この世界から君が消えて一か月。
君を失って以来、私の人生は悲しみの色に沈んでいた。
ふと見上げた空が青い。そういえば彼女が亡くなった日も、こんな晴天だった。
大した才能がなければ、努力もできないくせして、他人を羨んでばかりの自分が大嫌い。
そんな冴えない私、鈴木悠里(すずきゆうり)は落ちこぼれの高校二年生だ。
終業時間を告げるチャイムが鳴る。特に部活もやっていない私は、そそくさと学校を出た。
私にはお気に入りの場所があった。
川沿いに流れる橋を渡った先にある、裏山の展望台だ。
放課後、人気のないこの場所で、私は空を独り占めするのが好きだ。
熱中できるような趣味もなければ、一緒に青春を謳歌するような友達も、私にはいないから。
家に帰ったところで、出来損ないの私は、一つ年下の優秀な妹と比較されるのが目に見えている。
ここならなにもしなくていいし、誰にも何も言われない。そんな穏やかなひとときを、一人、満喫していた時だった。
「クラスメイト発見っ!!」
突然、背後から声が聞こえた。
この声って、まさか――
私の嫌な予感は的中していた。振り返ると、そこには見知った少女が立っていた。
肩までの栗色の巻き髪に、マントのように羽織った特徴的な黒のブレザー。
彼女の名前は夢咲璃愛(ゆめさきりあ)。まるで、二次元の世界に出てきそうなその名前にふさわしいと言うべきか、実際、彼女は日々の言動がだいぶ飛び抜けている。
とにかく自由奔放で、校内でも知らない人はいないほどの問題児っぷりだ。それでいて、成績は学年トップ。スポーツ万能というから度肝を抜かれる。おまけに結構、美少女だし。
まずい。よりにもよって絡まれると面倒な人に出会してしまった。
そうこうしている内にも、彼女は意気揚々とこちらに近付いてくる。
「キミは確か――えーと、誰だっけ?」
「鈴木悠里」
会話するつもりなんてさらさらなかったのに、聞かれるとつい反射的に返してしまう。
というか、私、クラスメイトにすら名前覚えられてないくらい、影薄いんだな。
自覚はあるけれど、やっぱりちょっと胸に刺さる。
「わたし、夢咲璃愛! ねぇ、悠里って呼んでもいいっ!?」
「お好きにどうぞ」
馴れ馴れしくしゃべってくる彼女に、コミュ症の私は戸惑う。
「ところで、悠里はここで何してたの? ていうか、めーちゃ景色いいねー!」
「特に何も。ぼうっとしてただけ」
「なんか不機嫌そうであるなぁー」
流石に我慢の限界だ。
そっちが執拗に迫ってくるから、適当に返しているだけだというのに。
何かしら言い返そうと思って、彼女の方を向き直る。
すると、そこにはキラキラと輝く彼女の綺麗な瞳があった。つい見惚れてしまう。まるで、水晶玉みたいだと思った。
「ゆ、夢咲さんこそ、なんで来たの? こんななんにもない場所」
思わず、たじろいだ私を彼女は特に気にするふうでもなく、よくぞ聞いてくれたとばかりに、胸を張った。
「それはだねー! 散歩部の活動をしていたところに、ぐーぜん、ここを見つけたのだよ!」
「さ、散歩部?」
私は目をしばたたかせた。
「そうだ! キミも散歩部に入らないかっ!?」
「えっ……」
あまりにも急な誘いに、私はわかりやすく困惑した。ていうか、散歩部ってなに?
「放課後に、ちょこーっとその辺、寄り道するだけのお手軽な部活だからさー」
いや、それはもはや部活と言えるのか。
「せっかくの青春を、帰宅部で終わってしまうのはもったいないであろう!」
名前覚えてないのに、なんでこの人、私が帰宅部なのは知ってるの……。
と、彼女はどこから出したのかわからない入部届をバシッと私に突きつけてくる。
「結構ですっ!」
私は慌てて突き返した。
「えぇっ、そんなこと言わないでくれたまえー! ただでさえ、去年、三年生が抜けて部員がわたし一人しかいないんだよー!」
「お断りします!」
頑なに拒否する私に、とうとう彼女は観念した様子だった。
「どうしても入ってくれないって言うなら、しょうがないかぁ」
彼女は一度、大きな落胆っぷりを見せたから立ち上がる。
「気が変わったら、いつでもおいで。心して待っているのだー!」
そう能天気に言い残して、彼女は颯爽と去っていく。
その拍子にひるがえった黒のブレザーが、鮮やかな空の青によく映えていた。
数週間後。あれ以来、彼女とは大した会話すら交わしていない。てっきり謎多き散歩部に、また勧誘してくるのではないかと思って身構えていたのに。なんだか拍子抜けした気分だった。
今日は体育の授業で、体力測定がある日だった。案の定、私はどれも平均以下の結果に終わったけれど。
「はい、それじゃあ、皆さん、残りの時間は自由にしてください。そこにあるボールとか、ラケットも使っていいからね」
とたん、あちこちで歓声が湧き起こる。あっという間に、仲のいい子同士で寄ってたかって、いくつものグループができた。
――そこに私が入れる輪なんて一つもないけれど。
無理なんだ、昔から。誰かと楽しく遊んだり、みんなみたいに話したりすることができない。私にはきっと、生きる才能がないんだ。
『お前に居場所なんてないんだよ、悠里』
うるさい……。
『出来損ないのお前には、一生、一人がお似合いだね』
ダメだ……。
なんだか最近、ありもしない幻聴がよく聞こえる。それらはすべて、いつも私のことを蔑んでくる。
上手く息が吸えない。ばくばくと、心臓が暴れ狂っている。
「どこか、落ち着ける場所……」
とうとう耐えきれなくなった私は、無断で体育館を抜け出した。
木漏れ日の差す中庭のベンチに、私はがっくりと腰を下ろす。
学校の敷地内でも、あまり人目につかないこの場所は、あの展望台と少し景色が似ている。だから普段、私は昼休みの大半を、ここでやり過ごすことが多い。
やっと手に入れた一人きりの時間に、ほっと息をついたのもほんの束の間。
「悠里、大丈夫?」
「ゆ、夢咲さんっ!?」
思わず、口をついて出そうになった拒絶をすんでのところで飲みこむ。
ブレザー代わりに、体育着の長袖ジャージを羽織った彼女は、私が今、最も会いたくない人物だと言っても過言ではない。
「な、なんでここに……」
「急に出ていっちゃうから、どうしたのかなって思って」
「あー、ごめん。なんでもないよ」
「いやいやー、それ絶対なんでもなくないっしょー」
平然を装って返したつもりが、あっさりと見抜かれてしまう。
ひょっとして、心配してくれてる?
