途中で藤菜を駅で降ろしてから、景虎は沙苗に気を遣ってゆっくり自動車を走らせてくれた。
 日が沈むと、背の高い建物に切り取られた夜空には、里から見るよりも光の乏しい星が一つ二つと光り始める。

 ――街が明るすぎるからかな。

 街路灯は煌々と明るく、人手の多い通りはまるで真昼のように明るい。

 帝都は昼には昼の、夜には夜の顔をそれぞれ持ち、顔を変えながら一日中、眠ることを知らない別世界のようなものだ。

「パーティーの場に出るのははじめてだろうから、こつを教える」
「こつ?」
「会話には適当に相槌を打っていればいい。お前は会話は得意ではないだろうから、聞かれたことに対して答えておけ。自分から積極的に話さなくても向こうから話しかけてくれるし、向こうが一方的にぺらぺらと喋る」
「とはいえ、うまくできるでしょうか」
「会場では、お前のそばから離れないようにするから安心してくれ」
「ありがとうございます」
「いや、俺が出席を頼んだんだ。俺のほうこそ、来てもらってありがたいと思ってる」  景虎の声は、胸に染みこむように優しかった。

 自動車がとある洋風建築の前に止まった。
 建物の前にはいくつもの馬車が止まり、そこから身だしなみを整えた男女が出てきては、建物の中へ吸いこまれていく。

「ここだ」

 沙苗たちは自動車を降りる。
 周りの客たちはみんな、男性が女性の手を引いているが、沙苗たちの間にそれはない。

 あれはエスコートというのだと景虎から事前に教えられた。
 自分たちはふれあえない。仕方がないと分かっていながら寂しいと思ってしまうのだから困ったものだ。

 ――私が普通の人間であったなら。

 この手を景虎に握ってもらい、一緒に会場へ行けるのに。
 そんな風なことをつい考えてしまう。

 ――いけない。集中しないと。

 沙苗は変な考えを追い出す。
 ここへ来たのは、景虎の仕事のためだ。

 と、景虎が沙苗の手をじっと見つめていることに気付く。

「景虎様?」

 景虎ははっとした顔をする。

「……手に、なにかついていますか?」
「いや、何でもない。行こう」

 ――どうしたのかな。

 景虎も少し緊張しているのだろうか。
 景虎に限ってそれはないか。

 責任ある立場だから、色々と考えなければいけないことがあるだけだろう。
 鹿鳴館は一階に食堂や談話室が、そして二階が舞踏会場になっている。
 今日はあくまで舞踏会ではなく、パーティーということもあり、そこかしこで様々な人たちが話をしていた。

 建物の中はきらびやかさで包まれていた。
 天井から下がる照明、場内をいろどる豪奢な装飾の数々。

 そしてそこに並ぶ、内装や装飾にも負けない美しい装いの女性たちを前に、気後れを覚えてしまう。
 肉食動物の檻に投げ込まれた小動物よろしくびついている沙苗に比べ、景虎の堂々として、洗練されている立ち振る舞いには、さすがに目を奪われる。

 胸で輝く勲章や、その切れ長の赤い瞳に、背中に流した白銀の髪。
 他の男性たちとは一線を画した存在だ。

「安心しろ。ここにいるどの女性たちより、お前は綺麗だ」
「! 景虎様……」
「胸を張れ。俯いていては、この場の雰囲気に流されるだけだ。自信をもて。藤菜も褒めていただろう」

 ――そうよ。藤菜さんの太鼓判があるんですもの。

 藤菜が自動車から下りる際、沙苗の耳元で『笑顔を忘れないでくださいね。沙苗さん、あなたは素敵ですよ』とわざわざ言ってくれたのだ。

 背筋を丸めていてはこれまでと同じ。装いが違うだけで、心は座敷牢時代と何ら変わらない。そんなことでは着付けをしてくれた藤菜に、わざわざ着物を買ってくれた景虎に申し訳がない。

 沙苗の立ち振る舞いは、それこそ同伴している景虎の名誉にも直結するのだから。

 あんな女を嫁にもらうことになって天華家は大丈夫かと思われでもしたら、申し訳がたたない。
 顔を上げ、背筋を伸ばし、にこりと微笑む。

「そうだ。笑っているほうがずっと素敵だ」
「! は、はい……」

 素敵という言葉に、沙苗は頬をそめた。
 景虎の容姿はこんな大勢の人たちの中に埋没することがない。それどころか人が多ければ多いほど、その存在感は増すように見える。

「俺の数歩後を歩くようにしろ」
「分かりました」

 人々がまるで花の香りに吸い寄せられるように、景虎に集まってくる。
 その数の多さに沙苗は面食らってしまうが、景虎は馴れたもので自然に応じる。

「みなさん、お会いしたかった」

 ――景虎様!?

