「八尾くんはお盆、実家に帰らないんだ?」
喜一は実家に帰省するらしくたくさんのお土産を手に提げて、アパートを出るところだった。時生はコンビニからちょっとした買い物を終えて帰ってきたところ、たまたま見送る形となる。
「そうですね。割と近いんで、日帰りで行こうと思います。」
時生のささやかな嘘に、喜一は気付かない。
「そっか。いいなあ、うちは地方だからこれから新幹線。お土産のリクエストも多くて大変だよ。」
はは、と笑いながら、喜一は腕時計を見て慌てる。
「おっと、時間がやばい。じゃあね、八尾くん。いいお盆休みを。」
「ありがとうございます。上田さんも。」
そう言って、軽く手を振って見送った。喜一の姿が見えなくなると、一気に周囲は静かに凪いだ。部屋に戻ろうと踵を返した瞬間、ふわりと鼻腔をくすぐる線香の匂いに気が付く。周囲の家の仏壇から香ってくるのだろう。思い思いに、故人を迎え入れているのだ。
時の流れは等しい速さだと言うけれど、本当だろうか。皆、何故に礼儀正しく霊魂を迎える準備をつつがなく終えることができるのだろう。僕はこんなにも鮮明に彼らを覚えていて、未だに死んでいることが信じられないのに。
時生は真夏の陽光を背に自らの影を十秒ほど見、鮮やかな蒼穹に影送りをする。白い影の残像は両親が宙に揺られている影に重なった。両親は、足元で泣く時生をあやすように力なくゆらりと揺られている。ふと、視界が揺らぐ。時生は自身の頬を撫でるとそこには熱くサラサラとした涙が伝っていた。無言で涙の雫を拭って、手の甲についた水分を払う。
「!」
ボトムスのポケットに入れていたスマートホンが僅かに震えた。取り出してみると、液晶画面にはメールありの表示がされていた。この時点で時生は相手が海里であることに見当がつく。画面をタップしてメールの受信ボックスを開くとそこには案の定、海里の名前が表示される。そのたった二文字を目でなぞるだけで、心が落ち着いていくのが分かった。
『毎日、暑いですね。生きてますか。』
海里らしい、たった一行の安否確認メール。くく、と笑いながら、時生はメールではなく電話をすることにした。一回の発信音のすぐ後に、海里は電話に出てくれた。おそらく携帯電話をずっと見ていたであろう速度だった。
「もしもし、海里?」
『はい、私ですけど…。なんで、メールじゃなくて電話なんです?』
困惑する海里の声に時生はほっとした。寒い真冬に降る雪の中で、露天風呂に浸かったような感覚に似ている。
「うん、声が聞きたくて。」
だから、素直に心の声を漏らしてみることにした。
『…時生。泣いてるんですか?』
「泣いてないよ。」
時生の嘘を見破って、海里は大袈裟に溜息を吐く。
『今、どこにいるんですか。』
「え?どこって?」
だーかーら、と海里の声色に柔らかな感情が滲む。
『今から会いに行くので、居場所、教えてください。』
「悪いよ、そんな。」
言葉ではそう言うものの、時生の心は海里の魅力的な提案に傾いていた。
『今の時生に拒否権はありません。大人しく私に会って、慰められなさい。』
「…。」
時生は束の間、海里の母性に触れた気がした。その感情はいつも感じている自身の母親とは全く違う温度を孕んでいる。
そして次の瞬間にはアパート、かぜよみ荘の住所を告げていた。
『じゃあ、待っていてください。これから家を出ます。』
「海里。」
携帯電話を切られる前に、時生は海里を呼び止める。
「ありがとう。」
『直接、私に言ってください。では後ほど。』
今度こそ本当に通話は切れる。時生は握りしめすぎて温かくなったスマートホンをまるで生き物のように優しく見つめて、部屋の片づけをすべくアパートの玄関の鍵を取り出すのだった。
