半妖の私が嫁いだのは、あやかし狩りの軍人でした

 景虎が庁舎を出た頃には、日付が変わろうとしていた。
 こんなに遅くなったのは、あやかし討伐の出動がかかったからだ。

 日本橋に犬型のあやかしが現れ、その討伐指揮を担当した。
 相手は大したあやかしでもなく、あっという間に討伐は完了した。

 帝都は各地に五色不動を安置していたり、強い霊力が溜まる地点に神社仏閣を建設したりと江戸の頃から、対あやかしの結界が厚く張られている。

 景虎や一臣の先祖たちがその結界作りに深く関わっていた。
 しかし帝都がまだ江戸と呼ばれていた時代から、三百年。
 結界は少しずつ弱まっているのを感じている。だからこそ、大して力の強くないあやかしが帝都へ侵入するようになってきていたのだ。

 景虎は陸軍を通じ、政治家に対して結界強化の術法を行うべきと献策しているのだが、遅々として進まない。
 結局、いつまでも呪術などの前時代的なものにこだわっていると思われては西洋諸国からの印象が悪いし、近代化の妨げになることを懸念しているのだ。

 開国と共に日本に入ってきた技術を否定するつもりはない。
 自動車だったり、電気だったり、素晴らしい技術は技術として景虎も認めるところだが、だからと言って、この国が数千年もの時間、紡いできた伝統を蔑ろにするべきではない。

 軽んじれば、そのつけを払うのは現代を生きる景虎たちなのだから。

「大佐、つきました」
「ご苦労」

 景虎は馬車を下りると、帽子を取って小脇に挟むと屋敷に入った。
 しんっと静まり返っている玄関で靴を脱ごうとした時だ。上がりがまちに木霊たちが並んでいた。

「なんだ、お前ら」

 木霊たちは何かを囁き会うような素振りを見せる(しかし木霊の顔にあたるだろう場所には耳はもちろん、口も見当たらない)。
 景虎は腕を組んでその様子を見つめる。

 すると、二体の木霊が進み出る。
 片割れが不意に四つん這いになったかと思えば、上がり框を四つん這いで行ったり来たりを繰り返す。

「俺は沙苗のようにお前たちの言葉が分からない。もっと分かるようにしろ」

 ――俺は一体何をしているんだ。

 さっさと風呂に入って休みたいというのに、木霊と向き合おうとしている自分に呆れる。

 すると、木霊たちは廊下を指さす。そして四つん這いになると、やっぱりその場を行ったり来たりする。

 景虎は廊下を見てみると、いつもより艶があるように見えた。
 試しに触れてみると、つるつるしている。

「……沙苗が掃除をしたのか」

 木霊たちはコクコクと大きく頷く。
 それからさっき進み出て来た二体の木霊のうち、直立不動のまま立っていたほうの木霊が、四つん這いになっている木霊の頭を撫でるそぶりをする。

「……褒めてやれ、ということか?」

 木霊たちは「そうだ!」と言わんばりに飛び跳ねた。

 ――あやかしのくせに人間のような反応をする連中だな。

 沙苗と長らく一緒にいたせいなのか。
 しかし褒めるにしても明日になるだろう。

 景虎は靴を脱いで木霊たちをまたぎ、居間の襖を開けた。と、灯りが漏れた。
 沙苗が卓袱台に突っ伏すように、眠っていた。
 襖が開く音にはっとした顔をして顔をあげれば、眼が合った。

「か、景虎様、おかえりなさいませ」
「待つ必要ないと言わなかったか?」
「そういうわけには。お風呂にも入られると思いまして。一人ではご不便かと」
「お前が来るまではぜんぶ一人でやっていて、不都合はなかった」
「あ……すみません」

 沙苗は目を伏せる。

「そういえば掃除をしてくれたようだな。すまない」
「どうしてそれを」
「木霊たちから聞いた」
「景虎様もこの子たちが何を言っているのか分かるのですか?」
「いや。身振り手振りで説明されてようやく気づけた」

 卓袱台の片隅に一日の食事代としておいておいた金がそのままになっていることに気づく。

「食事は家で食べたのか」
「はい」
「うどんや牛鍋は口に合わないか?」

 沙苗の顔が強張る。

 どうしてそこまで大袈裟に反応するのか。怒っているわけではないのだから、申し訳なさそうな態度などとらなくてもいいだろう。
 そんな態度を取られると、かえって不満があるのかと勘ぐり、不快になる。

「他人の嗜好に口を挟む趣味はないが、不満があればはっきりそう言え」
「……そういうわけではないんです。おうどんも、牛鍋も、とても美味しかった」
「なら、どういうことだ?」
「……お、美味しすぎるんです」
「は?」

 予想外な言葉に、景虎は虚を突かれてしまう。

「うどんも、牛鍋も、美味しすぎたんです。私を受け入れてくださった景虎様に少しでも恩返しがしたいと思ったんです。でもこの街では、あんなに美味しいうどんや牛鍋が食べられるんですよね……。私の料理の腕はとうてい、あんな素晴らしいものに太刀打ちできないんです。食べている途中でそう思いはじめたら、どんどん落ち込んできて……」
「そんなことを考えていたのか……。食事を作れないから、掃除をしていたのか?」
「……掃除は元々するつもりでした」
「妻としての献身は求めないと言ったはずだ」

 景虎は呆れ混じりに呟く。

「献身ではなく、感謝の気持ちでございます。半妖である私との婚約を続けてださったせめてもの……」
「分かった。もう遅い。休め」
「ですが、景虎様はこれからお風呂に入られますよね。でしたらお手伝いを」
「いらない。一人のほうが楽だ」
「……か、かしこまりました。では、おやすみなさいませ」