となりに座った彼女を横目に、そんなことを思った。
上手い誤魔化しも思いつかず、沈黙が降りる。気まずい……。
「わたしもね、友達いないんだ」
やがて、先に言葉を発したのは夢咲さんだった。
「どうして、この世界には、好かれる人とそうじゃない人がいるんだろうね」
まるで、世間を皮肉るみたいな口ぶりだった。
けれど、すぐにまたいつもの彼女の声のトーンに戻る。
「まぁ、わたしはこんな性格してるから、無理もないんだけどね」
「だったら、やめればいいじゃん、そんなキャラ」
つい口走ってしまった自分の言葉にはっとし、夢咲さんを見る。するとそこには、らしくない彼女のどこか切なげな横顔があった。
「今のは、その」
「いいよ、大丈夫。気にしないで」
「ごめん……」
口ごもった私に、夢咲さんはそっと優しく笑いかける。
「夢咲さんはさ。一人でいることが怖くないの? 苦しくないの?」
思わず、投げかけた私の問いに、夢咲さんは一切のためらいもなく答えた。
「わたしは、本当のわたしを受け入れてくれる人と一緒にいたい。ただそれだけだよ」
またも口をつぐんだ私に、今度は夢咲さんが聞いてきた。
「じゃあ逆に質問。本当の自分を隠さなきゃ一緒にいれない人を、悠里は友達って呼べると思う?」
「それは……」
ずっとずっと孤独に生きてきた私にとって、それはものすごく難しい問いのように思えた。
「わたしね、思うんだ。たとえ、誰に悪く言われても、わたしはわたしだって」
そう堂々と言ってのけた彼女の瞳は、強い決意で満ちている。
「だから、悠里は悠里のままでいいんだよ。無理して周りに合わせたところで、それはもうきっと、本当のキミじゃなくなっちゃう」
彼女の言葉一つ一つに私はなんだか、やけに感傷的になってしまった。
「さて、そろそろ授業終わるし、先生にバレると厄介だから戻ろうか」
そう言われなければ、私は後少しで、泣くところだった。
「ありがとう、夢咲さん」
気付いたら、自分でも驚くほど素直に、そんな言葉が口をついて出た。
ほんの一瞬、夢咲さんの澄んだ瞳が大きく見開かれる。
けれど、すぐに彼女は、この晴れ空によく似合う満面の笑みを浮かべた。
「夢咲さんじゃなくて、璃愛って呼んで!」
翌日、私はある決意を胸に、ろくに来たこともない部室棟を歩いていた。
三階の廊下を進んで、一番端に位置する目立たない部屋。それがかの散歩部の部室らしい。
ドアの前までやってきたものの、いざとその時が来ると、ついたじろいでしまう。
私はこっそり扉のガラス越しに、中を覗いてみた。すると、そこには机に突っ伏したまま居眠りしている璃愛の姿があった。
思いきって、ドアを開けてみる。しかし、璃愛はちっとも起きる気配がない。すやすやと穏やかな寝息を立てている眠っている。
もう少し近くまで寄ってみる。すると、机の上に置かれている一冊のノートが目についた。表紙のところを見ると、散歩部活動記録と書かれている。
正直、驚いた。璃愛って、こういうのちゃんとつけるんだ。
私は少しばかりまた、彼女に対する印象を改めた。
それから色々と考えあぐねた結果、私は入部届だけを机にそっと置いた。
「またね」
寝ている璃愛に小声で言って、部屋を出ようと踵を返したその時だった。
突然、後ろから右腕を掴まれた。振り向くと、そこには白い手があって――
「わぁぁぁぁぁぁっ!!」
次の瞬間、散歩部の部室には私の絶叫が響き渡った。
「わはははははは!」
おかしそうに笑い転げる声が聞こえて、私ははっとする。
案の定、璃愛がお腹をおさえながら大爆笑していた。
「びっくりしすぎだよ、悠里。ホラー映画じゃあるまいし」
「そ、そんなに笑わなくてもいいでしょ……」
赤面する私とは対照的に、璃愛は実に愉快そうだった。
ていうか、起きてたんだ……。
その後の会話は、非常に不毛かつ不服しかないので割愛することにする。
結論から言うと、散歩部の活動初日から、私は散々、璃愛におちょくられた。
なんだかんだで散歩部に入部してから一ヶ月。
最初こそ、活動内容がいい加減すぎると思っていたものの、案外、悪くないものだと最近は感じ始めている。
これといった決まりがあるわけでもなし、ましてや部員も璃愛と私のたった二人だけ。
そういった点も含めて、自由気ままにできる散歩部は、ひょっとしたら私に合っているのかもしれない。
璃愛のことも、一緒にいる時間が増えるに連れて、だんだんとわかってきた気がする。
それでも、突飛しすぎた彼女の言動には、まだまだついていけないことはたくさんあるけれど。
「悠里ー、今日も一緒に任務に向かおうではないか!」
「任務って、ただの部活でしょ」
この頃にはもう、私と璃愛は日常的に行動を共にするようになっていた。
「わっ!」
廊下を歩いていた時だった。突然、誰かにぶつかられた。
「悠里っ!」
前につんのめりかけた私を、璃愛が間一髪で支えてくれる。
「ちょっと、そこのキミ達!」
ありがとうと私が返すよりも先に、璃愛は叫んだ。彼女の視線の先には、女子生徒三人組がいた。
「なによ」
うちのクラスで、いつもよく目立っている三人だ。
特に真ん中にいる少女、一ノ瀬芽衣(いちのせめい)は、大手企業の社長の令嬢で、校内でも一目置かれている。黒髪にストレートに、目鼻立ちが整っていて、すらりとした容姿は、いかにもお嬢様っぽい。
成績は璃愛に次いで学年二位ということもあってか、彼女はよく璃愛に突っかかってくる。当の璃愛本人は、大して気にとめている様子もなく、軽く受け流していることが多いけれど。いわゆる犬猿の仲というやつなんだろう。
「人にぶつかっておいて、なにも言わないで通りすぎるつもり?」
あからさまに璃愛の声は怒っていた。普段の彼女からは想像もつかない。
「ふん、この私が謝る義理なんてないわ」
対して一ノ瀬さんは、傲慢な態度でにらみ返してくる。
「そうよそうよ」
「芽衣さんが通る道はあけておくのが常識なんだからね」
それに乗っかって二人の取り巻き達も反論してきた。
「第一、あんた影薄すぎよ。普段から存在感ないし、気付かなくてもしょうがないでしょ」
一ノ瀬さんの冷ややかな目は、私に向けられていた。一瞬、背筋が凍りついたのかと思うほど、鋭い視線だった。
「いい加減にっ――」
「だ、大丈夫だよ、璃愛!」
怒りをむき出しにする璃愛を、私は慌てて制した。
「私のことはそんなに気にしなくていいから。もう行こう!」
「ちょっと悠里っ!」
有無を言わせる間もなく、私は強引に璃愛の手を引いた。
そそくさと廊下を立ち去り、玄関までやってくると、璃愛は不服そうに言った。
「なにも言い返さなくてよかったの? 悠里」
「いいよ。だって、事実だし」
平然を装いつつ、先に玄関を出ると、璃愛が後りから小走り気味に追いかけてくる。
けれど、すぐに彼女の足音はぴたりと止まった。
「ごめんね、悠里……わたしが一緒にいるせいだよね、きっと」
ぽつりとつぶやいた璃愛の声が、背中越しに耳をかすめる。
「そんなことない!」
即座に私は璃愛の方も向き直って否定した。
「璃愛のせいなんかじゃないよっ」
ありとあらゆる感情が、胸の中をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
一ノ瀬さんの言われたことは、あながち間違いではないとわかっている。それでもなお傷付いてしまう弱くて惨めったらしい自分もいる。
きっと少し前までの私だったら、当分の間、一ノ瀬さんの言葉をずるずると引きずっていたことだろう。でも、今は違う。
目の前にいる彼女は――親友は、きっとそんな私のことも、全部、全部ひっくるめて受け入れてくれるはずだから。
「私は璃愛が好きだから一緒にいるの! っていうか、そっちから誘ってきておいて、今さら離れたりなんかしてやらないから!」
彼女と出会って、少しはマシになったのかもしれない下手くそな笑顔で、私は言ってやった。
まるで時が止まったみたいに、璃愛はしきりに見開いたその瞳で、私をじっと見つめていた。
通り抜けた風が、彼女のブレザーをなびかせ、沈黙は途切れる。。
「ありがとう、悠里!」
再び璃愛の表情が、ぱっと明るい輝きを取り戻す。
「そう言ったからには、わたし達、ずっとずっと一緒だからね!」
まぶしい笑顔が弾けた空は、清々しいほどに青かった。
君は唯一の親友にして、私の希望だった。
君といる時間だけは、大嫌いな自分のことを忘れられた。
君が照らしてくれたんだ。誰もいない真っ暗闇に、ただ一人、閉じこもっていた私を。
だから、思いもしなかったんだ。まさか、こんなにもあっけなく、終わってしまうなんてこと。
気付けば、夏の蒸し暑さはどこか遠くへと姿を消し、代わりに裏山には紅葉が散るようになった。
なんだか、璃愛と過ごすようになってから、時間があっという間に感じるな。
そんなことを思っていた矢先だった。
「まーず情けないお姉ちゃんね。悠里は風邪引くといつも長引くんだから」
一昨日からずっと、上がったり下がったりを繰り返す体温計を見ながら、お母さんが大きなため息をつく。
私は風邪で寝込んでいた。それも、もう三日目になるというのに、未だに体は火照るし、頭がくらくらする。
呆れ返った様子のお母さんが、薬を置いて出ていくと、私は布団にもぐった。
もはや、言い返す気力も湧かない。ただふてくされた気持ちを紛らわすように、窓の外を見やった。
高い高い青空をじっと眺めている内に、瑠璃のことがふと頭をよぎる。
璃愛に会いたい、今すぐにでも。
けれど、それは今日いっぱい無茶なことだとすぐさま思い直す。
諦めてベットの上に寝転んでいる内に、私はいつしか眠っていた。
夕方頃。
目が覚めて、体温を測ってみると、だいぶ熱が下がっていた。
よかった、これなら明日は璃愛に会えそうだ。
ベットから起き上がり、一階のリビングに下りると、机にお母さんの置き手紙があった。
どうやら買い物に出かけたらしい。
私のことなんて、きっとどうでもいいんだろうな。
そんな投げやりな気持ちで、テレビのリモコンを手に取る。電源ボタンを押すと、流れてきたのはニュース番組だった。
ぼんやり画面を眺めていると、次の瞬間、まるで目を疑うような報道が飛びこんできた。
今日の午後四時半頃。小学生の児童が川で溺れているところを、通りかかった女子高校生が救助にあたる。児童は一命を取り留めたものの、川に飛びこんだ女子高校生が意識不明の重体。病院に搬送後、死亡が確認された。その女子高校生の名前は——夢咲璃愛。
「え?」
ニュースキャスターの話す言葉が、まるで理解できなかった。
なにを言って……。嘘だ、こんなの……。だってだって、あの璃愛がこんなに簡単に死んじゃうわけないっ!
