繰り返し申し上げますが、初恋というのはあくまで初めて見た時の感情で! 今は景虎様に恋心など微塵も抱いておりません! し、信じて下さいっ!」
「おい、何を言って……」
「初恋と言ったことが煩わしくて、私との契約関係を打ち切るということではないのですか……?」
「どうしてそういう話しになるんだ」
「あの、は、話と聞いて、真っ先にそのことが思い浮かんだのですが…………ち、違ったんですか…………?」
「お前はそそっかしいな」
「っ!」
景虎の見せた笑顔に、どくん、と鼓動が跳ねた。
口を半開きにしたまま、景虎の美しい笑顔に見とれてしまう。
「土下座をやめて、ちゃんと座れ。さっきから俯きっぱなしだったのは、そのことを考えていたからか」
「それじゃあ……?」
景虎はパーティーへの話をされた。
勝手に勘違いしたことにくらべると、肩すかしを食らってしまうほどの用件だった。
「そ、そんなことでしたか。あ、すみません。大切なお仕事のことなのに!」
「いいや、お前の言う通り。そんなこと、だ。だがそんなことも、お役所ではやらなければならない時がある」
「だが、お前は出席するな」
「でも」
「俺の妻ともなれば望むと望まないとにかかわらず注目を浴びることになる。パーティーに出席するような連中は常に噂話に飢えているような暇人どもだ。お前も嫌な目に遭うかもしれない」
景虎はそう言ってくれるが、欠席すれば、なおさらその噂好きの暇人たちの好奇心をくすぐることになりはしないかと考えてしまう。
「……私たちの婚約に関しては帝の勅命によるもの、ですよね。もし今回のパーティーを欠席したとして、私たちが不仲だという話が広がったりすれば、良くないのではありませんか?」
「それは……」
沙苗が少し我慢すればそれで済む。景虎の立場を危うくしたくはなかった。
なにより、先日の先見につづいて、パーティーに出席すれば、景虎の役にも立てる。
「出席いたしますので、ご安心ください。景虎様の顔に泥をぬるような真似は決していたしませんから」
「そんなことは心配していない。お前は日々よくやってくれている。俺は、お前に妻としての献身は求めないと言っておきながら、今では弁当を当然のように作らせて……。だから、お前が俺の顔に泥を塗るということはまずありえないことだ」
はっきり言われると、頬が熱くなってくる。
「弁当は私が勝手にしていることですから、お気になさらず」
「……それにしても狩人の方々のことを見世物のように扱うなんて、理解できません……」
箸と茶碗を持つ手に思わず力がこもってしまう。
景虎たちはこの国のために身を危険にさらし、あやかしと戦っている。
国の為に働く人々のことを見世物にするような人々が、本来、民の手本にならなければいけない上流階級の人々の中にいるだなんて。
「その人たちの心にこそ、あやかしが宿っているように思えてしまいますっ」
思わずそんな声がこぼれすと、景虎が驚いたように見てくる。
「な、何か?」
「お前もそうやって怒るのだな。はじめて見たから少し驚いただけだ」
「すみません。つい、感情的に……」
赤面して俯き、黙々と箸を動かす。
「そうして人の為に怒れるのは美徳だ」
パーティー当日、景虎は早めに帰宅した。朝方、早く帰宅することは聞いていたから、沙苗は三つ指で出迎える。
「おかえりなさいませ、景虎様」
「沙苗さん、お久しぶりです」
「藤菜さん!? お久しぶりです」
景虎が連れていたのは、『つだ屋』の女将、藤菜だった。
「着付けのために来てもらった。俺では細かいところが分からないからな」
「というわけで、失礼いたしますね。沙苗さんのお部屋はどちらですか?」
「こちらです」
沙苗は先を進みながら、ちらちらと背後を気にする。
藤菜はきょろきょろと屋敷の中を見回していた。
藤菜と景虎はかなり親しいようだから、沙苗の家事の実力に目を光らせているのかもしれない。
拭き掃除は毎日しているから、汚れてはいないとは思うのだが。
「な、なにか気になるものがございましたか?」
部屋に入りながら、沙苗はおっかなびっくり尋ねる。
――婚約者としてどうかしら、とか言われたらどうしよう……。
藤菜ははっとして、「すみません。ジロジロと不躾に見てしまって」と少し照れ隠しに微笑んだ。
「あ、咎めているのでは……。こんなに広いお屋敷の手入れをすることには不慣れなもので、もしなにか気になることがございましたら、教えていただきますと嬉しいと思いまして……」
藤菜は慌てて首を横に振った。
「いいえ、私から申し上げることなんて何も。ただ」久しぶりお屋敷にお邪魔しましたので、懐かしいと思ってついキョロキョロと……。これだけの広いお屋敷を、今は沙苗さんだけで切り盛りされているんですよね。大したものです」
「いえ、そんな……至らないことばかりですが」
「ふふ、ご謙遜を。景虎様が連れて来てくださったということは、お屋敷が見せても問題ないと判断されたからですよ。だってあなたがこちらにいらっしゃるまでは、『うちは汚いから来るな』って一度も中を見せてはくれなかったのに」
「……そ、そうなんですか」
「ええ。それが今回は私のほうから『沙苗さんをこちらへ連れてくるんですか?』って聞いたら、『そのままうちにきてくれ」と、当然のように仰られて……無駄話が過ぎましたね。さっそく、着付けをさせていただきますね」
そうして着付けを手伝ってもらう。
さすがは呉服屋の女将。ぱぱっと支度を終えてしまう。
「さあ、では鏡の前にどうぞ」
鏡台の前にいく。まだ結婚はしていないので色つけの留め袖姿の沙苗。
緑青の着物に薄く金を混ぜた白い牡丹の小紋が鮮やかに散らされ、白地に黄色を混ぜたところに幾何学模様を配した袋帯をつける。
髪には、お気に入りの蝶の透かしの入った簪。
「どうです?」
「素敵です!」
自然と笑みがこぼれる。
「とてもお似合いです」
「仕立てていただいた着物がそれだけ素晴らしいからです」
「もちろん着物も最高のものをご用意しましたからね。でも、沙苗さん、あなた自身がとても素敵だからということを忘れないでくださいね。あなたはもっと自分の素晴らしさに気づくところからはじめたほうがいいです」
胸のやわらかな場所に触れてくれるような藤菜の優しい言葉に、熱いものがこみあげてるのを意識した。
「藤菜さん……ありがとうございます」
「あら、まだ終わりじゃありませんよ。お化粧もしませんと」
「ま、待ってくださいっ」
藤菜は左目を隠している前髪に触れようとする、藤菜の手を思わずよけてしまう。
「ご、ごめんなさい。左は……あの……」
「大変しつれいいたしました。では、それ以外なら大丈夫ですか?」
「……すみません」
「謝らないでください。私こそ事前にちゃんと聞くべきでした。では、続けますね」
藤菜は笑って流してくれる。その優しさが、ありがたかった。
お化粧までしてもらうと、鏡の前にいるのが別人のように感じられた。
「藤菜さん。お化粧の仕方、教えてもらえませんか?」
人にしてもらうだけでなく、自分でもちゃんとお化粧をしたいと思えた。
いつでも藤菜にやってもらえるとは限らない。どんな時でも自分でできるようになっておきたい。特に、景虎と一緒にでかける時には特に。
「もちろんです。お化粧をしっかり学べば、景虎様はますますあなたに惚れること請け合いですよ」
「ますますというのは、さすがに言い過ぎです。まずは……その……少しでも景虎様に不不愉快に思われないよう、身綺麗になりたくて」
「……ふふ」
「私、おかしいこと言いました?」
