「幕を閉じた後、大変だったんだよー。海里ちゃん、過呼吸になっちゃっててね。」
ぐつぐつとすき焼きの肉が野菜と共に煮込まれる音が食卓に響いていた。空腹を刺激するいい香りが漂うこの場所はかぜよみ荘一階、時生の部屋だった。
「…。」
「それなのに、時生くんは帰っちゃうんだから!もう、お姉さんは驚きました。」
どんどんと肉を入れては、海咲が「おいしー!」と平らげてしまう。
「海咲、野菜もちゃんと食べなさい。」
父親のように海咲を諫めながら、喜一は煮え過ぎたシイタケを苦笑しながら口に運んだ。
「…何故。」
時生が首を傾げる。
「ん?」
釣られて、海咲も首を傾げた。
「何故、僕の部屋ですき焼きパーティーが開かれているのだろう。」
『青い靴』の初演が終わった日の夕方。アパートに帰宅していた時生の部屋に海咲と喜一が鍋とカセットコンロ。すき焼きの材料を持ち寄って、押しかけてきた。樹脂封入標本の棚には布をかけて目隠しをするだけの時間をもらって、入室を許可してしまった。
「お祝い事の日はすき焼きに決まってるでしょうが。」
海咲は何を当たり前のことを言っているんだとばかりに胸を張る。
「俺の家はからあげだったけどなー。」
喜一も懐かしそうに思い出しながら参戦する。この二人、お似合いカップルか。
「色々と突っ込みどころが多いのですが、白いご飯の上に肉を乗せて食うな。」
「うお。八尾くんが怒った。」
時生の命令口調に割と本気で喜一はビビり、そんな男二人のやり取りを見て海咲は鈴を転がしたように笑った。
「やだー。時生くんたら、通だね。」
「海咲さんもです。つやっつやの白いご飯を汚すな。」
年下に本気で怒られて、反省しつつも喜一と海咲の箸は進む。やがて根負けした時生もまたすき焼きを食し始めた。
「…僕、お祝い事に何か決まったものを食べる習慣がなかったんですよね。」
舌の上で肉の繊維が解けて、甘辛いたれのうまみが唾液に溶けていく。今までも食べたことのある味だったが、何だか今日は特別な味がする気がした。
「へー。じゃあ、その都度に好きなものを作ってもらった感じ?」
海咲はペットボトルのお茶を飲みながら何気なく訊ねてくる。
「そんな感じです。」
本当は作ってもらったのではなく自分で作っていたが、自らの境遇をわざわざ話すことでもないだろうと思い、時生はお茶を濁すことにした。
「初演が無事に終わったのは喜ばしいことなんですが、その…一ノ瀬さんは大丈夫だったんですか。」
「何よう!気になってたんじゃない!!」
海咲は、海里の心配をする時生の肩を掌で勢いよく叩く。
「踊りなんて、マラソンみたいに酸素を多く必要とする激しい運動だからね。それを四十分も続ければねー。」
行儀悪く箸を咥えながら、海咲は腕を組む。喜一に怒られて、海咲は箸を放してごめんと舌を出した。
「まあ、スポーツ医学に詳しい子がいてね。事なきを得たわけなんだけど。もう舞台裏は騒然よ。」
「そう、でしたか。」
時生が話を聞いて無意識に皿の上の肉を突いていると、こら、と海咲に手刀をくらわされる。
「お行儀悪いぞ。心配なら心配って言いなさい。」
「…すみません。」
素直に頭を下げると海咲は笑って、掌をひらひらと振った。そしてにやりと猫のように笑う。
「海里ちゃんの連絡先を教えてやろーか?」
ひひひ、と引き気味の高い声で時生をからかう海咲に喜一が手刀をくらわせる。
「痛い!」
「純情な少年を笑いのタネにするんじゃありません。」
まったくもう、と溜息を吐いて海咲を回収する様に普段の二人の関係性を知った気がした。時生は微笑ましく思い、くす、と笑ってしまう。
「とても魅力的なお誘いですが、僕は自分で本人に聞くことにします。」
「おお。男らしい。ちなみに海里ちゃんはガラケーだから、メッセージアプリを使えないからね。メールアドレスのガードは固いぞう。」
海咲の入れ知恵に、時生は「頑張ります」とだけ答えたのだった。

月曜日を迎えて、時生は最寄駅から高校に向かって電車に乗り込む。ぎゅうぎゅうに他人に押されながら、ふと時生の視線が漆黒の色を捉えた。それは同じく窮屈そうに乗車する海里だった。相変わらずのゴスロリファッションは彼女の存在を否応なく目立たせた。
本当はすぐにでも傍に駆け寄りたかったが、身動きが取れず断念する。早く駅に着かないかとそればかりを考えていた。
車掌のアナウンスと共に、ゆっくりと電車が減速していく。ようやく駅に着き、下車をする。時生は慌てて先に降りた海里の後を追った。海里は意外と歩くのが早い。するすると柳のように人の影を避けて、前へと進む。一方でいつもはマイペースにゆっくりと歩く時生は人との距離感をうまくつかめずに流されてしまうことが多い。結局、追いついたのは改札口を出てからだった。
「一ノ瀬さん。」
