七月の終わり。夏休み、したいこと。その一。
 私たちは映画を見に行った。
 夏休みにしたいことがパッと出てこなかった私に篠村が提案したのだ。
「『夏休みだからこそしたいこと』で映画?」
「キンキンに冷えた映画館でホラー映画を見てさらに寒くなる。これは夏休みだからこそやりたいことと言えるね」
「なるほど」
 そんなわけで私たちは地元のさびれた映画館に行って、最近よくCMを打っている映画を見た。正直言って……微妙だった。主演は人気のアイドルグループの女の子だったが、演技初挑戦らしく、彼女が大げさな演技をすればするほど恐怖心が減っていった。そして古い映画館は生ぬるく、椅子にもたれた背中がじっとりと汗ばんだ。とても快適とは言えない二時間だった。
「なあ、どうだった……?」
 映画館から出て、少し歩いたところで篠村は私に訊ねた。
「えっと……」
 篠村はどう思ったんだろう。映画館は暑かったし、怖さで冷えることもなかった。だけど、もしかしたらあのアイドルのファンかもしれない。それなら演技が微妙だったね、ということで気分を害してしまうかもしれない。たった一言うまく答えることができなくて、ぐるぐると考えが巡る。
「正直に言っていいよ」
 篠村はいたずらっこなような笑みで私を見た。
「……映画館ちょっと暑かったね」
「だいぶな」
「目標達成度は六十パーセントくらいかも」
「あはは、なにそれ、目標達成度って」
 マイナスな言葉を避けようと苦し紛れの私の言葉を、篠村はおかしそうに笑った。
「本当に六十パーだと思う?」
「う……二十パーくらいかも」
「暑いし、映画で冷えてくれなかったもんなー」
 篠村は楽しそうに笑う。正直な気持ちを言っても、篠村は気にすることなく笑ってくれる。
 目標達成百パーセントにならなかったのに、楽しい夏の思い出になったから不思議だ。


 八月一週目。夏休み、したいこと。その二。
 それを提案されたとき、私はどうしようか一瞬悩んだ。花火大会に誘ってもらったからだ。
「やっぱり夏休みといえば、花火大会!」
「そうかも。でも篠村、相手は?」
「彼女ってこと? いたら、こんなに棚上と会わないって」
 ……それもそうか。篠村は彼女がいたら、すごく大切にしそうだ、なんとなく。今まで篠村の彼女の存在を考えたことがなかったけど、考えてみると心がほんの少しざわつく。
 篠村に彼女ができたら、たとえ昼夜逆転の仲間だとしてもこんなに頻繁に会うことはなくなってしまう。というか、むしろ。今が恋人のように会っているんだけど。
「棚上? どうした? もう行く人いるなら断ってくれてもいいよ」
「ちょっとぼーっとしてた。行く人、いないよ。毎年行ってた美優は彼氏できたみたいで」
「田中か。――棚上は彼氏は?」
「いたら、こんなに篠村と会わないよ」
 篠村の真似をして答えると、笑顔が返ってきた。
「じゃあ一緒に行こうよ」
「……うん、いいよ」
 そんなやりとりがあって、今浴衣を着た状態で悩んでいる。お母さんが花火大会に行くなら!と張り切って浴衣を着付けてくれたのだけど、ただの友達との花火大会にしては少し気合いが入りすぎではないだろうか。
 これでは逆に気を遣わせてしまうんじゃ? 気がそわそわとして落ち着かない。
 いつものように篠村は私を家まで迎えに来て、玄関で私を見ると目を丸くした。やっぱり気合いが入りすぎてしまっているんだ。篠村はラフないつも通りの恰好なのに。私は髪の毛を巻いてアップにして、薄くメイクまでしてしまっている。こんなの、まるで、デートのために張り切ってるみたいだ。
「お母さんが花火大会行くならって、浴衣出してきたんだ。ちょっと張り切りすぎだよね」
 言い訳のように早口でそう言うと「えーなんで! 花火大会は浴衣が一番!」と篠村は笑顔を見せた。
 篠村に笑顔を向けられるといつも「ならいいかあ」と思う。自分の言動がずっと不安で仕方ないのに、篠村といると「気にしなくていいのかも」と思える。篠村といるときの私のことは好きかもしれない。


 花火会場の近くまで来ると、想像通り人はごった返していた。私たちは焼きそばやたこ焼きなんかの食料を買うとメイン会場まで向かうことにした。