 沙苗は深々と頭を下げると、居間を退出していく。

 景虎は書斎に入った。
 積まれた書類や本などは特に動かされたという痕跡はなかった。
 きっと下手に動かしてはいけないと手をつけなかったのだろう。

 堅苦しい軍服を脱ぎ、着物に着替える。

 座椅子の背もたれに引っかけていた羽織を手にとった時、破けていたはずの右脇の部分が、しっかり繕われていた。小さな破れだったから、特に気にもしなかったのだが。

 ――これも沙苗がしてくれたのか。
 翌朝、沙苗は台所に立って朝食を作る。

 ご飯を炊き、大根の味噌汁、玉子焼きに焼き鮭を仕上げる。
 鮭の身に綺麗な焼き目がついたのを確認し、お皿に盛り、卓袱台へ並べていく。

 そこへ重たい足音が近づいてくる。

「景虎様、おはようございます」
「……おはよう」

 景虎は手に、昨日繕った羽織を持っていた。

「あ、それ……すみません、勝手に」

 景虎は「謝るな」と少しうんざりした顔をする。

「怒ってるわけじゃないから頭を下げるな。繕ってくれて助かった。ありがとう」
「!」

 景虎から感謝してもらい、それだけで心臓が飛び跳ねる。それからじんわりと体が熱くなる。

「いえ……出来ることをしただけですから」

 たった一言の感謝で、高揚してしまう。

「ところで朝食だが、俺の食べる分はあるか?」
「え?」
「わざわざ俺のために花嫁修業をしたのだろう。食べさせてくれ」
「それは……!」

 予想もしない要請に、困惑し、慌ててしまう。

「もちろん、無理にとは言わない」
「そういうわけではありませんが……よ、よろしいのですか。外で食べたほうがずっと美味しいと思います……」

 自信がなくて、声が尻すぼみになってしまう。

「少なくとも匂いは、うまそうだ。それに、繕いもしっかりできているんだ。料理のほうも問題ないんじゃないか?」

 ――せっかく景虎様がこう仰ってくださってるんだから。

「そちらを召し上がってください」
「これはお前の分だろう」
「そのつもりでしたが、景虎様はこれから出勤されますよね。お時間もないでしょうし。どうぞ。私はのちほどゆっくり頂きますので」
「そうか。すまない」

 景虎は美しい姿勢で正座になると、手を合わせ、「いただきます」と食事をはじめる。

 まずは味噌汁から。

「具材は大根です」

 向かいに座った沙苗は、緊張の面持ちでじっと見つめてしまう。
 花嫁修業で最低限の料理は習ったが、沙苗の作った食事を女中たちは手をつけてはくれなかった。

 結局、自分で作って自分で食べただけだったから、こうして料理を誰かに食べてもらうのは、生まれて初めて。

 味見はしているから不味いということはないだろうが、景虎がどう思うかはまた別の話。
 
 景虎が味噌汁に口をつける。

「いかがですか?」
「美味い。しっかり出汁の味が出ているな」
「良かったです」

 景虎は焼き鮭を箸でほぐして口に含み、ご飯を食べる。

「ご飯もちょうどいい硬さで、美味い。焼き鮭の焼き加減もちょうどいい」
「お世辞ではなくて、本音でお願いしますっ」
「不味いものを無理して食うほど、食には困ってはいない」
「実は、玉子焼きは少し焦がしてしまって……それはどうですか?」
「気にするほどではない。十分、うまい」

 景虎はあっという間に朝食を食べ終えてしまう。

「ごちそうさま」
「御粗末様でございました」

 食器を片付けようとして手を伸ばすと、景虎も同時に食器に手を伸ばす。
 危うく手が触れかけ、バチッと二人の間で火花が散った。

 はっとして手を引っ込める。

「大丈夫ですか?」
「問題ない。お前こそ」
「触れてなかったので大丈夫です。私が片付けますから。今、白湯をお持ちしますね」

 食器を片付けて水を溜めた桶に浸け、水を火に掛け、湯飲みに注ぐ。

 ――今日、お茶葉を買いにいこう。

 花嫁修業でお茶の淹れ方も勉強した。白湯では味気ないだろう。

「どうぞ」
「すまない」

 景虎はほとんど表情は変えない、冷ややかな仏頂面なのに、お礼をきっちり言ってくれる律儀さが、可愛いなと感じた。

 玄関のほうで「おはようございます」と、声がかかった。

 沙苗は玄関に立った。

「おはようございます、三船様」
「様づけなんて、おやめください。三船で結構でございます。大佐は?」
「景虎様でしたら……」
「来たか」

 景虎が居間から出てくる。

「いってらっしゃいませ」

 沙苗は三つ指をついて見送る。

「基本的に帰りは遅くなる。待ってないで寝ていろ。それから、今日から朝はお前の料理を食べたいと思うが、どうだ? 無論、作るのに抵抗がなければだが」

 沙苗は自然と目を細め、笑みに口元をほころばせた。

「作らせていただきます。お夕飯はどうしますか?」
「帰りの時間は不規則になる。無駄にしてしまう可能性もあるから朝食だけで構わない」
「かしこまりました」

 沙苗はいつものように門前まで景虎たちを見送った。

 ――景虎様が私の料理を美味しいと言ってくれた!

 景虎たちをのせた馬車を見送りながら、喜びのあまり小さく跳びあがった。
 お昼になると沙苗はお茶葉を買いに出かける。

 はじめての一人でのおつかいだ。
 とはいえ、木霊たちも一緒に来てくれるから厳密に一人ではないけど。

「みんな。お手伝い、よろしくね」

 木霊たちが任せろと、沙苗の肩の上で飛び上がる。

 ――お店のたたずまいでお茶屋さんが分かればいいんだけど。

 こういう時に文字が読めないと苦労する。
 商店街は、たくさんの人たちが行き来している。

 ――人の流れを見過ぎると目が回りそう。

 沙苗と木霊たちはキョロキョロしながらお茶屋さんを探す。
 本当にたくさんのお店が並んでいる。
 これだけの品物を一体どこから調達してくるのだろう。

 ――こんなにたくさんの人たちがこの街には住んでるんだから、多すぎるっていうことはないのよね。きっと。

 木霊に服を引っ張られると、お茶屋さんがあった。
 文字は読めなくても、お店の前の急須の張り紙がある。

「教えてくれてありがとう」

 照れたみたいにもじもじする木霊の姿にくすっと微笑みつつ、お店の中に入る。

「ご、ごめんください」
「いらっしゃいませ!」

 元気な中年男性が迎えてくれる。

「お茶葉と、急須を頂きたいのですけど」
「かしこまりました。茶葉はどれにしましょう」
「どれ?」
「種類です。ご希望はありますか?」
「お茶って種類があるんですか?」
「地域ごとに特色があるんですよ。甘みがあったり、風味が他のものにくらべるとぐんっと良かったり、飲み口が軽かったり」
「え、えっと……」

 お茶は緑色の一種類とばかり思っていたから混乱してしまう。

「ちょっと若い人には分かりにくいたかな。おすすめでいいですか?」
「あ、お願いします」
「かしこまりました」

 店に並べられたお茶場をその場で袋詰めしてくれる。それから急須。
 算盤を弾き、見せてくれる。

「こちらになります」
「こ、これで足りますか?」

 沙苗はおずおずと、景虎にもらったお札を渡す。
 商品を受け取り、頭を下げて店を出た。

 ――買えたわ! はじめてのお買い物、大成功っ!

