翌朝、まだ暗い内から沙苗は目覚めたが、そのまま布団の中でうだうだと雨後素。
いつもなら目が覚めるなり起き上がるはずの沙苗が一向に動かないのを心配した木霊たちが、沙苗の顔を覗き込んでくる。
「……そうだね。せっかく台所、お掃除もしたんだけどね……でも、私の料理ではきっと、景虎様は満足していただけないもの。昨日の朝にたべたうどん、それから夜に食べた牛鍋もすごかった……」
思い出すだけでつばがでてくる。あんなすごい料理を食べてしまったら、一体どんな料理を作れば、景虎に満足してもらえるのだろうか。想像もつかない。仮にそういう料理があったとしても沙苗の腕ではどうしようもないはずだ。
ぎゅう、とお腹が鳴った。
「……せっかく綺麗にしたんだし、私はなにか食べないとね」
木霊たちに励まされた沙苗は布団から這いだした。
そして浴衣から着物へ着替えると、台所に立ち、早速、昨日購入した材料を使って朝食を作りはじめる。
お釜でご飯を炊き、その間に味噌汁をつくる。それからめざしを二匹ほど焼く。
焦がさないよう気を付けつつ、味噌汁やお釜が吹きこぼれないように注意を払う。
味見をする。
――うん、ばっちり。
後ろから足音が聞こえて来たのに気付いて振り返ると、軍服姿の景虎だった。その手には日本刀。
「おはようございます、景虎様」
沙苗は深々とお辞儀をした。
「ああ……。何を作っている」
「朝食を……」
「俺は外で食べると言ったはずだ」
「もちろん承知しております。私の分でございます」
「そうか。ならいい。金は居間においてある。好きなものを食べろ」
「かしこまりました」
その直後、玄関かた声が聞こえた。
「大佐殿、お迎えに上がりました!」
「大佐……?」
「俺のことだ」
景虎のあとにつづいて、玄関へ向かう。
景虎と同じ黒い軍服姿の青年がいた。その顔には少年ぽさが残り、人懐こい笑顔の青年だ。青年は、沙苗を見るなり、体を九十度に曲げ、深々と頭を下げた。
「お初にお目に掛かります、奥様。私は三船と言います。天華大佐の秘書を務めております!」
深々と青年にお辞儀をされ、沙苗も倣った。
「沙苗と申します」
「まだ結婚はしていない。婚約者だ。三船、さっさと行くぞ」
「はっ」
「帰りは遅くなる」
「かしこまりました。いってらっしゃいませ」
沙苗は門前まで見送る。
外にはとまっていた馬車に二人が乗り込み、出発するまでを見届けた。
家に戻ると、朝食を食べる。
ご飯もしっかり炊けたし、味噌汁のだしもうまく出ている。魚も美味しい。
でもこんなものは景虎にはとても食べさせられない。
――こんな私を受け入れてくださった景虎様のために出来ることは……。
食事を終えて洗い物をしていると、木霊たちが話しかけてくる。
「あ……そうね。掃除はいいかも。たしかにこれだけ広いおうちを、お仕事で忙しい景虎様が一人で綺麗にできるはずないものねっ」
これだけ立派なお屋敷なのに、汚れたままなのはさすがにもったいない。
料理では満足してはもらえないかもしれないが、掃除なら。
家が切れになってさすがに文句は言われないはず。
沙苗は掃除道具を引っ張り出すため、さっそく納戸へ向かった。
馬車は、兵部省管轄の特務機関、退魔部隊の専用庁舎前で止まる。
景虎は三船と共に馬車を降りると、庁舎内へ入った。
大佐である景虎は退魔部隊の指揮官を務める。
庁舎内では誰かと擦れ違うたび、敬礼を受ける。
景虎はそれに応えながら自分の部屋へ入った。
三船から処理するべき書類を提示され、黙々とこなす。
退魔部隊と言っても事件が起こらなければ、大半の業務は面倒な書類仕事がもっぱらだ。
誰何《すいか》の声もなく、扉が開けられる。
「よ、景虎。おはようさんっ」
現れたのは、東征一臣《とうせいかずおみ》少佐。
明るい金髪に、両目が夏空のようなみずみずしい青さ。
軟派そうに見えるが、軍服ごしの体はがっちりして、鍛えられていると分かる。
甘く見ると、足元をすくわれる油断のならぬ男だ。
狩人は霊力が高いゆえに、それが髪や目の色に如実に表れる。
つまり、この国では一般的な黒髪茶瞳とかけ離れた容姿であればあるほど、強い霊力を持っていることの証になる。
東征は天華と同様、狩人の名門だが、狩人筆頭の天華と比べれば、東征は数段格下だ。
狩人は天華を筆頭に、西山院《せいざんいん》、南仏《なんぶつ》、東征、北神《きたかみ》という序列になっている。
この五つの家がいわゆる、名門と呼ばれ、長きにわたってあやかしと対峙してきた。
他にも狩人の家門は存在するが、どれもこれも系図を遡れば、五つの家のどれかに行き着く。
元来、人付き合いを煩わしいと言ってはばからない景虎だったが、一臣だけは不思議と話してしまう。一臣がそれだけしつこいということもあるのだが、一臣の本来持っている屈託のなさがそうさせるのかもしれない。
形式的には部下にあたるのだが、退魔部隊は陸軍や海軍のように厳格な上意下達組織ではない。各家同士が序列はあっても、緊密に連携をしてあやかし退治を行ってきたという歴史があるから、階級はあってないようなものである。
とはいえ一臣のように景虎に馴れ馴れしく接してくる人間は、滅多にいないが。
「邪魔だ。仕事に戻れ」
「朝から連れないなぁ」
「どうせ婚約者のことを聞きに来たんだろう。お前に話すことは何もない」
「いくら可愛いからって一人占めはずるいんじゃないか」
――訳の分からないことを。
「三船、少し席を外せ」
「はっ」
