キャンバスの上で、色が濁っていくのがわかった。
「次の数学、自習だって。」
高校二年生の初夏。柚木いつかは窓際の席でぼんやりと外の景色を見下ろしていると、友人に声をかけられて教室に視線を戻した。
「そうなんだ。ラッキー。」
いつかは目を細めて、口角を上げた。そこにいた友人たちも、口々に喜色の声を上げている。女子生徒のみが通うこの高校で、男子のいない気楽さから些か派手なはしゃぎ声だった。
他愛もない会話を交えている最中に、授業のチャイムが鳴る。一拍遅れて教室に入ってきたのは、学年主任の教諭だった。
「えー、自習だからと言って騒がないように。」
数学の課題のプリントを配りつつ教諭は、箸が転げただけで笑ってしまうような年頃に女子たちに注意をする。
「時々、様子を見に来るからなー。」
はーい、と気のない返事を生徒から受け取って、教諭は退室した。途端に席を立つ者や、鞄からメイク道具を取り出すような者が現れる。いつかの元へも友人たちが数名集まり、配られた数学のプリントの問題を割り振った。それぞれが数問解き、残りは写し合おうという寸法だ。
「じゃあ、二問から四問まではゆっちでー…、いつかは五問からね。」
「OK。」
また後でね、と手を振って別れ、いつかはプリントの用紙に向き合った。カリカリと数字を書き込み、式を成立させていく。
数分で解き終えたプリントを裏返し、いつかは机に頬杖をついた。見つめる先の校庭では体育の授業でフットサルを行う生徒たちの声や笛の音が響き、空に飛行機雲が描かれて蒼を分断している。
初夏の鳥たちは積極的に翼を羽ばたかせて、チチチ、と鳴いた。緑の色濃い木々で鬼ごっこをするかのように、枝から枝へ飛び移っている。
今しかない、きっとこの時間を青春と呼ぶのだろう。そしてきっと、私はその貴重な青春を無駄に浪費している。
放課後。いつかは教室で友人と別れ、別棟にある美術室へと部活動をしに向かった。
古い木製の渡り廊下は歩む度に、ギシギシと軋む。屋根を見ると雨漏りの後が幾重にも連なり、黒く変色していた。二階にある美術室へと辿り着くと、すでに到着していた美術部員数名が机にお菓子を広げておしゃべりに花を咲かせていた。
「お疲れ様でーす。」
互いに思ってもない挨拶を交わして、いつかはイーゼルを立てる。カルトンに画用紙を固定して、鉛筆デッサンの準備を進めた。
教室隅にあるゴミ箱を持ってきて、椅子に腰掛けて鉛筆にカッターの刃を当てた。サリ、と木が削れる音が響き、ゴミ箱に鉛筆の薄い皮膚のような屑が吸い込まれていく。納得のいく削り口にいつかは頷き、その鉛筆を手にして画用紙越しに石膏像と向き合った。
シャッシャッと画用紙の上に鉛筆が滑っていく。デッサンをしていると時間の流れが速く、みるみるうちに時が溶けた。他の部員が真面目に部活に取り組まない間、いつかはたった一人でデッサンを繰り返していた。
どうして、見たものをそのまま描くという行為がこんなにも難しいのだろう。
もっと、もっとこの世界を美しく切り取りたいのに。
「…っ!」
一瞬滾った激情が鉛筆の芯に伝わって、鈍い音を立て根元から折れる。その振動が手のひらに伝わって、いつかは思わず鉛筆を床に落としてしまった。転がる鉛筆を見て、そして周囲が夕焼けの朱色に染まっていることを知る。
「…。」
いつかは小さなため息を吐いた。
出会うはずのない友人たちと連み、通う気のなかった教室で、興味のない授業を受ける。
私はあの日から、絵を一枚も完成させられずにいる。
「下校時刻が過ぎたから、もう帰りなさい。」
見回りの教諭に声をかけられて、いつかはようやくデッサン道具の片付けを始めた。
小学生たちの帰宅を促す『夕焼け小焼け』が町内放送で流れている。少し間延びしたその曲は見方を変えれば、少しホラーだった。