 さっそく明日の朝にでも、景虎に報告しよう。
 そんなことを考えながら元来た道を戻る。

「お客さん! おつり!」

 男性店員が駆けつけて、たくさんのお札を渡してくれる。

「お、おつり?」
「そうですよ。これ」
「こんなにたくさん受け取れません」

 男性店員が不思議そうな顔をしてくる。
 変なことを口走ったとさすがに気づき、「あ、ありがとうございます」と慌てて言う。
 男性店員は「またご贔屓に!」と元気よく見送ってくれた。

 どうにか誤魔化せたみたいだ。

 ――一枚しか渡してないのに、こんなにたくさん増えちゃっていいのかな……。

 さっきのお札とは絵柄が違うお札をまじまじと眺めながら歩く。
 その時、後ろから誰かがぶつかってきた。その拍子にお札を地面に撒き散らしてしまう。

「あっ!」

 せっかく無事に買い物を終えられたというのに、情けない。
 沙苗は這いつくばるように散らばったお札を集める。

 そんな沙苗の姿を、通行人たちが冷ややかに見ながら通り過ぎていった。
 景虎は馬車に揺られる。
 これから少し遅めの昼だ。

 しかし頭に浮かぶのは、沙苗の作ってくれた朝食のこと。
 どれもこれも丁寧に作られていた。

 もちろん外で食べる食事も丁寧に作られてはいるが、沙苗のとはまた違う。
 久しぶりに手料理を食べた気がした。
 それはどんな料理よりも美味しかった。

「大佐、今日は何を召し上がりますか?」

 向かいに座る三船が聞いてくる。

「鰻でも食うか」
「本当ですか!?」

 うなぎという言葉に、目を輝かせる三船に苦笑してしまう。

「……あれは、沙苗さんでは?」

 窓を覗くと、たしかに沙苗だった。地面に這いつくばり、お札をかき集めている。

「止めろ」

 景虎は馬車を止めると、下りていく。

「何をしてる」
「景虎様!?」

 景虎は膝を折ると、札や小銭をかき集め、手と手がふれないよう注意しながら渡す。

「ありがとうございます! でもどうして……お仕事では?」
「昼休憩中だ。沙苗こそこんなところで何をしている」
「お茶葉と急須を買ったんです。景虎様にお茶を飲んでいただきたくって」
「ひとまず乗れ」

 景虎は馬車を顎で示す。

「は、はい」

 三船が「朝方ぶりでございます」と律儀に頭を下げる。

「三船さん、こんにちは」

 沙苗は、景虎の隣に座る。

「……景虎様。お恥ずかしい姿を見せてしまいまして……」
「別に恥ずかしいとは思わない。ただちゃんと周りは見ろ。それから札は巾着にしまえ。あんな人通りの多いところで金を持ち歩けば襲ってくれと言っているようなものだ」
「……気を付けます」
「ところで昼飯は取ったか?」
「いいえ。まだです」
「鰻を食べようと思っているが、どうだ?」
「うなぎ……?」
「食べたことがないならちょうどいい」

 景虎は御者に命じて、鰻屋に横付けさせる。
 創業は江戸という由緒正しい古風な店構え。暖簾をくぐろうとすると、三船は「私は別のところで食べますので」と言い出す。

「変な気を遣うな」
「そういうわけには参りません。ご夫婦ともどもごゆっくり」

 三船はそそくさと立ち去ってしまう。

「……変に気を遣わせてしましました」
「まあいい。入るぞ」

 奥の座席に案内してもらう。卓につくと、店員がお茶を出してくれた。
 店の壁には、何か文字の書かれた短冊がかけられている。

「決まったか?」
「……景虎様と同じものを」
「俺は鰻重の松にしようと思っているが、量が多いぞ。食べられるのか? ちゃんと選べ」

 しかし沙苗の視線は落ち着かない。

「鰻がどんなものか不安なのか?」
「い、いえ。そういうことではなくって……」
「分からない料理があるのか? だったらどんなものか教えるから聞け」
「……あの、その……」

 歯切れ悪く、沙苗は縮こまる。朝方の快活な彼女とは大違いだった。

 ――まるで俺が叱りつけているようだな。少し威圧的すぎるのか?

 似たようなことは仕事でも経験したことがある。
 部下が何度も失敗するのでどうしてかを聞いているだけなのに、相手はますます恐縮して押し黙る。らちがあかないので気を付けろと言って解放すると、一臣から『お前はどうしてそう、問い詰めたがるんだよ。相手を追い詰めて楽しんでるのか?』そう指摘されたことがあった。

 景虎からすると疑問に思ったからただ理由を聞きたかっただけなのだが、客観的にはそうは見えないらしい。

 男でも萎縮するのならば、女であれば尚更かもしれない。

 景虎は咳払いをする。

「沙苗、何か分からないことがあるなら話してくれ」
 ちらりと沙苗は上目遣いで見てくる。まるで肉食獣の様子をうかがう小動物のようだ。
「知らぬことは恥ではない。聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥ともいうだろう」
「わ、私…………文字が、読めないのです」

 そう消え入るように沙苗は言った。

「何?」
「文字の読み書きが、できないのです。ですので、何と書いてあるのかが分からなくって……」

 さすがに耳を疑った。
 手習いくらい普通の子どもでさえ小学校で習うことだ。そこに田舎や都会の別はないはずだ。沙苗は仮にも華族の出。

 しかし読み書きができないというのであれば、うどん屋の品書きを眺めながら変な顔をしていた理由の説明もつく。

「……漢字が読めない、ということか?」
「かんじ?」

 そこからなのか。
 文盲を馬鹿にするつもりは到底ないが、予想外すぎてどう反応していいのか分からない。

 とはいえ、喋らせたのは景虎である。
 ここで景虎が黙っていては沙苗をさらに萎縮させるだけだ。

「あの短冊には鰻重と書かれている。ご飯の上にうなぎをのせたもの。その隣には、肝焼き。うなぎの内臓を串に刺して焼いたものだが、小食なら鰻重の梅にしたほうがいい」
「では……梅をお願いします」

 注文を終えて、間もなく鰻重が運ばれてくる。
 沙苗が食べ方が分からないだろうからと見本を見せる。

「これは山椒と言う薬味だ。量が多すぎると辛みが強くなるから、軽く振りかけるだけでいい。で、こっちは肝吸い。要するに味噌汁だな」

 沙苗は目をきらきらさせながらウナギを頬張る。

「どうだ?」
「おいしいです!」

 沙苗が美味しく食べる様子に、自然と、景虎は自分の表情が緩んでいることに気付き、引き締めた。

「このたれがすごく美味しいですし、うなぎもとてもふわふわしてて……。こんな美味しいものを食べさせていただいてありがとうございます!」
「いつでもというわけにはいかないが、時々くらいはな」
「……三船さんに申し訳ないです」
「あいつは自分の金でいつでも行けるから気にするな。それより文字の読み書きのことだが。お前が望むなら俺が教えてやる」
「え……」
「お前に話しづらいことを言わせたからな。どうする?」
「お願いしますっ」

 沙苗は笑顔になって身を乗り出す。

 ――ということは、やる気がなかったから学ばなかったということではないのか。体も弱くて学校に通えない……いや、男爵家であれば家でも教えられるか。

「ですが、お仕事もお忙しいのに、そんなことまでしていただいて大丈夫なんですか……?
「もちろん平日はつきっきりで教えることはできないが、平仮名……簡単な文字からはじめればいい」
「分かりました」