『どうして現実から目を背けようとしてるのさ?』
「っ……」
『本当はわかってるはずでしょ?』
「やめて……」
思わず、私は耳を塞いだ。お願い、もうそれ以上――
『いい加減、認めなよ。夢咲璃愛は死んだ』
「ああああああああああーーっ!!」
とたん、猛烈な吐き気に襲われた私はとっさにトイレに駆けこんだ。
君がいなくなった。誰よりも優しくて、大好きだった君が。
なのに、世界は君が消えてしまったことなんて、心底、どうでもよさそうだった。
今日もまた息苦しい朝を迎えるたびに私は思う。
君がいなくちゃ、空なんてただ青いだけじゃんか、璃愛。
それから私の学校生活はまた孤立した。
唯一無二の親友をなくし、まるでじっと息を潜めるかのような日々だった。
放課後、私は逃げるように廊下を歩いていた。
「ねぇ、鈴木さん」
氷のつららのように鋭いその声に、思わずびくりと身震いする。
そこには待ち構えていたかのように、一ノ瀬さん達が立っていた。
「ちょっといいかしら」
一ノ瀬さんに手招きされるがまま、恐る恐る近付く。
本当は今すぐにでも、この場を抜け出したかった。けれど、臆病な私はその勇気すら持ち合わせていない。
すると、一ノ瀬さんは一枚の紙を取り出した。。
――退部届。大きな太字で書かれたそれが、真っ先に目に入る。
「あの……これってどういう?」
嫌な予感がして、背中がぞくりと粟立った。
「見てわからないかしら?」
一ノ瀬さんは威圧的な態度で迫ってきて、私の前に退部届を突きつけた。
「鈴木さん、悪いんだけど、今日で散歩やめてくれない?」
私の予感は的中していた。
「芽衣さんはこれから手芸部を作るつもりでいらっしゃるの」
うんともすんとも言わず、押し黙っていた私に取り巻きの一人が言う。
「手芸、部?」
「ええ、そうよ。薄気味悪いあの部室を、おしゃれにリメイクするの。とっても素敵な考えでしょ?」
不敵な笑みを浮かべる一ノ瀬さんに、私は頭から冷水をかぶったみたいにはっとした。
「それはできない……」
震えた声で、私は反発した。
「ふーん。あっそ」
萎縮する私を、一ノ瀬さんは興さめしたような目で見下ろす。
その次の瞬間だった。
一ノ瀬さんは私の右足を思いっきり踏みつけた。
「痛っ!」
突如として、足に走った激痛に私は思わず、その場にうずくまる。
苦痛にもだえる私を見て、二人の取り巻きはゲラゲラ笑っていた。
「うっ……」
全身が恐怖で硬直した。抵抗するどころか、言葉を声にすることすらままならない。
「これ以上、痛い目見たくなかったら、大人しく明日までに署名して持ってきなさい。これは忠告よ」
この上ないほど冷淡な声に射抜かれ、私は生きた心地がしなかった。
ごめん、璃愛……。
その夜、私は夢の中で幻聴にうなされていた。
『キャハハハ!』
蔑むような笑い声が、耳の奥でこだましてまとわりつく。
もう、いい……。
『なーに開き直ちゃってるのさ。でも、しょうがないか。お前は大切なもののひとつも守れない弱虫だもんね!』
好きなだけ、笑えばいいじゃんか。こんな私のことなんて……。
胸の中にある何かが、まるでガラスのような音を立ててひび割れていく。
後、もう少しで、私の心は完全に壊れてしまうところだった――君の声がなければ。
「まともに耳貸しちゃダメだよ、悠里」
「え?」
思わず、うつむけていた顔を上げた。
なにも見えていなかったはずの真っ暗闇に、淡いシルエットが浮かび上がる。
「璃、愛……?」
その名前を呼んだ。情けなさすぎるくらいの弱々しい声で。
「久しぶりだね、悠里」
やがて、はっきりと姿を現した彼女をこの目がとらえる。
「璃愛っ!」
次の瞬間、私は璃愛に抱きついた。
「うおっとと」
とっさのことだったにも関わらず、彼女は軽い身のこなしで私を抱き止めてくれる。
「悠里の方から来るなんて、珍しいねー。明日は空から飴玉が降ってきたりして!」
なにひとつ生きていた頃と変わらない温もりに、じわりと涙が噴き出す。
「バカっ……」
思いがけない再会に、迂闊にも私は泣いてしまった。それも涙腺が腫れてしまいそうになるほど。
「悠里……ごめんね」
彼女の身に起こったことが、全部、嘘だったならどれほどよかっただろう。
もうなにもかもが嫌だ。私にとって、君のいない世界は、なんの生きる意味もない。
戻りたい、戻りたいよっ。
君にいじられてばかりの幸せだった散歩部の放課後に。
璃愛と過ごした思い出の数々が、まるで映像のように脳内を駆け巡る。
どれも温かくて、優しくて、どうしようもないくらい恋しい。
もう無理だ……。
この夢から覚めてしまえば、あるのはまた息が詰まるような現実。
日に日に募っていく自己嫌悪に苛まれ、私は一人、生きていくしかないのだろうか。
—–—いや、もういいか。
「ねぇ、璃愛……私も、そっちに行く」
すがるような思いで、私はその意志を口にした。
「それは参ったなぁ」
璃愛の困ったような声。
「でも、やっぱりわたし、悠里にはまだ生きててほしい」
その時、私の肩に温かい雨粒がぽたりと一滴、落ちてきた。
見ると、璃愛の透明な瞳が少し潤んでいる。それは私が初めて見た璃愛の泣き顔だった。
「そんな無責任なこと言わないでよ……ずっと一緒って言ったじゃん!」
私は璃愛の両肩を強くつかんだ。
わかってる。わかってるよ。
璃愛はなにも悪くない。私の単なる八つ当たりだ。あの日、風邪で寝こんで、なにもできなかった自分がただ悔しいだけ。
ねぇ、どうして……。どうして璃愛みたいに優しくて、心の綺麗な人が死ななきゃいけないの? こんなの、あんまりだよ……。
「ありがとう、悠里」
「なに、言ってんの……」
意味がわからなかった。ありがとうって、こういうシチュエーションで使うものじゃないでしょ、璃愛。
「そうやって怒ってくれるくらい、わたしのこと大切に思ってくれて」
璃愛はそう言って、私の両手をそっと包み込むように握った。
また目頭が熱くなる。これじゃ私ばっかり、泣き虫みたいだな……。
「わたしね、悠里にありがとうって伝えなきゃいけないことがたっくさんあるんだ。でも、その全部を伝えてる時間はないから、一つだけ」
ぎゅっと彼女の手に力がこもったのがわかる。できることなら、ずっとこのままがいい。
私だって、君に言いたいこと、いっぱいあるよ。この胸が張り裂けてしまうくらい。
「悠里がいたから、わたしはわたしのすべてを否定しなくて済んだ。あの時、キミが好きだって言ってくれたから、わたしは自分をまるっきり嫌いにはならなかったよ」
「璃愛……」
「ねぇ、悠里。わたし、思うんだ。無理して自分を好きになる必要はないって。でも、代わりに誰か一人を好きになることさえできれば、いつかきっと自分のことも好きになれる時が来るって」
自分を好きになれる時……。彼女の言葉一つ一つが胸にじんと響く。次第に、なんだか心が軽くなった気がした。
「そっか」
ようやく涙が引っ込みつつある私に、璃愛はイエス! と、彼女らしいおどけた調子でうなずいた。やっぱり、璃愛はこっちの方がしっくりくる。