およそ三十分後。海里から最寄り駅に着いたとの連絡メールが入る。時生は待ちきれずに、駅に行くとだけ返信してアパートを出た。自転車に跨って、生温い風を切るようにペダルを力いっぱい漕ぐ。汗が吹き出しても、上り坂に息が上がっても速度を落とすことはなかった。
駅前の時計台の前に、海里はいた。
「…海、里!」
息を整える事すらせずに、熱い空気を吸って吐き出すと同時に名前を呼ぶ。海里は驚いたように顔を上げて、時生の姿を確認して微笑んだ。
「時生。会話はさっきぶりですね。」
「うん…。」
慌てて出てきてくれたのだろう、海里の服はいつになくシンプルな黒いワンピースだった。そんな些細なことが抱きしめてしまいたくなるほど嬉しくて、でも海里が嫌がることをしたくないので理性で押しとどめる。
「どうする、どこか喫茶店に入ろうか。」
「え、時生のアパートに行かないんですか?」
一人暮らしの男子の部屋になんて行きたくないだろうという時生の配慮は、海里の無邪気さに呆気なく崩された。
「うん、じゃあ…行こっか。」
「あ、自転車なんですね。」
時生の傍らの自転車に気が付いて、海里は二人乗りをしてみたいと言った。快諾して、時生は自転車の後部に海里を座らせて再び、ペダルを踏んだ。最初こそグラグラと揺れたが、スピードに乗ってしまえば違和感なく走行が可能になった。時生の腰に回された海里の手がぎゅっと強く、Tシャツを掴んでいた。
「迎えに来てくれて、良かったです。私、方向音痴なので。」
「駅からは自信がなかった?」
はい、と頷く海里の頬が時生の背中を掠る。服の布越しに感じる体温が愛おしかった。
かぜよみ荘の駐輪場に辿り着いて、二人は自転車を降りる。時生が自転車に鍵をかけている間、海里は物珍しそうにあちこちを眺めていた。
「時生はここに住んでいるんですね。」
「古い建物で驚いたでしょ。」
時生は苦笑しながら、一階の自分の部屋の玄関を開けた。
「どうぞ。狭いし、散らかってるけど。」
そう言って、海里を招き入れるのだった。玄関で靴を脱ぐと几帳面に二人分の靴をそろえる海里を見て、彼女の育ちの良さを感じる。脱ぎっぱなしのままが多い時生は見習おうと思う。
部屋に入ると、海里はほうと溜息を吐くように標本が置かれた棚に釘付けになった。
「時生、この標本は何てヘビのもの?」
「アオダイショウだよ。中学の時に登山した時、死体で見つけたのを拾ってきた。」
海里は爬虫類にも怖気づくことなく興味深そうに眺めている。時生が、手に取って見ていいよ、と促すと海里はおずおずとガラスの壊れ物を扱うようにそっと触れた。
「ヘビの骨格標本って、上等なレースのリボンみたいで綺麗ですね。」
「レースのリボンという発想はなかったなあ。」
はは、と笑い、時生も海里の掌の上の標本を見た。今まで何気なく眺めていた物も、海里の言葉一つで優雅な美術品に変わった。
それからも海里は子どものように、これは?と質問を繰り返し、時生が丁寧に答えていった。
「…すみません。つい、興奮してしまいました。」
一通りを見終えて海里はようやくその好奇心が収まったようだ。
「いいよ、別に。興味を持ってくれて嬉しかった。」
「いえ。今日は、このために来たのではないので。」
海里は居住まいを正すように背筋を伸ばして、時生と向き合う。時生との身長差から海里は見上げる形になった。
「時生。大丈夫、じゃなくてもいいから、一人で泣かないでください。」
「大丈夫じゃなくていいの?」
とりあえずは、と海里は頷く。
「何でもいいので、とにかく一人で泣くな。私を呼べ。」
「…はい。」
急な命令口調に驚きつつも、今度は時生も頷いて見せた。