 沙苗がうなずくと、木霊たちが頑張れと応援するように、飛び跳ねる。

「……それにしても、木霊はまるでお前の親のようだな。お前をだいぶ気に掛けているように見える」
「ふふ、そうなんです。親……そうですね、本当に親みたいな存在かもしれません」

 沙苗は嬉しそうにはにかんだ。
 その笑顔を見た刹那、小さく鼓動が弾み、はにかんだ沙苗の顔に見とれた。

「みんな、私にとっては本当に大切な子たちなんです。景虎様にはたくさんいるあやかしのうちの一つににすぎないとは思うのですが……この子たちが支えてくれたから、私は……」

 沙苗は何かを思い出したように、その顔を少し歪めた。しかしすぐにその痛みの表情はなくなる。

 食事を終えると、遠慮する沙苗を無理矢理馬車に乗せて自宅まで送り届け、庁舎へ戻る。

「おーい、大佐殿ぉ~。昼休みはとっくに終わってるぞ~」

 執務室に戻ると、なぜか一臣が部屋にいた。ふんぞりかえって椅子に座り、机に両足をのせている。

「どけ。そこは俺の席だ」
「嫌だ……って、なんで刀に手をかけるんだよ! あぶねえな。俺はあやかしじゃないぞ」
「俺にとってはあやかしと同じく、煩わしい存在だ」
「言うねえ」

 一臣はにやつく。

「いい加減に……」
「聞いたぞ。奥さんと密会してたそうだな」
「婚約者だ。三船から聞いたのか」
「ああ。なかなか口を割らなかったから問い詰めて聞き出した」
「……お前というやつは」
 三船は忠義に厚く、口が硬い。だから秘書に登用したが、一臣には勝てないだろう。
「お前と出ていったのに一人で戻ってきたから心配したんだよ」
「嘘をつくな」
「で、楽しかったのか?」
「昼を一緒に取って、家まで送り届けてきただけだ。お前が期待するようなことは何もない」
「へえ、俺が一体何を期待してると思ってるんだぁ?」
「下世話なこと全般だ。本気でどけ」

 一臣が苦笑しながら席を立った。

「ま、色々とうまくいってるみたいで、俺としては嬉しいよ」
「これ以上、勘ぐるな」
「勘ぐるだろう。お前、部屋に入ってきた時、機嫌が良さそうだったぞ」
「適当なことを言うな」
「本当だって」

 景虎は一臣を追い出すと、席に着いて書類を引っ張り出す。

 それからも一臣は何かと話しかけてきたが、無視していると肩をすくめて、部屋を出ていった。

 ――機嫌がいい? 良くなる理由がないだろう。
 翌朝、沙苗は朝から煮物を作ることにした。

 昨日までは景虎が朝食を食べてくれるとは思わなかったから焼き魚にしていたが、景虎は肉が好きだ。
 ただ沙苗は肉を使った料理を知らない。
 花嫁修業として教えられた料理は魚と野菜を使ったものばかりだった。

 色々と悩んだ末に、筑前煮に牛肉をいれようと思った。
 味を染みこませれば、きっとお肉も美味しくなるだろう。

 いんげんに蓮、しいたげ、にんじん、大根などのあく抜きをおこない、酒、醤油、みりを混ぜた煮汁でしっかり煮込む。
 本当は時間をおいて味をしっかり染みこませたほうがより美味しいのだが、景虎は朝食しか食べられないから仕方がない。

 ――うまくできた。

 あとは景虎が起きてくるのを待つだけだ。
 そこへ足音が聞こえて来た。

「おはようございます、景虎様」
「おはよう」

 沙苗はご飯と味噌汁、それから筑前煮を食卓に並べる。

「今日は煮物か」
「私が知っている中で、お肉をいれられそうな料理が煮物しかうかばなかったので」

 景虎は煮物に箸を付ける。

「いかがでしょうか」
「……煮物を食べるのは久しぶりだが、うまいな」
「お気に召していただいて良かったです」
「お前も食べろ」
「よろしいのですか?」
「お前がいやでなければ」
「ご一緒させていただきまっ」

 自分の分のご飯と味噌汁を持って来ると、煮物をおかずに食べる。

 ――景虎様と一緒に朝食を食べられるなんて。

 外食とは違って、自分の作ったものを囲んで食事をしていると、家族だという実感が湧いてくる。こんな風に卓袱台を囲んで食事をしているというささやかなことにも、幸せを感じられた。

 食事を終えて空いた器を下げると、さっそく購入したお茶を淹れる。

「どうぞ」
「すまん」
 景虎は緑茶に口をつける。
「少し濃いめだな」
「あ、本当ですね。すいません。淹れ直して……」
「そこまでする必要はない。目が覚めるからちょうどいい。それより、昨日のことだ。お前の読み書きについて」

 景虎はかたわらにおいていた紙の束を食卓へ置く。
 そこには色々と書き込まれていた。

「とりあえず空いた時間で文字の練習ができるように考えた」

 紙には、絵と一緒に何かが書かれていた。

「この絵が何だか分かるか?」
「……犬、ですか?」
「そうだ。隣に書かれているのは『いぬ』という平仮名、その隣のは片仮名で『イヌ』。最後にこれが、漢字で『犬』」
「この列の言葉は、ぜんぶ、同じ犬という意味を表しているということですか?」
「そうだ。で、その次のこれは?」
「猫……でしょうか」
「同じように平仮名、片仮名、漢字で、それぞれ『ねこ』と書かれている」
「……景虎様」
「わかりにくかったか?」
「いいえ。すごく分かりやすいです! それに、とても絵がお上手なんですね!」
 沙苗が目をきらきら輝かせながら褒めると、景虎はばつが悪そうな顔をする。
「絵はそれが何を意味するのか分かればいい。別にうまく描こうと思ったわけじゃない」
「でも上手だと思います。木霊たちもうまいって褒めてますから」

 景虎は何と反応したらいいのか分からず、微妙な顔をする。

「問題はそこじゃない」
「あ、そうですね。失礼しました……」
「片仮名と漢字のほうは後回しで、平仮名だけでもしっかり覚えれば、街中でも困らないはずだ。帝都で生きていくには、読み書きができないのは、何かと不便だろうからな」

 それから、景虎は縦長の箱を机に置いた。

「これは習字道具だ。使い方を教えるから覚えろ。これが筆。こっちが硯《すずり》。こうして水を垂らし、この墨を水に馴染ませるように擦る。だいたい墨の匂いがただよいはじめたら、それでいい。水が足りないと思ったら少しずつ接ぎ足せ。そうしてここに墨が溜まったら、筆をこうして浸けて紙に文字を書く。分かったか?」
「はい」

