景虎は馬車に揺られる。
これから少し遅めの昼だ。
しかし頭に浮かぶのは、沙苗の作ってくれた朝食のこと。
どれもこれも丁寧に作られていた。
もちろん外で食べる食事も丁寧に作られてはいるが、沙苗のとはまた違う。
久しぶりに手料理を食べた気がした。
それはどんな料理よりも美味しかった。
「大佐、今日は何を召し上がりますか?」
向かいに座る三船が聞いてくる。
「鰻でも食うか」
「本当ですか!?」
うなぎという言葉に、目を輝かせる三船に苦笑してしまう。
「……あれは、沙苗さんでは?」
窓を覗くと、たしかに沙苗だった。地面に這いつくばり、お札をかき集めている。
「止めろ」
景虎は馬車を止めると、下りていく。
「何をしてる」
「景虎様!?」
景虎は膝を折ると、札や小銭をかき集め、手と手がふれないよう注意しながら渡す。
「ありがとうございます! でもどうして……お仕事では?」
「昼休憩中だ。沙苗こそこんなところで何をしている」
「お茶葉と急須を買ったんです。景虎様にお茶を飲んでいただきたくって」
「ひとまず乗れ」
景虎は馬車を顎で示す。
「は、はい」
三船が「朝方ぶりでございます」と律儀に頭を下げる。
「三船さん、こんにちは」
沙苗は、景虎の隣に座る。
「……景虎様。お恥ずかしい姿を見せてしまいまして……」
「別に恥ずかしいとは思わない。ただちゃんと周りは見ろ。それから札は巾着にしまえ。あんな人通りの多いところで金を持ち歩けば襲ってくれと言っているようなものだ」
「……気を付けます」
「ところで昼飯は取ったか?」
「いいえ。まだです」
「鰻を食べようと思っているが、どうだ?」
「うなぎ……?」
「食べたことがないならちょうどいい」
景虎は御者に命じて、鰻屋に横付けさせる。
創業は江戸という由緒正しい古風な店構え。暖簾をくぐろうとすると、三船は「私は別のところで食べますので」と言い出す。
「変な気を遣うな」
「そういうわけには参りません。ご夫婦ともどもごゆっくり」
三船はそそくさと立ち去ってしまう。
「……変に気を遣わせてしましました」
「まあいい。入るぞ」
奥の座席に案内してもらう。卓につくと、店員がお茶を出してくれた。
店の壁には、何か文字の書かれた短冊がかけられている。
「決まったか?」
「……景虎様と同じものを」
「俺は鰻重の松にしようと思っているが、量が多いぞ。食べられるのか? ちゃんと選べ」
しかし沙苗の視線は落ち着かない。
「鰻がどんなものか不安なのか?」
「い、いえ。そういうことではなくって……」
「分からない料理があるのか? だったらどんなものか教えるから聞け」
「……あの、その……」
歯切れ悪く、沙苗は縮こまる。朝方の快活な彼女とは大違いだった。
――まるで俺が叱りつけているようだな。少し威圧的すぎるのか?
似たようなことは仕事でも経験したことがある。
部下が何度も失敗するのでどうしてかを聞いているだけなのに、相手はますます恐縮して押し黙る。らちがあかないので気を付けろと言って解放すると、一臣から『お前はどうしてそう、問い詰めたがるんだよ。相手を追い詰めて楽しんでるのか?』そう指摘されたことがあった。
景虎からすると疑問に思ったからただ理由を聞きたかっただけなのだが、客観的にはそうは見えないらしい。
男でも萎縮するのならば、女であれば尚更かもしれない。
景虎は咳払いをする。
「沙苗、何か分からないことがあるなら話してくれ」
ちらりと沙苗は上目遣いで見てくる。まるで肉食獣の様子をうかがう小動物のようだ。
「知らぬことは恥ではない。聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥ともいうだろう」
「わ、私…………文字が、読めないのです」
そう消え入るように沙苗は言った。
「何?」
「文字の読み書きが、できないのです。ですので、何と書いてあるのかが分からなくって……」
さすがに耳を疑った。
手習いくらい普通の子どもでさえ小学校で習うことだ。そこに田舎や都会の別はないはずだ。沙苗は仮にも華族の出。
しかし読み書きができないというのであれば、うどん屋の品書きを眺めながら変な顔をしていた理由の説明もつく。
「……漢字が読めない、ということか?」