三船は景虎と一臣に深々と頭を下げ、部屋を出ていく。
「んじゃ、さっそく教えてくれ!」
一臣は無邪気に目を輝かせた。
どうせこの男は自分の目的を達成するまではしつこく付きまとってくるのだから、話してしまったほうが早く仕事に戻れる。
「少し変わっている」
「その心は?」
「まず紙幣を知らなかった」
「春辻はたしか、男爵だろう。いわゆる、いいところのお嬢さんに違いないんだから、欲しいものがあれば使用人が買うんだろう。金を知らないのはそこまでおかしくないだろ」
それは景虎も思った。
ちなみに、景虎や一臣も爵位を頂いている。景虎は伯爵、一臣は子爵だ。
しかしおかしいところは他にもある。
「風呂を勧めたら、行水で構わないと言ったのはどうだ。この一月の寒空に、だぞ。それに、山かけのうどんで感動していた」
「うどん? 冗談だろう」
「だから、変わっていると言ったんだ」
「お前に良くおもわれようと猫をかぶってるんじゃないか? 贅沢なものはいりません。私はお金がかからない女ですって」
沙苗が猫をかぶるような要領のいい女かと考えてみたが、あれは万事不器用そうだ。とても猫をかぶれるような器用さがあるようには見えない。
「うどんで感動していたと思ったら、夜に牛鍋を食べながら落ち込んでいた」
「は? なんで?」
「さあな」
「……たしかに変わってるのかもな。婚約者の名前ってなんだけっか」
「沙苗だ」
「春辻沙苗ちゃんかぁ。なあ――」
「駄目だ」
「まだ何も言ってないだろ」
「うちへ来たいと言うんだろう。駄目だ。あいつは……まだ新しい環境に慣れてない」
「分かったよ。今すぐは行かない。そのうちに、な」
「そのうちは一生来ない。あいつは人見知りをする。お前みたいに馴れ馴れしい奴が来たら動揺する」
「お前みたいな仏頂面と一つ屋根の下で暮らせてるんだから問題ないだろう」
「話は終わりだ。仕事へ戻れ」
へいへい、と言って回れ右をした一臣は「ああ、そうだ」と振り返る。
「お前、あやかしの気配がついてるけど、出勤途中に狩ってきたのか?」
不意打ちな言葉に、思わず顔に出そうになる。
一臣が気付いたのは、沙苗のまとう気配だろう。
「うちにあやかしがいるんだ」
「退治したのか?」
「いいや。沙苗についてきた木霊だ。悪意がないから放っておいている」
「木霊かぁ。今時めずらしいな」
「都会では、だろう。田舎なら手つかずの自然がたくさんあるから、木霊だってまだ生きているさ」
「ま、言われてみればそうか。でも木霊ってのはそこら辺の人間にほいほいついていくほどお人好しでもないだろ。お前の婚約者、あやかしに好かれるのかもなぁ。狩人の妻としちゃ、いいんだか悪いんだか」
一臣はぶつぶつ言いながら部屋を出ていく。
――少し話しすぎたか?
あやかしの気配については下手に誤魔化すより、真実を織り交ぜたほうがそれなりに聞こえて突っ込まれにくいと考えたのだ。
一臣は勘のいい男だ。沙苗が半妖と分かってすぐに処理しようとはしないだろうが、知られなに越したことはない。
――少し変わっている、か。
自分で口にしたことを反芻する。一臣と話していた自然と出た言葉だったが、言い得て妙だなと我ながら思う。
沙苗は男爵令嬢だが、そういう気位の高さを微塵も感じさせない。
そもそも令嬢が半妖ということを知られたとはいえ、土下座など簡単にできるだろうか。
――一臣のせいで、くだらんことを考えてしまうな。
景虎は余計な考えを頭から追いだし、書類作業に戻った。
沙苗は着物を紐で縛ってたすき掛けにし、腕をまくった。
髪と口元を布で覆い、戦闘態勢に入る。早速、屋敷の掃除に取りかかった。
まずは廊下の大きい綿埃をホウキであつめ、ちりとりで回収。
井戸から桶に水を汲み、古布をつけて廊下を水拭きする。
「ふぅ。廊下はおしまいっ」
襖を開け放ち、雨戸を開け、屋敷の中の換気をおこないつつ、部屋の掃除にとりかかる。
一番使用する機会が多い居間から。
居間は普段から使うせいかそれほど汚れていないが、鴨居には埃がたまっていたりするから、はたきでしっかり落とし、念入りに掃除をおこなう。
居間の掃除を終えると他の部屋の掃除に移る。
――景虎様はどうして女中を雇わないのかな。
これだけ広い屋敷を持っているのだから、かなりの偉い人なのだろう。
そういう人は、春辻家のようにたくさんの女中を雇うものではないのだろうか。
少なくとも身の回りの世話をする誰かくらいはいてもいいはずなのに。
景虎には部外者を屋敷にあげるなと釘を刺された。
過去に酷い目にあったのだろうか。
そこまで考えてから、「いけない」と頭を振った。
――誰にだって知られたくないことはあるんだから。どうして女中を雇わないとかはどうでもいいこと。私がこうして掃除をすればいいじゃない。
部屋に入ると、そこは仏間だった。
他の部屋とは違って、しっかり手入れが行き届いて、鴨居に埃が溜まっていることもない。
大きな仏壇が置かれているが、今は観音扉が閉まっていた。
婚約者としてはどうしたらいいのだろう。
開けるべきだろうか。しかしわざわざ閉められているということは、開けるべきではないのかもしれない。
――家の事情をよく知りもしないのに、手を合わせるのもおかしいわよね……。
沙苗は仏壇に向かって頭を下げ、仏間をあとにした。
最後に入ったのは、景虎の書斎。
文机にはたくさんの書類が置かれている。
何が書いてあるのかは分からないが、何も分からない沙苗が不用意に触れたら大変なことになりそうだ。