「いいですか。こんな天気の良い日に何か辛いことがあって、一人でいるなんて心が死にます。致命傷ですよ、致命傷。自分で気付け、バカ。」
「酷い言われようだな。」
海里の毒舌に、時生はくすっと笑う。
「時生、抱きしめてあげるからこっちに来なさい。」
そう言うと、海里は時生に向けて細くしなやかな腕を向けて、両の掌を差し出すように広げて見せた。
「…。」
あまりにも甘美な誘いに抗えず、時生はゆらりと揺れる柳のように海里の腕の中に納まる。すると海里は、きつく強く、もう離さないとばかりに抱きしめてくれた。柔らかい胸が押し付けられて、甘いミルクのような香りに包まれた。小柄な海里の頭を自らの顎の下に、時生もぎゅっと抱きしめ返す。
「僕、格好悪いね。」
「格好良かったこと、あります?」
束の間考えて、時生は首を横に振った。
「無いな!」
声に出して笑う。海里は時生の胸の内で溜息を吐いた。
「ごめんなさい。ありますよ、ちゃんと。自ら諦めないでください。」
「あるのか。いつ?」
海里が笑う気配がする。くすくすと笑むたびに、頭が小刻みに揺れた。
「内緒にしておきます。へこんだら教えて貰えると思われても、癪なので。」
「そこは甘やかさないんだね。」
抱きしめ合いながら、笑い、囁き合う。声が身体の中に響き渡り、体温を服の布越しに分け合って、互いの身動きを制限しているとまるで二人で一つの身体を共有しているような気になった。
「ところで、なんだけど。」
時生はふと思い立ったことを口にしてみる。
「僕が落ち込んでいる理由は聞かないんだ?」
「興味がないので。」
ネガティブなことに、との補足を得られて時生は納得する。その興味意識はとても心に健全だと思った。
「聞いてほしいですか。」
「…ううん。」
お盆だから両親の霊を迎え入れてあげないとね、という中学生のときの担任が時生に放った言葉が未だに心に巣食っていた。両親は、本当に時生に会いたいと思うだろうか。僕は生まれてきてはいけない子どもなのに。
時生の父親と母親は、兄妹だった。
両親の父親、時生の祖父に当たる人の虐待によって児童相談所から保護されたのだと二人の兄であり、時生の叔父が言う。叔父と時生の父が一緒の施設、時生の母一人が違う施設で過ごすことになったらしい。やがて月日が流れて、双子だった二人は互いの関係を知らずに出会ってしまったらしい。祖父母の離婚によって別性になったことも要因だった。二人は惹かれ合い、時生を母が身籠った。中絶ができないほどに膨らんだお腹を抱えて、時生の父と母はやっと気づかされた。自分たちが、双子の兄妹だということを。
『忌々しい子め。お前なんかが生まれなければ。』
両親の十三回忌に初めて会った祖父に自らの出生について聞かされた時生は絶望した。時生を育ててくれていた叔父は彼の仕打ちを聞いて、祖父と絶縁した。そのこともまた、時生を苦しめることにもなったのだけれど。
家族を壊してしまった。
ごめんなさい、と思う。生まれてきて、生きていて、ごめんなさい。
時生にとって自らの生は、悪で、害で、罪だった。誰かに懺悔したいと思っても赦されることでもない。
「海里は、お盆だけど墓参りとか行かなくていいの?」
だから、僕は誤魔化すことにしたのだ。
「私の家のお墓は、市内のお寺にあるので午前中にもう行ってきました。帰省の混雑には無縁なんですよ。」
「そうなんだ。楽でいいね。」
抱き合う二人のBGMに近くで、花火が鳴る音がした。その音は近所の神社で行われる盆踊りの開始の合図だった。数分後には祭囃子と軽快な笛の音、太鼓の音が響いてくる。
「そういえば、今日、夏祭りだったな。」