「初々しいと思っただけです。ま、恋愛に関しては外野がとやかく言うべきではないですものね」
「?」
頭に疑問符をのせた沙苗だったが、藤菜は笑ってそれ以上、詳しいことは教えてくれなかった。
「それじゃ、お化粧に関してはまた後日にでも。坊ちゃんのところへ行きましょう」
居間へ足を運ぶと、景虎は座っていた。
「坊ちゃん、仕上がりましたよ」
「坊ちゃんはやめろと……」
振り返った景虎は少し驚いた顔をする。
その視線を受け止められる自信がない沙苗は俯く。
「坊ちゃん」
何も言わずにじっと見ている景虎の膝を、藤菜が優しく叩く。
「よく……似合っている」
「あ、ありがとうございます」
景虎の視線を意識するだけで、頬が火照る。
「本当に。二人とも初々しい。まるで初恋を覚えてたての子どもよう。ホホホホ」
呆れまじりに藤菜が呟くと、景虎は咳払いをして「余計なことを言うな」と言う。
「これは申し訳ございません」
「藤菜、車で送る」
「路面電車の駅まででいいですよ、坊ちゃん。そこからは一人で帰れますので」
「だが」
「パーティーに遅れてはいけません」
「分かった」
途中で藤菜を駅で降ろしてから、景虎は沙苗に気を遣ってゆっくり自動車を走らせてくれた。
日が沈むと、背の高い建物に切り取られた夜空には、里から見るよりも光の乏しい星が一つ二つと光り始める。
――街が明るすぎるからかな。
街路灯は煌々と明るく、人手の多い通りはまるで真昼のように明るい。
帝都は昼には昼の、夜には夜の顔をそれぞれ持ち、顔を変えながら一日中、眠ることを知らない別世界のようなものだ。
「パーティーの場に出るのははじめてだろうから、こつを教える」
「こつ?」
「会話には適当に相槌を打っていればいい。お前は会話は得意ではないだろうから、聞かれたことに対して答えておけ。自分から積極的に話さなくても向こうから話しかけてくれるし、向こうが一方的にぺらぺらと喋る」
「とはいえ、うまくできるでしょうか」
「会場では、お前のそばから離れないようにするから安心してくれ」
「ありがとうございます」
「いや、俺が出席を頼んだんだ。俺のほうこそ、来てもらってありがたいと思ってる」 景虎の声は、胸に染みこむように優しかった。
自動車がとある洋風建築の前に止まった。
建物の前にはいくつもの馬車が止まり、そこから身だしなみを整えた男女が出てきては、建物の中へ吸いこまれていく。
「ここだ」
沙苗たちは自動車を降りる。
周りの客たちはみんな、男性が女性の手を引いているが、沙苗たちの間にそれはない。
あれはエスコートというのだと景虎から事前に教えられた。
自分たちはふれあえない。仕方がないと分かっていながら寂しいと思ってしまうのだから困ったものだ。
――私が普通の人間であったなら。
この手を景虎に握ってもらい、一緒に会場へ行けるのに。
そんな風なことをつい考えてしまう。
――いけない。集中しないと。
沙苗は変な考えを追い出す。
ここへ来たのは、景虎の仕事のためだ。
と、景虎が沙苗の手をじっと見つめていることに気付く。
「景虎様?」
景虎ははっとした顔をする。
「……手に、なにかついていますか?」
「いや、何でもない。行こう」
――どうしたのかな。
景虎も少し緊張しているのだろうか。
景虎に限ってそれはないか。
責任ある立場だから、色々と考えなければいけないことがあるだけだろう。
鹿鳴館は一階に食堂や談話室が、そして二階が舞踏会場になっている。
今日はあくまで舞踏会ではなく、パーティーということもあり、そこかしこで様々な人たちが話をしていた。
建物の中はきらびやかさで包まれていた。
天井から下がる照明、場内をいろどる豪奢な装飾の数々。
そしてそこに並ぶ、内装や装飾にも負けない美しい装いの女性たちを前に、気後れを覚えてしまう。
肉食動物の檻に投げ込まれた小動物よろしくびついている沙苗に比べ、景虎の堂々として、洗練されている立ち振る舞いには、さすがに目を奪われる。
胸で輝く勲章や、その切れ長の赤い瞳に、背中に流した白銀の髪。
他の男性たちとは一線を画した存在だ。
「安心しろ。ここにいるどの女性たちより、お前は綺麗だ」
「! 景虎様……」
「胸を張れ。俯いていては、この場の雰囲気に流されるだけだ。自信をもて。藤菜も褒めていただろう」
――そうよ。藤菜さんの太鼓判があるんですもの。
藤菜が自動車から下りる際、沙苗の耳元で『笑顔を忘れないでくださいね。沙苗さん、あなたは素敵ですよ』とわざわざ言ってくれたのだ。
背筋を丸めていてはこれまでと同じ。装いが違うだけで、心は座敷牢時代と何ら変わらない。そんなことでは着付けをしてくれた藤菜に、わざわざ着物を買ってくれた景虎に申し訳がない。
沙苗の立ち振る舞いは、それこそ同伴している景虎の名誉にも直結するのだから。
あんな女を嫁にもらうことになって天華家は大丈夫かと思われでもしたら、申し訳がたたない。
顔を上げ、背筋を伸ばし、にこりと微笑む。
「そうだ。笑っているほうがずっと素敵だ」
「! は、はい……」
素敵という言葉に、沙苗は頬をそめた。
景虎の容姿はこんな大勢の人たちの中に埋没することがない。それどころか人が多ければ多いほど、その存在感は増すように見える。
「俺の数歩後を歩くようにしろ」
「分かりました」
人々がまるで花の香りに吸い寄せられるように、景虎に集まってくる。
その数の多さに沙苗は面食らってしまうが、景虎は馴れたもので自然に応じる。
「みなさん、お会いしたかった」
――景虎様!?
表向き、ということを知っていなければ、言葉を失っていただろう。
沙苗の中にある景虎へに印象が全て塗り潰されるような、爽やかな笑顔。
女性たちは頬を桜色に染め、うっとりとした目で見つめる。
「景虎様はたしか婚約されたと伺いましたが」
「沙苗です」
景虎は虫も殺さぬ笑顔で、沙苗を紹介してくれる。
「沙苗でございます」
沙苗は深々と頭を下げた。
「ほう、さすがその方が勅命で……」
「たしか、春辻男爵家のご令嬢なのですよね」
――そんなことまで知られてるのね。
正直、見ず知らずの人間に自分のことを知られているということは薄気味の悪さしか感じない。
事前に教えられた通り、相づちを基本に、二言三言と質問に答えていると、相手のほうがどんどん喋
りだす。
自分たちはどこでどんな事業をしていて、こういうパーティーに出席するのは何度目で、ドレスや着物、宝石に関してはどれだけ高価で珍しいものか、金を積んで名工に特注された一点物であるかなどなどと、こちらが尋ねもしないのに、休むこともなく捲し立てるように話し続ける。
口べたな沙苗はただただ圧倒されてしまう。
――すごい。よくこんなに話すことが見つかるわ。
いちいち真剣に聞いていたら、それだけで気力と体力を奪われていたことだろう。
沙苗が笑顔で相槌を打つだけで相手は「景虎様の婚約者の方は聞き上手ですのね」と上機嫌になってくれる。
本当はほとんど話の内容は頭に入ってきていないことに罪悪感を抱いてしまう。
しかし大半の人たちの目当ては、景虎だ。
景虎は軽妙な会話と笑顔で女性を魅了しながら、男性たちとは経済や世界情勢について活発に議論していた。
沙苗が聞いてもちんぷんかんぷんだったが、あっという間に景虎が男女関係なく人々の心を掴む一部始終を見て感嘆せずにはいられなかった。
そしてようやく人の波が切れる。
沙苗は肩で息をしながら会場の片隅へ避難する。
「疲れただろう」
「す、少し……。景虎様こそ、私以上にたくさんの人たちとお話をされていましたけど、大丈夫でしたか?」