昼間にあんなにも賑やかだった鳥たちも自分たちの根城へと急いでいる。影が長く伸びる住宅街はどこか寂しく感じられた。
とある住宅の前を通りかかると夕食の支度をする香りが、鼻腔をくすぐった。ゴボウや油の香りに、今夜は豚汁なのだろうかと勝手に献立を想像する。
不意に聞こえた笑い声に我に返ると、ブレザーに身を包んだ他校の女子高生たちが仲よさ気に肩を並べて歩いていた。その制服を見て、いつかの心臓が嫌な音を立てて軋んだ。足元がぐらぐらと揺れるような錯覚に陥る。思わず立ち止まり、いつかはその波と女子高生たちが去るのを待った。
いつかのことなど気にせず、彼女らは横を通り抜けていく。最接近した瞬間、いつかはひゅっと息を呑んで呼吸を止めた。まるで茨の小さな棘がその身を苛むような感覚。女子高生たちが遠ざかるのを感じて、ようやく止めていた呼吸を再開した。
灰色のブレザーに身を包んだ彼女たちは、美術高校の生徒だった。それはいつかもかつて、中学生の頃に希望していた高校だ。
苦しさに、涙が滲む。
いつかは美術高校を受験したものの、合格を勝ち取れなかった。受験番号を見つけられなかった日から、息苦しさが抜けない。
いつかは今、黒いセーラー服を来ている。その濃く暗い色は、技術試験のときにキャンバスで濁っていった色によく似ていた。
自宅前に着くと、父親が仕事に向かう自動車がすでに停まっていた。
「ただいま。」
玄関で靴を脱ぎながら室内に声をかけると、父親と母親のブルゾンのような「おかえり」の声が返ってきた。
「いつか、お弁当箱出してね。」
自分の部屋に行く前にリビングに寄ると、ダイニングキッチンから母親の声がかかる。
「うん。」
鞄から弁当箱の包みを取り出して、母親に渡した。
「あ。あなた、またミニトマト残して。」
弁当箱にころりと転がるトマトを見て、母親が苦言を呈する。
「苦手なんだもん。」
「全くもう。昔から変わらないんだから。」
一日、鞄の中にあったトマトを流しに捨てながら、母親はため息を吐いた。
「トマト以外に彩りって無いのよねー。」
母親のぶつぶつと呟く声を聞こえないフリをして、いつかは廊下に出る。その扉の前で、新聞を持った父親とすれ違った。
「遅かったな。」
「…うん。」
受験に失敗してから父親とは、何を話せば良いかわからなくなっていた。美術高校を反対していたぐらいなのだから喜んでいるのかな、などと考えてしまうともう居たたまれない。
「…。」
「そうだ、いつか。」
いつもなら会話を終えそうなタイミングで言葉を紡がれて、いつかは驚く。
「何?」
「今度、皆で旅行に行かないか?」
父親の提案に、母親も「いいわね」と賛成する。
「近場の温泉にでも、車で。」
「…考えとく。」
つれない返事をしてしまうが、それでも精一杯の強がりだった。本当は絶対に行きたくない。沈黙の車内を想像すればするほど、胃が痛かった。
今度こそ本当に階段を上って自分の部屋へと向かう。階下で何か言いたげな父親の視線を感じていた。
制服を脱いで、ハンガーに掛ける。一度、床に放置して皺にしてしまったのは経験済みだ。
部屋着に着替えて、いつかはスマートホンを片手にベッドに寝転んだ。小学生の頃から使っているパイプ製のベッドがギシリと軋む。
スマートホンの画面をタップしてゲームアプリのログインボーナスを貰い、ネットやSNSを巡って過ごす。英語の課題が出ていたことに気が付いて、何となく起き上がり勉強机に向かってみた。英文を日本語に訳しているうちにわからない単語が見つかり、電子辞書を備え付けの本棚から取り出した。トン、と指先が一冊の画集の背表紙に当たる。
「…。」
