「叔父、さん…?」
「そう。育ての叔父がいたって、前に話したろ。その人。」
いつかはもう一度、キャンバスを見る。なんて愛おしい。
この絵を描いた人が、叶の叔父。
「もしかして、ここにある物全てが作品?」
「うん。買ってくれる人がいるから、今のところは売って生計立ててる。」
衝撃的な話だった。
「どうした?」
「ちょっと眩暈が…、」
この世にたった一枚の絵画たちが売られている事実ももちろん、憧れの画家がこんなにも身近に存在していたことが。
「眩暈って言うと、抽象画もあったなー…。」
叶がぞんざいにも見える動作でキャンバスをあさり出すものだから、いつかは悲鳴を上げた。
「な、何だよ。」
叶は驚いて目を丸くして、動きを止める。
「もっと丁寧に扱ってよ!?」
「たかが絵じゃん。」
「されど絵なの!」
いつかは叶が手にしたキャンバスをそっと床に下ろさせた。
「そんなに好き?」
興奮に頬を赤く染めるいつかに、叶は首を傾げて問う。
「好き。大好き。愛してる。」
「ふーん…。」
即答で愛を語るいつかに対し、叶は不思議そうにしていた。身内過ぎて、すごさが理解できないのかもしれない。
「それにしても、そっか…。亡くなってたんだ。」
叔父だという画家は画集を発表した直後から、行方がわかっていないとネットに書れていた。どこかで楽しく絵を描いてくれていたなら嬉しいと願っていたから、残念だった。
「いつか。今度、叔父のスケッチブックを見せてやるよ。だから、元気出せ。」
叶の励ましの言葉の効果は絶大だった。
「いいの?」
「うん。スケッチブックは売ってないから、結構数があるよ。」
胸を焦がし続けた画家のデッサンやスケッチを見られるこの機会に、いつかの表情がぱっと明るくなる。
「嬉しい。ありがとう。」
夕食後のお茶の時間に、叶は叔父のことをいつかに話してくれた。
「優しく笑う、笑窪が似合う人だった。」
叶はお茶を一口飲むと、懐かしそうに目を細める。
「俺が熱を出すと、大げさに慌てて自動車を走らせて病院に連れて行ってくれたこともあった。スピード違反で、たしか切符を切られていたっけ。」
そのときのことを思い出したのか、叶は照れくさそうに苦笑した。
「美大で指導員をしながら、ずっと絵を描き続けていたな。」
真っ白なキャンバスに向かうその背中が忘れられないと、叶は言う。
叶が語ってくれた叔父さん像はとても穏やかで、優しい人、という印象だった。その上で、美術に対しては厳しい面もあったらしい。
「気に入らない絵は、燃やしてしまうんだ。」
だから実際に描いた絵はあの部屋にあった何倍もある、と聞いて、いつかはため息を零した。叶うことなら、全ての絵を見てみたかった。
「お茶、おかわりは?」
「ああ、うん。お願い。」
話に一区切りをつけて、叶はいつかが淹れた紅茶を飲む。意外と甘党なようで、角砂糖を二つ入れていた。
「…いつかが、叔父さんの絵をきっかけに創作活動を初めてくれたことが嬉しいよ。」
ぽとんとインクが滲むような呟きだった。
「叔父さんが生きた証があるようで、とても。」
「そんな…。私、叶の叔父さんの絵がすごく好きで、いつかこんな絵を描きたいと思った。私が生きる道しるべで、風見鶏なの。だから、救われたのは私の方。」
いつかはそっと叶の左手に触れた。彼は静かに涙を零していた。サラサラとしていて、頬を伝い、顎から滴り落ちる涙は丸く美しかった。
その寂しい横顔に、いつかは間違えていた。
その日の夜。細波が押しかえすように繰り返し、夢を見た。
淡雪の降る美しい日だった。