「もう馴れた」
景虎はさらっと言ってのけた。
「もう切り上げよう」
「よろしいのですか?」
「十分役割は果たした。さっさと家に帰り、お前と静かに過ごしたい」
「え……」
「何だ?」
自然にこぼれた言葉だったのだろう。景虎は小首をかしげる。
沙苗は自分が過剰に反応してしまったことが恥ずかしい。
「わ、私もそうしたいと思っていたところです」
「なら行こう」
そこに、「景虎っ」と声がかかった。
振り返ると、でっぷりと太った男性がこちらへ駆け寄ってきた。
「少将、どうされたのですか」
景虎はさっきまで見せていた屈託ない笑顔ではなく、いつもの無表情で応じる。
つまり、景虎の素を知っている人ということだ。
「そちらは?」
「婚約者の沙苗です」
「沙苗でございます」
「はじめてましてお嬢さん。可憐でお美しい。少し景虎を借りてもよろしいですか?」
しかし景虎はその場から動こうとしない。少将、と呼ばれた男性が怪訝な顔になる。
「さっさと来い」
「申し訳ありません。今帰るところです」
「何を言っている。先生方と顔を合わさず帰るつもりか? 馬鹿を言うなっ」
「では、沙苗も一緒に」
「なにをふざけたことを……」
「私は真剣ですが。沙苗はパーティーの席には不慣れ。彼女の傍を離れるわけにはいきません」
「お嬢さんに政治の話は難しいし、相手はこの国の重要人物たちだ。国策について話すのだぞ」
「少将。私は……」
「私なら平気です」
沙苗は差し出がましいと思いつつ、口をはさんだ。
男はニヤッと笑う。
「というわけだ。お嬢さんの許可があるのだから問題ないだろう」
「景虎様。私に構わず、行ってください」
自分のせいでうまくいくべきものがいかなくなるのは、沙苗の望むところではない。
場内の雰囲気にも少しずつ馴れて来た。一人で待つことくらい別に苦ではない。
景虎は小さく溜息を漏らした。
「すぐ戻る。ここで待て。どこにも行くなよ」
「子どもではないんですから」
「……そうだな」
それでも心配なのか、景虎はちらちらとしきりに沙苗を気にしながらも、男性と一緒に人混みの中に消えていく。
とはいえ、人に話しかけられても困るので、壁際の椅子に座って休ませてもらうことにする。
場内では本当に色々な人たちがいて、難しい話をしている。
「三洋が汽船事業に進出するぞ」
「は? 嘘だろ」
「本当だって。木之元汽船、買収されただろ。あれだよ」
「買収したのは三洋じゃなかっただろ」
「汽船で働いてる知り合いが、三洋の役員を事務所で見かけたらしい。他社から警戒されないよう、買収するための会社をわざわざ立ち上げたんだよ。油断してる他社を一気に出し抜こうって腹づもりらしい」
「ってことは、次は三洋に投資かぁ」
耳に入ってきた話はちんぷんかんぷんだ。
しかし男たちはニヤニヤしながらそういう話をそこかしこでしている。何に投資するべきか、次に流行るものは何か、新規事業を立ち上げたいかどの分野にするべきか。
何もかも、沙苗には無縁なこと。
「――あれぇ、もしかして、お姉様?」
その声を聞いた瞬間、背筋にぞくりとしたものが走り抜け、顔を上げた。
沙苗は自分の目を疑った。
「か、薫子……」
そこには緑色の洋装姿の薫子がいたのだ。
彼女は山高帽に紺色の洋装姿の男の腕に寄り添っていた。
「ど、どうしてあなたが……」
「どうしてって……。私も結婚してこっちに来てるの。ね、嘉一郎さん」
甘えた声で名前を呼ばれた男性は頷く。
「君が、薫子のお義姉さん? はじめまして。百瀬嘉一郎と言います」
嘉一郎と名乗った青年は人の良さそうな笑みを浮かべる。
赤みがかった髪に、灰色がかった眼差し。
笑顔ではあるけれど、どこか軽薄そうな印象を抱いてしまう。
その点、愛らしい笑顔の裏に夜叉のような本性を隠している薫子とよく似ているような気がした。
「……百瀬、さん。はじめまして」
「嘉一郎さん、貿易を営んでいる会社をしていてね。その関係で、こうしてお呼ばれされたのよ」
聞かれてもいないことを薫子はべらべらと喋る。その何気ない会話一つとっても耳障りだった。
「お姉様はどうして?」
「……か、景虎様と一緒にきているの」
「で、その景虎様は?」
薄ら笑いを浮かべながら薫子が聞いてくる。
「上役の方と席を外されているわ」
「じゃあ、おいてけぼりを食らったのね」
言葉の端々に、沙苗への嘲笑が滲んでいる。
彼女の声を聞くだけで身が竦んだ。
「違うわ……。私が、私に構わず話してきてくださいと言ったの」
「ハハ、強がるんじゃないわよ。あんたたちがここに来た時の姿を見てたけどさぁ、ほーんと添え物って無様な姿だったわよね。許嫁でありながら、あんなに距離を取られちゃって……みーんな、こうして男性が女性に付きそうのが礼儀だっていうのに、そんなことさえしてもらえないとか、あ・わ・れ」
――あれは景虎様とふれあったら、私が傷つくから……気を遣ってくださってるのよ。
そう思っても口にはできない。ただ黙ってることしかできないのが悔しい。
「せっかく、こうして出会えたんだから、お庭で話さない?」
「……景虎様にはここで動くなと言われてるの。話ならここでだってできるでしょ」
「少しくらいいいでしょ」
「や、約束したの」
耳元に、薫子が口を寄せる。
「なに逆らってるわけ? 座敷牢に閉じ込められてた化け物の分際で。ここで今すぐ、あんたが化け物だって暴露してやってもいいのよ」
そんなことをすれば春辻の家にも打撃があることだ。
本当にそんなことをするつもりなどない、ただの脅しだと理解しながらも、逆らえない。
「……少しだけ、よ」
「さあ、行きましょう」
こんな状況で笑顔なんて浮かべられるはずもない。
沙苗は惨めな気持ちになりながら、二人の後ろをまるで使用人のようについていくことしかできなかった。
肌寒い晩で、庭先には誰もいない。
「さてと。座敷牢で生まれ育った化け物にしては、うまくやってるみたいじゃない。何も知らなかったら、ただの人間にしか見えな
い」
薫子が頭の爪先から天辺まで舐めるように見つめてくる。
「……私だって、人間よ」
「口答えをするんじゃないわよ。人間って、半分だけでしょ。で、もう半分があやかし。狩人に首を斬られるべき化け物」
鋭い声に、びくっとしてしまう。
それが愉快そうに薫子は笑う。
「そうよね。背筋を伸ばして笑顔をふりまくより、その怯えきった顔が化け物らしくって、お似合いよ」
呼吸が苦しくなる。見えない手で心臓を鷲掴みにされるような気分になってしまう。
掌が汗でべちょべちょになる。
「ま、あんたたちお似合いだったわよ。心の壊れた怪物と、半妖っていう組み合わせが。ね、嘉一郎さん」
「ああ、似合いの仲だった」
――心の壊れた怪物? 景虎様のこと?
「それ……どういう意味なの」
「なにが?」
「心の、壊れたって……」
薫子は勝ち誇るような笑みを浮かべた。
「やっぱり知らなかったのね。あんたの夫になる男はね、昔、あやかしに家族を皆殺しにされたの。あの男もあやかしに襲われながらも、半死半生になりながら生き残った。それ以来、あいつの心は壊れたって話よ」
「景虎様のご家族……」
どくどくと心臓が嫌な音をたてている。
「だからねぇ、あんた、半妖じゃないってばれなくてもいずれ殺されるかもよ、あの男にさ」
「!」
「もし、あんたがどうしてもって言うなら、うちの使用人として雇ってあげないこともないんだけど、どうするぅ? あ、これ、あんたが一応、私の腹違いの姉だから、親切心で教えてやってるんだからねぇ?」
――親切心? どこがよ!
