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 7月14日。

 季節は既に夏真っ盛りの様相で、ちらほらと夏祭りだの花火大会だの、夏に浮かれた奴らが挙って参加するイベントのチラシが見られる。

 そんな中でも私は一人──いや、実際は二人。茜と帰り道を歩いていた。

「ねえー、レイ、花火大会行こうよ~」

「い・や・だっつってんだろーが。しつこいわ」

 やたらと花火大会に誘ってくる茜にうんざりしながらそう返す。誰が好き好んであんな人だらけの陽キャの集まりに行くものか。

「だってさ、夏と言えば花火だよ!? 行かないと損じゃん!」

「……茜、何でそんなにしつこいの? 去年は三回断られたらすぐに“心折れた~”とか言って諦めたのに」

 茜は私の問いかけに少し口ごもった。そして躊躇いがちに口を開く。

「……だって、レイ、最近なんか落ち込んでたから。小久保君にも前にも増して冷たいし、私と喋ってる時も微妙に変だったし。だから、楽しいことがあれば、レイの気持ちもスッキリするんじゃないかなぁ……って」

 思いがけない言葉に、私は目を見開いた。

 ──気付かれていたのか。

 ……確かに、倉橋由利香が成仏した後、私はそれまで以上に小久保一樹を避けていた。今まではあんまり煩いと言い返したりはしていたが、今はそれすらもしない。何の反応も返さず、あいつをまるで存在しないかのように扱った。……そう、かつての私のように。

 明らかに態度が悪く、普通だったら私を非難するだろう。実際、今までもちょくちょく小久保一樹に対する私の態度に不満を漏らしていた一部の女子たちの陰口は見るからに増え、男子ですら“大丈夫か”と小久保一樹を心配する声があった。

 ……ここまでやれば、流石のあいつも私のことを嫌いになるだろう。

 そう思ってわざとやっていたから、別に何を言われようがどうでもよかったけれど、茜はそんな私にさえ優しさを返す。酷い奴だと罵られても当然なのに、“落ち込んでいた”とか“変だった”とか、私が見せようとしていない本音の部分を見透かされているようで、ちょっと癪だったけど、でも少し嬉しかった。

 誰にもわかってもらえなくてもいい。だけど、誰かにわかっていてもらえるのは、嫌なことではない。そんな気持ちを、茜と出逢ってからは何度も感じる。

「……心配してくれて、ありがと。茜がそこまで言うなら、今年は行ってみてもいいかもね」

 ──花火を見るのは、これが、最後になるだろうから。

 そんな本音は、心の中に隠したまま、私は言葉を返す。

「えっ!? 本当に!? やったーっ、レイと一緒に花火大会に行けるなんて!!」

 想像以上に喜色満面で茜はぴょこぴょこ飛び跳ねた。

 そんなに喜ぶことか? と突っ込みを入れようと口を開きかけた時だった。

「なあ、嬢ちゃんたち、それ、おっちゃんも一緒に行ってもいいか?」

 低い声が耳に届き、ハッとして声のした方を見る。すると、そこにはいつの間にかサラリーマン風の中年の男が立っていた。中肉中背、ネクタイは少し緩められ、会社終わりに一杯飲んできたような風貌だ。何の変哲もない地味な顔だが、どことなく陽気な雰囲気が滲んでいた。

「……あんた、誰」

 見ず知らずの誰とも知れないオヤジが話しかけてきたら、流石の私も身構えるけど、逃げようとは思わなかった。だって、そいつはさっき、“嬢ちゃんたち”と言ったのだ。“嬢ちゃん”ではなく。

「俺か? 俺は田中(たなか)照彦(てるひこ)。見ての通りのただのおっさんさ」

 中年の男──田中照彦はにやりと口許を引き上げ、両手を胸元でだらんと垂らしてみせた。

「──幽霊のな」



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 午後七時。

 多くの人で賑わう花火大会に、私は一人で訪れていた。

 ──いや、実際は一人ではない。

「いや~、やっぱ夏は花火に限るよな!」

「そうですよね!! ほらレイ、屋台も出てるよ!」

「……なんであんたらの方がテンション高いんだよ……」

 生者()よりも盛り上がっている死人(二人)と共に、会場を歩く。

「ねえねえレイ、かき氷あるよ!!」

「嬢ちゃん、たこ焼きだ! 旨そうだぜ」

「あんたらは食べれないでしょーが」

 思わず突っ込むと「そうでした……」と茜がしょぼんと落ち込んだ顔でかき氷屋から戻ってきた。それを見て田中照彦はカカカと笑う。

「まあ、食えないのはしょうがねえ。でも、風景だけでも十分価値はあるんだから、そんなに落ち込むな」

「……そういや、あんたはなんで花火大会に来たかったの?」

『最期に花火大会に行きてえんだ』

 それが未練、ということで、結局なんだかんだで一緒に花火大会に来ることになった田中照彦。しかし、まだその理由を聞いていなかったことを思い出す。

「なんで? そんなもん最高だからに決まってんじゃねえか。俺ぁこの花火大会は昔から来てんだが、誰と見ても最高だからな!」

「ふうん……」

 田中照彦の年齢なら、妻や子供がいてもおかしくない。なのに、最期に彼女らと過ごすことではなく、見ず知らずの高校生と過ごすことを選ぶなんて、変わった奴もいるもんだなと思う。

 すると、私が疑問に思っているのに気付いたのか、田中照彦は私を見てにかっと笑った。

「それに、家族とならもう十分な別れを済ませてある。“火事場の馬鹿力”って奴で手紙を書いてきたからな。あいつらに言いたいことは全部それに書いたから、後悔はもうない」