時生が夕方近くのノスタルジックな空の色を確認するように頭を動かして、窓の外に視線を向けてみる。
「行ってみません?」
海里の声音に喜色が滲み、見上げるように時生を見る。
「門限は?」
「午後七時です。大丈夫、まだ二時間は猶予があります。」
時計を見ると、午後五時の少し前だった。じゃあ、と時生は名残惜しいながらそっと海里を放した。
「急いで、今から行ってみようか。」
サンダルを引っ掛けて、二人はかぜよみ荘を出る。神社に向かっていると同様に近所の人々現れ始め、楽しいお祭りムードは高まってきた。
小さな女の子が浴衣のくしゅくしゅしたリボンのような帯を金魚の尾のように揺らしながら、父親と手を繋いで歩いている。一方で甚平姿の小学生の男子たちが連れ立って射的の腕自慢をしながら、駆けていく。年頃の女性は少し大人びた菖蒲の柄をした浴衣に身を包み、髪型をやたら気にして前髪を弄っていた。きっと恋人、もしくは片思いのあの人との待ち合わせをしているのだろう。
神社に到着すると提灯の朱色が頭上に輝いて、屋台グルメのソースの匂いや焦げる音が広く響き、アルコールを嗜んだ祭り男たちが大声で騒いでいた。やぐらを囲むようにして盆踊りを披露する育成会の女性陣、頬を上気させながら太鼓を叩く少年。いつものひっそりとした神社とは打って変わって、賑やかな場だった。
「すごい人ですね。」
「海里。」
人の波に溺れそうになる小柄な海里を見て、時生は自然と手を差し伸べていた。
「ありがとうございます。」
海里も何の違和感もなく、時生の手を握る。海里の手は小さく、僅かにしっとりと汗ばんでひんやりしていた。離れないように、迷わないように二人は強く指を絡め合う。
「あ、時生!金魚すくい!やりたい!!」
幼子のようにはしゃぎ、海里は時生の手を引いた。時生は普段とのギャップに苦笑しながら、ついていく。金魚すくいの華やかな水槽の前に立って海里は早速、ポイを購入して身構えた。
「えい。」
ちゃぽん、と勢いよく水に突っ込んでいき、呆気なく盛大にポイに穴を開けている。
「海里、ゆっくり水に入れないと。」
クスクス笑いながら、購入したポイで時生も参戦する。
「水平に動かして、こう。」
水の抵抗を考えたスマートなポイさばきで軽やかに金魚をすくって見せると、海里の目色に尊敬の念が滲んだ。今までに感じたことのない視線に時生はくすぐったく、肩をすくめる。
「おじさん、もう一回!」
再度、ポイを購入して海里は時生に続いて、今度は慎重にポイを水中に下ろしていく。が、動かす際に負荷が掛かったのか、またまた金魚に触れる前に穴が開いてしまった。
「難しーい。」
「がんばれ、海里。」
膝の上に頬杖をついて時生は海里を見て笑む。出会ったのが春の四月で、この四か月の間に本当に色々な表情を見せてくれるようになった。怒った顔、笑った顔、呆れたように零す溜息や真剣な眼差し。全て、全てが愛おしい。いつの間に、こんなに好きになったのだろう。柔らかい感情を噛み締めつつ、時生は海里を見つめていた。
結局、海里は一匹も金魚をすくえずに残念賞として、屋台のおじさんが一匹おまけでくれたのだった。
「一匹だけになると、寂しいものですね。たくさんいた時はあんなにワクワクしたのに。」
小さなビニール袋で泳ぐ金魚を眺めながら、海里は呟く。
「じゃあ、僕のもいる?」
時生はあの後、続けて二匹をすくい上げて終わった。三匹の金魚を手に、海里に差し出す。
「いいんですか?じゃあ、この子、寂しくないですね。」
嬉しそうに頷いて、海里は時生から金魚を引き受けた。
「お礼にりんご飴、買ってあげます。」
そう言うと、海里は毒々しいまでに赤いりんご飴の屋台に時生を連れて行った。そして二本を買い求めると、時生に一本を手渡した。
