景虎が庁舎を出た頃には、日付が変わろうとしていた。
こんなに遅くなったのは、あやかし討伐の出動がかかったからだ。
日本橋に犬型のあやかしが現れ、その討伐指揮を担当した。
相手は大したあやかしでもなく、あっという間に討伐は完了した。
帝都は各地に五色不動を安置していたり、強い霊力が溜まる地点に神社仏閣を建設したりと江戸の頃から、対あやかしの結界が厚く張られている。
景虎や一臣の先祖たちがその結界作りに深く関わっていた。
しかし帝都がまだ江戸と呼ばれていた時代から、三百年。
結界は少しずつ弱まっているのを感じている。だからこそ、大して力の強くないあやかしが帝都へ侵入するようになってきていたのだ。
景虎は陸軍を通じ、政治家に対して結界強化の術法を行うべきと献策しているのだが、遅々として進まない。
結局、いつまでも呪術などの前時代的なものにこだわっていると思われては西洋諸国からの印象が悪いし、近代化の妨げになることを懸念しているのだ。
開国と共に日本に入ってきた技術を否定するつもりはない。
自動車だったり、電気だったり、素晴らしい技術は技術として景虎も認めるところだが、だからと言って、この国が数千年もの時間、紡いできた伝統を蔑ろにするべきではない。
軽んじれば、そのつけを払うのは現代を生きる景虎たちなのだから。
「大佐、つきました」
「ご苦労」
景虎は馬車を下りると、帽子を取って小脇に挟むと屋敷に入った。
しんっと静まり返っている玄関で靴を脱ごうとした時だ。上がりがまちに木霊たちが並んでいた。
「なんだ、お前ら」
木霊たちは何かを囁き会うような素振りを見せる(しかし木霊の顔にあたるだろう場所には耳はもちろん、口も見当たらない)。
景虎は腕を組んでその様子を見つめる。
すると、二体の木霊が進み出る。
片割れが不意に四つん這いになったかと思えば、上がり框を四つん這いで行ったり来たりを繰り返す。
「俺は沙苗のようにお前たちの言葉が分からない。もっと分かるようにしろ」
――俺は一体何をしているんだ。
さっさと風呂に入って休みたいというのに、木霊と向き合おうとしている自分に呆れる。
すると、木霊たちは廊下を指さす。そして四つん這いになると、やっぱりその場を行ったり来たりする。
景虎は廊下を見てみると、いつもより艶があるように見えた。
試しに触れてみると、つるつるしている。
「……沙苗が掃除をしたのか」
木霊たちはコクコクと大きく頷く。
それからさっき進み出て来た二体の木霊のうち、直立不動のまま立っていたほうの木霊が、四つん這いになっている木霊の頭を撫でるそぶりをする。
「……褒めてやれ、ということか?」
木霊たちは「そうだ!」と言わんばりに飛び跳ねた。
――あやかしのくせに人間のような反応をする連中だな。
沙苗と長らく一緒にいたせいなのか。
しかし褒めるにしても明日になるだろう。
景虎は靴を脱いで木霊たちをまたぎ、居間の襖を開けた。と、灯りが漏れた。
沙苗が卓袱台に突っ伏すように、眠っていた。
襖が開く音にはっとした顔をして顔をあげれば、眼が合った。
「か、景虎様、おかえりなさいませ」
「待つ必要ないと言わなかったか?」
「そういうわけには。お風呂にも入られると思いまして。一人ではご不便かと」
「お前が来るまではぜんぶ一人でやっていて、不都合はなかった」
「あ……すみません」
沙苗は目を伏せる。
「そういえば掃除をしてくれたようだな。すまない」
「どうしてそれを」
「木霊たちから聞いた」
「景虎様もこの子たちが何を言っているのか分かるのですか?」
「いや。身振り手振りで説明されてようやく気づけた」
卓袱台の片隅に一日の食事代としておいておいた金がそのままになっていることに気づく。
「食事は家で食べたのか」
「はい」
「うどんや牛鍋は口に合わないか?」
沙苗の顔が強張る。