――ここは、景虎様にちゃんと確認をとってからしたほうがいいわよね。
書斎には手をつけず、換気だけして保留にすることにした。
座椅子に引っかけられた羽織りを手に取ると、脇の部分が、ほんの少し破れていた。
沙苗は木霊たちにお願いして、裁縫道具を探してもらう。
「もう、見つけてくれたのね。ありがとう!」
木霊たちに見つけてもらった裁縫道具で、破れを繕う。
――勝手なことをするなって怒られないかな。
繕いを終えてから、そんな考えが頭を過ぎった。
――……怒られたら、元に戻せばいいよね。
羽織を座椅子の背もたれに引っかける。
屋敷の掃除は、だいたい終えた。
これだけ広い屋敷だと掃除だけで一日仕事。
気付くと、日が傾きはじめていた。
ただ掃除をしておかげか、清々しかった。
景虎が庁舎を出た頃には、日付が変わろうとしていた。
こんなに遅くなったのは、あやかし討伐の出動がかかったからだ。
日本橋に犬型のあやかしが現れ、その討伐指揮を担当した。
相手は大したあやかしでもなく、あっという間に討伐は完了した。
帝都は各地に五色不動を安置していたり、強い霊力が溜まる地点に神社仏閣を建設したりと江戸の頃から、対あやかしの結界が厚く張られている。
景虎や一臣の先祖たちがその結界作りに深く関わっていた。
しかし帝都がまだ江戸と呼ばれていた時代から、三百年。
結界は少しずつ弱まっているのを感じている。だからこそ、大して力の強くないあやかしが帝都へ侵入するようになってきていたのだ。
景虎は陸軍を通じ、政治家に対して結界強化の術法を行うべきと献策しているのだが、遅々として進まない。
結局、いつまでも呪術などの前時代的なものにこだわっていると思われては西洋諸国からの印象が悪いし、近代化の妨げになることを懸念しているのだ。
開国と共に日本に入ってきた技術を否定するつもりはない。
自動車だったり、電気だったり、素晴らしい技術は技術として景虎も認めるところだが、だからと言って、この国が数千年もの時間、紡いできた伝統を蔑ろにするべきではない。
軽んじれば、そのつけを払うのは現代を生きる景虎たちなのだから。
「大佐、つきました」
「ご苦労」
景虎は馬車を下りると、帽子を取って小脇に挟むと屋敷に入った。
しんっと静まり返っている玄関で靴を脱ごうとした時だ。上がりがまちに木霊たちが並んでいた。
「なんだ、お前ら」
木霊たちは何かを囁き会うような素振りを見せる(しかし木霊の顔にあたるだろう場所には耳はもちろん、口も見当たらない)。
景虎は腕を組んでその様子を見つめる。
すると、二体の木霊が進み出る。
片割れが不意に四つん這いになったかと思えば、上がり框を四つん這いで行ったり来たりを繰り返す。
「俺は沙苗のようにお前たちの言葉が分からない。もっと分かるようにしろ」
――俺は一体何をしているんだ。
さっさと風呂に入って休みたいというのに、木霊と向き合おうとしている自分に呆れる。
すると、木霊たちは廊下を指さす。そして四つん這いになると、やっぱりその場を行ったり来たりする。
景虎は廊下を見てみると、いつもより艶があるように見えた。
試しに触れてみると、つるつるしている。
「……沙苗が掃除をしたのか」
木霊たちはコクコクと大きく頷く。
それからさっき進み出て来た二体の木霊のうち、直立不動のまま立っていたほうの木霊が、四つん這いになっている木霊の頭を撫でるそぶりをする。
「……褒めてやれ、ということか?」
木霊たちは「そうだ!」と言わんばりに飛び跳ねた。
――あやかしのくせに人間のような反応をする連中だな。
沙苗と長らく一緒にいたせいなのか。
しかし褒めるにしても明日になるだろう。
景虎は靴を脱いで木霊たちをまたぎ、居間の襖を開けた。と、灯りが漏れた。
沙苗が卓袱台に突っ伏すように、眠っていた。
襖が開く音にはっとした顔をして顔をあげれば、眼が合った。
「か、景虎様、おかえりなさいませ」
「待つ必要ないと言わなかったか?」
「そういうわけには。お風呂にも入られると思いまして。一人ではご不便かと」
「お前が来るまではぜんぶ一人でやっていて、不都合はなかった」
「あ……すみません」
沙苗は目を伏せる。
「そういえば掃除をしてくれたようだな。すまない」
「どうしてそれを」
「木霊たちから聞いた」
「景虎様もこの子たちが何を言っているのか分かるのですか?」
「いや。身振り手振りで説明されてようやく気づけた」
卓袱台の片隅に一日の食事代としておいておいた金がそのままになっていることに気づく。
「食事は家で食べたのか」
「はい」
「うどんや牛鍋は口に合わないか?」
沙苗の顔が強張る。
どうしてそこまで大袈裟に反応するのか。怒っているわけではないのだから、申し訳なさそうな態度などとらなくてもいいだろう。
そんな態度を取られると、かえって不満があるのかと勘ぐり、不快になる。
「他人の嗜好に口を挟む趣味はないが、不満があればはっきりそう言え」
「……そういうわけではないんです。おうどんも、牛鍋も、とても美味しかった」
「なら、どういうことだ?」
「……お、美味しすぎるんです」
「は?」
予想外な言葉に、景虎は虚を突かれてしまう。
「うどんも、牛鍋も、美味しすぎたんです。私を受け入れてくださった景虎様に少しでも恩返しがしたいと思ったんです。でもこの街では、あんなに美味しいうどんや牛鍋が食べられるんですよね……。私の料理の腕はとうてい、あんな素晴らしいものに太刀打ちできないんです。食べている途中でそう思いはじめたら、どんどん落ち込んできて……」