 真剣な顔で眺めていた沙苗はうなずく。

「筆はこうして立てて書く。墨はあまりつけすぎるな。これくらいでいい。書き上げられたら、俺の文机においておけ。仕事から帰ったら確認する」
「え!」
「そう、緊張するな。お前がどの文字が苦手で、どの文字が得意なのかを知りたいだけだ。下手だからと言って、叱責するために見るわけじゃない」
「それはすごく嬉しいのですが……」
「なら、何が問題だ?」
「ただでさえ夜遅くにお帰りにられるのに、そんなことまでしてもらうのは……申し訳なくって……」
「俺が教えると言ったんだ。やるべきことはちゃんとやる。お前は文字の読み書きを覚えることだけを考えていればいい」
「分かりました」
「あと、片付けは筆を水でよく洗って乾かせばいい」

 沙苗は景虎に言われたことを、頭の中にしっかり刻み込む。

 沙苗がちゃんと覚えていられるのか心配なのか、木霊たちもふむふみと頷くような素振りで、景虎の言葉を聞いていた。

「言っておくべきことは以上だ。それから焦るな。最初からうまくはできないし、覚えられないのが普通だ。毎日少しずつでもいいから続けろ」

 景虎がここまで色々と教えてくれることが嬉しく、沙苗ははにかんだ。
 その時、玄関から三船の「おはようございます! お迎えにあがりました!」という声が響く。

 いつものように門前まで景虎を見送る。

「景虎様、いってらっしゃいませ」
「いってくる」

 三船にも頭を下げ、馬車を見送った。

 それから屋敷へとって返す。自分の部屋で汚れてもいい服に着替え、それから居間に戻って文字を書く練習をする。
 正座をして背筋を伸ばして、大きく深呼吸をする。

 景虎が書いてくれた見本を前にして、これまで知らなかった世界に触れられるという予感に胸が弾んだ。
 こんなわくわくする気持ち、生まれてはじめてかもしれない。

 まずは『いぬ』から。
 沙苗のためだけに書いてくれたお手本。
 描かれている犬の絵を見ているだけで、微笑ましさに口元が緩んだ。
 絵がうまいと言ったのは本音だ。
 沙苗自身は絵を描いたことは一度もないけれど、景虎ほどうまく描ける自信はない。

 厳格で、感情らしい感情をみせない景虎が、沙苗のためにこうして描いてくれていると思うだけで嬉しい。

 沙苗は景虎から教わったことを思い出し、まずは墨を擦る。
 そんな他愛のないこと一つとっても、新鮮だ。粘り気のある墨が広がる。水を少し追加し、そしてまた擦る。硯に墨が溜まっていく。

 筆を墨につけ、紙に書く。

「い、ぬ……」 

『い』はうまく書けるのだが、『ぬ』がなかなか曲者だ。
 くるんと丸まった尻尾のような部分がかなり難しい。
 それでもどうにか書ききる。

「……ど、どうかな?」

 木霊たちに文字を見せるが、もちろん人間の文字のことなんて分からない彼らはどう反応していいのか少し困っていた。

「……下手だよね」

 文字はよれよれで、景虎の書いてくれたお手本とは比べるのもおこがましい。
 気持ちが沈みそうになるが、頭を振って弱気を追い出す。

 ――すぐには上達しない、毎日少しずつでもいいから続けろって、景虎様も仰っていたもの。

 沙苗はまた別の紙に練習をする。

 自分のため、そしてこんな自分に時間を割いてくれている景虎のために。
 景虎が帰宅する。
 屋敷はしんっと静まり返っているが、沙苗が来る前とは少し雰囲気が変わったように思えた。

 一人で暮らしていた時、家に入ると出迎えたのは寒々とした冷気だったが、今はその空気がいくらか柔らかくなっているような気がした。

 うっすらと漂う甘いかおりは、沙苗のものだろうか。
 いつの間にか、自分以外の誰かが家の中にいることに馴れていることに驚いた。
 まだ沙苗が帝都に来て一ヶ月と経っていないというのに。
 沙苗の作ってくれた朝食を食べていることも含めて。
 沙苗が来るまでは、景虎にとって家というのはただ寝て起きるためだけの場所だったはずなのに。

 結婚せよ、というこれまで聞いたことがないような種類の勅命が下ったことを知った時、景虎は固辞した。
 今から思えば、帝からの命を固辞するなど考えられない不敬をしたものだ。
 しかし当時の景虎は必死だった。
 自分に誰かを幸せにする余裕などない。
 誰かと一緒に暮らすということそのものも、わずらわしさ感じられない。
 仮に無理矢理、結婚をしたとしても、妻になるだろう人を不幸にするだけなのだと、言いつのった。
 しかし帝は『天華の家を絶やすわけにはいかぬ。それに心に負った傷を癒やしてくれるのは時間ではなく、人の温もりだ』そう言われたのだ。
 帝はきっと、当時の己の身をかえりみず、一心不乱にただあやかしを斬るためだけに生き続ける景虎に、危うさを感じたのかもしれない。

 正直、今の景虎も当時とさほど変わってはいない。
 ただ当時よりも多少だが、周りが見えるようになった。
 部隊の指揮官の職をうけたからかもしれない。
 自分がいたずらに動けば、それだけ周りを巻き込み、傷つけてしまうという自制が無意識のうちに働くようになった。

 沙苗を起こさぬよう、できるかぎり足音を殺して書斎に入る。

 しっかりと畳まれた浴衣が置かれていた。
 一人で暮らしていた時は洗濯する時間も余力もなかったから、汚れた衣服はそのまま捨て、新しいものを買うようにしていた。
 でも今は洗われ、しっかり畳んでおいてある。
 軍服から浴衣に着替える。ほんのりと石鹸の香りがした。
 衣服から漂う石鹸の香りを嗅いだのは、どれくらいぶりだろう。

 そんな感慨を覚えながら浴衣に着替えると、座椅子に座る。
 文机に紙が積まれていた。五十枚くらいはあるだろうか。

 ――ずいぶん頑張ったものだ。

 初日だからというのもあるのかもしれない。
 それでも構わない。やる気があることは悪いことではないから。

 一枚一枚目を通す。
『いぬ』や『ねこ』、『はと』、『とけい』などなど、つたない文字が書かれている。

 ――小学校の教師にでもなったような気分だな。

 紙に書かれた平仮名を見ていく。
 一生懸命書いたことが伝わってくる。
 筆の使い方は別に教えたほうがいいかもしれないが、今は読み書きだけでいいだろう。
 一度に色々と教えても困らせるだ。

「ふっ……」

 景虎は自分の口から意識せず、もれた微笑の息遣いにはっとする。

 ――俺は今、笑ったのか……?