電子辞書と共にその画集を取り出した。もう何度も何度も見返した大好きな絵画たち。初めて見た一枚はネットで見かけ、そしてたった一冊この画集を作品として出版していることを知った。美術書の絶版は早く、いつかはそれでも諦めきれずに街の書店や通販で探し続けた。そして見つけたのは地方の小さな本屋だった。ホームページからアドレスを見つけ、初めて自らの手で取り寄せをした。満を持して届いた荷物は厳重にビニールに包まれ、開封するときにその手が震えたことを覚えている。
画集に納められた作品は美しい色彩と共に、目映い光や瑞々しい空気感を感じられるものだった。何度も何度も好きな作品のページを見返すものだから、そのページが割れてしまいその都度いつかは丁寧に画集を修復してきた。
いつかの創作活動の原点だった。
こんな絵が描きたい、と心から思った。
パラ、とページをめくる度に目に涙が滲む。スランプだなんて陳腐な言葉でごまかしたくない。だけど、今、デッサンすら満足のいく作品を仕上げることが出来ないのは確かだった。
最近、ため息ばかりを吐いている気がする。うまく笑えているのか心配になって、いつかは自らの頬に触れた。
その日の夜、いつかは夕食の席で家族旅行には行かない旨を告げた。
「お父さんとお母さん、二人で行って来なよ。私は大丈夫だから。」
父親はがっかりしたように眉を下げ、母親は困ったように首を傾げた。
「そんなこと言わないで、行きましょうよ。」
「気分じゃない。」
箸を置いて、食器を片付けようと席を立つとぽつりと父親が呟いた。
「…そうやって、いつまでふて腐れてるつもりだ?」
「!」
怒りと羞恥心が一気に沸点に達した。今、口を開けばきっとみっともないことを言ってしまう。いつかは唇を痛いほどに噛みしめて、聞こえなかったふりを貫いてその場を後にした。
部屋に戻り、クッションを顔に押し当てて声を出さないように泣いた。あんなに流した涙は、まだ尽きない。
翌日はいつかの涙を模したかのような雨だった。
新緑には恵みの雨とて、今の気分を鬱屈としたものにするのは充分の湿っぽさだ。傘の花が咲く通学路を下を見ながら歩いて行く。
高校に近づくと、不意に肩を叩かれた。視線を持ち上げると友人がいて、いつもと同じ代わり映えのない会話を繰り返すのだ。
憂鬱の一日を終えて、今日も美術室へと向かう。扉に手をかけようとした刹那、室内で話す美術部員のおしゃべりの中で自らの名前を聞いてその動きを止めた。
「そういえばさ、いつも教室の隅っこで絵を描いてる人いるじゃん。柚木さん?だっけ。」
「あー、そういえばいるねー。」
「あの人いるとさ、部活中盛り下がらない?私たちを見下してる気がしてさ、ほら、私は真面目にデッサンしてますー、みたいな。」
「それな。」
「そんなに好きならさ、なーんで美術高校行かなかったんかね。近くにあるじゃん。」
「行かなかったんじゃなくて、行けなかったんでしょ。」
クスクスとした嘲笑が挟まれて、いつかの心を抉る一言が放たれる。
「そんなにうまくないもんね、絵。そもそも完成すらさせてないし。」
まるで重い鈍器のようだと思った。言葉は繰り返しいつかの心を殴りつけ、ひと思いにとどめを刺さない。せめて鋭利な刃物で気付かないように殺してくれれば良いのに。
手足の先が冷えて、感覚がなくなっていくのがわかった。どうやって呼吸をしていたかわからない、まるで陸に上げられた魚のようだった。
いつかは美術室にいる部員に悟られぬように静かに踵を返して、走り出した。通りかかった教諭に廊下を走るなと咎められても、その足は止められない。
傘を昇降口に忘れて、雨に濡れながら駆けていく。雨粒が旋毛に落ちて、額を伝って頬を滑り、顎から落ちる感覚が気持ちが悪い。
ああ、吐き気がする。
胃の中のものが逆流して、喉奥にせめぎ合う。我慢していたものの、ついに限界が来てゴミ捨て場の隅で吐いてしまった。胃酸が喉を焼いて痛い。吐瀉物のつんとした臭いに涙目になる。こほこほと咳き込んでいると、不意に視界の隅に見慣れた色彩が映った。