薫子が、沙苗の心を傷つける目的で、告げたことは明らかだ。
「景虎様は、とても賢くて、それに優しい……。壊れてるなんて出任せよっ」
ショートケーキを食べさせてくれたし、お弁当を美味しいと言ってくれた。お礼の手紙を返してくれたし、それに、沙苗が文字の読み書きのできないことを知っても笑わず根気強く教えてくれた。先見についてだって馬鹿にせず耳を傾けてくれた。
そんな人の心が壊れているはずがない。
過去の出来事の虚実については分からない。
でも景虎と過ごした数ヶ月の時間は嘘をつかない。
「なによ、その反抗的な目は!」
薫子が叩こうとその手を振り上げた。
「っ!」
沙苗は首をすくめ、目をぎゅっと閉じ、顔をかばう。
しかしいつまでも予想している衝撃はおとずれない。
「?」
おそるおそる目を開けると、振り上げられた薫子の右手首を、景虎が掴んでいた。
「姉に手をあげるのが、春辻の家風、か?」
※
――くだらん話だったな。
もちろん国の将来よりも、近いうちの占拠にしか興味のない政治屋どもと話して有意義であるはずもないのだが、抜け出すのに骨が折れた。
今出川はまだ景虎を引き留めたいようだったが、それとなく仕事をにおわすと政治屋の連中が手放してくれた。向こうのほうがよっぽど、空気が読める。
人でごった返すパーティー会場を、景虎は堂々とすすんでいけば、人混みのほうから勝手に割れてくれる。
この目立つ容姿も本当に時たまだが、役に立つこともある。
目に付くのが、手をつなぐ夫婦。
この場でのエスコートは当然のように行われている。
愛妾を多く囲っている政治屋も、仮面夫婦と名高い華族や政商どもも、誰も彼もが本心を隠しながら妻に腕を貸している。
――あんな連中にさえ容易くできることなのに。
いつも以上に美しい沙苗の姿に、目を奪われた。
呆けたようで一瞬、何と言えば分からず言葉に支えてしまったことが恥ずかしいと思うほど。
彼女のために手を差し出し、共に手を繋ぎたい。
あのしなやかな指を、温もりを感じたい。
しかしそれが叶わないことは分かっている。分かっているからこそ、考えてしまうのだろうか。
政治家たちと話している間も、沙苗のことばかり考えていた。
早く誰にも邪魔されない屋敷に戻りたい。
まだ午後八時を過ぎた頃だ。二人で過ごす時間はあるだろう。
いや、どこかに食事によって、付き合わせた礼をするべきだろう。
そこまで考えて、人混みの向こうで待っているだろう沙苗のもとへ戻るが、そこには誰もいなかった。
辺りを見回すが、沙苗の姿はどこにもいない。この人でごった返す会場でも、沙苗の姿を見失うはずがない。
景虎は沙苗のまとう、あやかしの気配を探る。
半妖という特異な彼女の気配はたどりやすい。
一つ屋根の下で暮らし、親しみ深いものになっている婚約者であればなおさら。
この気配をたどれば、彼女がどこへ行ったかは分かる。
我ながら過保護すぎるとは思う。彼女とて花を摘みに行ったかもしれないし、好奇心に駆られて館内を見て回っているだけかもしれない。
なのに、いなくなった途端、景虎の胸を焦燥が襲うのだ。
庭へ回ると話し声が聞こえてくる。
男女の前に、沙苗がいた。
彼女はこれまで見たことがないくらい怯えきった顔で頭をかばう。女のほうが、沙苗を叩こうと手を振り上げているところだった。
――あいつ、春辻の次女か。
里へ沙苗を迎えに行った時、景虎に対して馴れ馴れしく接してこようとしたことを思い出す。
景虎はその手を強く握り締める。
「姉に手をあげるのが、春辻の家風、か?」
「か、景虎様……」
「沙苗、もう大丈夫だ。今なにをしようとしていたっ」
「おい、あんた」
洋装姿の男が声を上げた。
「邪魔だッ」
冷たく一瞥すると、「ひっ」と優男は顔を青ざめさせ、後退った。
「い、痛い……!」
手首に力をこめると、女が顔を歪めた。里で会った時も不快極まりない女だったが、まさか姉に対して平然と手をあげるとは。
「離して上げて下さい……」
苦しげな沙苗の声に、突き飛ばすように手を離す。
「さっさと失せろ」
よろめいた春辻の次女を男が支えると、二人は逃げるように走り去っていく。
すぐに二人のことなど意識の外に追い出した景虎はしゃがむ。
沙苗は尋常な様子ではなかった。脂汗が浮かび、そして胸を押さえて、呼吸が荒い。
「立てるか? 辛いようなら誰かを呼ぶ」
――こんな時にも手をかして立ち上がらせることもできないなんて。
「……だ、大丈夫です。少し休めば」
しばらく休むと、沙苗はいくらか顔色がよくなってきて、立ち上がった。
「もういいのか?」
「……はい」
景虎は沙苗と距離を開けるようにして、歩き出す。
「ど、どうしてあなたが……」
「どうしてって……。私も結婚してこっちに来てるの。ね、嘉一郎さん」
甘えた声で名前を呼ばれた男性は頷く。
「君が、薫子のお義姉さん? はじめまして。百瀬嘉一郎と言います」
嘉一郎と名乗った青年は人の良さそうな笑みを浮かべる。
赤みがかった髪に、灰色がかった眼差し。
笑顔ではあるけれど、どこか軽薄そうな印象を抱いてしまう。
その点、愛らしい笑顔の裏に夜叉のような本性を隠している薫子とよく似ているような気がした。
「……百瀬、さん。はじめまして」
「嘉一郎さん、貿易業を営んでいてね。その関係で、こうしてお呼ばれされたのよ」
聞かれてもいないことを薫子はべらべらと喋る。その何気ない会話一つとっても耳障りだった。
「お姉様はどうして?」
「……景虎様ときているの」
「で、その景虎様は?」
薄ら笑いを浮かべながら薫子が聞いてくる。
「上役の方と席を外されているわ」
「じゃあ、おいてけぼりを食らったのね」
言葉の端々に、沙苗への嘲笑が滲んでいる。
彼女の声を聞くだけで身が竦んだ。
「違うわ……。私が、私に構わず話してきてくださいと言ったの」
「ハハ、強がるんじゃないわよ。あんたたちがここに来た時の姿を見てたけどさぁ、ほーんと添え物って無様な姿だったわよね。許嫁でありながら、あんなに距離を取られちゃって……みーんな、こうして男性が女性に付きそうのが礼儀だっていうのに、そんなことさえしてもらえないとか、あ・わ・れ」
――あれは景虎様とふれあったら、私が傷つくから……気を遣ってくださってるのよ。
そう思っても口にはできない。ただ黙ってることしかできないのが悔しい。
「せっかく、こうして出会えたんだから、お庭で話さない?」
「……景虎様にはここで動くなと言われてるの。話ならここでだってできるでしょ」
「少しくらいいいでしょ」
「や、約束したの」
耳元に、薫子が口を寄せる。
「なに逆らってるわけ? 座敷牢に閉じ込められてた化け物の分際で。ここで今すぐ、あんたが化け物だって暴露してやってもいいのよ」
そんなことをすれば春辻の家にも打撃があることだ。
本当にそんなことをするつもりなどない、ただの脅しだと理解しながらも、逆らえない。
「……少しだけ、なら」
「良かった。じゃ、行きましょう」
こんな状況で笑顔なんて浮かべられるはずもない。
沙苗は惨めな気持ちになりながら、二人の後ろをまるで使用人のようについていくことしかできなかった。
肌寒い晩で、庭先には誰もいない。
「さてと。座敷牢で生まれ育った化け物にしては、うまくやってるみたいじゃない。何も知らなかったら、ただの人間にしか見えない」
薫子が頭の爪先から天辺まで舐めるように見つめてくる。
「……私だって、人間よ」
「口答えをするんじゃないわよ。人間って、半分だけでしょ。で、もう半分があやかし。狩人に首を斬られるべき化け物」
鋭い声に、びくっとしてしまう。
それが愉快そうに薫子は笑う。
「そうよね。背筋を伸ばして笑顔をふりまくより、その怯えきった顔が化け物らしくって、お似合いよ」
呼吸が苦しくなる。見えない手で心臓を鷲掴みにされるような気分になってしまう。
掌が汗でべちょべちょになる。
「ま、あんたたちお似合いだったわよ。心の壊れた怪物と、半妖っていう組み合わせが。ね、嘉一郎さん」
「ああ、似合いの仲だ」
――心の壊れた怪物? 景虎様のこと?