どうしてそこまで大袈裟に反応するのか。怒っているわけではないのだから、申し訳なさそうな態度などとらなくてもいいだろう。
そんな態度を取られると、かえって不満があるのかと勘ぐり、不快になる。
「他人の嗜好に口を挟む趣味はないが、不満があればはっきりそう言え」
「……そういうわけではないんです。おうどんも、牛鍋も、とても美味しかった」
「なら、どういうことだ?」
「……お、美味しすぎるんです」
「は?」
予想外な言葉に、景虎は虚を突かれてしまう。
「うどんも、牛鍋も、美味しすぎたんです。私を受け入れてくださった景虎様に少しでも恩返しがしたいと思ったんです。でもこの街では、あんなに美味しいうどんや牛鍋が食べられるんですよね……。私の料理の腕はとうてい、あんな素晴らしいものに太刀打ちできないんです。食べている途中でそう思いはじめたら、どんどん落ち込んできて……」
「そんなことを考えていたのか……。食事を作れないから、掃除をしていたのか?」
「……掃除は元々するつもりでした」
「妻としての献身は求めないと言ったはずだ」
景虎は呆れ混じりに呟く。
「献身ではなく、感謝の気持ちでございます。半妖である私との婚約を続けてださったせめてもの……」
「分かった。もう遅い。休め」
「ですが、景虎様はこれからお風呂に入られますよね。でしたらお手伝いを」
「いらない。一人のほうが楽だ」
「……か、かしこまりました。では、おやすみなさいませ」
沙苗は深々と頭を下げると、居間を退出していく。
景虎は書斎に入った。
積まれた書類や本などは特に動かされたという痕跡はなかった。
きっと下手に動かしてはいけないと手をつけなかったのだろう。
堅苦しい軍服を脱ぎ、着物に着替える。
座椅子の背もたれに引っかけていた羽織を手にとった時、破けていたはずの右脇の部分が、しっかり繕われていた。小さな破れだったから、特に気にもしなかったのだが。
――これも沙苗がしてくれたのか。
こんなに遅くなったのは、あやかし討伐の出動がかかったからだ。
日本橋に犬型のあやかしが現れ、その討伐指揮を担当した。
相手は大したあやかしでもなく、あっという間に討伐は完了した。
帝都は各地に五色不動を安置していたり、強い霊力が溜まる地点に神社仏閣を建設したりと江戸の頃から、対あやかしの結界が厚く張られている。
景虎や一臣の先祖たちがその結界作りに深く関わっていた。
しかし帝都がまだ江戸と呼ばれていた時代から、三百年。
結界は少しずつ弱まっているのを感じている。だからこそ、大して力の強くないあやかしが帝都へ侵入するようになってきていたのだ。
景虎は陸軍を通じ、政治家に対して結界強化の術法を行うべきと献策しているのだが、遅々として進まない。
結局、いつまでも呪術などの前時代的なものにこだわっていると思われては西洋諸国からの印象が悪いし、近代化の妨げになることを懸念しているのだ。
開国と共に日本に入ってきた技術を否定するつもりはない。
自動車だったり、電気だったり、素晴らしい技術は技術として景虎も認めるところだが、だからと言って、この国が数千年もの時間、紡いできた伝統を蔑ろにするべきではない。
軽んじれば、そのつけを払うのは現代を生きる景虎たちなのだから。
「大佐、つきました」
「ご苦労」
景虎は馬車を下りると、帽子を取って小脇に挟むと屋敷に入った。
しんっと静まり返っている玄関で靴を脱ごうとした時だ。上がりがまちに木霊たちが並んでいた。
「なんだ、お前ら」
木霊たちは何かを囁き会うような素振りを見せる(しかし木霊の顔にあたるだろう場所には耳はもちろん、口も見当たらない)。
景虎は腕を組んでその様子を見つめる。
すると、二体の木霊が進み出る。
片割れが不意に四つん這いになったかと思えば、上がり框を四つん這いで行ったり来たりを繰り返す。