「散歩部のこと、よろしく頼んだよ」
「結局、全部、私に丸投げじゃん。まぁ、いいか」
ふっと一瞬、一ノ瀬さん達のことが頭をよぎったけれど、不思議ともう大丈夫なような気がした。なんの根拠もないのに、ほんとなんでだろう。
「じゃあ、わたし、そろそろ行くね」
「……わかった」
そして、璃愛はとうとう私に背を向けて歩き出す。今後、一生、私の手に届くことはないであろう暗闇の先に向かって。
彼女の一つ一つの動きが、やけにゆっくりに思えた。
「璃愛っ!」
知らず知らずの内に私は叫んでいた。ぴたりと足を止めた璃愛が、こっちを振り向いたその次の瞬間だった。
「わっ」
突然、視界一面が白い光でフラッシュした。思わず、目がくらんで、璃愛の姿すらもを見失ってしまう。
璃愛、どこにっ。
「ここだよ、悠里」
一時、不安になった私の耳元を、璃愛の声が風のようにかすめる。
やがて、まばゆい光に満ちあふれたていた目の前の景色が、青空に変わって、そこに君は満面の笑顔で現れた。見慣れた黒のブレザーが、ひらひらとマントみたいに舞っている。
不思議な気分だった。まるで、窓から空を飛ぶ君を見ているような。
「やっぱし、もう一個だけ。大好きだよ、悠里!」
それが君の最期の言葉だった。
璃愛、私も――
その時、再び視界が光で覆われて、璃愛の姿は見えなくなってしまった。
「悠里、そろそろ起きなさい」
「う、うぅん……」
目が覚めると、私はベットの上にいた。
見るからに、アラームすらセットしないで寝入ってしまった私を、お母さんが起こしに来たらしい。
「あっ、ごめん、お母さん。今すぐ用意するから」
「待って、悠里」
「な、なに?」
急いでベットを立ち上がった私を、お母さんが引き止める。
「最近、なんだか元気がないように見えるけど、なにかあった?」
「え?」
驚いた。まさか、お母さんの口からそんなことを聞かれるなんて、夢にも思っていなかったから。
「別に、なんにもないよ」
大嘘だったけれど、流石に璃愛のことは言えない。
「お、お母さんの方こそ、急にどうしたの?」
かえって私の方が心配なって尋ねる。
「ごめんなさい、悠里」
「へ?」
「ついあなたを傷付けるようなことばかり言ってしまって。でも、お母さんね、悠里のこと大切に思ってないわけじゃないの」
そう言って、お母さんは私の頭をそっとなでた。
「本当にごめんね。これからはちゃんと気をつけるから」
久しぶりだった。こんなに近くで、お母さんの温もりに触れたのは。
「大丈夫だよ、お母さん。それからありがとう」
胸の中が優しい気持ちで満たされていく。
ああ、そっか。璃愛以外にも、こんな私を愛してくれる人はいたんだ。ただ私が、ちゃんと周りを見れていなかっただけ。日々、のしかかってくる劣等感にふてくされて、自分はダメだと、独りよがりな思いこみをしてしまっていた。
ねぇ、璃愛。今なら私、君がとなりにいなくても、頑張れそうな気がする。一歩だけでも前に進んでみせるから。だから、ちゃんと見ててよね。
「一ノ瀬さん」
学校に着くと、私は偶然、廊下を歩いている一ノ瀬さん達の姿を見つけた。
「あら、鈴木さん」
冷たい足音が、私達を除き誰もいない廊下に反響する。
それから一ノ瀬さん達は、私の目の前にやってくると、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「潔くて助かるわ。さぁ、ちょうだい」
私はなるべく無表情を装いながら、昨日、一ノ瀬さんから渡された退部届を取り出す。
しかし、それが彼女達の手に渡ることはなかった。
ビリビリッ!
「なっ!」
その前に、私がそれを粉々に破ってしまったから。
「ちょっとあんた!」
案の定、目を吊り上げた一ノ瀬さんが、激しい剣幕で迫ってくる。
後ろの取り巻き二人は、あっけにとられたように呆然と突っ立っていた。まさか、私がこんな行動に出るなんて、想像だにしていなかったのだろう。
「ふはははっ!」
「なに笑ってんのよっ。あんた頭おかしくなったんじゃない?」
突然、お腹を抱えて笑い出した私に、一ノ瀬さんは苛立出しそうに、地団駄を踏んでいる。それを煽るかのように、私はわざと挑発的に笑ってみせた。
「いやぁ、だって」
私はあえて気だるそうな口調で言葉を継ぐ。
「退部届に名前書いて持ってこいとは言われましたけど、その後、破いちゃダメなんて、私、一言も聞いてないですよ」
「あんたねぇ……ふっざけんじゃないわよっ!」
今にも飛びかかってきそうな形相の一ノ瀬さんを、私は余裕たっぷりに片手で制して言う。
「あーあ、いいんですか? お嬢様が暴力なんて振ったら、気高き名誉に傷が付きますよ。まぁでも、凡人の私には関係ないか」
とうとう返す言葉が見つからないと言わんばかりに、一ノ瀬さんは口元を歪めていた。
まるで、なにも知らないチャイムの音が平然と鳴り響く。
「それじゃあ、私はこれで」
私の豹変っぷりに、まだなおあぜんとする取り巻き二人の脇を通り抜ける。
「あ、そうだ」
数歩行ったところで、私は思い立ってたった一度だけ踵を返した。
「私、もう二度と、あなた達には関わりません。これ以上、頭がおかしくなっても、お互いに困るだけですから」
私は最後に、冷たく言い捨てて、その場を後にした。
こんなにも冷酷に振る舞うことのできた自分に、驚くと同時に一種の恐怖心を覚える。
璃愛がいたら多分、悠里が誰かに乗っ取られたー、とか言われてただろうなぁ。
その日の放課後。
私は実に爽快な気分で、散歩部の部室を整理整頓していた。
璃愛がいなくなってからというもの、余計に虚しい気持ちになるだけだからと、ついほったらかしにしてしまっていたのだ。
「あれ、これって」
ほこりのかぶった棚を漁っていると、一冊のノートが出てきた。散歩部の活動記録だ。
ふっとなつかしい気持ちに包まれ、自然と笑みがこぼれてしまう。
ページをめくるたび、温かな日の光に包まれた璃愛との優しい日々が、今にも飛び出してきそうだった。
――ありがとう、悠里。散歩部を守ってくれて。
「えっ」
すると、その時だった。
「り、璃愛?」
心なしか、璃愛の声が私の耳元でそっとささやいたような気がした。
「そっか、私」
璃愛との約束、ちゃんと守れたんだ。
「ほんと、苦労したんだからね」
窓の方に向かって、私は一人、ぽつりとつぶやいた。
その後、展望台にやってきた私は、空をぼんやりと眺めている。
元はと言えば、この場所がすべての始まりだった。
雲一つない秋の空は天高く、まるで海のように青々と澄み渡っている。
なんだか清々しい気分になって、私はブレザーをマントみたいにして羽織った。
とたん、涼しい風が制服の間を吹き抜けていって、ちょっぴりくすぐったいような、それでいて心地良い感じがした。
なんとなく璃愛の気持ちがわかったような気がする。
やっぱり、君がとなりで騒いでくれないと、少し静かすぎちゃうよ、璃愛。
なんて、心残りが全くないかと言えば嘘になる。けれど、もうのどにつかえるような息苦しさはない。