「かんじ?」
そこからなのか。
文盲を馬鹿にするつもりは到底ないが、予想外すぎてどう反応していいのか分からない。
とはいえ、喋らせたのは景虎である。
ここで景虎が黙っていては沙苗をさらに萎縮させるだけだ。
「あの短冊には鰻重と書かれている。ご飯の上にうなぎをのせたもの。その隣には、肝焼き。うなぎの内臓を串に刺して焼いたものだが、小食なら鰻重の梅にしたほうがいい」
「では……梅をお願いします」
注文を終えて、間もなく鰻重が運ばれてくる。
沙苗が食べ方が分からないだろうからと見本を見せる。
「これは山椒と言う薬味だ。量が多すぎると辛みが強くなるから、軽く振りかけるだけでいい。で、こっちは肝吸い。要するに味噌汁だな」
沙苗は目をきらきらさせながらウナギを頬張る。
「どうだ?」
「おいしいです!」
沙苗が美味しく食べる様子に、自然と、景虎は自分の表情が緩んでいることに気付き、引き締めた。
「このたれがすごく美味しいですし、うなぎもとてもふわふわしてて……。こんな美味しいものを食べさせていただいてありがとうございます!」
「いつでもというわけにはいかないが、時々くらいはな」
「……三船さんに申し訳ないです」
「あいつは自分の金でいつでも行けるから気にするな。それより文字の読み書きのことだが。お前が望むなら俺が教えてやる」
「え……」
「お前に話しづらいことを言わせたからな。どうする?」
「お願いしますっ」
沙苗は笑顔になって身を乗り出す。
――ということは、やる気がなかったから学ばなかったということではないのか。体も弱くて学校に通えない……いや、男爵家であれば家でも教えられるか。
「ですが、お仕事もお忙しいのに、そんなことまでしていただいて大丈夫なんですか……?
「もちろん平日はつきっきりで教えることはできないが、平仮名……簡単な文字からはじめればいい」
「分かりました」
沙苗がうなずくと、木霊たちが頑張れと応援するように、飛び跳ねる。
「……それにしても、木霊はまるでお前の親のようだな。お前をだいぶ気に掛けているように見える」
「ふふ、そうなんです。親……そうですね、本当に親みたいな存在かもしれません」
沙苗は嬉しそうにはにかんだ。
その笑顔を見た刹那、小さく鼓動が弾み、はにかんだ沙苗の顔に見とれた。
「みんな、私にとっては本当に大切な子たちなんです。景虎様にはたくさんいるあやかしのうちの一つににすぎないとは思うのですが……この子たちが支えてくれたから、私は……」
沙苗は何かを思い出したように、その顔を少し歪めた。しかしすぐにその痛みの表情はなくなる。
食事を終えると、遠慮する沙苗を無理矢理馬車に乗せて自宅まで送り届け、庁舎へ戻る。
「おーい、大佐殿ぉ~。昼休みはとっくに終わってるぞ~」
執務室に戻ると、なぜか一臣が部屋にいた。ふんぞりかえって椅子に座り、机に両足をのせている。
「どけ。そこは俺の席だ」
「嫌だ……って、なんで刀に手をかけるんだよ! あぶねえな。俺はあやかしじゃないぞ」
「俺にとってはあやかしと同じく、煩わしい存在だ」
「言うねえ」
一臣はにやつく。
「いい加減に……」
「聞いたぞ。奥さんと密会してたそうだな」
「婚約者だ。三船から聞いたのか」
「ああ。なかなか口を割らなかったから問い詰めて聞き出した」
「……お前というやつは」
三船は忠義に厚く、口が硬い。だから秘書に登用したが、一臣には勝てないだろう。
「お前と出ていったのに一人で戻ってきたから心配したんだよ」
「嘘をつくな」
「で、楽しかったのか?」
「昼を一緒に取って、家まで送り届けてきただけだ。お前が期待するようなことは何もない」
「へえ、俺が一体何を期待してると思ってるんだぁ?」
「下世話なこと全般だ。本気でどけ」
一臣が苦笑しながら席を立った。
「ま、色々とうまくいってるみたいで、俺としては嬉しいよ」
「これ以上、勘ぐるな」
「勘ぐるだろう。お前、部屋に入ってきた時、機嫌が良さそうだったぞ」
「適当なことを言うな」
「本当だって」
景虎は一臣を追い出すと、席に着いて書類を引っ張り出す。
それからも一臣は何かと話しかけてきたが、無視していると肩をすくめて、部屋を出ていった。
――機嫌がいい? 良くなる理由がないだろう。