「そんなことを考えていたのか……。食事を作れないから、掃除をしていたのか?」
「……掃除は元々するつもりでした」
「妻としての献身は求めないと言ったはずだ」
景虎は呆れ混じりに呟く。
「献身ではなく、感謝の気持ちでございます。半妖である私との婚約を続けてださったせめてもの……」
「分かった。もう遅い。休め」
「ですが、景虎様はこれからお風呂に入られますよね。でしたらお手伝いを」
「いらない。一人のほうが楽だ」
「……か、かしこまりました。では、おやすみなさいませ」
沙苗は深々と頭を下げると、居間を退出していく。
景虎は書斎に入った。
積まれた書類や本などは特に動かされたという痕跡はなかった。
きっと下手に動かしてはいけないと手をつけなかったのだろう。
堅苦しい軍服を脱ぎ、着物に着替える。
座椅子の背もたれに引っかけていた羽織を手にとった時、破けていたはずの右脇の部分が、しっかり繕われていた。小さな破れだったから、特に気にもしなかったのだが。
――これも沙苗がしてくれたのか。
翌朝、沙苗は台所に立って朝食を作る。
ご飯を炊き、大根の味噌汁、玉子焼きに焼き鮭を仕上げる。
鮭の身に綺麗な焼き目がついたのを確認し、お皿に盛り、卓袱台へ並べていく。
そこへ重たい足音が近づいてくる。
「景虎様、おはようございます」
「……おはよう」
景虎は手に、昨日繕った羽織を持っていた。
「あ、それ……すみません、勝手に」
景虎は「謝るな」と少しうんざりした顔をする。
「怒ってるわけじゃないから頭を下げるな。繕ってくれて助かった。ありがとう」
「!」
景虎から感謝してもらい、それだけで心臓が飛び跳ねる。それからじんわりと体が熱くなる。
「いえ……出来ることをしただけですから」
たった一言の感謝で、高揚してしまう。
「ところで朝食だが、俺の食べる分はあるか?」
「え?」
「わざわざ俺のために花嫁修業をしたのだろう。食べさせてくれ」
「それは……!」
予想もしない要請に、困惑し、慌ててしまう。
「もちろん、無理にとは言わない」
「そういうわけではありませんが……よ、よろしいのですか。外で食べたほうがずっと美味しいと思います……」
自信がなくて、声が尻すぼみになってしまう。
「少なくとも匂いは、うまそうだ。それに、繕いもしっかりできているんだ。料理のほうも問題ないんじゃないか?」
――せっかく景虎様がこう仰ってくださってるんだから。
「そちらを召し上がってください」
「これはお前の分だろう」
「そのつもりでしたが、景虎様はこれから出勤されますよね。お時間もないでしょうし。どうぞ。私はのちほどゆっくり頂きますので」
「そうか。すまない」
景虎は美しい姿勢で正座になると、手を合わせ、「いただきます」と食事をはじめる。
まずは味噌汁から。
「具材は大根です」
向かいに座った沙苗は、緊張の面持ちでじっと見つめてしまう。
花嫁修業で最低限の料理は習ったが、沙苗の作った食事を女中たちは手をつけてはくれなかった。
結局、自分で作って自分で食べただけだったから、こうして料理を誰かに食べてもらうのは、生まれて初めて。
味見はしているから不味いということはないだろうが、景虎がどう思うかはまた別の話。
景虎が味噌汁に口をつける。
「いかがですか?」
「美味い。しっかり出汁の味が出ているな」
「良かったです」
景虎は焼き鮭を箸でほぐして口に含み、ご飯を食べる。
「ご飯もちょうどいい硬さで、美味い。焼き鮭の焼き加減もちょうどいい」
「お世辞ではなくて、本音でお願いしますっ」
「不味いものを無理して食うほど、食には困ってはいない」
「実は、玉子焼きは少し焦がしてしまって……それはどうですか?」
「気にするほどではない。十分、うまい」
景虎はあっという間に朝食を食べ終えてしまう。
「ごちそうさま」
「御粗末様でございました」
食器を片付けようとして手を伸ばすと、景虎も同時に食器に手を伸ばす。
危うく手が触れかけ、バチッと二人の間で火花が散った。
はっとして手を引っ込める。
「大丈夫ですか?」
「問題ない。お前こそ」
「触れてなかったので大丈夫です。私が片付けますから。今、白湯をお持ちしますね」
食器を片付けて水を溜めた桶に浸け、水を火に掛け、湯飲みに注ぐ。
――今日、お茶葉を買いにいこう。
花嫁修業でお茶の淹れ方も勉強した。白湯では味気ないだろう。
「どうぞ」
「すまない」
景虎はほとんど表情は変えない、冷ややかな仏頂面なのに、お礼をきっちり言ってくれる律儀さが、可愛いなと感じた。
玄関のほうで「おはようございます」と、声がかかった。
沙苗は玄関に立った。
「おはようございます、三船様」
「様づけなんて、おやめください。三船で結構でございます。大佐は?」
「景虎様でしたら……」
「来たか」
景虎が居間から出てくる。
「いってらっしゃいませ」
沙苗は三つ指をついて見送る。
「基本的に帰りは遅くなる。待ってないで寝ていろ。それから、今日から朝はお前の料理を食べたいと思うが、どうだ? 無論、作るのに抵抗がなければだが」
沙苗は自然と目を細め、笑みに口元をほころばせた。
「作らせていただきます。お夕飯はどうしますか?」
「帰りの時間は不規則になる。無駄にしてしまう可能性もあるから朝食だけで構わない」
「かしこまりました」
沙苗はいつものように門前まで景虎たちを見送った。
――景虎様が私の料理を美味しいと言ってくれた!