それに君はきっと、この広い青空のどこかで、私のことを見守ってくれているはずだから。
君と夢の中で話して以来、空がまた綺麗だと思えるようになった。
いつか大嫌いな私自身のことを、好きになれる日が来るかどうかはわからない。
それでも私、頑張って生きてみるよ。
君がありったけの愛を私にくれたように、私もまた誰かを心の底から愛せるようになりたいから。
ああ、でも、ふてくされないでよね、璃愛。
この空に誓って、君はこれからもずっと私の記念すべき一人目の親友だから。
「ねぇ、璃愛」
あの時は言い逃しちゃったけど。
「私も、大好きだよ」
君を失って以来、私の人生は悲しみの色に沈んでいた。
ふと見上げた空が青い。そういえば彼女が亡くなった日も、こんな晴天だった。
大した才能がなければ、努力もできないくせして、他人を羨んでばかりの自分が大嫌い。
そんな冴えない私、鈴木悠里(すずきゆうり)は落ちこぼれの高校二年生だ。
終業時間を告げるチャイムが鳴る。特に部活もやっていない私は、そそくさと学校を出た。
私にはお気に入りの場所があった。
川沿いに流れる橋を渡った先にある、裏山の展望台だ。
放課後、人気のないこの場所で、私は空を独り占めするのが好きだ。
熱中できるような趣味もなければ、一緒に青春を謳歌するような友達も、私にはいないから。
家に帰ったところで、出来損ないの私は、一つ年下の優秀な妹と比較されるのが目に見えている。
ここならなにもしなくていいし、誰にも何も言われない。そんな穏やかなひとときを、一人、満喫していた時だった。
「クラスメイト発見っ!!」
突然、背後から声が聞こえた。
この声って、まさか――
私の嫌な予感は的中していた。振り返ると、そこには見知った少女が立っていた。
肩までの栗色の巻き髪に、マントのように羽織った特徴的な黒のブレザー。
彼女の名前は夢咲璃愛(ゆめさきりあ)。まるで、二次元の世界に出てきそうなその名前にふさわしいと言うべきか、実際、彼女は日々の言動がだいぶ飛び抜けている。
とにかく自由奔放で、校内でも知らない人はいないほどの問題児っぷりだ。それでいて、成績は学年トップ。スポーツ万能というから度肝を抜かれる。おまけに結構、美少女だし。
まずい。よりにもよって絡まれると面倒な人に出会してしまった。
そうこうしている内にも、彼女は意気揚々とこちらに近付いてくる。
「キミは確か――えーと、誰だっけ?」
「鈴木悠里」
会話するつもりなんてさらさらなかったのに、聞かれるとつい反射的に返してしまう。
というか、私、クラスメイトにすら名前覚えられてないくらい、影薄いんだな。
自覚はあるけれど、やっぱりちょっと胸に刺さる。
「わたし、夢咲璃愛! ねぇ、悠里って呼んでもいいっ!?」
「お好きにどうぞ」
馴れ馴れしくしゃべってくる彼女に、コミュ症の私は戸惑う。
「ところで、悠里はここで何してたの? ていうか、めーちゃ景色いいねー!」
「特に何も。ぼうっとしてただけ」
「なんか不機嫌そうであるなぁー」
流石に我慢の限界だ。
そっちが執拗に迫ってくるから、適当に返しているだけだというのに。
何かしら言い返そうと思って、彼女の方を向き直る。
すると、そこにはキラキラと輝く彼女の綺麗な瞳があった。つい見惚れてしまう。まるで、水晶玉みたいだと思った。
「ゆ、夢咲さんこそ、なんで来たの? こんななんにもない場所」
思わず、たじろいだ私を彼女は特に気にするふうでもなく、よくぞ聞いてくれたとばかりに、胸を張った。
「それはだねー! 散歩部の活動をしていたところに、ぐーぜん、ここを見つけたのだよ!」
「さ、散歩部?」
私は目をしばたたかせた。
「そうだ! キミも散歩部に入らないかっ!?」
「えっ……」
あまりにも急な誘いに、私はわかりやすく困惑した。ていうか、散歩部ってなに?
「放課後に、ちょこーっとその辺、寄り道するだけのお手軽な部活だからさー」
いや、それはもはや部活と言えるのか。
「せっかくの青春を、帰宅部で終わってしまうのはもったいないであろう!」
名前覚えてないのに、なんでこの人、私が帰宅部なのは知ってるの……。
と、彼女はどこから出したのかわからない入部届をバシッと私に突きつけてくる。
「結構ですっ!」
私は慌てて突き返した。
「えぇっ、そんなこと言わないでくれたまえー! ただでさえ、去年、三年生が抜けて部員がわたし一人しかいないんだよー!」
「お断りします!」
頑なに拒否する私に、とうとう彼女は観念した様子だった。
「どうしても入ってくれないって言うなら、しょうがないかぁ」
彼女は一度、大きな落胆っぷりを見せたから立ち上がる。
「気が変わったら、いつでもおいで。心して待っているのだー!」
そう能天気に言い残して、彼女は颯爽と去っていく。
その拍子にひるがえった黒のブレザーが、鮮やかな空の青によく映えていた。
数週間後。あれ以来、彼女とは大した会話すら交わしていない。てっきり謎多き散歩部に、また勧誘してくるのではないかと思って身構えていたのに。なんだか拍子抜けした気分だった。
今日は体育の授業で、体力測定がある日だった。案の定、私はどれも平均以下の結果に終わったけれど。
「はい、それじゃあ、皆さん、残りの時間は自由にしてください。そこにあるボールとか、ラケットも使っていいからね」
とたん、あちこちで歓声が湧き起こる。あっという間に、仲のいい子同士で寄ってたかって、いくつものグループができた。
――そこに私が入れる輪なんて一つもないけれど。
無理なんだ、昔から。誰かと楽しく遊んだり、みんなみたいに話したりすることができない。私にはきっと、生きる才能がないんだ。
『お前に居場所なんてないんだよ、悠里』
うるさい……。
『出来損ないのお前には、一生、一人がお似合いだね』
ダメだ……。
なんだか最近、ありもしない幻聴がよく聞こえる。それらはすべて、いつも私のことを蔑んでくる。
上手く息が吸えない。ばくばくと、心臓が暴れ狂っている。
「どこか、落ち着ける場所……」
とうとう耐えきれなくなった私は、無断で体育館を抜け出した。
木漏れ日の差す中庭のベンチに、私はがっくりと腰を下ろす。
学校の敷地内でも、あまり人目につかないこの場所は、あの展望台と少し景色が似ている。だから普段、私は昼休みの大半を、ここでやり過ごすことが多い。
やっと手に入れた一人きりの時間に、ほっと息をついたのもほんの束の間。
「悠里、大丈夫?」
「ゆ、夢咲さんっ!?」
思わず、口をついて出そうになった拒絶をすんでのところで飲みこむ。
ブレザー代わりに、体育着の長袖ジャージを羽織った彼女は、私が今、最も会いたくない人物だと言っても過言ではない。
「な、なんでここに……」
「急に出ていっちゃうから、どうしたのかなって思って」
「あー、ごめん。なんでもないよ」
「いやいやー、それ絶対なんでもなくないっしょー」
平然を装って返したつもりが、あっさりと見抜かれてしまう。
ひょっとして、心配してくれてる?