古紙回収の日だったのだろうか、濡れた新聞紙や雑誌に紛れていつかの大切な画集がそこにあった。
「どうして…!?」
震える手で古紙をまとめるビニールひもを解いて、画集の表紙に触れる。画集は雨に濡れて醜い皺が寄り、ページをめくろうとするとその水分の重みで破けそうで怖い。
自分の物だと確信を得たのは、お気に入りのページの修正痕だった。
いつかはぼろぼろになった画集を胸に抱えて、重い足を引きずって歩き出す。
時間をかけて帰宅すると、いつかはリビングに向かった。今日も父親の車がすでに駐車場にあった。工場勤務の父親は、今週は早番だと言っていたのを思い出す。
「おかえり、いつか…って、どうしたの?びしょ濡れじゃない!」
母親がいつかの存在に気が付いて、慌てて洗面所にタオルを取りに行こうとする。
「お母さん。」
それを引き留めて、いつかは手にしていた画集を見せる。
「これ、捨てられていたんだけど。」
「それは…、」
言い淀む母親にたたみかけるように、いつかは声を荒げた。
「どういうこと?何で、こんなことをするの!?」
「捨てたのは、僕だ。」
背後から父親の声が掛かり、いつかは振り返る。
「なんで?」
「いつか。学校、辞めて良いぞ。」
父親は大きなため息を吐きながら、いつかを見る。
「学校を辞めろ。絵を描くのを止めろ。何もしたくないなら、生きるのをやめなさい。」
「…!」
「君は高校の受験を失敗してからおかしい。このままでは…ー、」
いつかは言葉を飲み込んだ。揺らいだ世界は血のような赤色に染まっていくのを感じていた。光が点滅して、喉の奥で鉄の味がする。
「いつか、」
肩に触れようとする父親の手を振り払って、いつかは玄関に向かって駆け出した。靴を履き、外に出る。ここじゃないどこかに行きたかった。
「いつか!」
母親の叫ぶ声が聞こえる。
「放っておきなさい!頭を冷やしたら、どうせ帰ってくる。」
「次の数学、自習だって。」
高校二年生の初夏。柚木いつかは窓際の席でぼんやりと外の景色を見下ろしていると、友人に声をかけられて教室に視線を戻した。
「そうなんだ。ラッキー。」
いつかは目を細めて、口角を上げた。そこにいた友人たちも、口々に喜色の声を上げている。女子生徒のみが通うこの高校で、男子のいない気楽さから些か派手なはしゃぎ声だった。
他愛もない会話を交えている最中に、授業のチャイムが鳴る。一拍遅れて教室に入ってきたのは、学年主任の教諭だった。
「えー、自習だからと言って騒がないように。」
数学の課題のプリントを配りつつ教諭は、箸が転げただけで笑ってしまうような年頃に女子たちに注意をする。
「時々、様子を見に来るからなー。」
はーい、と気のない返事を生徒から受け取って、教諭は退室した。途端に席を立つ者や、鞄からメイク道具を取り出すような者が現れる。いつかの元へも友人たちが数名集まり、配られた数学のプリントの問題を割り振った。それぞれが数問解き、残りは写し合おうという寸法だ。
「じゃあ、二問から四問まではゆっちでー…、いつかは五問からね。」
「OK。」
また後でね、と手を振って別れ、いつかはプリントの用紙に向き合った。カリカリと数字を書き込み、式を成立させていく。
数分で解き終えたプリントを裏返し、いつかは机に頬杖をついた。見つめる先の校庭では体育の授業でフットサルを行う生徒たちの声や笛の音が響き、空に飛行機雲が描かれて蒼を分断している。
初夏の鳥たちは積極的に翼を羽ばたかせて、チチチ、と鳴いた。緑の色濃い木々で鬼ごっこをするかのように、枝から枝へ飛び移っている。
今しかない、きっとこの時間を青春と呼ぶのだろう。そしてきっと、私はその貴重な青春を無駄に浪費している。
放課後。いつかは教室で友人と別れ、別棟にある美術室へと部活動をしに向かった。