 表向き、ということを知っていなければ、言葉を失っていただろう。
 沙苗の中にある景虎へに印象が全て塗り潰されるような、爽やかな笑顔。

 女性たちは頬を桜色に染め、うっとりとした目で見つめる。

「景虎様はたしか婚約されたと伺いましたが」
「沙苗です」

 景虎は虫も殺さぬ笑顔で、沙苗を紹介してくれる。

「沙苗でございます」

 沙苗は深々と頭を下げた。

「ほう、さすがその方が勅命で……」
「たしか、春辻男爵家のご令嬢なのですよね」

 ――そんなことまで知られてるのね。

 正直、見ず知らずの人間に自分のことを知られているということは薄気味の悪さしか感じない。

 事前に教えられた通り、相づちを基本に、二言三言と質問に答えていると、相手のほうがどんどん喋
りだす。

 自分たちはどこでどんな事業をしていて、こういうパーティーに出席するのは何度目で、ドレスや着物、宝石に関してはどれだけ高価で珍しいものか、金を積んで名工に特注された一点物であるかなどなどと、こちらが尋ねもしないのに、休むこともなく捲し立てるように話し続ける。

 口べたな沙苗はただただ圧倒されてしまう。

 ――すごい。よくこんなに話すことが見つかるわ。

 いちいち真剣に聞いていたら、それだけで気力と体力を奪われていたことだろう。
 沙苗が笑顔で相槌を打つだけで相手は「景虎様の婚約者の方は聞き上手ですのね」と上機嫌になってくれる。

 本当はほとんど話の内容は頭に入ってきていないことに罪悪感を抱いてしまう。
 しかし大半の人たちの目当ては、景虎だ。

 景虎は軽妙な会話と笑顔で女性を魅了しながら、男性たちとは経済や世界情勢について活発に議論していた。

 沙苗が聞いてもちんぷんかんぷんだったが、あっという間に景虎が男女関係なく人々の心を掴む一部始終を見て感嘆せずにはいられなかった。

 そしてようやく人の波が切れる。
 沙苗は肩で息をしながら会場の片隅へ避難する。

「疲れただろう」
「す、少し……。景虎様こそ、私以上にたくさんの人たちとお話をされていましたけど、大丈夫でしたか?」
「もう馴れた」

 景虎はさらっと言ってのけた。

「もう切り上げよう」
「よろしいのですか?」
「十分役割は果たした。さっさと家に帰り、お前と静かに過ごしたい」
「え……」
「何だ?」

 自然にこぼれた言葉だったのだろう。景虎は小首をかしげる。
 沙苗は自分が過剰に反応してしまったことが恥ずかしい。

「わ、私もそうしたいと思っていたところです」
「なら行こう」

 そこに、「景虎っ」と声がかかった。

 振り返ると、でっぷりと太った男性がこちらへ駆け寄ってきた。

「少将、どうされたのですか」

 景虎はさっきまで見せていた屈託ない笑顔ではなく、いつもの無表情で応じる。

 つまり、景虎の素を知っている人ということだ。

「そちらは?」
「婚約者の沙苗です」
「沙苗でございます」
「はじめてましてお嬢さん。可憐でお美しい。少し景虎を借りてもよろしいですか?」

 しかし景虎はその場から動こうとしない。少将、と呼ばれた男性が怪訝な顔になる。

「さっさと来い」
「申し訳ありません。今帰るところです」
「何を言っている。先生方と顔を合わさず帰るつもりか? 馬鹿を言うなっ」
「では、沙苗も一緒に」
「なにをふざけたことを……」
「私は真剣ですが。沙苗はパーティーの席には不慣れ。彼女の傍を離れるわけにはいきません」
「お嬢さんに政治の話は難しいし、相手はこの国の重要人物たちだ。国策について話すのだぞ」
「少将。私は……」
「私なら平気です」

 沙苗は差し出がましいと思いつつ、口をはさんだ。

 男はニヤッと笑う。

「というわけだ。お嬢さんの許可があるのだから問題ないだろう」
「景虎様。私に構わず、行ってください」

 自分のせいでうまくいくべきものがいかなくなるのは、沙苗の望むところではない。
 場内の雰囲気にも少しずつ馴れて来た。一人で待つことくらい別に苦ではない。

 景虎は小さく溜息を漏らした。

「すぐ戻る。ここで待て。どこにも行くなよ」
「子どもではないんですから」
「……そうだな」

 それでも心配なのか、景虎はちらちらとしきりに沙苗を気にしながらも、男性と一緒に人混みの中に消えていく。

 とはいえ、人に話しかけられても困るので、壁際の椅子に座って休ませてもらうことにする。
 場内では本当に色々な人たちがいて、難しい話をしている。

「三洋が汽船事業に進出するぞ」
「は? 嘘だろ」
「本当だって。木之元汽船、買収されただろ。あれだよ」
「買収したのは三洋じゃなかっただろ」
「汽船で働いてる知り合いが、三洋の役員を事務所で見かけたらしい。他社から警戒されないよう、買収するための会社をわざわざ立ち上げたんだよ。油断してる他社を一気に出し抜こうって腹づもりらしい」
「ってことは、次は三洋に投資かぁ」

 耳に入ってきた話はちんぷんかんぷんだ。
 しかし男たちはニヤニヤしながらそういう話をそこかしこでしている。何に投資するべきか、次に流行るものは何か、新規事業を立ち上げたいかどの分野にするべきか。

 何もかも、沙苗には無縁なこと。

「――あれぇ、もしかして、お姉様?」

 その声を聞いた瞬間、背筋にぞくりとしたものが走り抜け、顔を上げた。

 沙苗は自分の目を疑った。

「か、薫子……」

 そこには緑色の洋装姿の薫子がいたのだ。

 彼女は山高帽に紺色の洋装姿の男の腕に寄り添っていた。