「ありがとう。」
時生は久しぶりに、お祭りの毎に目にするりんご飴を口につけて、がりり、と歯を立てる。
「いきなりですか!」
「え?まずかった?」
海里が驚愕したように目を丸くした。
「りんご飴は飴の部分を舐めて、甘さに慣れてきたら酸っぱいりんごをかじるものです。」
どうやら海里なりの食べ方のこだわりがあるようだった。海里に文句を言われつつも、時生は早々に食べ終えてしまった。一方で海里の食べ方だと時間が掛かり、歩きながら食べるのも危ないという話になり神社の境内へと避難することにした。
祭囃子から少し離れた境内は薄暗く、静かだった。ここから見る盆踊りのやぐらは水底から見る太陽によく似ていた。時刻は六時。海里の帰宅にかかる時間を考えれば、あと三十分も時間はない。
海里は小さな舌に赤い飴を乗せて、懸命に舐めるも中々食べ終わらない。飴の層を舐め終えるとようやく、かり、とりんごを食む。小動物みたいだなと眺めながら時生は思う。
「…あの。」
「ん?」
海里がふとりんご飴から顔を上げて、時生を見た。
「食べづらいのですが。」
そんなに見つめられると、と言葉を紡いでりんご飴のように頬を紅く染める。
「美味しそうだね。」
「? 食べましたよね?」
時生はゆらりと動き、海里の頬に口付けた。滑らかな肌が唇を通してわかる。
「な、にを、」
海里は金魚と同じく口を開閉して、頬に手を添えて後ずさった。そのはずみで、りんご飴は地に落ちる。金魚だけは大事に抱えていて無事だった。
「ごめん。」
「ごめん、て。いや、頬!?」
時生は海里の悲鳴にも似た言葉を拾って、小首を傾げる。
「頬じゃなかったら、どこ?」
「意地悪ですか?いや、天然か…。あーあ、りんご飴が。」
幾分か落ち着いた海里が溜息を吐いて、りんご飴を拾おうとしゃがみ込む。時生も一緒にしゃがみ、隣に膝をついた。
「これは、蟻にプレゼント行きですかね…。」
「ねえ、海里。どこ?」
え、と再び、海里は時生を見る。
「どこならよかった?」
「…っ!」
瞬間、海里は両手で唇を隠す。手首にかかる金魚が入ったビニール袋が揺れた。
「そこ?」
時生はゆっくりと海里の緊張を解すように、左手で頬を撫でる。そしてやんわりと海里の掌を退かす。唇はりんご飴の名残で赤く染まっていた。ペンギンのように歩み寄って、時生は海里との距離を詰めた。じゃり、と足元の小石がサンダルの底裏で擦れる。
海里はじれったそうに目を伏せて、ふと息を漏らす。再度、互いに目が合い、もう確認はいらなかった。
そっと二人の影が重なる。
唇と唇が触れ合って、吐息が交わった。りんご飴の糖分が残る海里の舌が僅かに時生の唇をかすめる。温かく滑っていて、甘い味に酔いそうになった。ちゅ、ちゅ、と音を立て吸い付く唇を離しては、またくっつける。磁石のように惹かれあうようだった。やがて時生は唇の先を食んで、熱を測るように額をつけたまま名残惜しく、海里を解放する。
「時間、そろそろだよね。駅まで送るよ。」
「…はい…。」
海里は熱に浮かされたように潤ませた瞳を瞬かせて、頷いた。
手を繋いで、神社を出る。かぜよみ荘に辿り着くまで、二人は無言だった。
「二人乗りでいい?」
そう言って時生は先に自転車に跨って、海里に後ろに座るように促す。大人しく来た時と同じように海里は横に座って、時生の腰に腕を回した。時生がペダルを踏みゆっくりと流れていく風景は、今までと違う輝きを以てして目に映る。一番星を伴って、猫が笑ったような口の三日月が空に浮かんでいた。空色はカクテルのようにとろりとした朱色から、群青色に変わりつつある。
