しにたいしにたいしにたい

本当に最悪だ。しにたい。
私は一時そう言うモードに入るとずーっと私の中でしにたいが早口で連呼される。濁流のように「しにたい」が大量に流れてくる。
私はその波に押されるようにして早歩きで帰っていた。

…何も特別なことがあったわけじゃない。ただ、教室でほんの少し、やらかしてしまっただけ。黒板の桟についているチョークの箱を落として、新品のチョークを全部割ってしまった。
それ自体より、周りの反応が辛かった。別にそんな辛辣なわけじゃないけども、一日中それについて煽られた。男子はこれだから嫌だ。ウザい、けど、周りの女子が、友達がそれで笑ってるからキレるわけにもいかない。私の気持ちは置いてきぼりだった。ふっと孤独な、私はわかってもらえない、疎外感。うまく言えないけど、周りと私の今回の事件に対する価値観が違ったと言うことだ。

多分今の私の「しにたい」成分は、最悪、恥ずかしい、怖い、申し訳ない、なんであんなこと、辛い、どうしよう、ウザい、周りに合わせるのめんどくさい、で出来てる。最悪が多分一番割合としては多い。
でもどれも単体の言葉では私にはしっくりこない。全部ぐっちゃぐちゃにミキサーで混ぜて発酵させてみたいな、「しにたい」が一番私にはピッタリなんだ。
日本語で言う『しにたい』の意味じゃない。ただ単独として私の中で生きている言葉。
私の中で、毎日毎日形を変えて、成分を変えて、生き延びている言葉。
その日の私をそのまま雪に模ったみたいな、そんな言葉。

泣きたい気分だった。
私はどう言う状態なんだろう今。
普通じゃないんだろう。おかしいんだろうきっと。
でも別に病んではいない。そう自覚できるだけ頭が回ってるだけ、病んでない証拠。
じゃあなんなんだろう。
明らかにおかしいんだ。この程度のことでこんなことになるなんて。
きっと他の人からしたらうわー気まず、とかで終わる程度のこと。
つまりメンタルが弱いんだろうか。そう言うことなんだろうか。
違う別に、落ち込んでるわけじゃない。
ただただ、私の中でしにたいが飽和してるだけなんだ。
抑え込めないくらいむくむく膨らんで、爆発してしまいそうで。
衝動に揺さぶられておかしくなってくる。

これだから、人と関わるのは嫌なんだ。
めんどくさい。考えたくない。水面下で行われる姑息な駆け引き達に吐き気がする。
人の嫌なところがやたらと目につく。目につくともうそこしか見れない。
それでいて私も同じようなところがあるとそのうち気がつく。そうすると今度は自己嫌悪と自分がそんな状態であることを餌にして、「しにたい」があっという間に育ってくる。
私は多分、人と関わることに向いていない。
けどなんで、私はこうも上手いことやってるんだろう。
無理矢理うまくやってるように見せかけてるだけで、本当は何もうまくいってない。それが私の人間関係。

…とりあえず、今は一刻も早く、家に帰りたかった。
空にはやたらと雲が多くて、空気は重たく、ジメジメしていた。


********


「んーまあ寝れる時は寝たいし寝た方がええから、寝れへんなー思たら来よか。それでええ?」
「うん。あんまりルールが決まってる感じも嫌だし。」
「やけどなんか来るんか来へんのかわからんのはそわそわしてまうわなー。あ、なんしかこの仕切り外してええ?話しにくいし。嫌?」
「なんしか?」
「あー、とりあえず?」
「へぇ。あ、仕切りいいよ。邪魔だし。」
「ほな外すか。せやけどほんならプライバシーあらへんか?」
「これないときはカーテン閉めとけばわかりやすいんじゃない?」
「せやな!ほなそれにしよ。」

そう昨日の夜伊織が提案して、私たちの部屋の間の仕切りは無くなった。
それだけでなんだか少し心の壁が減るように感じる。
ほぼ初対面の人とベランダが繋がってるなんてちょっと怖い気もするけど、不思議と伊織はそんなふうに思わなかった。

チラリと窓越しにベランダを見やる。もちろん、伊織はいない。だってまだ四時だ。夜にはほぼ遠い。
…どうして私はこんなに待ち遠しく思ってるんだろう。
まだ私は、伊織のことをなにも知らない。あの夜の海みたいな低くて穏やかで優しくて、どこか温かいような声と、ぼんやりとした月明かりにも映える綺麗な顔と、そんな少し神秘的なイメージにそぐわない関西弁。私はそんな上っ面の部分しか知らない。
まだ会って2日目なのに、こんなに気になってるのはなんでだろう。
話を聞いてくれるから?夜の寂しさが紛らわされるから?それならきっと誰でもいいんだろう。でもそんなじゃない。
…違うきっと。夜が待ち遠しいなんていつものことだったはず。夜になったらすぐ朝になって欲しくなるだけで。昼間は嫌いだもの。

ぐちゃぐちゃになってくる頭を落ち着かせようと、昨日飲み忘れたサイダーを冷蔵庫から取り出し、開ける。プシ、と弱い音がした。炭酸が抜けているサイダーはチリチリと私の喉を刺激した。中途半端なその刺激に私はもっとよくわからなくなった。

あーもう最悪だ。本当に最悪。しにたい。

口の中を攻撃する弱い痛みを丸ごと飲み込んで、私は宙を仰いだ。
いつの間に晴れていたのか、電気をつけていない部屋には薄く日光が満ちている。

「早く夜が来ないかな…。」

思わず口からため息のように天井に向かってそんな言葉が出る。
誰もいない家の中に小さな声はやたら響いて、そのうち空気中に霧散していく。
孤独がくっきりしていく気がする。私は嫌になって目を閉じた。

チッ、チッ、チッ、と時計の音。
冷蔵庫のモーター音は聞こえない。
クーラーの可動音が地味に響いている。
窓越しに家の前の道を走る小学生の笑い声が聞こえる。
目を閉じていてもまぶた越しに日光が目に入り、まぶたが透けて視界が赤くなる。

あぁ、やっぱり今は昼だ。
私は諦めてのそりと立ち上がる。
何を、諦めたのか。…今が夜だと思い込むことを、か。