景虎たちをのせた馬車を見送りながら、喜びのあまり小さく跳びあがった。
お昼になると沙苗はお茶葉を買いに出かける。
はじめての一人でのおつかいだ。
とはいえ、木霊たちも一緒に来てくれるから厳密に一人ではないけど。
「みんな。お手伝い、よろしくね」
木霊たちが任せろと、沙苗の肩の上で飛び上がる。
――お店のたたずまいでお茶屋さんが分かればいいんだけど。
こういう時に文字が読めないと苦労する。
商店街は、たくさんの人たちが行き来している。
――人の流れを見過ぎると目が回りそう。
沙苗と木霊たちはキョロキョロしながらお茶屋さんを探す。
本当にたくさんのお店が並んでいる。
これだけの品物を一体どこから調達してくるのだろう。
――こんなにたくさんの人たちがこの街には住んでるんだから、多すぎるっていうことはないのよね。きっと。
木霊に服を引っ張られると、お茶屋さんがあった。
文字は読めなくても、お店の前の急須の張り紙がある。
「教えてくれてありがとう」
照れたみたいにもじもじする木霊の姿にくすっと微笑みつつ、お店の中に入る。
「ご、ごめんください」
「いらっしゃいませ!」
元気な中年男性が迎えてくれる。
「お茶葉と、急須を頂きたいのですけど」
「かしこまりました。茶葉はどれにしましょう」
「どれ?」
「種類です。ご希望はありますか?」
「お茶って種類があるんですか?」
「地域ごとに特色があるんですよ。甘みがあったり、風味が他のものにくらべるとぐんっと良かったり、飲み口が軽かったり」
「え、えっと……」
お茶は緑色の一種類とばかり思っていたから混乱してしまう。
「ちょっと若い人には分かりにくいたかな。おすすめでいいですか?」
「あ、お願いします」
「かしこまりました」
店に並べられたお茶場をその場で袋詰めしてくれる。それから急須。
算盤を弾き、見せてくれる。
「こちらになります」
「こ、これで足りますか?」
沙苗はおずおずと、景虎にもらったお札を渡す。
商品を受け取り、頭を下げて店を出た。
――買えたわ! はじめてのお買い物、大成功っ!
さっそく明日の朝にでも、景虎に報告しよう。
そんなことを考えながら元来た道を戻る。
「お客さん! おつり!」
男性店員が駆けつけて、たくさんのお札を渡してくれる。
「お、おつり?」
「そうですよ。これ」
「こんなにたくさん受け取れません」
男性店員が不思議そうな顔をしてくる。
変なことを口走ったとさすがに気づき、「あ、ありがとうございます」と慌てて言う。
男性店員は「またご贔屓に!」と元気よく見送ってくれた。
どうにか誤魔化せたみたいだ。
――一枚しか渡してないのに、こんなにたくさん増えちゃっていいのかな……。
さっきのお札とは絵柄が違うお札をまじまじと眺めながら歩く。
その時、後ろから誰かがぶつかってきた。その拍子にお札を地面に撒き散らしてしまう。
「あっ!」
せっかく無事に買い物を終えられたというのに、情けない。
沙苗は這いつくばるように散らばったお札を集める。
そんな沙苗の姿を、通行人たちが冷ややかに見ながら通り過ぎていった。
景虎は馬車に揺られる。
これから少し遅めの昼だ。
しかし頭に浮かぶのは、沙苗の作ってくれた朝食のこと。
どれもこれも丁寧に作られていた。
もちろん外で食べる食事も丁寧に作られてはいるが、沙苗のとはまた違う。
久しぶりに手料理を食べた気がした。
それはどんな料理よりも美味しかった。
「大佐、今日は何を召し上がりますか?」
向かいに座る三船が聞いてくる。
「鰻でも食うか」
「本当ですか!?」
うなぎという言葉に、目を輝かせる三船に苦笑してしまう。
「……あれは、沙苗さんでは?」
窓を覗くと、たしかに沙苗だった。地面に這いつくばり、お札をかき集めている。
「止めろ」
景虎は馬車を止めると、下りていく。
「何をしてる」
「景虎様!?」
景虎は膝を折ると、札や小銭をかき集め、手と手がふれないよう注意しながら渡す。
「ありがとうございます! でもどうして……お仕事では?」
「昼休憩中だ。沙苗こそこんなところで何をしている」
「お茶葉と急須を買ったんです。景虎様にお茶を飲んでいただきたくって」
「ひとまず乗れ」
景虎は馬車を顎で示す。
「は、はい」
三船が「朝方ぶりでございます」と律儀に頭を下げる。
「三船さん、こんにちは」
沙苗は、景虎の隣に座る。
「……景虎様。お恥ずかしい姿を見せてしまいまして……」
「別に恥ずかしいとは思わない。ただちゃんと周りは見ろ。それから札は巾着にしまえ。あんな人通りの多いところで金を持ち歩けば襲ってくれと言っているようなものだ」
「……気を付けます」
「ところで昼飯は取ったか?」
「いいえ。まだです」
「鰻を食べようと思っているが、どうだ?」
「うなぎ……?」
「食べたことがないならちょうどいい」
景虎は御者に命じて、鰻屋に横付けさせる。
創業は江戸という由緒正しい古風な店構え。暖簾をくぐろうとすると、三船は「私は別のところで食べますので」と言い出す。
「変な気を遣うな」
「そういうわけには参りません。ご夫婦ともどもごゆっくり」
三船はそそくさと立ち去ってしまう。
「……変に気を遣わせてしましました」
「まあいい。入るぞ」
奥の座席に案内してもらう。卓につくと、店員がお茶を出してくれた。
店の壁には、何か文字の書かれた短冊がかけられている。
「決まったか?」
「……景虎様と同じものを」
「俺は鰻重の松にしようと思っているが、量が多いぞ。食べられるのか? ちゃんと選べ」
しかし沙苗の視線は落ち着かない。
「鰻がどんなものか不安なのか?」
「い、いえ。そういうことではなくって……」
「分からない料理があるのか? だったらどんなものか教えるから聞け」
「……あの、その……」
歯切れ悪く、沙苗は縮こまる。朝方の快活な彼女とは大違いだった。
――まるで俺が叱りつけているようだな。少し威圧的すぎるのか?