叶は息を潜めるように、家の前の林道を歩いていた。しんしんと降る雪を追い、その結晶を束の間手のひらに咲かせる遊びをしていたのだ。
背後から、金色の光が筋状に伸びる。叶が振り返るとそこのは叔父の愛車の姿があった。叔父が帰ってきたことが嬉しくて、叶は右手を振った。
「…っ!」
電気が走ったかのような、急激な覚醒だった。眠っていた叶は自分の部屋の天井を見つめた。呼吸が荒く、苦しい。幼い頃から何度も視線でなぞった天井の木目に微笑まれ、叶は落ち着きを取り戻す。
『好き。大好き。愛してる。』
ふと、いつかの言葉が脳裏に過り、ずきりと頭痛がした。
「止めてくれ…。」
押し込めた闇の暗さに慣れていたはずなのに、まるで光のようにいつかが現れた。このままでは、目が眩んでしまいそうだった。
だから、目を瞑ることにした。これ以上、見続けるには世界は眩しすぎたし、色彩豊かで美しすぎた。
今度は、夢を見ないぐらいに深い眠りが良い。
開け放した窓からは森の爽やかな風が吹き、笛にも似た賢者の梟が鳴く声が響いていた。
パラパラとスケッチブックのページをめくる音が響く。
憧れの画家が残したデッサンは興味深く、まるで美の神髄を見ているかのようだった。
引かれた筆跡は的確にラインを描いているのに無機質な写真のような冷たさはなく、高い体温に触れるように息吹を感じられた。
春の桜。夏の魚。秋の葉。冬の雪。
四季を事細かに記録するように、丁寧に絵は描かれていく
香り、感触、気配や呼吸をする音すら美しい。こんなにも身近にあるものが、美しいと感じたのは初めての体験だった。
「ねえ、叶。秋のスケッチブックはどれ?」
「秋?えーと…。これかな。」
スケッチブックは几帳面にナンバリングされていて、季節毎に分けられていた。
「いつかー。そろそろ、休憩にせん?お茶を飲もうよ。」
「え?」
叶に休憩を促されて時計を見ると、スケッチブックを眺め始めてから2時間ほど経っていた。まるで一瞬のようで、たいした時間泥棒だ。
叶の言うとおりに休憩を取ろうしたいつかは体のコリに気が付いて、腕を伸ばして解す。コクリ、と肩が鳴った。
「ふいー。」
「すごい集中力だな。」
叶は苦笑する。
「そうかな。でも全然、疲れてないよ。」
「そりゃ何より。」
季節は初夏から一字抜けて、夏を迎えていた。
いつかは生まれ育った町よりも、この海辺の町の方が現実味を帯びているようだとこの頃には感じていた。
「スケッチブック、そんなにおもしろい?」
「とっても!」
叶が注いでくれた冷たいほうじ茶を飲みながら、いつかは答える。
「私が描いていたデッサンって、全然丁寧じゃなかったことに気が付いたよ。」
もっと見る力を養わなければ、と思った。もっと基礎から鍛えなければいけないことに気づけた。
「いつかは勉強熱心だね。きっと今はスランプなだけで、いつかのその熱意は絵となって花開くんだろーなあ。」
楽しみだな、と言う叶の呟きが純粋に嬉しい。
「ねえ、叶は絵を描かないの?」
「昔、少し描いたこともあったけど、利き手の右腕がダメになってから描いてない。」
嬉しさのあまりにいつかは無神経なことを聞いたと、反省する。
「…ごめんね。」
「え?何で謝るのさ。俺、そんなに絵に対して真摯でもないし。」
それでも、叶が一瞬見せた目色には寂しさを滲ませていた気がした。だけど、何でもない風を装う彼にために、嘘の片棒を担ぐことにした。
「そっか。」
「うん。」
しばらく二人は無言でお茶を飲んだ。
開け放った窓から生温い風がレースのカーテンを孕ませている。蝉が命の限りを鳴き、燦々と輝く太陽に分厚い雲が重なったようで一瞬辺りが薄暗くなった。午後には雨が降りそうだ。