駅前の駐輪場に自転車を止めて、時生は駅の改札まで海里を見送る。ICカードをかざして、ホームに向かうかと思ったら海里はふと立ち止まった。くるりとターンを踏むように振り返って、たたた、とリスのように時生に向かって駆けてくる。
「?」
時生が振りかけた左手を止めて海里を迎え入れると、駅構内とロータリーを繋ぐ改札口を乗り越えるように上半身を持ち上げて。そして、時生にそっと口付けるのだった。その一瞬、時間と音が止み、目の前に星が弾けるようだったことを覚えている。
「おやすみなさい。」
「…おやすみ。」
今度こそ、海里はホームに向かって行ってしまう。階段を駆け上がり、見えなくなる刹那。振り返り、微笑んで時生に手を振った。
彼女が乗る電車が発車した後も、時生はしばらくその場で佇んでいた。

門限ギリギリに帰ってこられたことをほっとしながら、海里は入った風呂を出る。
「お父さーん。お風呂、空いたよ。」
髪の毛から滴る水分をタオルで拭いながら、リビングの父親に声をかけた。
「そうか。じゃあ、入ってくるか。」
読んでいた新聞紙を畳んで、父親は腰を上げた。入れ違いに海里はソファに座って、扇風機を自らに向けて風量を上げる。火照った肌に涼しい風が当たって心地良い。
「今日、ひどく慌てて出ていったけれど、何だったの?」
母親が海里に冷たい麦茶を手渡しながら、海里に問う。
「えー…、ボランティア?」
ありがとう、と言い、受け取った麦茶を飲みながら答えると母親はくすりと笑った。
「なんで疑問形なのよ。いいわ、当てちゃう。男の子関係じゃない?」
「エスパーかよ。」
海里は恥ずかしそうに唇を尖らせると、母親は嬉しそうに身を乗り出してきた。
「わかっちゃうのよねえ、これが。えー、誰?お母さん、知ってる人?」
「…お母さんは知らない、と思う。」
てことは、と目を輝かせて母親は更に海里に問い詰める。
「お父さんは知ってるの?やだー、出遅れたわ。うん?と言うことは、劇団の子かしら。」
海里は首を横に振った。
「高校の先輩。」
「なんでお父さんが知ってるのよ?」
無くした台本を劇団の練習場まで届けてくれたことを説明すると、首を傾げていた母親は目を輝かせた。
「ひょっとして、八尾時生くん?」
「え、ちょっと待って。どこまで情報共有してるの?」
思いがけず母親の口から吐いた時生の名に海里は動揺を隠せない。
「お父さんが海里の友達が来たって喜んでいたけれど、そうかあ。友達じゃなかったかー。」
「友達…だけど。」
今度は海里が首を傾げた。すると母親は驚きに、目を張った。
「彼氏じゃないの!?」
「お母さん、声が大きい!」
慌てて二人で口を噤み、風呂場にいる父親の気配を伺う。僅かに鼻歌が聞こえてくるあたり、リビングで繰り広げられている女子トークは知られていないようだ。
「彼氏って…、いや、でもな…。」
海里は時生から直接、好意が含まれた言葉を聞かされていないことを思い出す。以前、『恋人』の単語を口にしてはくれたものの、その場をごまかすためだと言えばそれはそれで納得してしまうほどの曖昧なニュアンスだった。
「…キスをしたら、彼氏?」
海里はキャミソールの裾をぎゅっと握って、蚊の鳴くような小さな声で呟いた。母親は女性として、人生の先輩としての顔に変わる。
「少なくとも、友達ではないわね。」
「そ、そっか…。」
友達以上恋人未満という状況がまさか己の身に降りかかるとは思わなかった。海里が思考の整理に時間をかけていると、母親は感極まったように目元を押さえた。
「何故、今、泣く?」
海里は母親の挙動に驚いてカタコトになる。
「だって、嬉しいじゃない。娘と恋バナをするの、お母さんの夢だったんだもん。」
「だもん、って言われもな。」