となりに座った彼女を横目に、そんなことを思った。
上手い誤魔化しも思いつかず、沈黙が降りる。気まずい……。
「わたしもね、友達いないんだ」
やがて、先に言葉を発したのは夢咲さんだった。
「どうして、この世界には、好かれる人とそうじゃない人がいるんだろうね」
まるで、世間を皮肉るみたいな口ぶりだった。
けれど、すぐにまたいつもの彼女の声のトーンに戻る。
「まぁ、わたしはこんな性格してるから、無理もないんだけどね」
「だったら、やめればいいじゃん、そんなキャラ」
つい口走ってしまった自分の言葉にはっとし、夢咲さんを見る。するとそこには、らしくない彼女のどこか切なげな横顔があった。
「今のは、その」
「いいよ、大丈夫。気にしないで」
「ごめん……」
口ごもった私に、夢咲さんはそっと優しく笑いかける。
「夢咲さんはさ。一人でいることが怖くないの? 苦しくないの?」
思わず、投げかけた私の問いに、夢咲さんは一切のためらいもなく答えた。
「わたしは、本当のわたしを受け入れてくれる人と一緒にいたい。ただそれだけだよ」
またも口をつぐんだ私に、今度は夢咲さんが聞いてきた。
「じゃあ逆に質問。本当の自分を隠さなきゃ一緒にいれない人を、悠里は友達って呼べると思う?」
「それは……」
ずっとずっと孤独に生きてきた私にとって、それはものすごく難しい問いのように思えた。
「わたしね、思うんだ。たとえ、誰に悪く言われても、わたしはわたしだって」
そう堂々と言ってのけた彼女の瞳は、強い決意で満ちている。
「だから、悠里は悠里のままでいいんだよ。無理して周りに合わせたところで、それはもうきっと、本当のキミじゃなくなっちゃう」
彼女の言葉一つ一つに私はなんだか、やけに感傷的になってしまった。
「さて、そろそろ授業終わるし、先生にバレると厄介だから戻ろうか」
そう言われなければ、私は後少しで、泣くところだった。
「ありがとう、夢咲さん」
気付いたら、自分でも驚くほど素直に、そんな言葉が口をついて出た。
ほんの一瞬、夢咲さんの澄んだ瞳が大きく見開かれる。
けれど、すぐに彼女は、この晴れ空によく似合う満面の笑みを浮かべた。
「夢咲さんじゃなくて、璃愛って呼んで!」
翌日、私はある決意を胸に、ろくに来たこともない部室棟を歩いていた。
三階の廊下を進んで、一番端に位置する目立たない部屋。それがかの散歩部の部室らしい。
ドアの前までやってきたものの、いざとその時が来ると、ついたじろいでしまう。
私はこっそり扉のガラス越しに、中を覗いてみた。すると、そこには机に突っ伏したまま居眠りしている璃愛の姿があった。
思いきって、ドアを開けてみる。しかし、璃愛はちっとも起きる気配がない。すやすやと穏やかな寝息を立てている眠っている。
もう少し近くまで寄ってみる。すると、机の上に置かれている一冊のノートが目についた。表紙のところを見ると、散歩部活動記録と書かれている。
正直、驚いた。璃愛って、こういうのちゃんとつけるんだ。
私は少しばかりまた、彼女に対する印象を改めた。
それから色々と考えあぐねた結果、私は入部届だけを机にそっと置いた。
「またね」
寝ている璃愛に小声で言って、部屋を出ようと踵を返したその時だった。
突然、後ろから右腕を掴まれた。振り向くと、そこには白い手があって――
「わぁぁぁぁぁぁっ!!」
次の瞬間、散歩部の部室には私の絶叫が響き渡った。
「わはははははは!」
おかしそうに笑い転げる声が聞こえて、私ははっとする。
案の定、璃愛がお腹をおさえながら大爆笑していた。
「びっくりしすぎだよ、悠里。ホラー映画じゃあるまいし」
「そ、そんなに笑わなくてもいいでしょ……」
赤面する私とは対照的に、璃愛は実に愉快そうだった。
ていうか、起きてたんだ……。
その後の会話は、非常に不毛かつ不服しかないので割愛することにする。
結論から言うと、散歩部の活動初日から、私は散々、璃愛におちょくられた。
なんだかんだで散歩部に入部してから一ヶ月。
最初こそ、活動内容がいい加減すぎると思っていたものの、案外、悪くないものだと最近は感じ始めている。
これといった決まりがあるわけでもなし、ましてや部員も璃愛と私のたった二人だけ。
そういった点も含めて、自由気ままにできる散歩部は、ひょっとしたら私に合っているのかもしれない。
璃愛のことも、一緒にいる時間が増えるに連れて、だんだんとわかってきた気がする。
それでも、突飛しすぎた彼女の言動には、まだまだついていけないことはたくさんあるけれど。
「悠里ー、今日も一緒に任務に向かおうではないか!」
「任務って、ただの部活でしょ」
この頃にはもう、私と璃愛は日常的に行動を共にするようになっていた。
「わっ!」
廊下を歩いていた時だった。突然、誰かにぶつかられた。
「悠里っ!」
前につんのめりかけた私を、璃愛が間一髪で支えてくれる。
「ちょっと、そこのキミ達!」
ありがとうと私が返すよりも先に、璃愛は叫んだ。彼女の視線の先には、女子生徒三人組がいた。
「なによ」
うちのクラスで、いつもよく目立っている三人だ。
特に真ん中にいる少女、一ノ瀬芽衣(いちのせめい)は、大手企業の社長の令嬢で、校内でも一目置かれている。黒髪にストレートに、目鼻立ちが整っていて、すらりとした容姿は、いかにもお嬢様っぽい。
成績は璃愛に次いで学年二位ということもあってか、彼女はよく璃愛に突っかかってくる。当の璃愛本人は、大して気にとめている様子もなく、軽く受け流していることが多いけれど。いわゆる犬猿の仲というやつなんだろう。
「人にぶつかっておいて、なにも言わないで通りすぎるつもり?」
あからさまに璃愛の声は怒っていた。普段の彼女からは想像もつかない。
「ふん、この私が謝る義理なんてないわ」
対して一ノ瀬さんは、傲慢な態度でにらみ返してくる。
「そうよそうよ」
「芽衣さんが通る道はあけておくのが常識なんだからね」
それに乗っかって二人の取り巻き達も反論してきた。
「第一、あんた影薄すぎよ。普段から存在感ないし、気付かなくてもしょうがないでしょ」
一ノ瀬さんの冷ややかな目は、私に向けられていた。一瞬、背筋が凍りついたのかと思うほど、鋭い視線だった。
「いい加減にっ――」
「だ、大丈夫だよ、璃愛!」
怒りをむき出しにする璃愛を、私は慌てて制した。
「私のことはそんなに気にしなくていいから。もう行こう!」
「ちょっと悠里っ!」
有無を言わせる間もなく、私は強引に璃愛の手を引いた。
そそくさと廊下を立ち去り、玄関までやってくると、璃愛は不服そうに言った。
「なにも言い返さなくてよかったの? 悠里」
「いいよ。だって、事実だし」
平然を装いつつ、先に玄関を出ると、璃愛が後りから小走り気味に追いかけてくる。
けれど、すぐに彼女の足音はぴたりと止まった。
「ごめんね、悠里……わたしが一緒にいるせいだよね、きっと」
ぽつりとつぶやいた璃愛の声が、背中越しに耳をかすめる。
「そんなことない!」
即座に私は璃愛の方も向き直って否定した。
「璃愛のせいなんかじゃないよっ」
ありとあらゆる感情が、胸の中をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
一ノ瀬さんの言われたことは、あながち間違いではないとわかっている。それでもなお傷付いてしまう弱くて惨めったらしい自分もいる。
きっと少し前までの私だったら、当分の間、一ノ瀬さんの言葉をずるずると引きずっていたことだろう。でも、今は違う。
目の前にいる彼女は――親友は、きっとそんな私のことも、全部、全部ひっくるめて受け入れてくれるはずだから。
「私は璃愛が好きだから一緒にいるの! っていうか、そっちから誘ってきておいて、今さら離れたりなんかしてやらないから!」
彼女と出会って、少しはマシになったのかもしれない下手くそな笑顔で、私は言ってやった。
まるで時が止まったみたいに、璃愛はしきりに見開いたその瞳で、私をじっと見つめていた。
通り抜けた風が、彼女のブレザーをなびかせ、沈黙は途切れる。。
「ありがとう、悠里!」
再び璃愛の表情が、ぱっと明るい輝きを取り戻す。
「そう言ったからには、わたし達、ずっとずっと一緒だからね!」
まぶしい笑顔が弾けた空は、清々しいほどに青かった。
君は唯一の親友にして、私の希望だった。
君といる時間だけは、大嫌いな自分のことを忘れられた。
君が照らしてくれたんだ。誰もいない真っ暗闇に、ただ一人、閉じこもっていた私を。
だから、思いもしなかったんだ。まさか、こんなにもあっけなく、終わってしまうなんてこと。
気付けば、夏の蒸し暑さはどこか遠くへと姿を消し、代わりに裏山には紅葉が散るようになった。
なんだか、璃愛と過ごすようになってから、時間があっという間に感じるな。
そんなことを思っていた矢先だった。
「まーず情けないお姉ちゃんね。悠里は風邪引くといつも長引くんだから」
一昨日からずっと、上がったり下がったりを繰り返す体温計を見ながら、お母さんが大きなため息をつく。
私は風邪で寝込んでいた。それも、もう三日目になるというのに、未だに体は火照るし、頭がくらくらする。
呆れ返った様子のお母さんが、薬を置いて出ていくと、私は布団にもぐった。
もはや、言い返す気力も湧かない。ただふてくされた気持ちを紛らわすように、窓の外を見やった。
高い高い青空をじっと眺めている内に、瑠璃のことがふと頭をよぎる。
璃愛に会いたい、今すぐにでも。
けれど、それは今日いっぱい無茶なことだとすぐさま思い直す。
諦めてベットの上に寝転んでいる内に、私はいつしか眠っていた。
夕方頃。
目が覚めて、体温を測ってみると、だいぶ熱が下がっていた。
よかった、これなら明日は璃愛に会えそうだ。
ベットから起き上がり、一階のリビングに下りると、机にお母さんの置き手紙があった。
どうやら買い物に出かけたらしい。
私のことなんて、きっとどうでもいいんだろうな。
そんな投げやりな気持ちで、テレビのリモコンを手に取る。電源ボタンを押すと、流れてきたのはニュース番組だった。
ぼんやり画面を眺めていると、次の瞬間、まるで目を疑うような報道が飛びこんできた。
今日の午後四時半頃。小学生の児童が川で溺れているところを、通りかかった女子高校生が救助にあたる。児童は一命を取り留めたものの、川に飛びこんだ女子高校生が意識不明の重体。病院に搬送後、死亡が確認された。その女子高校生の名前は——夢咲璃愛。
「え?」
ニュースキャスターの話す言葉が、まるで理解できなかった。
なにを言って……。嘘だ、こんなの……。だってだって、あの璃愛がこんなに簡単に死んじゃうわけないっ!