これから少し遅めの昼だ。
しかし頭に浮かぶのは、沙苗の作ってくれた朝食のこと。
どれもこれも丁寧に作られていた。
もちろん外で食べる食事も丁寧に作られてはいるが、沙苗のとはまた違う。
久しぶりに手料理を食べた気がした。
それはどんな料理よりも美味しかった。
「大佐、今日は何を召し上がりますか?」
向かいに座る三船が聞いてくる。
「鰻でも食うか」
「本当ですか!?」
うなぎという言葉に、目を輝かせる三船に苦笑してしまう。
「……あれは、沙苗さんでは?」
窓を覗くと、たしかに沙苗だった。地面に這いつくばり、お札をかき集めている。
「止めろ」
景虎は馬車を止めると、下りていく。
「何をしてる」
「景虎様!?」
景虎は膝を折ると、札や小銭をかき集め、手と手がふれないよう注意しながら渡す。
「ありがとうございます! でもどうして……お仕事では?」
「昼休憩中だ。沙苗こそこんなところで何をしている」
「お茶葉と急須を買ったんです。景虎様にお茶を飲んでいただきたくって」
「ひとまず乗れ」
景虎は馬車を顎で示す。
「は、はい」
三船が「朝方ぶりでございます」と律儀に頭を下げる。
「三船さん、こんにちは」
沙苗は、景虎の隣に座る。
「……景虎様。お恥ずかしい姿を見せてしまいまして……」
「別に恥ずかしいとは思わない。ただちゃんと周りは見ろ。それから札は巾着にしまえ。あんな人通りの多いところで金を持ち歩けば襲ってくれと言っているようなものだ」
「……気を付けます」
「ところで昼飯は取ったか?」
「いいえ。まだです」
「鰻を食べようと思っているが、どうだ?」
「うなぎ……?」
「食べたことがないならちょうどいい」
景虎は御者に命じて、鰻屋に横付けさせる。
創業は江戸という由緒正しい古風な店構え。暖簾をくぐろうとすると、三船は「私は別のところで食べますので」と言い出す。
「変な気を遣うな」
「そういうわけには参りません。ご夫婦ともどもごゆっくり」
三船はそそくさと立ち去ってしまう。
「……変に気を遣わせてしましました」
「まあいい。入るぞ」
奥の座席に案内してもらう。卓につくと、店員がお茶を出してくれた。
店の壁には、何か文字の書かれた短冊がかけられている。
「決まったか?」
「……景虎様と同じものを」
「俺は鰻重の松にしようと思っているが、量が多いぞ。食べられるのか? ちゃんと選べ」
しかし沙苗の視線は落ち着かない。
「鰻がどんなものか不安なのか?」
「い、いえ。そういうことではなくって……」
「分からない料理があるのか? だったらどんなものか教えるから聞け」
「……あの、その……」
歯切れ悪く、沙苗は縮こまる。朝方の快活な彼女とは大違いだった。
――まるで俺が叱りつけているようだな。少し威圧的すぎるのか?
似たようなことは仕事でも経験したことがある。
部下が何度も失敗するのでどうしてかを聞いているだけなのに、相手はますます恐縮して押し黙る。らちがあかないので気を付けろと言って解放すると、一臣から『お前はどうしてそう、問い詰めたがるんだよ。相手を追い詰めて楽しんでるのか?』そう指摘されたことがあった。
景虎からすると疑問に思ったからただ理由を聞きたかっただけなのだが、客観的にはそうは見えないらしい。
男でも萎縮するのならば、女であれば尚更かもしれない。
景虎は咳払いをする。
「沙苗、何か分からないことがあるなら話してくれ」
ちらりと沙苗は上目遣いで見てくる。まるで肉食獣の様子をうかがう小動物のようだ。
「知らぬことは恥ではない。聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥ともいうだろう」
「わ、私…………文字が、読めないのです」
そう消え入るように沙苗は言った。
「何?」
「文字の読み書きが、できないのです。ですので、何と書いてあるのかが分からなくって……」
さすがに耳を疑った。
手習いくらい普通の子どもでさえ小学校で習うことだ。そこに田舎や都会の別はないはずだ。沙苗は仮にも華族の出。
しかし読み書きができないというのであれば、うどん屋の品書きを眺めながら変な顔をしていた理由の説明もつく。
「……漢字が読めない、ということか?」