「それ……どういう意味なの」
「なにが?」
「心の、壊れたって……」
薫子は勝ち誇るような笑みを浮かべた。
「やっぱり知らなかったのね。あんたの夫になる男はね、昔、あやかしに家族を皆殺しにされたの。あの男もあやかしに襲われながらも、半死半生になりながら生き残った。それ以来、あいつの心は壊れたって話よ」
「景虎様のご家族……」
どくどくと心臓が嫌な音をたてている。
「だからねぇ、あんた、半妖じゃないってばれなくてもいずれ殺されるかもよ、あの男にさ」
「!」
「もし、あんたがどうしてもって言うなら、うちの使用人として雇ってあげないこともないんだけど、どうするぅ? あ、これ、あんたが一応、私の腹違いの姉だから、親切心で教えてやってるんだからねぇ?」
――親切心? どこがよ!
薫子が、沙苗の心を傷つける目的で、告げたことは明らかだ。
「景虎様は、とても賢くて、それに優しい……。壊れてるなんて出任せよっ」
ショートケーキを食べさせてくれたし、お弁当を美味しいと言ってくれた。お礼の手紙を返してくれたし、それに、沙苗が文字の読み書きのできないことを知っても笑わず根気強く教えてくれた。先見についてだって馬鹿にせず耳を傾けてくれた。
そんな人の心が壊れているはずがない。
過去の出来事の虚実については分からない。
でも景虎と過ごした数ヶ月の時間は嘘をつかない。
「なによ、その反抗的な目は!」
薫子が叩こうとその手を振り上げた。
「っ!」
沙苗は首をすくめ、目をぎゅっと閉じ、顔をかばう。
しかしいつまでも予想している衝撃はおとずれない。
「?」
おそるおそる目を開けると、振り上げられた薫子の右手首を、景虎が掴んでいた。
「姉に手をあげるのが、春辻の家風、か?」
※
――くだらん話だったな。
もちろん国の将来よりも、近いうちの選挙にしか興味のない政治屋どもと話して有意義であるはずもないのだが、抜け出すのに骨が折れた。
今出川はまだ景虎を引き留めたいようだったが、それとなく仕事をにおわすと政治屋の連中が手放してくれた。向こうのほうがよっぽど、空気が読める。
人でごった返すパーティー会場を、景虎は堂々とすすんでいけば、人混みのほうから勝手に割れてくれる。
この目立つ容姿も本当に時たまだが、役に立つこともある。
目に付くのが、手をつなぐ夫婦。
この場でのエスコートは当然のように行われている。
愛妾を多く囲っている政治屋も、仮面夫婦と名高い華族や政商どもも、誰も彼もが本心を隠しながら妻に腕を貸している。
――あんな連中にさえ容易くできることなのに。
いつも以上に美しい沙苗の姿に、目を奪われた。
呆けたようで一瞬、何と言えば分からず言葉に支えてしまったことが恥ずかしいと思うほど。
彼女のために手を差し出し、共に手を繋ぎたい。
あのしなやかな指を、温もりを感じたい。
しかしそれが叶わないことは分かっている。分かっているからこそ、考えてしまうのだろうか。
政治家たちと話している間も、沙苗のことばかり考えていた。
早く誰にも邪魔されない屋敷に戻りたい。
まだ午後八時を過ぎた頃だ。二人で過ごす時間はあるだろう。
いや、どこかに食事によって、付き合わせた礼をするべきだろう。
そこまで考えて、人混みの向こうで待っているだろう沙苗のもとへ戻るが、そこには誰もいなかった。
辺りを見回すが、沙苗の姿はどこにもいない。この人でごった返す会場でも、沙苗の姿を見失うはずがない。
景虎は沙苗のまとう、あやかしの気配を探る。
半妖という特異な彼女の気配はたどりやすい。
我ながら過保護すぎるとは思う。彼女とて花を摘みに行ったかもしれないし、好奇心に駆られて館内を見て回っているだけかもしれない。
なのに、いなくなった途端、景虎の胸を焦燥が襲うのだ。
――外に出たのか?
庭へ回ると話し声が聞こえてくる。
男女の前に、沙苗がいた。
彼女はこれまで見たことがないくらい怯えきった顔で頭をかばう。女のほうが、沙苗を叩こうと手を振り上げているところだった。
――あいつ、春辻の次女か。
里へ沙苗を迎えに行った時、景虎に対して馴れ馴れしく接してこようとしたことを思い出す。
景虎はその手を強く握り締める。
「姉に手をあげるのが、春辻の家風、か?」
「か、景虎様……」
「沙苗、もう大丈夫だ。今なにをしようとしていたっ」
「おい、あんた」
洋装の男が声を上げた。
「邪魔だッ」
冷たく一瞥すると、「ひっ」と優男は顔を青ざめさせ、後退った。
「い、痛い……!」
手首に力をこめると、女が顔を歪めた。里で会った時も不快極まりない女だったが、まさか姉に対して平然と手をあげるとは。
「離して上げて下さい……」
苦しげな沙苗の声に、突き飛ばすように手を離す。
「さっさと失せろ」
よろめいた春辻の次女を男が支えると、二人は逃げるように走り去っていく。
すぐに二人のことなど意識の外に追い出した景虎は、座り込んだ沙苗と目線を合わせるようにしゃがむ。
沙苗は尋常な様子ではなかった。脂汗が浮かび、そして胸を押さえて、呼吸が荒い。
「立てるか? 辛いようなら人を呼ぶ」
――こんな時に、手をかして立ち上がらせることもできないなんて。
「……だ、大丈夫です。少し休めば」
しばらく休むと、沙苗はいくらか顔色がよくなってきて、立ち上がった。
「もういいのか?」
「……はい」
景虎は沙苗と距離を開けるようにして、歩き出す。
※
「怪物めっ」
去って行く景虎を睨み付けた嘉一郎は吐き捨て、洋酒をぐっと呷る。
それから、薫子のあざのついた手首をさする。
「平気か?」
「へ、平気なわけないでしょ。あんな怪物に触られたのよ……。どうしてやり返してくれなかったのっ」
「し、仕方ないだろ。相手は軍人だ。殴りかかったところでこっちに勝ち目はない。それに、君だっていたんだぞ。もっと酷い目にあわされてたかもしれないんだ……」
「あんな女の前で、恥をかかされるなんて!」
「それにしても、半妖って言っても普通の人間と変わらないな。お前を前にして、あの半妖、顔を青くして震えてたぜ?」
「そんなことないわ。お父様によると、とんでもない不幸を招いたって言ってたもの」
「あれが? そうは見えないが」
「まだあの化け物が子どもだった頃、里の誰かが死ぬとか、干ばつが来るとか、座敷牢でそんな夢を見たって女中に言ったんですって。でもそんなこと取り合わずに無視してたら、そのままの出来事が実際に起こったらしいわ。きっとあの化け物に流れるあやかしの血が不幸を招き寄せたのよ」
「……そうとも言えないんじゃないか?」
薫子は、嘉一郎が突然何を言い出すのかと、訝しそうな顔をする。
「何? 信じないの? 確かよ」
「いや、嘘をついてるって言いたいんじゃない。こうだって考えられるだろう。あの化け物が、未来を予知したって」
「冗談でしょ。だって、それ以降、何も言い出さなかったのよ」
「それは何を言っても、気味悪がられたり、お前のせいだと罵られたりしたら、その夢を見ても言わなくなるだろう」
「……もし未来を予知したら何だっていうの?」
「もし本当に予言ができるなら、仕事に使えると思ってな」
「あの半妖を?」
「今後、世界で何が起きるのか、どんな分野に投資すれば儲かるのか、そういうことが分かれば……」
「いやよ。あんな化け物にお願いするなんてありえない」
「おいおい、化け物に頭なんて下げる必要ないだろ」
「じゃあどうするの?」
「怖がらせて、従わせるんだよ」
嘉一郎の呟きに、薫子の口元に大きな笑みが浮かび上がった。