 それはもちろん、沙苗の書いた文字が下手だから笑ったというのではない。
 自然と頭の中に真剣な顔で黙々と平仮名の練習をする沙苗が思い浮かび、微笑ましいと感じたのだ。
 その拍子に、ふっと笑みがこぼれたのだった。

 今さらながらに唇を引き結ぶ。
 そうしなければならないような気がしたのだ。
 朝食を食べ終え、沙苗は湯飲みにお茶を注いで差し出す。

 ありがとう、と景虎は言い、口をつける。

「いかがですか? 昨日が濃すぎたので、すこし薄めに淹れてみたのですが」
「これくらいなら丁度いいな」
「分かりました。じゃあ、明日からこれくらいの濃さにしますね」
「それから……」
「はい?」

 景虎は大きく『ぬ』と書かれた紙を卓袱台においた。

「昨日、お前が書いたものをみせてもらった」
「ど、どうでしたか?」

 どきどきする。

「よく書けてる。はじめてにしては上出来だ」
「本当ですか!? 嬉しいです!」

 沙苗はついつい気分が高揚するあまり、大きな声を出してしまう。

 はっとし、「し、失礼しました」と今さら口を閉じた。

「構わん。『ぬ』が苦手のようだから、手本にできるように書いてみた」
「ありがとうございます!」

 沙苗は、景虎の書いてくれた『ぬ』をまじまじと見つめる。

「さすがは景虎様! とても綺麗です……!」

 こんな風に自分も書けたらいいのに。
 いや、書けるように頑張ろうと、ますます文字の読み書きへのやる気があがる。

 景虎はきょとんとした顔をする。

「景虎様? どうされたんですか?」
「あ、いや……」
「すみません。私、少しはしゃぎすぎてしまって……恥ずかしい姿を見せてしまいました」
「それでやる気があがるのなら、それに越したことはない」

 景虎は緑茶を飲み、もう一枚の紙を卓袱台におく。

「ところで聞きたいことがあるんだが、これはなんだ?」
「え! どうしてそれを!」
「お前が自分で俺の文机においたんだろう」
「……それは間違いです! 置くつもりはなくって……あの……す、捨てるつもりでした!」

 きっと後で捨てようと思っている間に、そのことをすっかり忘れて、他の紙と一緒に文机においてしまったのだろう。

 沙苗は恥ずかしさのあまり、その紙を掴もうとするが、それよりも景虎がとりあげるほうが早かった。

「それはそれだ。ここに描かれているものは何だ? 純粋に疑問に思ったんだ」
「それは……あの…………です」
「? よく聞こえなかった」

 俯き気味の沙苗は顔が、どんどん火照る。

「……い、犬でございます!」

 景虎は、まぢまぢと紙を見る。

 ――景虎様、そんなによーく見ないで下さい……!

 穴があったら入りたいというのはまさにこのこと。

「お前もなかなか絵心があるようだな」

 景虎はあいかわらずの心のうちを読ませない無表情だったが、心なし声が高くなってる気がする。

 燃えるように頬が火照る。

「か、からかわないでください……。何度かこっちのほうも練習してみたのですけど、景虎様のようにうまくはいきませんでした」
「絵は練習する必要はないだろう」
「で、ですから、これは落書きだったんです……」
「ま、こっちもうまくかけたら見せてくれ」
「……い、意地悪です」
「そうか? 俺はおまえが提出してくれたから講評しただけだ」

 二人の間にやわらかな空気が流れる。

 ううう、と沙苗は俯く。

 ――どうしてこういう時に、三船さんが来てくれないの!

 関係ない、景虎の秘書に当たってしまう。

「帝都はどうだ?」

 不意に話が変わった。

「そうですね。あいかわらず人がたくさんで眼が回ってしまいそうです」
「まあ、里から来たんだ。馴れないのは当然か。相談だが、今週の日曜は非番なんだが、もしお前に何も予定がなければどこかへ出かけないか?」
「! 出かける……? ど、どなたと、ですか?」
「俺とお前に決まってるだろう」
「か、景虎様とご一緒に?」
「そう言ってるだろ。お前が嫌でなければ」
「嫌だなんて! ぜひ、お願いします!」
「分かった。どこに行きたいか、何をしたいか、考えておけ。できるかぎり、お前の要望を叶えよう」
「ありがとうございますっ」
「これも契約の一環だからな」
「そうなんですか?」
「帝都が嫌になって、逃げられても困る」
「そんなことしませんけど」
「可能性の話だ」

 契約結婚の維持のためとはいえ、景虎から提案してくれることが嬉しい。
 理由はどうあれ、彼の大切な時間を沙苗のために使ってくれるというのだから。

 そこへ、いつものように三船が迎えに来る。

「行ってくる」

 景虎はそう言って立ち上がった。
 いよいよやってきた非番の日。

 沙苗はこの家へやってきた時に着ていた着物をまとう。これが一番、手持ちの中で華やかだったからだ。
 平仮名の練習はこつこつやっていた。

 景虎にも『ぬ』が上達してきたと褒められていたし、平仮名であればつっかえつっかえながらではあるが、読めるようにもなっていた。

 昨日より今日、今日より明日。
 一つ一つこれまで知らなかったことを覚えられている、成長できている自分と出会えることが嬉しい。

 もちろん座敷牢にいた当時も木霊たちからこの世界のことを聞いたりしていたけれど、あの時はただ話を聞いているだけで、沙苗自身、何かが出来るようになったというわけではない。でも今は毎日こつこつ読み書きの練習を行い、できることが増えていることを実感できていた。

 今の沙苗は、これまでの人生もっとも充実した日々を過ごしていると言っても過言ではない。

 それも今日は、景虎とのお出かけ。

 ――幸せすぎて怖い……。

「沙苗、準備は?」

 襖ごしに声をかけられる。
 沙苗。そう景虎に呼びかけてもらえるだけで、頬が火照った。

「はい、もう大丈夫です」

 景虎が部屋に入ってくると、沙苗は言葉を失う。
 彼は山高帽に、紺色の洋装姿。
 特に彼のすらりとした体格によく合う。

 軍服のような堅さがなく、普段より親しみが持てる。
 部屋で過ごす時の和服もいいが、洋装も似合う。とにかく景虎は体格がいいからどんな服でも着こなせるようだ。

「今日の予定なんだが徒歩だと難しいから、自動車を運転するつもりなんだが、平気か?」

 街を見て回りたいとお願いしたいのは、沙苗だ。

「もちろんです」
「気分が悪くなったら言えよ」
「はい」
 行こう、と景虎は歩き出した。沙苗はそのあとをしずしずとついていく。



 自動車で帝都の中心地へ向かう。

 沙苗が酔ってしまわないよう慮ってくれているからか、自動車はゆっくりと走った。

 沙苗たちが住んでいる地域は木造の平屋が多いが、中心地に行けばいくほど煉瓦造りで背の高い建物が目立つようになる。

「あれは何ですか?」
「路面電車。乗り合い馬車のようなものだな」
「あれも、エンジンで動いているのですか?」
「いや、電気だ」
「電気って灯りに使っている? あんな大きなものを動かすものにまで使えるんですね……帝都はやっぱりすごいです……」

