昨夜のことが強烈過ぎてうまく眠れなかった私は、重たい頭を抱えながら登校する準備にとりかかった。

「みのり、ご飯は?」

「いらない」

 洗面台の前で短めの髪にクシを入れていると、お母さんがいつものようにばたばたしながら尋ねてきた。昨夜の喧嘩はなかったかのような空気にイラッとした私は、そっけなく答えて部屋に戻った。

 制服に着替えながら、声を荒げたことにチクリと痛みを感じながらため息をつく。五年前に再婚したお母さんは、新たにできた弟の世話で手がいっぱいだった。だから、私がこの家に居場所を感じていないことも、将来のことで悩んでいることも知らないだろう。

 机に置いた白紙の進路希望調査票を鞄に詰め込み、三人で囲む食卓を横目に家を出ると、暗く沈んだ気持ちとは真逆の太陽が、朝から嫌になるくらいに張り切っていた。

『あんたは不器用なんだから、バイトでもいいから近くに就職しなさいね』

 昨夜、お母さんから言われた言葉を思い出し、再び怒りがふつふつとわいてくる。いくら私が不器用な地味子だからといって、希望も聞かずに就職すると決めつけられたことにはショックだった。

 私としては、デザインや動画編集の道に進みたい気持ちがある。なんの取り柄もない私が唯一自慢できるのは、とあるデザインコンテストで賞を取ったことぐらいだからだ。

 とはいっても、自分の気持ちをうまく言葉にできないことはわかっている。どうせしどろもどろになって笑われるくらいなら、黙ってたほうがいいというのが私のスタンスだった。

 ――でも

 そんな自分を、このままでいいのかと悩むときがある。このまま、自分の気持ちにフタをして周りに流されて生きることに、時々どうしようもないやるせなさを感じることがあった。

 それでも、だからといってなにかを変えることも始めることもできないのが私だ。悩むだけ悩んで、結局は黙って気持ちにフタをする以外に私にやれることはなかった。

 ――あれ、ひょっとして

 特大級のため息をついたところで、昨夜出会った恭介くんの姿に気づいた。声をかけるか迷いながら結局距離を詰めることもできないでいると、急に恭介くんがふりかえって私に視線を向けてきた。

「あの、昨夜はどうも」

「昨夜?」

 明らかに私を見ている恭介くんに、さすがに無視はできないと思って声をかけた。でも、恭介くんはよくわからないといった感じで首を傾げていた。

「ああ、恭介と間違えたんだね」

「間違える?」

「そっか、君は知らないのか。僕は君が間違えてる恭介の双子の弟で、真彦っていうんだ」

 頭をかきながら、真彦くんが事情を説明してくれた。確かに昨夜見た鋭い目つきはないし、髪も黒髪で温和な雰囲気が人の良さをかもしだしていた。

「迷惑なんだよね」

「え?」

「あいつと間違えられること。あいつは、城崎家の恥さらしだから、間違えられることは嫌なんだよ」

 笑みを浮かべつつも、真彦くんははっきりと恭介くんを毛嫌いする言葉を並べだした。それもそのはず、城崎家といったらこの辺りで有名なお金持ちの家だ。その家の子供が暴走族なんかしてるわけだから、真彦くんにとっては迷惑な兄ということなんだろう。

「というわけで失礼するけど、恭介のことを知ってるなら伝言をお願いしてもいいかな?」

「え? あ、なんでしょうか?」

「いい加減、負け犬の遠吠えはやめろってね」

 目だけ笑わないまま、真彦くんは冷たい言葉を容赦なく口にする。あっけにとられた私は、いつも以上に声がつまって立ち去る彼の背中を眺めるしかなかった。

 ○ ○ ○

 朝から変な気分で教室に入ると、クラスのみんなは高校最後の体育祭に向けた話で盛り上がっていた。

 その空気を横目に席に座ると、いつものように好きなデザインの雑誌を読むことに専念した。私は、みんなと楽しく話をするのが苦手だった。別に嫌われたりイジメられているわけではない。挨拶をすることもあれば、普通に話かけられることもある。

 でも、その度に壁を作るのは私の方だった。変なこと言って笑われないかと心配になり、すぐに口ごもってしまうのだ。

 だから、みんなは私について話をしてもつまらないと思っているだろう。話しかけてもまともに対応できないのだから、みんなが自然と私に距離を置くのはしかたがないことだった。

「葉山、聞いてるか?」

 突然名前を呼ばれたことで派手に背筋を伸ばして驚くと、周りから一斉に笑いが漏れてきた。いつの間にかホームルームが始まっていて、どうやら先生は私に用があって呼んでいたみたいだ。

 ――もう、最悪だよ

 人畜無害、平和平穏を貫く私にとって、目立つことは最大の脅威だ。私みたいなのが目立つと、今みたいにみんなに笑われるのがオチだから、多少の我慢や犠牲をしてでも無難な位置に収まるのが私の常だった。

 そんな私の平穏を壊した先生に連れられ、職員室に向かう。呼び出し理由は進路希望調査票のことかと思ったけど、先生の用件は朝の爽やかな空気を吹き飛ばすほどの爆弾級だった。

「えぇ! わたしが、応援団長?」

 あまりにも予想外な先生の話に、私は裏返るのもかまわず情けない声を上げた。

「実はな、朝から恭介が訪ねてきて、今度の体育祭で四組の応援団長に葉山を指名してきたんだ。まあクラスが違うから難しいと言ったんだが、恭介にしては珍しく頭を下げてきたから、話だけでもと思ったわけだ」

 体育会系の若い先生が、腕を組んだままうんうんとうなずきつつ事情を説明する。どうやら恭介くんの策略を熱意と勘違いしたみたいで、私の事情はそっちのけで引き受けたらしい。

「ちょ、無理ですよ、わたしなんかが応援団長なんて」

 このまま巻き込まれたら人生の危機になることを察知した私は、勇気をふりしぼって抗議の声を上げた。

「まあ、引き受けるかどうかは一度恭介と話をしたらいい。それに、これは葉山にとってチャンスかもしれないぞ」

「話なんてできませんよ。それに、チャンスってなんですか?」

「お前、まだお母さんに進路のことを話してないだろ?」

 急に挑むような目つきになった先生が、一瞬で私の声を止めた。

「お前、本当はデザインの道に行きたいんだろ? 先生もお前が受賞した作品を見て、このまま就職するのはもったいないと思っている。でもな、こればかりは自分で伝えないとだめだぞ。だから、その勇気を持てるきっかけになるんじゃないかと思ったんだ」

 淡々とはしていたけど、先生の口調に説教じみたものはなかった。むしろ、私を気にかけていることがわかり、ついには抗議することもできなくなっていた。

「葉山、たまには違う自分というのもいいかもしれないぞ」

 私の無言を承諾と受け取ったのか、先生が勝手に話を締めくくる。

 高校最後の夏、特に予定なんかなかった私に人生最大の試練が訪れようとしていた。