似たようなことは仕事でも経験したことがある。
部下が何度も失敗するのでどうしてかを聞いているだけなのに、相手はますます恐縮して押し黙る。らちがあかないので気を付けろと言って解放すると、一臣から『お前はどうしてそう、問い詰めたがるんだよ。相手を追い詰めて楽しんでるのか?』そう指摘されたことがあった。
景虎からすると疑問に思ったからただ理由を聞きたかっただけなのだが、客観的にはそうは見えないらしい。
男でも萎縮するのならば、女であれば尚更かもしれない。
景虎は咳払いをする。
「沙苗、何か分からないことがあるなら話してくれ」
ちらりと沙苗は上目遣いで見てくる。まるで肉食獣の様子をうかがう小動物のようだ。
「知らぬことは恥ではない。聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥ともいうだろう」
「わ、私…………文字が、読めないのです」
そう消え入るように沙苗は言った。
「何?」
「文字の読み書きが、できないのです。ですので、何と書いてあるのかが分からなくって……」
さすがに耳を疑った。
手習いくらい普通の子どもでさえ小学校で習うことだ。そこに田舎や都会の別はないはずだ。沙苗は仮にも華族の出。
しかし読み書きができないというのであれば、うどん屋の品書きを眺めながら変な顔をしていた理由の説明もつく。
「……漢字が読めない、ということか?」
「かんじ?」
そこからなのか。
文盲を馬鹿にするつもりは到底ないが、予想外すぎてどう反応していいのか分からない。
とはいえ、喋らせたのは景虎である。
ここで景虎が黙っていては沙苗をさらに萎縮させるだけだ。
「あの短冊には鰻重と書かれている。ご飯の上にうなぎをのせたもの。その隣には、肝焼き。うなぎの内臓を串に刺して焼いたものだが、小食なら鰻重の梅にしたほうがいい」
「では……梅をお願いします」
注文を終えて、間もなく鰻重が運ばれてくる。
沙苗が食べ方が分からないだろうからと見本を見せる。
「これは山椒と言う薬味だ。量が多すぎると辛みが強くなるから、軽く振りかけるだけでいい。で、こっちは肝吸い。要するに味噌汁だな」
沙苗は目をきらきらさせながらウナギを頬張る。
「どうだ?」
「おいしいです!」
沙苗が美味しく食べる様子に、自然と、景虎は自分の表情が緩んでいることに気付き、引き締めた。
「このたれがすごく美味しいですし、うなぎもとてもふわふわしてて……。こんな美味しいものを食べさせていただいてありがとうございます!」
「いつでもというわけにはいかないが、時々くらいはな」
「……三船さんに申し訳ないです」
「あいつは自分の金でいつでも行けるから気にするな。それより文字の読み書きのことだが。お前が望むなら俺が教えてやる」
「え……」
「お前に話しづらいことを言わせたからな。どうする?」
「お願いしますっ」
沙苗は笑顔になって身を乗り出す。
――ということは、やる気がなかったから学ばなかったということではないのか。体も弱くて学校に通えない……いや、男爵家であれば家でも教えられるか。
「ですが、お仕事もお忙しいのに、そんなことまでしていただいて大丈夫なんですか……?
「もちろん平日はつきっきりで教えることはできないが、平仮名……簡単な文字からはじめればいい」
「分かりました」
沙苗がうなずくと、木霊たちが頑張れと応援するように、飛び跳ねる。
「……それにしても、木霊はまるでお前の親のようだな。お前をだいぶ気に掛けているように見える」
「ふふ、そうなんです。親……そうですね、本当に親みたいな存在かもしれません」
沙苗は嬉しそうにはにかんだ。
その笑顔を見た刹那、小さく鼓動が弾み、はにかんだ沙苗の顔に見とれた。
「みんな、私にとっては本当に大切な子たちなんです。景虎様にはたくさんいるあやかしのうちの一つににすぎないとは思うのですが……この子たちが支えてくれたから、私は……」
沙苗は何かを思い出したように、その顔を少し歪めた。しかしすぐにその痛みの表情はなくなる。
食事を終えると、遠慮する沙苗を無理矢理馬車に乗せて自宅まで送り届け、庁舎へ戻る。
「おーい、大佐殿ぉ~。昼休みはとっくに終わってるぞ~」
執務室に戻ると、なぜか一臣が部屋にいた。ふんぞりかえって椅子に座り、机に両足をのせている。
「どけ。そこは俺の席だ」
「嫌だ……って、なんで刀に手をかけるんだよ! あぶねえな。俺はあやかしじゃないぞ」
「俺にとってはあやかしと同じく、煩わしい存在だ」
「言うねえ」
一臣はにやつく。
「いい加減に……」
「聞いたぞ。奥さんと密会してたそうだな」
「婚約者だ。三船から聞いたのか」
「ああ。なかなか口を割らなかったから問い詰めて聞き出した」
「……お前というやつは」
三船は忠義に厚く、口が硬い。だから秘書に登用したが、一臣には勝てないだろう。
「お前と出ていったのに一人で戻ってきたから心配したんだよ」
「嘘をつくな」
「で、楽しかったのか?」
「昼を一緒に取って、家まで送り届けてきただけだ。お前が期待するようなことは何もない」
「へえ、俺が一体何を期待してると思ってるんだぁ?」
「下世話なこと全般だ。本気でどけ」
一臣が苦笑しながら席を立った。
「ま、色々とうまくいってるみたいで、俺としては嬉しいよ」
「これ以上、勘ぐるな」