 沙苗はまるで子どものように、きょろきょろしてしまう。

「あそこにある、赤くて大きな建物はなんですか?」
「浅草十二階という建物だ。最上階が展望台になってるんだ。のぼってみるか?」
「あんなに高い建物に登れるんですか!?」
「行ってみるか」
「いえ、そんな……大丈夫です。寄り道なんて……」
「帝都を知りたいんだろう。高いところから見れば、分かるだろう。それに今日くらい天気がいいと見えるかもな」
「見える……? 何がですか?」
「行ってからの楽しみだ」

 建物の下に到着すると、その高さにあらためて唖然としてしまう。

「すごい……」
「見上げすぎて、ひっくり返るなよ」
「そ、そこまでおっちょこちょいではありません」
「そうか?」

 景虎がすぐそばにいることを思い出し、沙苗は頬を赤らめた。

 塔に入る門も立派だ。

「昇るのは大変そうですね。あんなに高いところまで階段ではあがれそうにないです」
「エレベーターがあるから平気だ」
「えれ……?」
「説明するより、実際に乗ってみたほうが早い」

 入場料を支払い、金属製の小さな部屋の中に入る。

「あの、階段がないみたいですけど」
「いいから、じっとしていろ」
「は、はあ……」

 その時、ウウウンという駆動音は、小さな空間を揺さぶった。

「景虎様!?」
「落ち着け。大丈夫だ」

 沙苗の全身が浮遊感に包まれる。背筋がぞわぞわして、「ひゃ」と小さな声が思わずこぼれ、慌てて口を閉じた。

 扉が開く。沙苗は奇妙な感覚のする狭い空間から早く逃げたくて、部屋を飛び出す。
 しかし眼前に広がるのは地上ではない。

 遠くのほうまで広がる街並みと、手を伸ばせば届きそうなくらい近い空。

「景虎様!?」
「あっという間だっただろう。これがエレベーターだ」
「ど、どうなってるんですか?」
「あの箱が人を乗せて地上からここまで持ち上げるんだ」

 仕組みを聞いても、沙苗にはちんぷんかんぷん。
 エレベーター内で経験した、背筋のぞわぞわするような奇妙な感覚がどうでもいいと思えるくらい高い所から見る景色は素晴らしかった。

 これまでの経験で、一度も見たことがない視点だ。
 親に肩車をされてはしゃぐ子どもが羨ましい。

 ――私も子どもだったら、もっと大きな声を上げられるのに!

 帝都というのは本当に大きな街なんだと、こうして高いところから望むと実感する。人のちっぽけさも。

「あれを見てみろ」

 景虎が指さすほうを見ると、てっぺんが白い大きな山が見えた。

「あの山が、日本一の富士の御山だ」
「あれが……富士、なんですね。木霊たちが言ってました。一度は行ってみたいって。富士はとても霊験あらかたで、あやかしの聖地でもあるって」
「そうなのか? それは初耳だな。感想は?」
「すごいです。本当に」

 沙苗は展望に見入った。
「……すみません」

 建物を離れる自動車の中で、沙苗は頭を下げた。

 展望台からの景色に夢中になるあまり、気づくと、一時間が経っていたのだ。
 いくら見る物すべてが素晴らしいからと言って、長時間滞在しすぎてしまった。
 きっと景虎にとっては見飽きた光景だっただろう。

「お前に街案内をするのが目的なんだ。遠慮をするな」

 自動車は街中を離れ、川沿いを進んでいく。
 土手にはたくさんの木々が植えられていた。

「あの木は何て言う種類ですか?」
「桜だ」
「桜! あれが……」
「桜が好きなのか?」
「はいっ」

 あくまで、木霊たちから聞いた限りではあるけれど。

「なら、花が咲く頃にまたこのあたりに来るか」
「いいんですか?」
「見たいんだろ。屋敷のそばには桜がないからな」
 自動車はとある店の前で停まった。
「こちらは?」
「これが、出かけた目的の一つだ」

 店先には美しい反物や着物が飾られている。
 風格のある店構えに、沙苗は気後れを覚えてしまう。

「何をしている?」
「あ、今、行きます」

 暖簾をくぐると、「いらっしゃいませ」と店の奥から恰幅のいい女性が出てくる。女性は眼を輝かせ、「お坊ちゃま!」と明るい声を上げた。

「藤菜、その呼び方はやめてくれ。俺ももう、いい大人だ」
「申し訳ございません。つい……。それにしても、呉服屋に洋装でいらっしゃるなんて、なにかの嫌がらせですか?」
「そう意地の悪いことを言うな。草履だと運転がしにくいんだ」

 ――景虎様が笑ってるいらっしゃる!

 笑顔というより、微苦笑なのだが、それでも表情の乏しい彼がここまで表情を変えるなんて驚きだ。それに、二人の距離感にも。

「まあ、そういうことでしたら許しましょう。ところで、そちらの方は?」
「婚約者だ」
「よ、よろしくお願いいたします……」
「まあ! よろしくおねがいいたします! つだ屋の女将の津田藤菜と申します」
「沙苗と申します」
「沙苗さん。とても素敵なお名前ですねえ」
「あ、ありがとうございます」
「俺の婚約者だ」
「まあ! ふふ、可愛らしい方。お坊ちゃまとお似合いですね。ところで、今日は何を仕立てましょう」
「沙苗に似合う色留袖、それから小物を一通り揃えて欲しい」
「え、そんな結構です。着物なら、里より持ってきましたものが」
「分かっている。しかしあれはどれもこれも年季が入っている。せっかく帝都へ来たんだ。新しい着物を仕立てて悪いことはないだろう」
「ですが」
「もちろん愛着がある着物を着るなとはいわない。だが別の着物も持っていてもいいだろう。今後、結婚すれば、面倒な集まりに参加しなければならないこともあるかもしれない」

 ――結婚……。

 景虎からしたら何気ない言葉に、沙苗はドキッとした。
 藤菜は沙苗を座敷へ招くと、様々な色や柄で彩られた反物を並べる。
 どれも目の覚めるような美しさだ。

「素敵……」
「ホホホ。分かっていただけて光栄でございます。どれもこれも熟練の職人が染め上げたものなんでございますよ。これからの季節で言いますと、薄紅や撫子、萌黄や花緑青などのお色、柄ですと菖蒲や牡丹などもよろしいかと」

 見本の色留袖を見せてくれるから、反物だけでは想像しにくい完成品の想像もしやすい。

 世の中にはこれほどまでに様々な色があったのかと、圧倒されてしまう。
 今日はほんとうに驚きっぱなしだ。

「沙苗、さっきからため息ばかりついているが、気に入らないか?」
「違います。逆です。すごすぎて……すみません。決められなくて」
「そう言っていただいてこちらとしても嬉しいです。では、柄だけお好きなものを選んで頂いて、色はこちらに任せていただくというのはいかがですか?」
「それでお願いします」