『どうして現実から目を背けようとしてるのさ?』
「っ……」
『本当はわかってるはずでしょ?』
「やめて……」
思わず、私は耳を塞いだ。お願い、もうそれ以上――
『いい加減、認めなよ。夢咲璃愛は死んだ』
「ああああああああああーーっ!!」
とたん、猛烈な吐き気に襲われた私はとっさにトイレに駆けこんだ。
君がいなくなった。誰よりも優しくて、大好きだった君が。
なのに、世界は君が消えてしまったことなんて、心底、どうでもよさそうだった。
今日もまた息苦しい朝を迎えるたびに私は思う。
君がいなくちゃ、空なんてただ青いだけじゃんか、璃愛。
それから私の学校生活はまた孤立した。
唯一無二の親友をなくし、まるでじっと息を潜めるかのような日々だった。
放課後、私は逃げるように廊下を歩いていた。
「ねぇ、鈴木さん」
氷のつららのように鋭いその声に、思わずびくりと身震いする。
そこには待ち構えていたかのように、一ノ瀬さん達が立っていた。
「ちょっといいかしら」
一ノ瀬さんに手招きされるがまま、恐る恐る近付く。
本当は今すぐにでも、この場を抜け出したかった。けれど、臆病な私はその勇気すら持ち合わせていない。
すると、一ノ瀬さんは一枚の紙を取り出した。。
――退部届。大きな太字で書かれたそれが、真っ先に目に入る。
「あの……これってどういう?」
嫌な予感がして、背中がぞくりと粟立った。
「見てわからないかしら?」
一ノ瀬さんは威圧的な態度で迫ってきて、私の前に退部届を突きつけた。
「鈴木さん、悪いんだけど、今日で散歩やめてくれない?」
私の予感は的中していた。
「芽衣さんはこれから手芸部を作るつもりでいらっしゃるの」
うんともすんとも言わず、押し黙っていた私に取り巻きの一人が言う。
「手芸、部?」
「ええ、そうよ。薄気味悪いあの部室を、おしゃれにリメイクするの。とっても素敵な考えでしょ?」
不敵な笑みを浮かべる一ノ瀬さんに、私は頭から冷水をかぶったみたいにはっとした。
「それはできない……」
震えた声で、私は反発した。
「ふーん。あっそ」
萎縮する私を、一ノ瀬さんは興さめしたような目で見下ろす。
その次の瞬間だった。
一ノ瀬さんは私の右足を思いっきり踏みつけた。
「痛っ!」
突如として、足に走った激痛に私は思わず、その場にうずくまる。
苦痛にもだえる私を見て、二人の取り巻きはゲラゲラ笑っていた。
「うっ……」
全身が恐怖で硬直した。抵抗するどころか、言葉を声にすることすらままならない。
「これ以上、痛い目見たくなかったら、大人しく明日までに署名して持ってきなさい。これは忠告よ」
この上ないほど冷淡な声に射抜かれ、私は生きた心地がしなかった。
ごめん、璃愛……。
その夜、私は夢の中で幻聴にうなされていた。
『キャハハハ!』
蔑むような笑い声が、耳の奥でこだましてまとわりつく。
もう、いい……。
『なーに開き直ちゃってるのさ。でも、しょうがないか。お前は大切なもののひとつも守れない弱虫だもんね!』
好きなだけ、笑えばいいじゃんか。こんな私のことなんて……。
胸の中にある何かが、まるでガラスのような音を立ててひび割れていく。
後、もう少しで、私の心は完全に壊れてしまうところだった――君の声がなければ。
「まともに耳貸しちゃダメだよ、悠里」
「え?」
思わず、うつむけていた顔を上げた。
なにも見えていなかったはずの真っ暗闇に、淡いシルエットが浮かび上がる。
「璃、愛……?」
その名前を呼んだ。情けなさすぎるくらいの弱々しい声で。
「久しぶりだね、悠里」
やがて、はっきりと姿を現した彼女をこの目がとらえる。
「璃愛っ!」
次の瞬間、私は璃愛に抱きついた。
「うおっとと」
とっさのことだったにも関わらず、彼女は軽い身のこなしで私を抱き止めてくれる。
「悠里の方から来るなんて、珍しいねー。明日は空から飴玉が降ってきたりして!」
なにひとつ生きていた頃と変わらない温もりに、じわりと涙が噴き出す。
「バカっ……」
思いがけない再会に、迂闊にも私は泣いてしまった。それも涙腺が腫れてしまいそうになるほど。
「悠里……ごめんね」
彼女の身に起こったことが、全部、嘘だったならどれほどよかっただろう。
もうなにもかもが嫌だ。私にとって、君のいない世界は、なんの生きる意味もない。
戻りたい、戻りたいよっ。
君にいじられてばかりの幸せだった散歩部の放課後に。
璃愛と過ごした思い出の数々が、まるで映像のように脳内を駆け巡る。
どれも温かくて、優しくて、どうしようもないくらい恋しい。
もう無理だ……。
この夢から覚めてしまえば、あるのはまた息が詰まるような現実。
日に日に募っていく自己嫌悪に苛まれ、私は一人、生きていくしかないのだろうか。
—–—いや、もういいか。
「ねぇ、璃愛……私も、そっちに行く」
すがるような思いで、私はその意志を口にした。
「それは参ったなぁ」
璃愛の困ったような声。
「でも、やっぱりわたし、悠里にはまだ生きててほしい」
その時、私の肩に温かい雨粒がぽたりと一滴、落ちてきた。
見ると、璃愛の透明な瞳が少し潤んでいる。それは私が初めて見た璃愛の泣き顔だった。
「そんな無責任なこと言わないでよ……ずっと一緒って言ったじゃん!」
私は璃愛の両肩を強くつかんだ。
わかってる。わかってるよ。
璃愛はなにも悪くない。私の単なる八つ当たりだ。あの日、風邪で寝こんで、なにもできなかった自分がただ悔しいだけ。
ねぇ、どうして……。どうして璃愛みたいに優しくて、心の綺麗な人が死ななきゃいけないの? こんなの、あんまりだよ……。
「ありがとう、悠里」
「なに、言ってんの……」
意味がわからなかった。ありがとうって、こういうシチュエーションで使うものじゃないでしょ、璃愛。
「そうやって怒ってくれるくらい、わたしのこと大切に思ってくれて」
璃愛はそう言って、私の両手をそっと包み込むように握った。
また目頭が熱くなる。これじゃ私ばっかり、泣き虫みたいだな……。
「わたしね、悠里にありがとうって伝えなきゃいけないことがたっくさんあるんだ。でも、その全部を伝えてる時間はないから、一つだけ」
ぎゅっと彼女の手に力がこもったのがわかる。できることなら、ずっとこのままがいい。
私だって、君に言いたいこと、いっぱいあるよ。この胸が張り裂けてしまうくらい。
「悠里がいたから、わたしはわたしのすべてを否定しなくて済んだ。あの時、キミが好きだって言ってくれたから、わたしは自分をまるっきり嫌いにはならなかったよ」
「璃愛……」
「ねぇ、悠里。わたし、思うんだ。無理して自分を好きになる必要はないって。でも、代わりに誰か一人を好きになることさえできれば、いつかきっと自分のことも好きになれる時が来るって」
自分を好きになれる時……。彼女の言葉一つ一つが胸にじんと響く。次第に、なんだか心が軽くなった気がした。
「そっか」
ようやく涙が引っ込みつつある私に、璃愛はイエス! と、彼女らしいおどけた調子でうなずいた。やっぱり、璃愛はこっちの方がしっくりくる。
「散歩部のこと、よろしく頼んだよ」
「結局、全部、私に丸投げじゃん。まぁ、いいか」
ふっと一瞬、一ノ瀬さん達のことが頭をよぎったけれど、不思議ともう大丈夫なような気がした。なんの根拠もないのに、ほんとなんでだろう。
「じゃあ、わたし、そろそろ行くね」