「それ、いいかも! 生意気にあんな上等な着物や簪までつけちゃって、化け物が調子のるなんて許せないもの。ちゃんと、身の程を弁えさせないと!」
「おいおい、壊したりするなよ。金の卵を産むガチョウになるかもしれないんだ」
「分かってるわ。でもあれは化け物だし、痛めつけてやったほうが従順になるわよ、きっと」
「問題はあの軍人のほうだな。さすがに婚約者が行方知れずになれば、面倒なことになるかもしれない……」
「そんなことないわよ。見たでしょ。会場の二人。あんな離れてるのよ。勅命があるから一緒にいますって宣伝して歩いているようなものじゃない。浮気してる人だってああいう公の場所では、妻の仲睦まじいふりをするものよ」
「だが、お前が姉を殴ろうとした時には、止めにはいったぞ。俺まで今にも殺しそうな勢いで……」
「じゃあ、諦めるわけ?」
「まさか」
「なら腹をくくらないと。あの化け物が行方知れずになったって、私たちが関わってるなんて分かるはずがないでしょ」
「……それもそうだな。問い詰められたところで証拠なければ、いくらかあの男でも無茶はできないか」
薫子に叱咤され、嘉一郎は不敵な笑みを浮かべた。
沙苗は物心がついた時にはもう、座敷牢に入っていた。
どうしてここにいるのか、どうして誰も来てくれないのか、そして最低限の世話をしにくる女中たちがどうして自分のことをそこまで嫌うのか、何も分からなかった。
「おとうさま……おとうさまぁ……」
舌足らずな声で父の名を呼ぶが、誰も応えてはくれない。
夜になれば、離れは真っ暗で月明かりくらいしかまともな光がない。
離れのそこかしこには光の届かない暗所があり、そこから何か得体のしれない怪物が現れるような悪夢にうなされては夜中に飛び起き、泣き叫んだ。
沙苗が泣き出すと、本宅から女中が足音をどたどたといわせながら、やってくる。
「あんたが泣くせいで旦那様や奥様が眠れないじゃない!」
「お、おねがい……こわいの……いっしょにいてぇ……」
「誰があんたみたいな化け物と眠るものですか!」
「わ、わたし、ばけものじゃない……」
「いいや、化け物だよ!」
女中は懐から手鏡を出して来たかと思うと、それで沙苗の長く伸びた前髪を乱暴に掴むと、たくしあげ、左目を露わにさせた。
心臓が飛び出してしまいそうなほど、沙苗は驚いた。
右目は普通の人間なのに、左目だけが、金色で猫のように黒い筋が一本、入っていた。
「いやあ……!」
怖くて顔を背けてしまう。
「分かっただろう! お前は化け物なんだよ!」
扉が開けられ、乱暴に腕を掴まれて引きずり出されると、泣く力がなくなるくらいまで叩かれ、「今度、泣きわめいたら殺すわよ!」と脅された。
夜中に泣きわめいた罰だと食事を抜かれ、泣くことも、眠ることもままならず、沙苗の幼い心は少しずつ色をなくしていった。
※
沙苗が目を開けると、自分がどこにいるか一瞬わからず、混乱した。
薫子に叩かれそうになったのを、景虎が止めてくれた。
――それから……?
その先の記憶が曖昧だった。
でも今、見えているのは屋敷の部屋の天井。
沙苗が目覚めたことに気付いた木霊たちが、わらわらと集まってくる。
「みんな」
心配してくれたのが伝わってくる。
「うなされてた? 本当に?」
たしかに嫌な夢は見た。幼い頃のことを夢に見るのは久しぶりだ。
――きっと、薫子と会ったせいね……。
「本当だ」
「景虎様!?」
声のするほうを見ると、景虎が壁に背をもたれるように胡座をかいていた。
「お前がうなされているのに気付いて、心配になったんだ」
「薫子たちと話してからの記憶が曖昧なんですけど……私、自分の足で歩けたんですか?」
「木霊たちに支えられて、な」
景虎は苦いものを呑み込んだような顔をする。
「……景虎様は仕方ありません! 触れないのですからっ!」
「分かっている。でもだからと言って不甲斐なさは消えない……」
景虎は手巾を差し出してくる。
「使え」
「え?」
「……涙を流していた」
「あ、ありがとうございます……」
沙苗は受け取ると目尻に滲んだ涙をそっと拭った。
「飲み物は? 茶くらいなら俺でも淹れられるが」
「大丈夫です。ありがとうございます……」
「他にできることはあるか?」
「……しばらく、ここにいてくださいますか?」
「それだけでいいのか?」
「はい」
沙苗は小さく頷いた。
本当は彼の温もりを感じたかった。胸が締め付けられるような寂しさを忘れたかった。
でもそれは叶わないのなら、せめて景虎にここにいて欲しかった。
それだけでも安心できるから。
木霊たちが励ますように体の上に乗って、飛び跳ねたり、組み体操をしたりして、沙苗を笑わせようとする。
「本当ににぎやかな連中だな。これまで多くのあやかしを見てきたが、本当の意味で人間じみた行動をとるあやかしは初めてだ」
「本当の意味?」
「あやかしは人を騙したり、たぶらかすため、己の欲を満たす為に人間の真似をする。でもそいつらはお前を励ますために行動している」
「小さな頃の私を、こうして励ましてくれたんです。大切な友だちですから」
「いい友を持ったな」
「はいっ」
景虎は優しそうに目を細めた。
景虎との間に会話はなかったが、不思議と気まずさはなかった。
一緒の空間にいてくれる、ただそれだけのことなのにとても心強かった。
――本当に愛してくれていると勘違いしてしまいそう。
そんなことはないのは分かっているが、それでも構わない。
景虎が安らぎをくれる。そのことが沙苗にとっては重要だ。
だからこそ、彼に秘密を持ちたくなかった。
沙苗は布団の上にのっかる木霊たちに、「ごめんね」と言ってどいてもらう。
そして布団から抜け出し、景虎と向き合う。
「どうかしたのか?」
「……景虎様、お話がございます。実は、妹から……景虎様のことを聞いてしまいました……申し訳ございません」
沙苗はその場で深々と頭を下げた。
「俺の?」
「……ご家庭のこと、です」
どう思われるだろう。たとえ沙苗が自分の意思で聞いたわけでないにせよ、景虎にとっては決して触れられたくないことのはず。それを愛してもいない、ただ形ばかりの夫婦関係を結んでいるにすぎない沙苗に知られ、不愉快に思うだろう。
もちろん黙っていれば分からないのだから、聞かなかったふりはできる。
しかしこんな大変なことを知ってしまったら、知らないふりをするのは不実のように思えた。
もしそれがでたらめであればそれで構わない。でも本当だったら。
たった一人で耐えている彼の心を支えたい。それが許されないのであれば、せめて寄り添いたかった。たとえ独りよがりだったとしても、沙苗を受け入れてくれた景虎のために何かしたい。
「顔を上げろ」
「……はい」
「どこまで聞いた」
景虎の声はいつも通り淡々として、その胸の内は分からない。
「ご家族をあやかしに殺された、と……」
「そうか」
「申し訳ありません」
「謝るな。お前が聞きたくて聞いたことではないのだろう。それに、お前が天華の家に入るのなら、いつかは話さなければならないと思っていたことだ」
景虎は何かを思い出すようにかすかに目を上げ、部屋の片隅に凝った闇をじっと見つめた。
天華家は代々、優秀な狩人を輩出する名門だ。
先祖は帝に近侍する大役を任され、あやかし退治だけでなく、身辺警護まで担っていた。
一族は栄え、日の本一の狩人と呼ばれた。
それは時代が武士の世から再び帝の統治に戻っても、変わることがなかった。
この屋敷には天華の家族の他、十人ほどの住み込みの女中、通いを含めればもっと大勢の使用人が働いていた。
景虎は、天華家待望の嫡男だった。
