「……すみません」

 建物を離れる自動車の中で、沙苗は頭を下げた。

 展望台からの景色に夢中になるあまり、気づくと、一時間が経っていたのだ。
 いくら見る物すべてが素晴らしいからと言って、長時間滞在しすぎてしまった。
 きっと景虎にとっては見飽きた光景だっただろう。

「お前に街案内をするのが目的なんだ。遠慮をするな」

 自動車は街中を離れ、川沿いを進んでいく。
 土手にはたくさんの木々が植えられていた。

「あの木は何て言う種類ですか?」
「桜だ」
「桜! あれが……」
「桜が好きなのか?」
「はいっ」

 あくまで、木霊たちから聞いた限りではあるけれど。

「なら、花が咲く頃にまたこのあたりに来るか」
「いいんですか?」
「見たいんだろ。屋敷のそばには桜がないからな」
 自動車はとある店の前で停まった。
「こちらは?」
「これが、出かけた目的の一つだ」

 店先には美しい反物や着物が飾られている。
 風格のある店構えに、沙苗は気後れを覚えてしまう。

「何をしている?」
「あ、今、行きます」

 暖簾をくぐると、「いらっしゃいませ」と店の奥から恰幅のいい女性が出てくる。女性は眼を輝かせ、「お坊ちゃま!」と明るい声を上げた。

「藤菜、その呼び方はやめてくれ。俺ももう、いい大人だ」
「申し訳ございません。つい……。それにしても、呉服屋に洋装でいらっしゃるなんて、なにかの嫌がらせですか?」
「そう意地の悪いことを言うな。草履だと運転がしにくいんだ」

 ――景虎様が笑ってるいらっしゃる!

 笑顔というより、微苦笑なのだが、それでも表情の乏しい彼がここまで表情を変えるなんて驚きだ。それに、二人の距離感にも。

「まあ、そういうことでしたら許しましょう。ところで、そちらの方は?」
「婚約者だ」
「よ、よろしくお願いいたします……」
「まあ! よろしくおねがいいたします! つだ屋の女将の津田藤菜と申します」
「沙苗と申します」
「沙苗さん。とても素敵なお名前ですねえ」
「あ、ありがとうございます」
「俺の婚約者だ」
「まあ! ふふ、可愛らしい方。お坊ちゃまとお似合いですね。ところで、今日は何を仕立てましょう」
「沙苗に似合う色留袖、それから小物を一通り揃えて欲しい」
「え、そんな結構です。着物なら、里より持ってきましたものが」
「分かっている。しかしあれはどれもこれも年季が入っている。せっかく帝都へ来たんだ。新しい着物を仕立てて悪いことはないだろう」
「ですが」
「もちろん愛着がある着物を着るなとはいわない。だが別の着物も持っていてもいいだろう。今後、結婚すれば、面倒な集まりに参加しなければならないこともあるかもしれない」

 ――結婚……。

 景虎からしたら何気ない言葉に、沙苗はドキッとした。
 藤菜は沙苗を座敷へ招くと、様々な色や柄で彩られた反物を並べる。
 どれも目の覚めるような美しさだ。

「素敵……」
「ホホホ。分かっていただけて光栄でございます。どれもこれも熟練の職人が染め上げたものなんでございますよ。これからの季節で言いますと、薄紅や撫子、萌黄や花緑青などのお色、柄ですと菖蒲や牡丹などもよろしいかと」

 見本の色留袖を見せてくれるから、反物だけでは想像しにくい完成品の想像もしやすい。

 世の中にはこれほどまでに様々な色があったのかと、圧倒されてしまう。
 今日はほんとうに驚きっぱなしだ。

「沙苗、さっきからため息ばかりついているが、気に入らないか?」
「違います。逆です。すごすぎて……すみません。決められなくて」
「そう言っていただいてこちらとしても嬉しいです。では、柄だけお好きなものを選んで頂いて、色はこちらに任せていただくというのはいかがですか?」
「それでお願いします」

 柄は梅紋、それから花筏、牡丹を選んだ。

「では次に小物ですね。沙苗様。こちら、簪でございます」

 たくさんの種類を見せても迷うだけだと藤菜ができるかぎり候補を絞ったものを差し出してくれるが、それでもやっぱり迷う。

「俺は全部でもいいが」
「景虎様。一点じっくり選んだものを決められたほうが、愛着も湧くというものですよ。もちろん私どもも商売ですから、結果的にすべて購っていただくことは大歓迎ですけれど」

 綺麗にならべられた簪を見つめる。どれもこれも素敵な作りだ。
 造花、透かし彫り、螺鈿とさまざまな種類の簪の数々に、心を奪われる。

 ――ぜんぶ素敵だけど……私に似合うのかな。

 さきほどの着物もそうだが、身につけるのが自分では、どんなに素晴らしいものも色褪せるのではないかという不安に襲われてしまう。

「迷いますか?」
「そ、そうですね」
「でしたら、その簪をつけた姿を一番見て欲しい人に決めてもらいましょう」
 沙苗は、景虎を振り返った。
「俺か?」
「坊ちゃんの婚約者様なんですから、当然でしょう」
「だから坊ちゃんはやめろ。……だが、俺が決めて本当にいいのか?」
「お願いしますっ」