「わかってたけどすごい人だな」
「本当に」
 蒸し暑い空気と一緒に人混みに流されていく。
「棚上」
 名前を呼ばれて篠村を見ると、篠村は私に手を差し出している。
「あーえっと、ほらはぐれないように」
 まるで少女漫画のワンシーンだ。少し照れ臭そうにしている篠村の手を取って、私たちはしばらく黙ったたま人の波に乗って進んだ。
 いつも二人で歩いているとき、どんな話をしていたっけ。うまく話せそうにないから、私は人の波に溺れないように必死に歩くふりをし続けた。
 しばらく進むと開けた場所に来て、ようやく自分の思う方向へ歩けるようになった。
 手を離す? ――今ははぐれる心配もない。手はじっとりしてきた。手汗を不快に思われるかもしれない。だから離した方がいい。
 手を離さない? ――急に離したら、嫌な気持ちになるかもしれない。『俺のことが嫌いなんじゃ?』と思われるかも。
「あそこらへん空いてる。どう?」
 繋いだ手と逆の手で、篠村は指さした。河原の石段になっているところで、座りやすそうだ。
「うん、いいね」
 篠村はそのまま歩き出すから、私は手を離さないことにした。篠村が、じゃない。私がもう少しこのままでいたかった、のかも、しれない。
 目的の場所まで到着すると「篠村?」と後ろから声が聞こえた。
「お、谷口」
 そこにいたのは中学時代の同級生・谷口だった。彼女らしき女の子と手をつないで一緒にいる。
 そして、私が谷口の存在に気づいた瞬間、篠村はぱっと手を離した。
「久しぶり」と谷口が言うと、「三日ぶりだろ」と篠村は突っ込む。
「え、待って。棚上?」
 谷口は私の存在に気づくと目を見開いた。私を確認するようにじっと見つめる。
「久しぶり」
「へー、棚上と? ふうーん、そういうこと?」
 にやにやと谷口が私と篠村を見比べる。
「違うから」
「今度詳しく聞かせてもらうわ」
「ちょっと。感じ悪いよ。邪魔するな」
 谷口の彼女らしき女の子がたしなめると、「ごめんごめん。じゃあ俺らは行くわ」と谷口は言った。
「またな、篠村」
 谷口が軽く手を振って、彼女がぺこりと頭を下げるから私も会釈を返した。
「……座ろっか」
 篠村はそう言って石段に座るから私も座った。
「谷口、懐かしい。仲いいんだ?」
 動揺を隠すように放った言葉はボリュームが少し大きかった。顔を見られず、私は袋から焼きそばやたこ焼きを取り出す仕事につくことにした。
 篠村が、手を離した。先ほどまで自分も離すか・離さないか、悩んでいたくせに。なぜかその事実に私は揺さぶられていた。
「よく谷口たちとは会うかな。三日前もナイター見に行った」
「そっか、夜なら普通に遊べるか」
「うん。えっと、昼は予定があるけど夜なら空いてるって言ってる」
「あー、確かに。それはありだね」
 さも今気づいたかのように相槌を打ったけど、それは心のどこかで気づいていたことだった。別に私が生きている時間は「真夜中」だけじゃない。私が「昼夜逆転」を言い訳にして、友達と過ごす時間から逃げているだけだ。
「谷口は知ってるの? 篠村が昼夜逆転ってこと」
「いや、話してない」
「そうだよね、わかる。心配かけたくないし」
 それは半分本音で、半分建前だった。変に心配をかけたくない。
 だけど、一番の本音は逃避だった。昼夜逆転だから、友達に会って向き合わなくてもいい。
 追及されたくもなかった。
 昼夜逆転。理由不明の症状。でもきっと『朝が来てほしくないから』だ。それを説明するのは、友達にあなたたちと会いたくないと言っているようなものに思えたし、私が『弱い』ことを証明しているみたいだった。
「棚上は会ってる?」
「ううん、誰とも」
「女子は夜に遊ぶの危ないしな」
 篠村は軽くそう言うと「あ、焼きそば食べていい?」と言って、プラスチックの容器を開けていく。
 篠村は、私と同じ昼夜逆転症候群。
 だけど、きっと私より広い世界に生きている。
 今、私の夜には篠村しかいない。それを突き付けられた気がして。手が離れた瞬間の、感覚を思い出して。
 毎年楽しみにしている鮮やかな花火が、ぼんやりとしか目に入らなかった。