二人目の懐妊が分かった瞬間、景虎の父、英真はいくつもの優秀な家門に祈祷までさせたほど。
新時代を迎えても、天華家の権威も栄華も陰ることがないと、誰からも羨まれる存在だった。
実際、景虎は将来を嘱望されるだけの強い霊力を持ってうまれた。
家族中は良かったと思う。祖父母、両親に姉。
景虎は物心がつく前から父の手ほどきをうけ、己の中の霊力を磨き上げる厳しい修行をおこなった。
体が傷つくのが当たり前のような修行だったが、決して弱音は吐かなかった。
それは物心がつくときから教えられてきた、天華家のこの国における役割、そして自分たち狩人の双肩にこの国で生きる人々の命がのっているという責務の重さを、幼いなりに理解していたからでもあった。
なにより怖ろしいあやかしを前にしても決して怯むことなく、己の一命をなげうっても討伐をする父への憧れ。
だからどんなに厳しい指導でも耐えられた。でも耐えられたのは憧れだけでなく、猫かわいがりする母と姉がいたから、ということもあったと思う。
景虎は自分で思うが、かわいげのない子どもだった。大人びていて、子どもらしいところは見た目だけで、滅多に笑わない。
別の家門の人間たちから大人びていると言われる一方、不気味だと陰口を叩かれていることも知っていた。
でも母と姉はそんなことなどお構いなく、子どもとして扱ってくれた。
父は寡黙な人で、家の中でも外でも無駄口を叩くことはなく、必要最低限の言葉しか言わなかった。
それとは反対に、母や姉はいつも喋っているよう人たちで、景虎が口を挟む余地もないほどだった。そんな明るい女性陣のおかげで、天華家はいつも明るく、温かな空気に包まれ、景虎もその居心地の良さを楽しんでいた。
厳しい父と、明るい母と姉に囲まれながら、景虎は人間としても狩人としても成長していった。
天華家の血と、景虎の不断の努力によってわずか十三歳という若年にして、大人顔負けの霊力を発揮し、あやかし討伐も父と共にこなせるようになっていた。
他の家の者たちと一緒に仕事をする機会も多くなり、他家の次代を担う同年代の少年少女たちと行動を共にすることも多くなったが、彼らを前にして、ぬるいと思うことも少なくなかった。
どうしてそんな簡単なこともできないのか、どうしてもっと向上心を持って臨めないのか。景虎は決して自分に甘い類いの人間ではなかったが、同年代のぬるさを前に呆れ、自分がいかに優れていたかを自覚してしまった。
景虎はわずか十五歳にして、一人であやかし討伐を請け負うことになった。
普通は成人である十八歳を迎えるまでは、あやかし討伐には一族の年長者が同伴につくのが習いだった。
しかし十五歳にして、十を超えるあやかしの討伐の実戦を経験していた景虎は早く独り立ちがしたかった。
当代随一の狩人と謳われる父と肩を並べる、いや、それ以上の存在になりたかった。
さすがは天華家の嫡男だ、と言われたかったし、かつて嘲笑した家門たちを跪かせたいという気持ちもあった。
父は悩んだ末に、一族の者を後詰めに配置した上で、あやかし討伐を景虎ひとりに任せるという判断をした。
父の期待を裏切らぬため、万全の準備で景虎は挑んだ。
あやかしの住処は、帝都から二時間ほど南にいった先にある廃寺。
一族の者が寺の周囲に結界を張り巡らせ、あやかしを逃がさぬようにすると同時に、少しでも危機に見舞われた時には助太刀に入ろうと構えた。
景虎の前に現れたのは鬼だった。鬼はあやかしの中でも最上位に入る。
助けに入ろうとする一族の人間を制し、景虎は鬼と戦った。
最初は相手が子どもと侮っていたが、数合打ち合っただけで景虎の並々ならぬ力を察したようだった。
鬼は逃げようとしたが、結界に阻まれ、果たせなかった。
景虎は鬼の腕や足を斬り刻み、最後にその心臓に刃を突き立てた。
はじめてのあやかし討伐、それも鬼を無事に討伐することに成功した景虎の武名はますます轟き、帝の耳にもやがて達した。
景虎は父と共に参内し、帝より直々に言葉をかけられ、褒美を与えられた。
鬼を討てれば手練れの狩人と言われる世界だ。
景虎は有頂天だった。
しかしそれで油断するほど景虎は愚かではなく、ますます場数を踏み、厳しい修行で研鑽に励んだ。
だが当時の景虎はあやかしがいかに狡猾なのか知らなかった。
鬼は完全に死んではいなかったのだ。
復讐の機会を果たそうと、何も知らぬ景虎たちを監視し続けた。
屋敷には普段から、天華一族に伝わる強力な結界が張り巡らされ、どんなあやかしもその結界を無傷で通ることなできなかった。
当たり前だが、結界はあくまであやかしのためで、普通の人間が影響を受けることはなかった。
鬼はそこに目を付け、人になりすまして屋敷に出入りする女中の一人を籠絡した。
あやかしにとって人間の心を食い物にし、己の意のままに操るのは、呼吸をするのと同じことだった。
女中の心を虜にした鬼は、その女中に結界を内側より破壊することを命じた。
女中は自分が何をやらされているか、その結果、どんな災厄が訪れるかさえ、認識してなかっただろう。
そして惨劇が起こった。
誰かの悲鳴が屋敷中に響き渡る。
鬼は一匹ではなかった。景虎に殺されかけた鬼は仲間を語らい、襲撃してきた。
不意を突かれたことで、一族の者たちは満足に抗うことさえ出来ず、殺されていった。
寝ぼけ眼の景虎が目の当たりにしたのは、一面の血の海。
親しかった女中や、庭の手入れをしてくれている下男、子どもの頃に刀の稽古をつけてくれた気のいい一族の青年……見知った顔が虫の息で倒れていた。
むせかえるような血の臭気に吐き気を覚えながらも、誰か助けられないかと血の海に躊躇なく踏み出す。
『みんな!』
『わ、若様……』
虫の息の女中や青年が、すがってくる。
『どうか、お助けを……』
『し、死にたくありません……』
景虎は一人でも多くの人の身体をこの場から連れ出したかった。女中を背中におぶり、両手で男たちを引きずった。人ではなく、まるで重たく冷たい石にでも触れていると錯覚してしまいそうだった。
『景虎、何をしている!』
必死の形相の父が眼前に現れた。
『父上、みなを助けてください……ま、まだ間に合うかもしれません……っ』
父の顔が歪む。そんな切なげな顔をする父を見るのははじめてだった。
父はしゃがむと、景虎が背負い、引きずっている亡骸を手放させていた。
そうしている間も、屋敷のほうぼうからは戦いの気配を濃厚に感じた。
『景虎、逃げろ』
『いいえ、俺も戦います! 鬼ごときに後れは取りません……!』
『まだ生き残っている者たちがいる! 命を賭けるのなら、その者たちを守るために賭けよ!』
そこへ鬼が襲いかかってくる。父は景虎を突き飛ばすと、鬼の首をはねた。
『早くいけ!!』
襲いかかる鬼たち。傷を負いながら、必死に鬼たちを食い止める父。
景虎は父に背を向けた。それが父を見た最後だった。
奥座敷には母や姉、かろうじて生き残った女中たちが身を寄せ、震えていた。
『みんな、行こう』
景虎たちは隠し扉から屋敷の外へ逃げ出した。
大所帯ではすぐに追いつかれてしまうことを危惧した姉は一部の女中たちを連れ、景虎と別れた。
景虎は母、残った女中たちをまとめた。
父がどうなったのか考えたくもなかった。
景虎は周囲を警戒しながら、いかに父の仇をうつか、そればかり考えていた。
だから気づけなかった。共に逃げている女中たちの中に、鬼に籠絡された者がいたことに。
叫び声が聞こえた時に、女中の足元に母が転がっていた。
みるみる広がる鮮血。
女中はその時まで自分の身も心も、果ては魂までも鬼に食われていたことに気付いていなかった。