呼吸を整えながら、海里の名を読んだ。彼女は子供が驚いたように大きく目を見開いて、時生がいる背後を振り向いた。そして自らの名を呼んだのが時生だということを知ると、固くなった表情を和らげて言う。
「おはようございます。」
「うん、おはよう。」
挨拶を交わして二人、連れ立って通学路を歩き始める。会話もない静かな道すがら、時生は会ったら伝えたかったことを中々口に出せずにいた。
『青い靴』の演技、素晴らしかった。
今までの努力が実ったね。おめでとう。
最後に顔を見せなくてごめん。
どんな言葉を探したとて、酷く陳腐な言葉の羅列のように思えてしまい口にするのをためらってしまった。
「…昨日。」
海里が聞こえるか聞こえないかのギリギリの声量で、呟くのを時生は聞き逃さなかった。
「うん。」
「公演に来てくれて、ありがとうございました。」
ちら、と横目で海里を伺うと、彼女は時生を見ることなく真直ぐに前を見据えていた。だが、その耳元が僅かに桜色に染まっているのに気づいてしまう。時生が思わず立ち止まると海里が一歩先を行き、そして足を止める。振り返る刹那の風に流れる髪の毛のしっとりとした光沢が、目を通して脳裏に焼き付いた。頬に触れる髪の毛を耳にかけながら、最初は顔だけ。ゆっくり踊るように身体がついてきて時生と向き合う。そしてやんごとなき少女が如く小首を傾げるのだ。
「八尾先輩?どうかしたんですか。」
時生はまるで初めて海里を見た時のような熱を覚えていた。
「あー…、えーと。過呼吸。大丈夫、だった?」
それほど的を外していない言葉だと思ったが、海里はそれを聞いて笑っていた。
「情報源は海咲さんですね?言うなって釘を刺しておいたのに。」
ぺろっと簡単に報告していたぞ、あの人。時生は海咲の口の軽さに驚きつつ、閉口することにした。あとで恩に着せようと思う。
「体力をもっとつけておくべきでした。恥ずかしいです。」
再び、歩き出した海里の後を追う。
海里が舞う姿には鬼気迫るものがあった。足を止めることなく、体の軸をぶらさず、一定のレベルを保ったままのあの気概は目を張るものがあった。
「観客の前で倒れなかったのがせめてもの救いですね。」
心底、ほっとしているようだった。自らの体力の限界を理由で劇を中断させない海里のそのプロ意識は素直にすごいと思う。
海里に追い付いて、肩を並べる。
「恥ずかしくないよ。あの踊りをぶっ通しで長時間は誰だってきつい、と思う。」
「確かに、きつかったです。過呼吸を起こした時は死ぬかと思いましたし。」
舞台袖での苦痛を思い出したのか、海里は表情を曇らせた。
「目の奥がチカチカと瞬いて、喉の奥で血の味がしました。」
「壮絶だな。」
それはもう、と海里は苦々しく頷く。
「何故か、八尾先輩の顔が浮かびましたよ。走馬灯です、あれは絶対。」
「…光栄です。」
時生の返事に、海里は些か疑惑を持ったようだ。
「本当かなあ?走馬灯には出てくるのに、実物はさっさと帰っちゃいましたけど?」
「すみませんでした!」
海里の不機嫌の色を感じ取って、時生はすかさず謝罪をする。
「じゃあ、罰ゲームです。携帯を出してください。」
「うん?あ、スマホ?」
鞄のポケットから自らの携帯を探る海里に釣られて、時生も衣服のポケットからスマートホンを出した。折り畳み式の携帯電話をパチ、と音を立て開き、操作してある画面をずいと時生に押し付けた。
「?」
首を傾げながら胸に押し付けられた携帯を受け取って、時生は画面を見た。そこには携帯自身のメールアドレスが記載されていた。
「私のメルアドを登録したら、八尾先輩のスマートホンからメールをください。それで罰ゲームは完了です。」
「別に罰ゲームでも何でもないけど。」
時生は海里の指示通りにスマートホンを操作して、メールを送る。海里の携帯から着信音が聞こえてきたあたり、メールの受信は成功したのだろう。海里は嬉しそうに携帯の小さな画面を確認した。そして満足そうに頷きつつ、言う。
「今はお世辞はいらないです。」
時生は彼女の言葉に、首を傾げた。何故、そんなことを言うのだろうと思う。
「いや、本当に。」
「…じゃあ、なんで今まで聞いてこなかったんです?」
海里の声色には子どもが拗ねたようなニュアンスを含められていた。
「忘れてた。」
素直に白状すると、海里はがくりと肩を落とす。
「あー…。そんな感じですよね、八尾先輩って。」
悩んでいたのがバカみたいだ、と言う海里の呟きは時生には届かなかった。
「今日。本当に今日、訊こうと思ってたんだ。ありがとう。」
時生は海里から得たメールアドレスの文字を愛しそうに目で撫でる。自分の名前に恐らく誕生日を組み合わせただけのシンプルなメールアドレスは、まるで彼女の人柄をそのまま表しているかのようだった。
「いつでもメールして。遅れたとしても、必ず返信するから。」
時生がそう言うと、海里は子どものようにこくんと頷いた。
「ありがとう、ございます。」
微笑みながら、海里は大事そうに携帯電話をしまった。