 柄は梅紋、それから花筏、牡丹を選んだ。

「では次に小物ですね。沙苗様。こちら、簪でございます」

 たくさんの種類を見せても迷うだけだと藤菜ができるかぎり候補を絞ったものを差し出してくれるが、それでもやっぱり迷う。

「俺は全部でもいいが」
「景虎様。一点じっくり選んだものを決められたほうが、愛着も湧くというものですよ。もちろん私どもも商売ですから、結果的にすべて購っていただくことは大歓迎ですけれど」

 綺麗にならべられた簪を見つめる。どれもこれも素敵な作りだ。
 造花、透かし彫り、螺鈿とさまざまな種類の簪の数々に、心を奪われる。

 ――ぜんぶ素敵だけど……私に似合うのかな。

 さきほどの着物もそうだが、身につけるのが自分では、どんなに素晴らしいものも色褪せるのではないかという不安に襲われてしまう。

「迷いますか?」
「そ、そうですね」
「でしたら、その簪をつけた姿を一番見て欲しい人に決めてもらいましょう」
 沙苗は、景虎を振り返った。
「俺か?」
「坊ちゃんの婚約者様なんですから、当然でしょう」
「だから坊ちゃんはやめろ。……だが、俺が決めて本当にいいのか?」
「お願いしますっ」

 そうだな、と呟きながら、景虎は簪と沙苗の顔を交互に見ると、鼈甲で蝶の透かし彫りがされているものを手に取る。

「これはどうだ? 似合いそうな気がする」

 藤菜も大きく頷く。

「さすがは坊ちゃん、趣味がいいです。どうぞ、鏡です」

 景虎は自然な動作で、簪を髪に挿そうとする。

「だ、だめです!」

 沙苗は思わず大きな声を上げてしまう。
 景虎の手がぴくっと震えて、髪に触れるすんぜんで止まる。

「……そうだったな。藤菜、頼めるか」
「え? 私でよろしいのですか?」

 藤菜は戸惑いつつも、沙苗が「お願いします」と頼むので、不思議そうな顔をしながらも髪に挿してくれる。

「いかがですか?」

 藤菜が景虎を振りかえる。

「よく似合っているな」
「私もそう思います。大変お似合いです。では、沙苗さんの採寸などをおこないますので、坊ちゃんはこちらで待っていて頂いてよろしいですか?」
「分かった」

 沙苗は、奥の部屋へ案内される。
 着物を脱いで肌襦袢姿になると、採寸をしてもらう。

 二人きりになると、他人と接する機会の少ない沙苗はどうしても緊張してしまう。

 ――今の、変に思われたかな。

 婚約者に触れられるのを嫌うなんて。
 咄嗟のことだったから、つい大きな声をあげてしまったのもまずかった。

 ――あとで景虎様に、謝らないと。

「どうされました?」
「本当にあの着物、私が着ていいのだろうかと思ってしまって。あまりに綺麗すぎて……もっと似合う方がいらっしゃるんじゃないかと……」
「老婆心ながら、どんな服や装飾も似合うようになる方法を、お教えしてもよろしいですか?」
「そんな方法があるんですか?」
「ございますともっ」

 藤菜はにこりと微笑んだ。

「笑顔、でございますよ」
「笑顔?」
「左様です。どんなに入念に着物や装飾品を選んでいても、それを着られる方が笑顔を忘れてしまったら、魅力が色褪せてしまうものなんです。反対に言えば、笑顔さえ忘れなければ、どんな服装をしようとも魅力がなくなるということは絶対にありえない、ということです」
「笑顔……」

 その言葉は、沙苗のこれまでの生き方からはかけ離れたもの。

「その考え、とても素敵ですね」
「まあこれは先代女将からの受け売りなんでございますけどね。でも経験上、どれほど美しい方もぶすっとしていては魅力が大きく減ることは間違いございません」

 景虎が自分に買ってくれたのだ。それに相応しい人間になりたいし、買ったことを後悔させたくなかった。

「ありがとうございます。肝に銘じます」
「今、お坊ちゃんのことを思い浮かべました?」
「え」
「やっぱり。今の微笑み、とても素敵でしたよ。その微笑みがあればどんな服装も立派に着こなすことができること、請け合いです。ですから自信をもってくださいね。ふふ。沙苗さんは果報者ですよ。あんな素敵な方に嫁げるなんて」
「そうですね。本当に。ところで」
「はい?」
「藤菜さんは、景虎様ととても親しいように見えたのですが。坊ちゃんと呼んでいらっしゃいますし……」
「左様でございます。天華家の方々には先代様の頃より、懇意にしていただきましたので」
「じゃあ、景虎様のことも?」
「ええ。子どもの頃からよく知っております」
「……景虎様の子どもの頃はどんな方でしたか? 今みたいにしっかりされた子でしたか?」
「今と同じ表情を表に出すのはあまり得意ではないようでしたが、子どもとは思えないくらいしっかりされていたお子さんでしたよ。年上のはずの私がそれこそ、子ども扱いされるほど」
「さすがは景虎様です!」

 沙苗は心の底から感心した。やっぱり、あれだけしっかりされている方は子どもの頃から違ったのだ。

 藤菜がくすっと笑う。

「私、変なこと言いましたか?」
「いいえ。あやかしを狩る家という傍から見たら怖ろしいものに見えるのか、あんな家と関わって大丈夫なのかとよく言われたものでした……。ですから沙苗さんのように表情を輝かせる方ははじめてだったので」
「そ、そうですか……」
「だから、沙苗さんのような方が婚約者になっていただき、景虎様を昔から知る者としてとても嬉しいんです。あんなことさえなければ、天華家にとってとても素晴らしい出来事であったはずなのに」

 その呟きは沙苗へ聞かせるためではなく、つい口からこぼれてしまったという風に聞こえた。

「それはどういう……」

 藤菜ははっとし、「余計なことを言いました。今のは……忘れてくださいませ」とそれまでの和やかさが嘘のように、口ごもってしまう。

「あ、はい……」

 沙苗は曖昧にうなずく。
 採寸を終え、景虎のもとへ戻る。

「終わったか」
「はい」
「では、着物ができあがりましたら、小物ともども届けさせていただきます」
「あ、簪はこのままつけていてもいいですか?」
「そうしろ」
「ええ、とてもお似合いですから」

 藤菜に礼を言って店を後にした。

「景虎様、さきほどは大きな声を出してしまってすみませんでした」
「俺のほうこそ迂闊だった。止めてくれて助かった」

 自動車に乗りこむと、出発させる。
 沙苗はさっきの藤菜の言葉を思い出す。
 あんなことがなければ。

 ――あれはどういう意味だったのかな。

 広いお屋敷に一人で住んでいることと何か関係があるのだろうか。

 しかし結局、聞けなかった。半妖でありながらも特別に許されて一緒に住んでいる自分のような者が軽々しく聞いていいことではない、そう思ったからだ。