「そう。育ての叔父がいたって、前に話したろ。その人。」
いつかはもう一度、キャンバスを見る。なんて愛おしい。
この絵を描いた人が、叶の叔父。
「もしかして、ここにある物全てが作品?」
「うん。買ってくれる人がいるから、今のところは売って生計立ててる。」
衝撃的な話だった。
「どうした?」
「ちょっと眩暈が…、」
この世にたった一枚の絵画たちが売られている事実ももちろん、憧れの画家がこんなにも身近に存在していたことが。
「眩暈って言うと、抽象画もあったなー…。」
叶がぞんざいにも見える動作でキャンバスをあさり出すものだから、いつかは悲鳴を上げた。
「な、何だよ。」
叶は驚いて目を丸くして、動きを止める。
「もっと丁寧に扱ってよ!?」
「たかが絵じゃん。」
「されど絵なの!」
いつかは叶が手にしたキャンバスをそっと床に下ろさせた。
「そんなに好き?」
興奮に頬を赤く染めるいつかに、叶は首を傾げて問う。
「好き。大好き。愛してる。」
「ふーん…。」
即答で愛を語るいつかに対し、叶は不思議そうにしていた。身内過ぎて、すごさが理解できないのかもしれない。
「それにしても、そっか…。亡くなってたんだ。」
叔父だという画家は画集を発表した直後から、行方がわかっていないとネットに書れていた。どこかで楽しく絵を描いてくれていたなら嬉しいと願っていたから、残念だった。
「いつか。今度、叔父のスケッチブックを見せてやるよ。だから、元気出せ。」
叶の励ましの言葉の効果は絶大だった。
「いいの?」
「うん。スケッチブックは売ってないから、結構数があるよ。」
胸を焦がし続けた画家のデッサンやスケッチを見られるこの機会に、いつかの表情がぱっと明るくなる。
「嬉しい。ありがとう。」
夕食後のお茶の時間に、叶は叔父のことをいつかに話してくれた。
「優しく笑う、笑窪が似合う人だった。」
叶はお茶を一口飲むと、懐かしそうに目を細める。
「俺が熱を出すと、大げさに慌てて自動車を走らせて病院に連れて行ってくれたこともあった。スピード違反で、たしか切符を切られていたっけ。」
そのときのことを思い出したのか、叶は照れくさそうに苦笑した。
「美大で指導員をしながら、ずっと絵を描き続けていたな。」
真っ白なキャンバスに向かうその背中が忘れられないと、叶は言う。
叶が語ってくれた叔父さん像はとても穏やかで、優しい人、という印象だった。その上で、美術に対しては厳しい面もあったらしい。
「気に入らない絵は、燃やしてしまうんだ。」
だから実際に描いた絵はあの部屋にあった何倍もある、と聞いて、いつかはため息を零した。叶うことなら、全ての絵を見てみたかった。
「お茶、おかわりは?」
「ああ、うん。お願い。」
話に一区切りをつけて、叶はいつかが淹れた紅茶を飲む。意外と甘党なようで、角砂糖を二つ入れていた。
「…いつかが、叔父さんの絵をきっかけに創作活動を初めてくれたことが嬉しいよ。」
ぽとんとインクが滲むような呟きだった。
「叔父さんが生きた証があるようで、とても。」
「そんな…。私、叶の叔父さんの絵がすごく好きで、いつかこんな絵を描きたいと思った。私が生きる道しるべで、風見鶏なの。だから、救われたのは私の方。」
いつかはそっと叶の左手に触れた。彼は静かに涙を零していた。サラサラとしていて、頬を伝い、顎から滴り落ちる涙は丸く美しかった。
その寂しい横顔に、いつかは間違えていた。
その日の夜。細波が押しかえすように繰り返し、夢を見た。
淡雪の降る美しい日だった。