 そうだな、と呟きながら、景虎は簪と沙苗の顔を交互に見ると、鼈甲で蝶の透かし彫りがされているものを手に取る。

「これはどうだ? 似合いそうな気がする」

 藤菜も大きく頷く。

「さすがは坊ちゃん、趣味がいいです。どうぞ、鏡です」

 景虎は自然な動作で、簪を髪に挿そうとする。

「だ、だめです!」

 沙苗は思わず大きな声を上げてしまう。
 景虎の手がぴくっと震えて、髪に触れるすんぜんで止まる。

「……そうだったな。藤菜、頼めるか」
「え? 私でよろしいのですか?」

 藤菜は戸惑いつつも、沙苗が「お願いします」と頼むので、不思議そうな顔をしながらも髪に挿してくれる。

「いかがですか?」

 藤菜が景虎を振りかえる。

「よく似合っているな」
「私もそう思います。大変お似合いです。では、沙苗さんの採寸などをおこないますので、坊ちゃんはこちらで待っていて頂いてよろしいですか?」
「分かった」

 沙苗は、奥の部屋へ案内される。
 着物を脱いで肌襦袢姿になると、採寸をしてもらう。

 二人きりになると、他人と接する機会の少ない沙苗はどうしても緊張してしまう。

 ――今の、変に思われたかな。

 婚約者に触れられるのを嫌うなんて。
 咄嗟のことだったから、つい大きな声をあげてしまったのもまずかった。

 ――あとで景虎様に、謝らないと。

「どうされました?」
「本当にあの着物、私が着ていいのだろうかと思ってしまって。あまりに綺麗すぎて……もっと似合う方がいらっしゃるんじゃないかと……」
「老婆心ながら、どんな服や装飾も似合うようになる方法を、お教えしてもよろしいですか?」
「そんな方法があるんですか?」
「ございますともっ」

 藤菜はにこりと微笑んだ。

「笑顔、でございますよ」
「笑顔?」
「左様です。どんなに入念に着物や装飾品を選んでいても、それを着られる方が笑顔を忘れてしまったら、魅力が色褪せてしまうものなんです。反対に言えば、笑顔さえ忘れなければ、どんな服装をしようとも魅力がなくなるということは絶対にありえない、ということです」
「笑顔……」

 その言葉は、沙苗のこれまでの生き方からはかけ離れたもの。

「その考え、とても素敵ですね」
「まあこれは先代女将からの受け売りなんでございますけどね。でも経験上、どれほど美しい方もぶすっとしていては魅力が大きく減ることは間違いございません」

 景虎が自分に買ってくれたのだ。それに相応しい人間になりたいし、買ったことを後悔させたくなかった。

「ありがとうございます。肝に銘じます」
「今、お坊ちゃんのことを思い浮かべました?」
「え」
「やっぱり。今の微笑み、とても素敵でしたよ。その微笑みがあればどんな服装も立派に着こなすことができること、請け合いです。ですから自信をもってくださいね。ふふ。沙苗さんは果報者ですよ。あんな素敵な方に嫁げるなんて」
「そうですね。本当に。ところで」
「はい?」
「藤菜さんは、景虎様ととても親しいように見えたのですが。坊ちゃんと呼んでいらっしゃいますし……」
「左様でございます。天華家の方々には先代様の頃より、懇意にしていただきましたので」
「じゃあ、景虎様のことも?」
「ええ。子どもの頃からよく知っております」
「……景虎様の子どもの頃はどんな方でしたか? 今みたいにしっかりされた子でしたか?」
「今と同じ表情を表に出すのはあまり得意ではないようでしたが、子どもとは思えないくらいしっかりされていたお子さんでしたよ。年上のはずの私がそれこそ、子ども扱いされるほど」
「さすがは景虎様です!」

 沙苗は心の底から感心した。やっぱり、あれだけしっかりされている方は子どもの頃から違ったのだ。

 藤菜がくすっと笑う。

「私、変なこと言いましたか?」
「いいえ。あやかしを狩る家という傍から見たら怖ろしいものに見えるのか、あんな家と関わって大丈夫なのかとよく言われたものでした……。ですから沙苗さんのように表情を輝かせる方ははじめてだったので」
「そ、そうですか……」
「だから、沙苗さんのような方が婚約者になっていただき、景虎様を昔から知る者としてとても嬉しいんです。あんなことさえなければ、天華家にとってとても素晴らしい出来事であったはずなのに」

 その呟きは沙苗へ聞かせるためではなく、つい口からこぼれてしまったという風に聞こえた。

「それはどういう……」

 藤菜ははっとし、「余計なことを言いました。今のは……忘れてくださいませ」とそれまでの和やかさが嘘のように、口ごもってしまう。

「あ、はい……」

 沙苗は曖昧にうなずく。
 採寸を終え、景虎のもとへ戻る。

「終わったか」
「はい」
「では、着物ができあがりましたら、小物ともども届けさせていただきます」
「あ、簪はこのままつけていてもいいですか?」
「そうしろ」
「ええ、とてもお似合いですから」

 藤菜に礼を言って店を後にした。

「景虎様、さきほどは大きな声を出してしまってすみませんでした」
「俺のほうこそ迂闊だった。止めてくれて助かった」

 自動車に乗りこむと、出発させる。
 沙苗はさっきの藤菜の言葉を思い出す。
 あんなことがなければ。

 ――あれはどういう意味だったのかな。

 広いお屋敷に一人で住んでいることと何か関係があるのだろうか。

 しかし結局、聞けなかった。半妖でありながらも特別に許されて一緒に住んでいる自分のような者が軽々しく聞いていいことではない、そう思ったからだ。