「勘ぐるだろう。お前、部屋に入ってきた時、機嫌が良さそうだったぞ」
「適当なことを言うな」
「本当だって」
景虎は一臣を追い出すと、席に着いて書類を引っ張り出す。
それからも一臣は何かと話しかけてきたが、無視していると肩をすくめて、部屋を出ていった。
――機嫌がいい? 良くなる理由がないだろう。
翌朝、沙苗は朝から煮物を作ることにした。
昨日までは景虎が朝食を食べてくれるとは思わなかったから焼き魚にしていたが、景虎は肉が好きだ。
ただ沙苗は肉を使った料理を知らない。
花嫁修業として教えられた料理は魚と野菜を使ったものばかりだった。
色々と悩んだ末に、筑前煮に牛肉をいれようと思った。
味を染みこませれば、きっとお肉も美味しくなるだろう。
いんげんに蓮、しいたげ、にんじん、大根などのあく抜きをおこない、酒、醤油、みりを混ぜた煮汁でしっかり煮込む。
本当は時間をおいて味をしっかり染みこませたほうがより美味しいのだが、景虎は朝食しか食べられないから仕方がない。
――うまくできた。
あとは景虎が起きてくるのを待つだけだ。
そこへ足音が聞こえて来た。
「おはようございます、景虎様」
「おはよう」
沙苗はご飯と味噌汁、それから筑前煮を食卓に並べる。
「今日は煮物か」
「私が知っている中で、お肉をいれられそうな料理が煮物しかうかばなかったので」
景虎は煮物に箸を付ける。
「いかがでしょうか」
「……煮物を食べるのは久しぶりだが、うまいな」
「お気に召していただいて良かったです」
「お前も食べろ」
「よろしいのですか?」
「お前がいやでなければ」
「ご一緒させていただきまっ」
自分の分のご飯と味噌汁を持って来ると、煮物をおかずに食べる。
――景虎様と一緒に朝食を食べられるなんて。
外食とは違って、自分の作ったものを囲んで食事をしていると、家族だという実感が湧いてくる。こんな風に卓袱台を囲んで食事をしているというささやかなことにも、幸せを感じられた。
食事を終えて空いた器を下げると、さっそく購入したお茶を淹れる。
「どうぞ」
「すまん」
景虎は緑茶に口をつける。
「少し濃いめだな」
「あ、本当ですね。すいません。淹れ直して……」
「そこまでする必要はない。目が覚めるからちょうどいい。それより、昨日のことだ。お前の読み書きについて」
景虎はかたわらにおいていた紙の束を食卓へ置く。
そこには色々と書き込まれていた。
「とりあえず空いた時間で文字の練習ができるように考えた」
紙には、絵と一緒に何かが書かれていた。
「この絵が何だか分かるか?」
「……犬、ですか?」
「そうだ。隣に書かれているのは『いぬ』という平仮名、その隣のは片仮名で『イヌ』。最後にこれが、漢字で『犬』」
「この列の言葉は、ぜんぶ、同じ犬という意味を表しているということですか?」
「そうだ。で、その次のこれは?」
「猫……でしょうか」
「同じように平仮名、片仮名、漢字で、それぞれ『ねこ』と書かれている」
「……景虎様」
「わかりにくかったか?」
「いいえ。すごく分かりやすいです! それに、とても絵がお上手なんですね!」
沙苗が目をきらきら輝かせながら褒めると、景虎はばつが悪そうな顔をする。
「絵はそれが何を意味するのか分かればいい。別にうまく描こうと思ったわけじゃない」
「でも上手だと思います。木霊たちもうまいって褒めてますから」
景虎は何と反応したらいいのか分からず、微妙な顔をする。
「問題はそこじゃない」
「あ、そうですね。失礼しました……」
「片仮名と漢字のほうは後回しで、平仮名だけでもしっかり覚えれば、街中でも困らないはずだ。帝都で生きていくには、読み書きができないのは、何かと不便だろうからな」
それから、景虎は縦長の箱を机に置いた。
「これは習字道具だ。使い方を教えるから覚えろ。これが筆。こっちが硯《すずり》。こうして水を垂らし、この墨を水に馴染ませるように擦る。だいたい墨の匂いがただよいはじめたら、それでいい。水が足りないと思ったら少しずつ接ぎ足せ。そうしてここに墨が溜まったら、筆をこうして浸けて紙に文字を書く。分かったか?」
「はい」
真剣な顔で眺めていた沙苗はうなずく。
「筆はこうして立てて書く。墨はあまりつけすぎるな。これくらいでいい。書き上げられたら、俺の文机においておけ。仕事から帰ったら確認する」
「え!」
「そう、緊張するな。お前がどの文字が苦手で、どの文字が得意なのかを知りたいだけだ。下手だからと言って、叱責するために見るわけじゃない」
「それはすごく嬉しいのですが……」
「なら、何が問題だ?」
「ただでさえ夜遅くにお帰りにられるのに、そんなことまでしてもらうのは……申し訳なくって……」
「俺が教えると言ったんだ。やるべきことはちゃんとやる。お前は文字の読み書きを覚えることだけを考えていればいい」
「分かりました」
「あと、片付けは筆を水でよく洗って乾かせばいい」
沙苗は景虎に言われたことを、頭の中にしっかり刻み込む。
沙苗がちゃんと覚えていられるのか心配なのか、木霊たちもふむふみと頷くような素振りで、景虎の言葉を聞いていた。
「言っておくべきことは以上だ。それから焦るな。最初からうまくはできないし、覚えられないのが普通だ。毎日少しずつでもいいから続けろ」
景虎がここまで色々と教えてくれることが嬉しく、沙苗ははにかんだ。