呆れる海里に、でもね、と母親は言葉を紡ぐ。
「節操のあるお付き合いをしなさいね。避妊はちゃんとするのよ。話の流れから察すると告白はまだなのかしら。心配だわ。」
「あー…。」
告白よりも先にキスをしたという話は、些か母親を不安にさせてしまったようだ。
「ごめん、お母さん。ちゃんとする。今度会ったら、きちんと話をするから。」
これから手を繋いだり、ハグをしたり、キスをしたり、さらにその先に進むとしてもこの関係には名前を付けた方が健全であるだろう。
「頑張ってね、海里。で、良かったら八尾くんを家に連れてきてちょうだい。」
海里の手を握って、母親はよろしくねと念を押す。説教でもするつもりなのかと思ったらどうやら只々、時生という男の子を見てみたいという好奇心らしい。我が母親ながらミーハーと言うか、野次馬根性たくましいと言うか。
そこまでで話に決着をつけると、丁度良く父親が風呂から上がり機嫌よくリビングに入ってきた。
「海里ー。洗面器にいる金魚に餌を与えてもいいかい?」
今、水槽に溜める水のメンテナンスをしている最中で、祭りから連れ帰ってきた金魚たちは洗面器で待ちの状態だ。以外にも金魚を喜んだのは父親で、積極的に世話を買って出てくれている。
「ん?どうした?」
リビングに漂う空気を敏感に感じ取って父親は首を傾げたが、当然、今までの話は海里たち女の秘密だ。
「何でもないですー。あ、金魚に餌は与え過ぎないようにね?太っちゃうから。」
「そうか。太った金魚ってかわいいと思うんだがなあ。」
海里はピンポン玉のように膨れた金魚を想像した。
「…かわいい、かも。」
そうだろそうだろ、と頷く父親は満足気だった。
団らんを終えた、その日の夜のこと。海里は寝る仕度を整えて自分の部屋に行き、扉を閉めた。自分一人だけの空間になって、海里は夕方の時生とのキスを思い出していた。
あんなに人の唇が気持ちいいだなんて、思いもしなかった。柔らかくて、温かくて、少し震えていたのはどちらのせいだったか。
胸の内側からぎゅっと握られたかのような、甘い疼痛が海里を襲う。
「~…っ!」
心臓の鼓動を落ち着かせるようにその位置を手で押さえて、扉に寄り掛かりながらずるずるとしりもちをついた。きつく目を瞑って、頬を軽く二回叩く。はあ、と呼気を漏らして、海里は四つ足になってテーブルまで這って行った。そして、置いてあった携帯電話を手に取る。かちかちと操作して、メールの送信フォルダを引っ張り出した。そして一通のメールを認めて、震える指で送信をした。
『今度、いつ会えますか。』
それは、時生に宛てたメールだった。まだか、まだかと返信を待つ間、携帯電話からそろそろスマートホンにしても良いかもなと思いつつあった。
もっと気軽にチャット感覚で会話できるアプリを使ってみたい。綺麗に写るカメラで思い出を切り取りたい。あわよくば、機能の使い方を教わるふりをしてもっと近づきたい。
必要最低限の機能が付いていればいいと思っていたが、欲張りになる自分がいた。だが、嫌な気分ではない…と思ったところで、着信を告げるメロディーが鳴った。
『高校の一般開放日に図書室で会わない?五日後になるけれど。』
五日後、自らの気持ちを整えるには丁度いい猶予だろう。海里はすぐに了承した旨をメールで伝えた。
しばらく携帯電話の文面を眺めて、海里は再びテーブルに置いて自分はベッドに寝転んだ。扇風機が回る音、蚊取り線香の香りが僅かに漂っている。三日月ながら、今日は月光が明るい夜だった。部屋にタオルケットに包まって自分を自身で抱くように丸くなって、眠りに落ちていった。

海里の名前を何度も、何度も繰り返し呼ぶ優しい時生の声が響く。それは雫が落ちた水面に浮かぶ波紋のように広がっていく。