「え……。“火事場の馬鹿力”使ったのに、成仏してないんですか?」

 茜が驚いたように目を見開いた。今まで見てきた幽霊たちは、“火事場の馬鹿力”を使うとすぐに成仏していったのに、なぜ田中照彦は消えていないのだろう。

「実はな、俺は死んだ直後にその道に詳しい奴に会って、そいつに教えてもらったんだよ。“火事場の馬鹿力”はな、物を動かす程度なら見えない人間に見つからないようにすれば案外簡単に使えるんだと。それくらいなら力をあんまり消費しないから、使ってから一日くらいは成仏までに猶予ができるらしい」

「へぇ……それは知らなかったな」

 私に幽霊のことや“火事場の馬鹿力”のことを教えてくれたあの少年は、幽霊のことに詳しかったけれど、それでも見える“だけ”で幽霊そのものではなかったから、そこまでは知らなかったのだろう。

「……力を使ってすぐに成仏しないこともあるんだ」

「……? 茜、どうかした?」

 何やら神妙な顔をして呟いた茜に、私は首を傾げる。

「……ううん、なんでもないよ」

 茜はすぐにいつものような笑顔に戻ったけれど、どこか不自然さを感じるそれに眉を潜めた。

「おい、そんなことより嬢ちゃんたち、見ろ、花火が打ち上がるぞ」

 田中照彦に促され、 顔を上げる。

 その途端、ドドーン、と光の花が空に打ち上がった。

「わぁ……綺麗」

 茜が惚けた様に呟く。田中照彦は「そうだろ、そうだろ」と腕組みして頷いた。

 暗闇を彩る、眩しい光。その明るさに、私は目を細めた。こうして、花火を見るのは何年ぶりだろう。

 思い出せる限りで一番古い記憶は、まだ幽霊が見えるなんて知らなかった頃、祖母と両親と共に見に行った花火。まだ両親とも仲がよかったあの頃、父親に肩車されて花火に手を伸ばしていたのをぼんやりと憶えている。

 次に見たのは、病院の近くの堤防。夜にこっそりと家を抜け出して、幽霊のことを教えてくれたあの少年と花火を見た。幽霊(友達)をたくさん引き連れて病院を抜け出してきた彼と自分は、人から見れば二人っきりで花火を見ていたけれど、自分たちからすれば大勢の幽霊()で盛り上がりながら花火を見ていた。

 最後に見たのは、小久保一樹をまだ“カズ”と呼んでいたあの頃。カズと一緒に、花火を見に行った。幽霊が見えることを気にしていた私を、カズが連れ出したのだ。人混みと言うのは、時と場合にも寄るが、幽霊が出やすい場所でもある。特に、人を惹き付けるようなものがある場所は、生死にかかわらず人を魅了する。つまり、死者も惹き付けられることが多いのだ。

 だからこそ行かなくなった夏祭りに、「俺がいるから大丈夫」なんて言って、強引に連れ出した。そのお陰で私は数年ぶりに花火を見ることができたのだ。

 そこまで思い出して、「……ああ」と息が漏れた。

 ──いなくなった人、離れていった人、どこにいるかわからない人、自分から離れようとした人。

 これまで一緒に花火を見たのは、奇しくも皆私から遠くなった人たちだった。

 だから、私はあまり花火が好きじゃなかった。花火を見たいと思わなかったのは、花火を一緒に見た人々が、自分から遠い存在になると、心のどこかで思っていたからだったのかもしれない。

 ──でも、今日、花火を見ているのは、幽霊の友達と、初対面の中年幽霊(サラリーマン)という、なんとも奇妙なメンツだ。そんな奴ら相手だと、哀愁とか、そういう気持ちは全く湧いてこなかった。

「……こんなに、綺麗だったんだな」

 一瞬、自分が呟いたのかと思った。私と同じ感情を言葉にしたその低い声は、さっきまでお茶らけていた男のものと同じだとは思えないくらい、静かで、どこか哀愁が漂っていた。

「嬢ちゃん、君は、大切なものを手放すな。俺みたいに、なるんじゃねえぞ」
 
 そう言った声が掠れていたのは、その顔が泣き笑いのように見えたのは、ただの気のせいだったのだろうか。それを問う暇もなく、一つ瞬きをした間に、田中照彦はそこから消えていた。

「え──」

 それは、初めて見る幽霊の消え方だった。

 普通の幽霊が成仏する時みたいに白い光に包まれるのでもない。

 成仏するタイムリミットを過ぎた柿本信次のように、段々透明になって、やがて消えるのでもない。

 瞬きの間、ほんの一瞬で、姿形が見えなくなった。どこにも、いなくなった。まるで、シャボン玉が弾けるように、そこから存在が消滅していた。

「田中さん、どうしたんだろう……」

 突然消えた田中照彦に、困惑したように茜が眉を顰めていた。

「……さあ、ね。消えたってことは、成仏したってことじゃないの?」

 少々疑問は残るが、不安そうな茜のためにそういうことにしておく。茜はホッと胸を撫で下ろした。

「田中さんも、この綺麗な花火を見て心残りがなくなったのかな」

 そう言って茜が空を見上げた瞬間、もう一つ、大きな花が空に咲いた。

『嬢ちゃん、君は、大切なものを手放すな。俺みたいに、なるんじゃねえぞ』

 田中照彦が最期に言っていた言葉の意味は、いくら考えてもわからなかった。