「俺は沙苗のようにお前たちの言葉が分からない。もっと分かるようにしろ」
――俺は一体何をしているんだ。
さっさと風呂に入って休みたいというのに、木霊と向き合おうとしている自分に呆れる。
すると、木霊たちは廊下を指さす。そして四つん這いになると、やっぱりその場を行ったり来たりする。
景虎は廊下を見てみると、いつもより艶があるように見えた。
試しに触れてみると、つるつるしている。
「……沙苗が掃除をしたのか」
木霊たちはコクコクと大きく頷く。
それからさっき進み出て来た二体の木霊のうち、直立不動のまま立っていたほうの木霊が、四つん這いになっている木霊の頭を撫でるそぶりをする。
「……褒めてやれ、ということか?」
木霊たちは「そうだ!」と言わんばりに飛び跳ねた。
――あやかしのくせに人間のような反応をする連中だな。
沙苗と長らく一緒にいたせいなのか。
しかし褒めるにしても明日になるだろう。
景虎は靴を脱いで木霊たちをまたぎ、居間の襖を開けた。と、灯りが漏れた。
沙苗が卓袱台に突っ伏すように、眠っていた。
襖が開く音にはっとした顔をして顔をあげれば、眼が合った。
「か、景虎様、おかえりなさいませ」
「待つ必要ないと言わなかったか?」
「そういうわけには。お風呂にも入られると思いまして。一人ではご不便かと」
「お前が来るまではぜんぶ一人でやっていて、不都合はなかった」
「あ……すみません」
沙苗は目を伏せる。
「そういえば掃除をしてくれたようだな。すまない」
「どうしてそれを」
「木霊たちから聞いた」
「景虎様もこの子たちが何を言っているのか分かるのですか?」
「いや。身振り手振りで説明されてようやく気づけた」
卓袱台の片隅に一日の食事代としておいておいた金がそのままになっていることに気づく。
「食事は家で食べたのか」
「はい」
「うどんや牛鍋は口に合わないか?」
沙苗の顔が強張る。
どうしてそこまで大袈裟に反応するのか。怒っているわけではないのだから、申し訳なさそうな態度などとらなくてもいいだろう。
そんな態度を取られると、かえって不満があるのかと勘ぐり、不快になる。
「他人の嗜好に口を挟む趣味はないが、不満があればはっきりそう言え」
「……そういうわけではないんです。おうどんも、牛鍋も、とても美味しかった」
「なら、どういうことだ?」
「……お、美味しすぎるんです」
「は?」
予想外な言葉に、景虎は虚を突かれてしまう。
「うどんも、牛鍋も、美味しすぎたんです。私を受け入れてくださった景虎様に少しでも恩返しがしたいと思ったんです。でもこの街では、あんなに美味しいうどんや牛鍋が食べられるんですよね……。私の料理の腕はとうてい、あんな素晴らしいものに太刀打ちできないんです。食べている途中でそう思いはじめたら、どんどん落ち込んできて……」
「そんなことを考えていたのか……。食事を作れないから、掃除をしていたのか?」
「……掃除は元々するつもりでした」
「妻としての献身は求めないと言ったはずだ」
景虎は呆れ混じりに呟く。
「献身ではなく、感謝の気持ちでございます。半妖である私との婚約を続けてださったせめてもの……」
「分かった。もう遅い。休め」
「ですが、景虎様はこれからお風呂に入られますよね。でしたらお手伝いを」
「いらない。一人のほうが楽だ」
「……か、かしこまりました。では、おやすみなさいませ」
沙苗は深々と頭を下げると、居間を退出していく。
景虎は書斎に入った。
積まれた書類や本などは特に動かされたという痕跡はなかった。
きっと下手に動かしてはいけないと手をつけなかったのだろう。
堅苦しい軍服を脱ぎ、着物に着替える。
座椅子の背もたれに引っかけていた羽織を手にとった時、破けていたはずの右脇の部分が、しっかり繕われていた。小さな破れだったから、特に気にもしなかったのだが。
――これも沙苗がしてくれたのか。