古い木製の渡り廊下は歩む度に、ギシギシと軋む。屋根を見ると雨漏りの後が幾重にも連なり、黒く変色していた。二階にある美術室へと辿り着くと、すでに到着していた美術部員数名が机にお菓子を広げておしゃべりに花を咲かせていた。
「お疲れ様でーす。」
互いに思ってもない挨拶を交わして、いつかはイーゼルを立てる。カルトンに画用紙を固定して、鉛筆デッサンの準備を進めた。
教室隅にあるゴミ箱を持ってきて、椅子に腰掛けて鉛筆にカッターの刃を当てた。サリ、と木が削れる音が響き、ゴミ箱に鉛筆の薄い皮膚のような屑が吸い込まれていく。納得のいく削り口にいつかは頷き、その鉛筆を手にして画用紙越しに石膏像と向き合った。
シャッシャッと画用紙の上に鉛筆が滑っていく。デッサンをしていると時間の流れが速く、みるみるうちに時が溶けた。他の部員が真面目に部活に取り組まない間、いつかはたった一人でデッサンを繰り返していた。
どうして、見たものをそのまま描くという行為がこんなにも難しいのだろう。
もっと、もっとこの世界を美しく切り取りたいのに。
「…っ!」
一瞬滾った激情が鉛筆の芯に伝わって、鈍い音を立て根元から折れる。その振動が手のひらに伝わって、いつかは思わず鉛筆を床に落としてしまった。転がる鉛筆を見て、そして周囲が夕焼けの朱色に染まっていることを知る。
「…。」
いつかは小さなため息を吐いた。
出会うはずのない友人たちと連み、通う気のなかった教室で、興味のない授業を受ける。
私はあの日から、絵を一枚も完成させられずにいる。
「下校時刻が過ぎたから、もう帰りなさい。」
見回りの教諭に声をかけられて、いつかはようやくデッサン道具の片付けを始めた。
小学生たちの帰宅を促す『夕焼け小焼け』が町内放送で流れている。少し間延びしたその曲は見方を変えれば、少しホラーだった。
昼間にあんなにも賑やかだった鳥たちも自分たちの根城へと急いでいる。影が長く伸びる住宅街はどこか寂しく感じられた。
とある住宅の前を通りかかると夕食の支度をする香りが、鼻腔をくすぐった。ゴボウや油の香りに、今夜は豚汁なのだろうかと勝手に献立を想像する。
不意に聞こえた笑い声に我に返ると、ブレザーに身を包んだ他校の女子高生たちが仲よさ気に肩を並べて歩いていた。その制服を見て、いつかの心臓が嫌な音を立てて軋んだ。足元がぐらぐらと揺れるような錯覚に陥る。思わず立ち止まり、いつかはその波と女子高生たちが去るのを待った。
いつかのことなど気にせず、彼女らは横を通り抜けていく。最接近した瞬間、いつかはひゅっと息を呑んで呼吸を止めた。まるで茨の小さな棘がその身を苛むような感覚。女子高生たちが遠ざかるのを感じて、ようやく止めていた呼吸を再開した。
灰色のブレザーに身を包んだ彼女たちは、美術高校の生徒だった。それはいつかもかつて、中学生の頃に希望していた高校だ。
苦しさに、涙が滲む。
いつかは美術高校を受験したものの、合格を勝ち取れなかった。受験番号を見つけられなかった日から、息苦しさが抜けない。
いつかは今、黒いセーラー服を来ている。その濃く暗い色は、技術試験のときにキャンバスで濁っていった色によく似ていた。
自宅前に着くと、父親が仕事に向かう自動車がすでに停まっていた。
「ただいま。」
玄関で靴を脱ぎながら室内に声をかけると、父親と母親のブルゾンのような「おかえり」の声が返ってきた。
「いつか、お弁当箱出してね。」
自分の部屋に行く前にリビングに寄ると、ダイニングキッチンから母親の声がかかる。
「うん。」
鞄から弁当箱の包みを取り出して、母親に渡した。
「あ。あなた、またミニトマト残して。」
弁当箱にころりと転がるトマトを見て、母親が苦言を呈する。
「苦手なんだもん。」
「全くもう。昔から変わらないんだから。」