「……わかった」
そして、璃愛はとうとう私に背を向けて歩き出す。今後、一生、私の手に届くことはないであろう暗闇の先に向かって。
彼女の一つ一つの動きが、やけにゆっくりに思えた。
「璃愛っ!」
知らず知らずの内に私は叫んでいた。ぴたりと足を止めた璃愛が、こっちを振り向いたその次の瞬間だった。
「わっ」
突然、視界一面が白い光でフラッシュした。思わず、目がくらんで、璃愛の姿すらもを見失ってしまう。
璃愛、どこにっ。
「ここだよ、悠里」
一時、不安になった私の耳元を、璃愛の声が風のようにかすめる。
やがて、まばゆい光に満ちあふれたていた目の前の景色が、青空に変わって、そこに君は満面の笑顔で現れた。見慣れた黒のブレザーが、ひらひらとマントみたいに舞っている。
不思議な気分だった。まるで、窓から空を飛ぶ君を見ているような。
「やっぱし、もう一個だけ。大好きだよ、悠里!」
それが君の最期の言葉だった。
璃愛、私も――
その時、再び視界が光で覆われて、璃愛の姿は見えなくなってしまった。
「悠里、そろそろ起きなさい」
「う、うぅん……」
目が覚めると、私はベットの上にいた。
見るからに、アラームすらセットしないで寝入ってしまった私を、お母さんが起こしに来たらしい。
「あっ、ごめん、お母さん。今すぐ用意するから」
「待って、悠里」
「な、なに?」
急いでベットを立ち上がった私を、お母さんが引き止める。
「最近、なんだか元気がないように見えるけど、なにかあった?」
「え?」
驚いた。まさか、お母さんの口からそんなことを聞かれるなんて、夢にも思っていなかったから。
「別に、なんにもないよ」
大嘘だったけれど、流石に璃愛のことは言えない。
「お、お母さんの方こそ、急にどうしたの?」
かえって私の方が心配なって尋ねる。
「ごめんなさい、悠里」
「へ?」
「ついあなたを傷付けるようなことばかり言ってしまって。でも、お母さんね、悠里のこと大切に思ってないわけじゃないの」
そう言って、お母さんは私の頭をそっとなでた。
「本当にごめんね。これからはちゃんと気をつけるから」
久しぶりだった。こんなに近くで、お母さんの温もりに触れたのは。
「大丈夫だよ、お母さん。それからありがとう」
胸の中が優しい気持ちで満たされていく。
ああ、そっか。璃愛以外にも、こんな私を愛してくれる人はいたんだ。ただ私が、ちゃんと周りを見れていなかっただけ。日々、のしかかってくる劣等感にふてくされて、自分はダメだと、独りよがりな思いこみをしてしまっていた。
ねぇ、璃愛。今なら私、君がとなりにいなくても、頑張れそうな気がする。一歩だけでも前に進んでみせるから。だから、ちゃんと見ててよね。
「一ノ瀬さん」
学校に着くと、私は偶然、廊下を歩いている一ノ瀬さん達の姿を見つけた。
「あら、鈴木さん」
冷たい足音が、私達を除き誰もいない廊下に反響する。
それから一ノ瀬さん達は、私の目の前にやってくると、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「潔くて助かるわ。さぁ、ちょうだい」
私はなるべく無表情を装いながら、昨日、一ノ瀬さんから渡された退部届を取り出す。
しかし、それが彼女達の手に渡ることはなかった。
ビリビリッ!
「なっ!」
その前に、私がそれを粉々に破ってしまったから。
「ちょっとあんた!」
案の定、目を吊り上げた一ノ瀬さんが、激しい剣幕で迫ってくる。
後ろの取り巻き二人は、あっけにとられたように呆然と突っ立っていた。まさか、私がこんな行動に出るなんて、想像だにしていなかったのだろう。
「ふはははっ!」
「なに笑ってんのよっ。あんた頭おかしくなったんじゃない?」
突然、お腹を抱えて笑い出した私に、一ノ瀬さんは苛立出しそうに、地団駄を踏んでいる。それを煽るかのように、私はわざと挑発的に笑ってみせた。
「いやぁ、だって」
私はあえて気だるそうな口調で言葉を継ぐ。
「退部届に名前書いて持ってこいとは言われましたけど、その後、破いちゃダメなんて、私、一言も聞いてないですよ」
「あんたねぇ……ふっざけんじゃないわよっ!」
今にも飛びかかってきそうな形相の一ノ瀬さんを、私は余裕たっぷりに片手で制して言う。
「あーあ、いいんですか? お嬢様が暴力なんて振ったら、気高き名誉に傷が付きますよ。まぁでも、凡人の私には関係ないか」
とうとう返す言葉が見つからないと言わんばかりに、一ノ瀬さんは口元を歪めていた。
まるで、なにも知らないチャイムの音が平然と鳴り響く。
「それじゃあ、私はこれで」
私の豹変っぷりに、まだなおあぜんとする取り巻き二人の脇を通り抜ける。
「あ、そうだ」
数歩行ったところで、私は思い立ってたった一度だけ踵を返した。
「私、もう二度と、あなた達には関わりません。これ以上、頭がおかしくなっても、お互いに困るだけですから」
私は最後に、冷たく言い捨てて、その場を後にした。
こんなにも冷酷に振る舞うことのできた自分に、驚くと同時に一種の恐怖心を覚える。
璃愛がいたら多分、悠里が誰かに乗っ取られたー、とか言われてただろうなぁ。
その日の放課後。
私は実に爽快な気分で、散歩部の部室を整理整頓していた。
璃愛がいなくなってからというもの、余計に虚しい気持ちになるだけだからと、ついほったらかしにしてしまっていたのだ。
「あれ、これって」
ほこりのかぶった棚を漁っていると、一冊のノートが出てきた。散歩部の活動記録だ。
ふっとなつかしい気持ちに包まれ、自然と笑みがこぼれてしまう。
ページをめくるたび、温かな日の光に包まれた璃愛との優しい日々が、今にも飛び出してきそうだった。
――ありがとう、悠里。散歩部を守ってくれて。
「えっ」
すると、その時だった。
「り、璃愛?」
心なしか、璃愛の声が私の耳元でそっとささやいたような気がした。
「そっか、私」
璃愛との約束、ちゃんと守れたんだ。
「ほんと、苦労したんだからね」
窓の方に向かって、私は一人、ぽつりとつぶやいた。
その後、展望台にやってきた私は、空をぼんやりと眺めている。
元はと言えば、この場所がすべての始まりだった。
雲一つない秋の空は天高く、まるで海のように青々と澄み渡っている。
なんだか清々しい気分になって、私はブレザーをマントみたいにして羽織った。
とたん、涼しい風が制服の間を吹き抜けていって、ちょっぴりくすぐったいような、それでいて心地良い感じがした。
なんとなく璃愛の気持ちがわかったような気がする。
やっぱり、君がとなりで騒いでくれないと、少し静かすぎちゃうよ、璃愛。
なんて、心残りが全くないかと言えば嘘になる。けれど、もうのどにつかえるような息苦しさはない。
それに君はきっと、この広い青空のどこかで、私のことを見守ってくれているはずだから。
君と夢の中で話して以来、空がまた綺麗だと思えるようになった。
いつか大嫌いな私自身のことを、好きになれる日が来るかどうかはわからない。
それでも私、頑張って生きてみるよ。
君がありったけの愛を私にくれたように、私もまた誰かを心の底から愛せるようになりたいから。
ああ、でも、ふてくされないでよね、璃愛。
この空に誓って、君はこれからもずっと私の記念すべき一人目の親友だから。
「ねぇ、璃愛」
あの時は言い逃しちゃったけど。
「私も、大好きだよ」