その時、玄関から三船の「おはようございます! お迎えにあがりました!」という声が響く。
いつものように門前まで景虎を見送る。
「景虎様、いってらっしゃいませ」
「いってくる」
三船にも頭を下げ、馬車を見送った。
それから屋敷へとって返す。自分の部屋で汚れてもいい服に着替え、それから居間に戻って文字を書く練習をする。
正座をして背筋を伸ばして、大きく深呼吸をする。
景虎が書いてくれた見本を前にして、これまで知らなかった世界に触れられるという予感に胸が弾んだ。
こんなわくわくする気持ち、生まれてはじめてかもしれない。
まずは『いぬ』から。
沙苗のためだけに書いてくれたお手本。
描かれている犬の絵を見ているだけで、微笑ましさに口元が緩んだ。
絵がうまいと言ったのは本音だ。
沙苗自身は絵を描いたことは一度もないけれど、景虎ほどうまく描ける自信はない。
厳格で、感情らしい感情をみせない景虎が、沙苗のためにこうして描いてくれていると思うだけで嬉しい。
沙苗は景虎から教わったことを思い出し、まずは墨を擦る。
そんな他愛のないこと一つとっても、新鮮だ。粘り気のある墨が広がる。水を少し追加し、そしてまた擦る。硯に墨が溜まっていく。
筆を墨につけ、紙に書く。
「い、ぬ……」
『い』はうまく書けるのだが、『ぬ』がなかなか曲者だ。
くるんと丸まった尻尾のような部分がかなり難しい。
それでもどうにか書ききる。
「……ど、どうかな?」
木霊たちに文字を見せるが、もちろん人間の文字のことなんて分からない彼らはどう反応していいのか少し困っていた。
「……下手だよね」
文字はよれよれで、景虎の書いてくれたお手本とは比べるのもおこがましい。
気持ちが沈みそうになるが、頭を振って弱気を追い出す。
――すぐには上達しない、毎日少しずつでもいいから続けろって、景虎様も仰っていたもの。
沙苗はまた別の紙に練習をする。
自分のため、そしてこんな自分に時間を割いてくれている景虎のために。
景虎が帰宅する。
屋敷はしんっと静まり返っているが、沙苗が来る前とは少し雰囲気が変わったように思えた。
一人で暮らしていた時、家に入ると出迎えたのは寒々とした冷気だったが、今はその空気がいくらか柔らかくなっているような気がした。
うっすらと漂う甘いかおりは、沙苗のものだろうか。
いつの間にか、自分以外の誰かが家の中にいることに馴れていることに驚いた。
まだ沙苗が帝都に来て一ヶ月と経っていないというのに。
沙苗の作ってくれた朝食を食べていることも含めて。
沙苗が来るまでは、景虎にとって家というのはただ寝て起きるためだけの場所だったはずなのに。
結婚せよ、というこれまで聞いたことがないような種類の勅命が下ったことを知った時、景虎は固辞した。
今から思えば、帝からの命を固辞するなど考えられない不敬をしたものだ。
しかし当時の景虎は必死だった。
自分に誰かを幸せにする余裕などない。
誰かと一緒に暮らすということそのものも、わずらわしさ感じられない。
仮に無理矢理、結婚をしたとしても、妻になるだろう人を不幸にするだけなのだと、言いつのった。
しかし帝は『天華の家を絶やすわけにはいかぬ。それに心に負った傷を癒やしてくれるのは時間ではなく、人の温もりだ』そう言われたのだ。
帝はきっと、当時の己の身をかえりみず、一心不乱にただあやかしを斬るためだけに生き続ける景虎に、危うさを感じたのかもしれない。
正直、今の景虎も当時とさほど変わってはいない。
ただ当時よりも多少だが、周りが見えるようになった。
部隊の指揮官の職をうけたからかもしれない。
自分がいたずらに動けば、それだけ周りを巻き込み、傷つけてしまうという自制が無意識のうちに働くようになった。
沙苗を起こさぬよう、できるかぎり足音を殺して書斎に入る。
しっかりと畳まれた浴衣が置かれていた。
一人で暮らしていた時は洗濯する時間も余力もなかったから、汚れた衣服はそのまま捨て、新しいものを買うようにしていた。
でも今は洗われ、しっかり畳んでおいてある。
軍服から浴衣に着替える。ほんのりと石鹸の香りがした。
衣服から漂う石鹸の香りを嗅いだのは、どれくらいぶりだろう。
そんな感慨を覚えながら浴衣に着替えると、座椅子に座る。
文机に紙が積まれていた。五十枚くらいはあるだろうか。
――ずいぶん頑張ったものだ。
初日だからというのもあるのかもしれない。
それでも構わない。やる気があることは悪いことではないから。
一枚一枚目を通す。
『いぬ』や『ねこ』、『はと』、『とけい』などなど、つたない文字が書かれている。
――小学校の教師にでもなったような気分だな。
紙に書かれた平仮名を見ていく。
一生懸命書いたことが伝わってくる。
筆の使い方は別に教えたほうがいいかもしれないが、今は読み書きだけでいいだろう。
一度に色々と教えても困らせるだ。
「ふっ……」
景虎は自分の口から意識せず、もれた微笑の息遣いにはっとする。
――俺は今、笑ったのか……?
それはもちろん、沙苗の書いた文字が下手だから笑ったというのではない。
自然と頭の中に真剣な顔で黙々と平仮名の練習をする沙苗が思い浮かび、微笑ましいと感じたのだ。
その拍子に、ふっと笑みがこぼれたのだった。
今さらながらに唇を引き結ぶ。
そうしなければならないような気がしたのだ。