生きていることが、どうしようもなく辛い。何か決定的なきっかけがあったとか、そういうわけじゃないけれど。
繰り返す「毎日」を過ごす中でゆっくりと、自分を蝕んでいった「死にたさ」が肥大化して、来る日も来る日も枕を濡らした。
自分はどうしてしまったのだろうか。一年前までは「自分という存在」が生きていることについて、何の疑いも持っていなかった。
きっとそれが普通で、正常なのだと思う。でも今の自分に、それを考えないということはできなかった。

15歳になる誕生日の0:00に、友達からメールをもらった。「生まれてきてくれてありがとう」という言葉を添えての、おめでとうというメッセージ。涙腺がおかしいくらいに壊れて、泣き崩れてしまった。嬉しかった。本当に嬉しかった。ずっと死にたいと心の中で繰り返していた自分に、甘えてばかりの自分には、酷く優しすぎる言葉だった。こんなに優しい、自分には勿体ないくらいの言葉を貰ったのに、今でも毎日「生まれてこなければよかった」と思っている。そんな自分のことを、心の底から憎んでいる。自分のことを受け入れて、大丈夫だよと安心させてくれる人がいるのに。不甲斐ない自分を、大事にしてくれる人がいるのに。自分はその人の好意に背中を向けた。手を差し伸べてくれる人がいるのに、それに応えずに塞ぎ込んでしまう自分を殺したい。自分を大切にしてくれる人を、同じように大切することができないでいる。どうしても、「何にもわかってないくせに」という幼稚な反発心を抱いてしまう。そんな自分が大嫌いだ。
死にたい。早く死にたい。ここ最近、いやここ1年くらい、それしか考えていない。正確に言えば、死にたいのではなく消えたい。自分の存在ごと、過去も含めて全てを消し去りたい。生きることに疲れた。満たされない。愛されたい。誰かに抱きしめてほしい。それが叶うのなら、与えられた何もかもを手放してもいい。言ってしまえば、その願いを伝えて応えてくれる人はいる。その人だったら、きっと抱きしめてくれる。でもそれを言葉にして伝える勇気が、自分にはない。そんなこと誰にも言えないし、告げるつもりもなかった。もうどうすることもできない。

過剰に薬を飲んだことがある。包丁を身体に向けて持ったことがある。人身事故で電車が遅れて、不覚にも羨望の念を抱いたことがある。学校4階のベランダから青過ぎる空を見上げて立ち尽くし、自嘲したこともある。
でも死ねなかった。死にたいと息を吸うように感じながら、やっぱり大それた自殺なんてできないと思ってしまう自分に、更に嫌気が差す。中途半端な自死願望ほど、情けないものはないと思う。仮に、大人になる前に死ねなかったとして、自分はこれから人生という道を、歩いていくことができるのだろうか。あまりにも脆すぎる己に自信が一つもないし、このままでは「自分という存在」は音も立てずに崩れ去っていってしまうような気さえする。

何で自分はこんなにも、心が弱いのだろう。きっとそれを、「繊細な感性を持っているのは長所」とか言って肯定してくれる人もいるのだろう。でもそんな一言で救われるほど、単純な心ではなくなってしまった。自分がどんどん醜くなっていくようで辛い。
何にも持っていない自分ではないと、自負している。成績は良いし、いくつか特技もある。でもそれを理由に「死なないで」とか言われても、心は1㎜も動かない。貴方には価値があるのだから、とか言われても心には響かない。そういう問題ではない。
本当に、生きることに疲れただけなのだ。一人でいると思考が悪い方向に進んでいって、死にたくてたまらなくなる。心がどんどん沈んでいく。でも、誰かといるとどうしようもなく疲れる。傍に誰かがいるだけで息が苦しくなるし、落ち着かない。人と会話するだけで、気力のパラメータが減っていく。一人でいると孤独を感じて病んでいくのに、人といることもできないなんて解決策がない。