一日、鞄の中にあったトマトを流しに捨てながら、母親はため息を吐いた。
「トマト以外に彩りって無いのよねー。」
母親のぶつぶつと呟く声を聞こえないフリをして、いつかは廊下に出る。その扉の前で、新聞を持った父親とすれ違った。
「遅かったな。」
「…うん。」
受験に失敗してから父親とは、何を話せば良いかわからなくなっていた。美術高校を反対していたぐらいなのだから喜んでいるのかな、などと考えてしまうともう居たたまれない。
「…。」
「そうだ、いつか。」
いつもなら会話を終えそうなタイミングで言葉を紡がれて、いつかは驚く。
「何?」
「今度、皆で旅行に行かないか?」
父親の提案に、母親も「いいわね」と賛成する。
「近場の温泉にでも、車で。」
「…考えとく。」
つれない返事をしてしまうが、それでも精一杯の強がりだった。本当は絶対に行きたくない。沈黙の車内を想像すればするほど、胃が痛かった。
今度こそ本当に階段を上って自分の部屋へと向かう。階下で何か言いたげな父親の視線を感じていた。
制服を脱いで、ハンガーに掛ける。一度、床に放置して皺にしてしまったのは経験済みだ。
部屋着に着替えて、いつかはスマートホンを片手にベッドに寝転んだ。小学生の頃から使っているパイプ製のベッドがギシリと軋む。
スマートホンの画面をタップしてゲームアプリのログインボーナスを貰い、ネットやSNSを巡って過ごす。英語の課題が出ていたことに気が付いて、何となく起き上がり勉強机に向かってみた。英文を日本語に訳しているうちにわからない単語が見つかり、電子辞書を備え付けの本棚から取り出した。トン、と指先が一冊の画集の背表紙に当たる。
「…。」
電子辞書と共にその画集を取り出した。もう何度も何度も見返した大好きな絵画たち。初めて見た一枚はネットで見かけ、そしてたった一冊この画集を作品として出版していることを知った。美術書の絶版は早く、いつかはそれでも諦めきれずに街の書店や通販で探し続けた。そして見つけたのは地方の小さな本屋だった。ホームページからアドレスを見つけ、初めて自らの手で取り寄せをした。満を持して届いた荷物は厳重にビニールに包まれ、開封するときにその手が震えたことを覚えている。
画集に納められた作品は美しい色彩と共に、目映い光や瑞々しい空気感を感じられるものだった。何度も何度も好きな作品のページを見返すものだから、そのページが割れてしまいその都度いつかは丁寧に画集を修復してきた。
いつかの創作活動の原点だった。
こんな絵が描きたい、と心から思った。
パラ、とページをめくる度に目に涙が滲む。スランプだなんて陳腐な言葉でごまかしたくない。だけど、今、デッサンすら満足のいく作品を仕上げることが出来ないのは確かだった。
最近、ため息ばかりを吐いている気がする。うまく笑えているのか心配になって、いつかは自らの頬に触れた。
その日の夜、いつかは夕食の席で家族旅行には行かない旨を告げた。
「お父さんとお母さん、二人で行って来なよ。私は大丈夫だから。」
父親はがっかりしたように眉を下げ、母親は困ったように首を傾げた。
「そんなこと言わないで、行きましょうよ。」
「気分じゃない。」
箸を置いて、食器を片付けようと席を立つとぽつりと父親が呟いた。
「…そうやって、いつまでふて腐れてるつもりだ?」
「!」
怒りと羞恥心が一気に沸点に達した。今、口を開けばきっとみっともないことを言ってしまう。いつかは唇を痛いほどに噛みしめて、聞こえなかったふりを貫いてその場を後にした。
部屋に戻り、クッションを顔に押し当てて声を出さないように泣いた。あんなに流した涙は、まだ尽きない。
翌日はいつかの涙を模したかのような雨だった。
新緑には恵みの雨とて、今の気分を鬱屈としたものにするのは充分の湿っぽさだ。傘の花が咲く通学路を下を見ながら歩いて行く。