「かんじ?」
そこからなのか。
文盲を馬鹿にするつもりは到底ないが、予想外すぎてどう反応していいのか分からない。
とはいえ、喋らせたのは景虎である。
ここで景虎が黙っていては沙苗をさらに萎縮させるだけだ。
「あの短冊には鰻重と書かれている。ご飯の上にうなぎをのせたもの。その隣には、肝焼き。うなぎの内臓を串に刺して焼いたものだが、小食なら鰻重の梅にしたほうがいい」
「では……梅をお願いします」
注文を終えて、間もなく鰻重が運ばれてくる。
沙苗が食べ方が分からないだろうからと見本を見せる。
「これは山椒と言う薬味だ。量が多すぎると辛みが強くなるから、軽く振りかけるだけでいい。で、こっちは肝吸い。要するに味噌汁だな」
沙苗は目をきらきらさせながらウナギを頬張る。
「どうだ?」
「おいしいです!」
沙苗が美味しく食べる様子に、自然と、景虎は自分の表情が緩んでいることに気付き、引き締めた。
「このたれがすごく美味しいですし、うなぎもとてもふわふわしてて……。こんな美味しいものを食べさせていただいてありがとうございます!」
「いつでもというわけにはいかないが、時々くらいはな」
「……三船さんに申し訳ないです」
「あいつは自分の金でいつでも行けるから気にするな。それより文字の読み書きのことだが。お前が望むなら俺が教えてやる」
「え……」
「お前に話しづらいことを言わせたからな。どうする?」
「お願いしますっ」
沙苗は笑顔になって身を乗り出す。
――ということは、やる気がなかったから学ばなかったということではないのか。体も弱くて学校に通えない……いや、男爵家であれば家でも教えられるか。
「ですが、お仕事もお忙しいのに、そんなことまでしていただいて大丈夫なんですか……?
「もちろん平日はつきっきりで教えることはできないが、平仮名……簡単な文字からはじめればいい」
「分かりました」
沙苗がうなずくと、木霊たちが頑張れと応援するように、飛び跳ねる。
「……それにしても、木霊はまるでお前の親のようだな。お前をだいぶ気に掛けているように見える」
「ふふ、そうなんです。親……そうですね、本当に親みたいな存在かもしれません」
沙苗は嬉しそうにはにかんだ。
その笑顔を見た刹那、小さく鼓動が弾み、はにかんだ沙苗の顔に見とれた。
「みんな、私にとっては本当に大切な子たちなんです。景虎様にはたくさんいるあやかしのうちの一つににすぎないとは思うのですが……この子たちが支えてくれたから、私は……」
沙苗は何かを思い出したように、その顔を少し歪めた。しかしすぐにその痛みの表情はなくなる。
食事を終えると、遠慮する沙苗を無理矢理馬車に乗せて自宅まで送り届け、庁舎へ戻る。
「おーい、大佐殿ぉ~。昼休みはとっくに終わってるぞ~」
執務室に戻ると、なぜか一臣が部屋にいた。ふんぞりかえって椅子に座り、机に両足をのせている。
「どけ。そこは俺の席だ」
「嫌だ……って、なんで刀に手をかけるんだよ! あぶねえな。俺はあやかしじゃないぞ」
「俺にとってはあやかしと同じく、煩わしい存在だ」
「言うねえ」
一臣はにやつく。
「いい加減に……」
「聞いたぞ。奥さんと密会してたそうだな」
「婚約者だ。三船から聞いたのか」
「ああ。なかなか口を割らなかったから問い詰めて聞き出した」
「……お前というやつは」
三船は忠義に厚く、口が硬い。だから秘書に登用したが、一臣には勝てないだろう。
「お前と出ていったのに一人で戻ってきたから心配したんだよ」
「嘘をつくな」
「で、楽しかったのか?」
「昼を一緒に取って、家まで送り届けてきただけだ。お前が期待するようなことは何もない」
「へえ、俺が一体何を期待してると思ってるんだぁ?」
「下世話なこと全般だ。本気でどけ」
一臣が苦笑しながら席を立った。
「ま、色々とうまくいってるみたいで、俺としては嬉しいよ」
「これ以上、勘ぐるな」
「勘ぐるだろう。お前、部屋に入ってきた時、機嫌が良さそうだったぞ」
「適当なことを言うな」
「本当だって」
景虎は一臣を追い出すと、席に着いて書類を引っ張り出す。
それからも一臣は何かと話しかけてきたが、無視していると肩をすくめて、部屋を出ていった。
――機嫌がいい? 良くなる理由がないだろう。