いつからか、胸の真ん中が怖いくらいに痛い。心に穴が空いたようだ。この痛みが癒える日は、いつか来るのだろうか。涙でキーボードが見えない。こんなはずじゃなかったのに。毎日涙を流していて、目も酷く痛い。ずっと前から、固く心を閉ざしている。自分の、呆れるほどに弱い心情を吐き出さないでいた。凍った心が少し融ける一瞬もあったけれど、それも表面的なものにすぎなかった。心の真ん中にある核のようなものは、依然として凍ったままだった。
だから今、パソコンに向かってこの文章を書いている。こんなの、ただの自己満足だけれど。泣きはらした夜に一筋の光を照らしてくれた憧れの汐見さんが、自分の文章に目を通してくれることを一縷の望みとして。
去年の夏、小説を書き始め、十作ほどエブリスタの短編小説コンテストに応募してみた。思いのほか、文章を書くことが好きだと気付いた。
それと同時に、物語を紡ぐというのは簡単ではなく、孤独な行為だということが分かった。自分は死にたくたって、どうしても生きているのだから、少なくともその内は書くことを辞めたくないと感じている。
それでも何をしたって、心の基盤となっているような、脆く柔い部分は変わらない。心を洗い出すように、感じた心の動きを文字に起こして文章をにしていると、何故だか涙が止まらないのだ。

もっと辛い思いをしている人が世界には数多いるのに、日常の、こんな小さなつまらないことで傷つき、涙を流してしまう自分が嫌になる。
恵まれない環境下でも笑顔を忘れず生きている人とか、紛争地域に身を置きながらも懸命に生き延びている人とか。歴史に名を残すような研究を必死で進めている人たち、想像もできないほどの努力を重ねて限界を突破しようとしているアスリートたち。そんな人たちのことを考えると、漂うように今を生きてしまっている自分が情けなくなる。戦争によって殺されたり、飢えて苦しんでいる同年代の人たちが、この世の中には幾千万と存在するのに。

そして、もう一つ書いておきたいことがある。
自分と同性、つまり女の子を好きになったことがある。私はバイセクシャルだけれど、そのことを簡単に口にするのはまだ抵抗があるし、それを知っている友人は少ない。今自分は好きなのかと言われたら微妙としか答えられない、異性の人と付き合っているけれど、届かない片思いの方がはるかに幸せだったように感じる。今でもその人への気持ちは、胸の奥にしっかりと残っている。自分の正直な気持ちを伝えてみようかと思ったことは幾度もあるけれど、やはり拒絶されるのではないか、距離を置かれるのではないか、という恐怖と不安の心情が消えてくれなかった。きっとその人なら、気持ちに応えてくれることはなくとも、好意を受け止めてくれるだろう。でも。でも、無理だった。私はその想いをそっと折り畳んで、心の底に隠しておくことに決めた。

最近、過呼吸になる頻度が増えた。それまでにもいくつか起きていたけれど、最初に酷くなったのは、英語の授業での発表の時だった。
身体中に刺さる視線を浴びて、耐えきれなくなったのだろうか。目の前が白くなって力が抜けて、息を吸おうとして吸い込むとさらに苦しくなり、肺が痛んで指先が震えた。もっと幼い頃は、人前に立つなんて平気だったのに。先生に連れられて、保健室に行かされた。そのときに教室で向けられた、好奇の目が忘れられない。面白いものを見るような目でいる人もいた。
その後も何度も、過呼吸の症状が訪れた。止めたくても止められないそれに、もうどうしたらいいか分からない。



大きな愛を、感じられる日を待っている。温かな体温で包んで、大好きだよとか言ってほしい。そんな恥ずかしいことを求めてしまう自分のことは嘲笑うしかないけれど、変えようのない、仕方のない事実だ。死にたいと叫びながらも死なないで生きてしまう自分を、誰かに殺してほしい。どこまでも死にたいと思い続ける自分だけれど、今、この瞬間は、息を吸ってここに生きている。在るのは苦しいだけの心だけれど、それを小さく切り取って、今ここに綴った。

毎晩のように頬を伝い、無意識のうちにも零してしまう透明な雫。それさえも全部抱きしめて、包み込んで愛せるような。
苦悩した夜も涙も、青い春の一部で、脆さも痛みも綺麗だったと。そう思い返して、優しく微笑みながら月を眺められるような。
そんな日がいつか来ることを、今はただ祈っている。