高校に近づくと、不意に肩を叩かれた。視線を持ち上げると友人がいて、いつもと同じ代わり映えのない会話を繰り返すのだ。
憂鬱の一日を終えて、今日も美術室へと向かう。扉に手をかけようとした刹那、室内で話す美術部員のおしゃべりの中で自らの名前を聞いてその動きを止めた。
「そういえばさ、いつも教室の隅っこで絵を描いてる人いるじゃん。柚木さん?だっけ。」
「あー、そういえばいるねー。」
「あの人いるとさ、部活中盛り下がらない?私たちを見下してる気がしてさ、ほら、私は真面目にデッサンしてますー、みたいな。」
「それな。」
「そんなに好きならさ、なーんで美術高校行かなかったんかね。近くにあるじゃん。」
「行かなかったんじゃなくて、行けなかったんでしょ。」
クスクスとした嘲笑が挟まれて、いつかの心を抉る一言が放たれる。
「そんなにうまくないもんね、絵。そもそも完成すらさせてないし。」
まるで重い鈍器のようだと思った。言葉は繰り返しいつかの心を殴りつけ、ひと思いにとどめを刺さない。せめて鋭利な刃物で気付かないように殺してくれれば良いのに。
手足の先が冷えて、感覚がなくなっていくのがわかった。どうやって呼吸をしていたかわからない、まるで陸に上げられた魚のようだった。
いつかは美術室にいる部員に悟られぬように静かに踵を返して、走り出した。通りかかった教諭に廊下を走るなと咎められても、その足は止められない。
傘を昇降口に忘れて、雨に濡れながら駆けていく。雨粒が旋毛に落ちて、額を伝って頬を滑り、顎から落ちる感覚が気持ちが悪い。
ああ、吐き気がする。
胃の中のものが逆流して、喉奥にせめぎ合う。我慢していたものの、ついに限界が来てゴミ捨て場の隅で吐いてしまった。胃酸が喉を焼いて痛い。吐瀉物のつんとした臭いに涙目になる。こほこほと咳き込んでいると、不意に視界の隅に見慣れた色彩が映った。
古紙回収の日だったのだろうか、濡れた新聞紙や雑誌に紛れていつかの大切な画集がそこにあった。
「どうして…!?」
震える手で古紙をまとめるビニールひもを解いて、画集の表紙に触れる。画集は雨に濡れて醜い皺が寄り、ページをめくろうとするとその水分の重みで破けそうで怖い。
自分の物だと確信を得たのは、お気に入りのページの修正痕だった。
いつかはぼろぼろになった画集を胸に抱えて、重い足を引きずって歩き出す。
時間をかけて帰宅すると、いつかはリビングに向かった。今日も父親の車がすでに駐車場にあった。工場勤務の父親は、今週は早番だと言っていたのを思い出す。
「おかえり、いつか…って、どうしたの?びしょ濡れじゃない!」
母親がいつかの存在に気が付いて、慌てて洗面所にタオルを取りに行こうとする。
「お母さん。」
それを引き留めて、いつかは手にしていた画集を見せる。
「これ、捨てられていたんだけど。」
「それは…、」
言い淀む母親にたたみかけるように、いつかは声を荒げた。
「どういうこと?何で、こんなことをするの!?」
「捨てたのは、僕だ。」
背後から父親の声が掛かり、いつかは振り返る。
「なんで?」
「いつか。学校、辞めて良いぞ。」
父親は大きなため息を吐きながら、いつかを見る。
「学校を辞めろ。絵を描くのを止めろ。何もしたくないなら、生きるのをやめなさい。」
「…!」
「君は高校の受験を失敗してからおかしい。このままでは…ー、」
いつかは言葉を飲み込んだ。揺らいだ世界は血のような赤色に染まっていくのを感じていた。光が点滅して、喉の奥で鉄の味がする。
「いつか、」
肩に触れようとする父親の手を振り払って、いつかは玄関に向かって駆け出した。靴を履き、外に出る。ここじゃないどこかに行きたかった。
「いつか!」
母親の叫ぶ声が聞こえる。
「放っておきなさい!頭を冷やしたら、どうせ帰ってくる。」