叶は息を潜めるように、家の前の林道を歩いていた。しんしんと降る雪を追い、その結晶を束の間手のひらに咲かせる遊びをしていたのだ。
背後から、金色の光が筋状に伸びる。叶が振り返るとそこのは叔父の愛車の姿があった。叔父が帰ってきたことが嬉しくて、叶は右手を振った。
「…っ!」
電気が走ったかのような、急激な覚醒だった。眠っていた叶は自分の部屋の天井を見つめた。呼吸が荒く、苦しい。幼い頃から何度も視線でなぞった天井の木目に微笑まれ、叶は落ち着きを取り戻す。
『好き。大好き。愛してる。』
ふと、いつかの言葉が脳裏に過り、ずきりと頭痛がした。
「止めてくれ…。」
押し込めた闇の暗さに慣れていたはずなのに、まるで光のようにいつかが現れた。このままでは、目が眩んでしまいそうだった。
だから、目を瞑ることにした。これ以上、見続けるには世界は眩しすぎたし、色彩豊かで美しすぎた。
今度は、夢を見ないぐらいに深い眠りが良い。
開け放した窓からは森の爽やかな風が吹き、笛にも似た賢者の梟が鳴く声が響いていた。
パラパラとスケッチブックのページをめくる音が響く。
憧れの画家が残したデッサンは興味深く、まるで美の神髄を見ているかのようだった。
引かれた筆跡は的確にラインを描いているのに無機質な写真のような冷たさはなく、高い体温に触れるように息吹を感じられた。
春の桜。夏の魚。秋の葉。冬の雪。
四季を事細かに記録するように、丁寧に絵は描かれていく
香り、感触、気配や呼吸をする音すら美しい。こんなにも身近にあるものが、美しいと感じたのは初めての体験だった。
「ねえ、叶。秋のスケッチブックはどれ?」
「秋?えーと…。これかな。」
スケッチブックは几帳面にナンバリングされていて、季節毎に分けられていた。
「いつかー。そろそろ、休憩にせん?お茶を飲もうよ。」
「え?」
叶に休憩を促されて時計を見ると、スケッチブックを眺め始めてから2時間ほど経っていた。まるで一瞬のようで、たいした時間泥棒だ。
叶の言うとおりに休憩を取ろうしたいつかは体のコリに気が付いて、腕を伸ばして解す。コクリ、と肩が鳴った。
「ふいー。」
「すごい集中力だな。」
叶は苦笑する。
「そうかな。でも全然、疲れてないよ。」
「そりゃ何より。」
季節は初夏から一字抜けて、夏を迎えていた。
いつかは生まれ育った町よりも、この海辺の町の方が現実味を帯びているようだとこの頃には感じていた。
「スケッチブック、そんなにおもしろい?」
「とっても!」
叶が注いでくれた冷たいほうじ茶を飲みながら、いつかは答える。
「私が描いていたデッサンって、全然丁寧じゃなかったことに気が付いたよ。」
もっと見る力を養わなければ、と思った。もっと基礎から鍛えなければいけないことに気づけた。
「いつかは勉強熱心だね。きっと今はスランプなだけで、いつかのその熱意は絵となって花開くんだろーなあ。」
楽しみだな、と言う叶の呟きが純粋に嬉しい。
「ねえ、叶は絵を描かないの?」
「昔、少し描いたこともあったけど、利き手の右腕がダメになってから描いてない。」
嬉しさのあまりにいつかは無神経なことを聞いたと、反省する。
「…ごめんね。」
「え?何で謝るのさ。俺、そんなに絵に対して真摯でもないし。」
それでも、叶が一瞬見せた目色には寂しさを滲ませていた気がした。だけど、何でもない風を装う彼にために、嘘の片棒を担ぐことにした。
「そっか。」
「うん。」
しばらく二人は無言でお茶を飲んだ。
開け放った窓から生温い風がレースのカーテンを孕ませている。蝉が命の限りを鳴き、燦々と輝く太陽に分厚い雲が重なったようで一瞬辺りが薄暗くなった。午後には雨が降りそうだ。