時生の手は恐る恐る海里の頬に触れて、口先に唇を落とす。手の指が絡まり合い、吐息も何もかもを緩やかに穏やかに食い尽くされていく感覚を得た。
抱き合い、素肌と素肌が密着するように触れて、融け合っていった。

「…っ!」
海里は飛び起きた。心臓が大きく脈打って痛いほどだった。ベッドサイドの時計を見ると早朝の四時を少しすぎたところで、部屋の中は水槽の中のようにまだ蒼く薄暗い。
「何て、夢を…。」
祈るように両手を合わせて口元を覆う。まだ経験はないけれど、今の夢はセックスをする夢だ。痛みのない、ひたすらに快楽だけを得る行為の内容に海里の身体の奥が熱を持ったように疼く。
今日は初めてのキスをした日から五日後。時生と会う日だ。特別に意識しないように、いつもの自分で会うためにこの猶予を最大限に利用してきたはずなのに、いよいよ当日で最大の爆弾が投下されてしまった。
まだ高鳴る心臓を落ち着かせるために一杯の水を求めて、海里は階下に降りてみることにした。しんとした廊下を歩き、両親を起こさぬように静かに階段を下る。リビングを抜けて、キッチンに立ち水道からコップに並々と水を注ぎ、仰いだ。
ふと溜息にも似た呼気を漏らし、もう眠る気にもなれずに海里はリビングのソファに腰掛けてみた。冷蔵庫が唸る音と共に、水が循環する音が聞こえる。ソファの後ろの出窓には金魚が住む水槽が置かれていた。海里は背もたれに頬杖をついて金魚を眺める。
四匹の金魚たちは優雅な尾鰭を翻して、朱色の金魚を輝かせていた。水の白い泡が弾けていく様はあの海の中を思い出させた。
底の知れぬ海は怖かったけれど、時生が一緒に海で浮き輪を以てして漂ってくれた。ゆらゆらと揺れる水面は温かく、思わず海里は胎内の記憶のことを吐露してしまっていた。時生はバカにすることもなく、引くこともせず真摯に聞いてくれたのは記憶に新しい。
嬉しかった。双子で生まれるはずだった片割れの生が認められた気がした。
海里はこつんと金魚の水槽を突いてみる。振動に反応した金魚が餌の時間と間違えて、水面を食む様子が可愛らしかった。
水の音と金魚の癒しから、とろりとした眠気が海里に訪れる。二階の自室に行く気にもなれなくて、海里はうとうととソファで横になって微睡むことにした。
カタン、と新聞紙が配達員により郵便受けに届けられる頃、父親はいつも起き出す。パートナーを起こさぬようにベッドから出ると、のそのそと熊のように着替えを済ませた。階下に降り、郵便受けの新聞を取ってリビングに向かう。
「…おっと。」
あくびをしながら扉を開けると一番に、何故かソファで眠る娘が目に入った。海里は胎児の様に丸まって、健やかな寝息を立てている。
「…。」
父親は辺りを見渡して、母親が使うひざ掛けを持って来て海里の身体の上に被せた。ひざ掛けが肌に触れた瞬間、海里はごそりと身動ぎ、起こしてしまったかと思ったがどうやらまた眠りに就いたようで安心する。
ふと、海里の左手首の傷痕に目が行く。生々しい血が滲んだ当時の傷を思い出す度に父親の胸は張り裂けるようだった。本人は衝動的なもので死ぬ気はなかったと言うが、自分の娘が自傷するほどに思い詰めていたことに気が付けなかった自分が憎い。本当に、本当に死ななくてよかったと心から安堵した。海里の自傷行為はその一回だけだったが、いつ、繰り返されるかもしれないと人知れず怯えていたのは内緒だ。
海里は最近、また良く笑うようになった。滲む嬉しさに、手先足先の指から温くなっていくようだった。
「よかったなあ…。」
ポツリと呟いて父親は海里の小さな頭を撫で、目覚めのコーヒーを淹れるべくキッチンに向かった。