鬼に魂を食らわれた人は、鬼となる。
『うわああああああああああ……!!』
それまで培ってきたものなど関係なかった。
ただ目の前のあやかしを殺す。ただそれだけのためにがむしゃらに刀を振るい、鬼と成り果てた女中を殺した。
『母上! 母上ぇ!』
景虎は血だまりに倒れる母を抱き上げ、必死に声をかけた。
『……逃げて、あなた、だけ、でも……』
『嫌です。ここにいます。母上と一緒に……』
血にまみれた母の手が景虎の頬に触れる。その手からこぼれていく温もりを守りたくて、強く握り締めた。しかしどれだけ声をかけても強く握っても、力のなくなった母の目は、景虎を映してくれることはもうなかった。
呆然とした景虎は、背後に忍び寄ってきた鬼がもう一匹いることに気づけなかった。
『お前が最後だ、小僧』
頭の中に泥水を注がれるような薄気味悪い声。
『化け物めぇ!』
『お前も、そうだろう。お前は誰も守れぬ。お前が救おうとした。見ろ。お前が手を差し伸べ、守ろうとした人間どもはことごとく死んだ』
反応する間もなく、景虎は背後から体を貫かれた。
景虎は血を吐きながら、それでも渾身の一撃で鬼を斬り殺す。
自分を貫く鬼の腕が灰と化して消えていく。
片膝をつき、肩で息をする。どくどくと全身を血が巡る音がした。
――俺のせいで……傲慢さのせいで、皆が……。
助けを求められながら、誰も救えなかった。
景虎は精も根も尽きてその場に倒れた。
そこで何もかも終わったと思った。
しかし景虎はなぜか生きていた。
姉たちの行方は分からなかった。しかし姉が連れて逃げた女中たちが亡くなっていることを考えると、生存は絶望的だと言われた。
この一件があって以来、他者に触れられることを嫌悪感を覚え、他人と一緒に暮らすことができなくなった。
「――これが、俺の過去だ。不愉快にさせたと思う。全ては俺の思い上がりが発端だ。気味が悪いと思ったのなら正直いってくれ。それで俺から離れたいと思うのは正常な心だ」
「そんなこと、思うはずがありません……!」
重たい過去を、この広すぎる屋敷の中で一人、抱え込みながら生きて来たのか。
その辛さや苦しみは、想像することさえできない。
できないことと理解しながらも、景虎を抱きしめたいという強い気持ちがこみあげる。
「そんな顔をするな。悲しみや苦しみにはもう馴れた。今は、もうあの時のことを思い出して苦しむこともない」
「ですが、それで景虎様の心にできた傷がなくなったわけではありませんよね」
「沙苗……?」
突然、近づいて来た沙苗に、景虎が目を見開き、距離を取ろうとする。しかし彼の後ろには漆喰の壁があってそれ以上は下がれない。
壁際に追い詰めるという格好になった景虎に向かって、沙苗は手を伸ばす。
バチッと火花にも似たものが飛び散り、指先に痛みがはしる。
「やめろ、何をしている!」
かすかに痛みに顔を歪める。
――これくらいだったら大丈夫。
少し肌がひりっとする程度だ。
沙苗はじっと景虎の鮮やかな深紅に染まる瞳を見つめる。沙苗は互いの距離を測るように手を動かす。
「ここまでなら……近づけるみたいです。景虎様は触れるのも、触れられるのも、お好きではないのなら、ちょうどいい距離だと思いませんか?」
「沙苗……」
「これは、私たちに許された距離です」
景虎は触れられたくない。沙苗は触れることができない。
それでも心細さや寂しさを覚え、人肌を恋しく思う。
こうしていれば、互いの息遣いや存在を感じられる。
「心の傷が消えることはありません」
かざぶたにならず、膿もせず、思い出したように痛みつづける。
幼い頃から周囲から虐げられてきた沙苗には、心の傷がよく分かる。
「触れられなくても、こうして寄り添うことはできますから。景虎様は決して一人ではありません」
新たな喜びを教えてくれた景虎のためにできることがしたい。
「私がご家族の代わりになるなんておこがましいことはもうしません。それでも、誰かがそばにいてくれることで救われることはあると思います」
沙苗はにこりと微笑んだ。
景虎の表情が揺れ、右手が動く。
今沙苗がそうしたように火花が飛び散らない互いの距離を測るように、掌を近づける。
「お前は不思議だな。そんなことを言ってもらえたのは初めてだ」
「きっと、景虎様の周りにいらっしゃる人たちが強い方々ばかりだからですよ。弱い人間には弱い人間なりの生きぬく知恵があるものです」
「いいや、お前は強い」
その声はとても優しくて。
どちらからともなく、笑みがこぼれた。
そんなささやかな笑み一つで、沙苗の心には少し早めの春風が吹き抜けるように、温かくなる。
このときめきを知っている。
――やっぱり私は、景虎様が好きなんだわ。
幼い頃の先見で初恋をした時には、その幻想的な姿に、そして、二度目の恋は彼の強さと優しさに触れて。
――契約関係としてのつながりだけでも、景虎様と出会えた私は果報者だわ。
「……それにしてもお前は律儀だな。俺の過去のことを聞かされたからと言って、黙っていれば俺には分からなかったのに」
「契約関係であっても夫婦は夫婦。隠し事はするべきではないと思ったんです。もちろん言わなくてもいいことはあるのは分かっております。相手を慮り、想い合うからこそ、話せないことがあったり、胸に秘めなければいけないこともあるとは思うのですが、このことは伝えなければならないことだと思いまして……」
景虎は小さく息を吐き出す。
「なら、俺も告白しなければならないな。お前に嘘をついていた」
「嘘?」
「お前がうなされていたから心配になったと言ったが、嘘だ。気分が悪そうだったお前を一人にできず、お前が眠ってからずっとここで見ていた。だから、うなされていることにすぐ気づけたんだ」
沙苗はぱっと距離を取ると、景虎に背中を向けた。
「いきなりどうしたんだ」
「寝顔は無防備なんですよ。それを見ていただなんて、恥ずかしいです……」
「悪かった。もう……」
「しませんか?」
「いや、またするかもな」
その言葉には笑みが混じっていた。
「うう……景虎様、意地悪です……っ」
「許せ。お前を心配してのことだ」
「そ、それでも……」
恥ずかしいものは恥ずかしい。
「悪かった。もう眠れ」
「景虎様こそ、もうお休みください。もう大丈夫ですから」
「分かった」
背中ごしに、景虎が部屋から出て行く気配を感じる。
自分でもう大丈夫だと言いながら、彼が部屋を出て行くことを寂しく思わずにはいられなかった。
「……明日も早いんだから、ちゃんと眠らないと」
沙苗は自分に言い聞かせるように呟くと、布団に潜り込んだ。
しばらくして、襖が開く音が聞こえた。
「景虎様、まだ何か? …………な、なにをしているのですか!?」
景虎はなぜか布団を抱えて、部屋に入ってくると、沙苗の左隣に布団を敷き始める。
「見れば分かるだろう。眠るんだ」
「そういうことを聞いているのではなくって、どうして私の部屋で……」
「お前が心配だから。それ以上の理由がいるか?」
「もう大丈夫と言ったはずですが……」
「……今日くらい付き添わせてくれ。俺が目を離さなければ、お前が嫌な想いをすることは避けられたんだから」
そんなことない、と沙苗は口を開こうとするが、景虎は自分の唇に右手の人差し指をそっとあてがう。
「頼む。毎日、共寝をしようというのではない。今晩だけでいい」
「……わ、分かりました」
「ありがとう。おやすみ、沙苗」
「お、おやすみなさい、景虎様」
とても景虎のほうを見ることはできず、背中を向けたまま、目を閉じる。
無理矢理にでも眠れと、自分に言い聞かせながら。