2 夜の底を泳ぐ
眠れない夜、一人で部屋にいるとどんどん心が薄く水に浸されていく。
最初は気にも留めない程度。だけどだんだん水位が上がってきて、あ、と思うと溺れてる。
ゴポゴポと口から空気が出ていく。待って、と手で掴もうとしても無駄で。
そのうちなんの抵抗もなく私は中まで水に浸っていく。中にある余計な空気は全部抜ける。水の底に沈んでいく。
私の中身が全部なくなったら。泡となって弾けていったら。私はきっと本当の自由。人魚のように、夜という海の底を軽やかに泳いでゆく。
ゆらゆらと波に揺られて自由な私。なのに結局、私はどこにいるのかわからなくなる。上に上がる方法を忘れる。陸で息をする方法を忘れる。すると今度は求めていたはずのこの状況を、強制と感じるようになり、また新たな自由を求めていく。
…結局人間、ないものねだり。
私は窓を開けて、アイスとサイダーを持ってベランダに出た。
空には満天の星…な訳なく。冴えなくくすんだ夜空と、街灯とイマイチ見分けがつかない程度の光の月。
アイスを齧る。つめたい。あまい。でもそれ以外何も出てこない。
最後は必ず棒の味になるアイス。
暑いな。もこもこした空気だ。湿気が鬱陶しい。けどやっぱり包まれているように感じる。頭がぼんやりとする空気だ。
「はー…。しにたい。」
「え、やめてや?」
「……っ!?」
隣から突然声がした。え?誰?何?
思わずアイスの棒を落としてしまった。
カッ、と軽い音を立ててアイスの棒はベランダの地面に落ちる。
「いややで俺真夜中にベランダ出たらお隣さんの自殺現場目撃とか。一生寝れんくなってしまうやん。」
「え?は?いや自殺なんてしませんけど。ってか誰?え?」
隣、つまりベランダの仕切り越しに声がした。ベランダから身を乗り出して仕切りの向こう側の声の主を見る。黒髪ストレートの男子。マッシュっぽくはあるけどそこまできっちりもしていないような髪型が逆にオシャレに見える。同い年くらいだろう。割とイケメン。急に声をかけてくるあたりなんか見た目の印象と違うけど。あとなんと関西弁。なんでだ。
「あ、自殺せーへんの?なんやびっくりしたわ。」
「いや逆になんで急に自殺なんてすると思うの。」
「真夜中にベランダでぼーっとした顔して突然しにたいとか呟くからやろ!」
「なんで聞いてるのよ!」
「ベランダにおったら隣から聞こえてきただけやわ!」
「あと近所迷惑!」
「ほんまやよ!」
なんだこれは。コントじゃん。
2人とも近所迷惑を自覚して黙った。
「…で、誰なの。」
「お隣の早川ですー…。早川伊織。一応挨拶したんやけどな?」
「あー、そうだっけ?」
「でもそっちは特に何も言ってくれなかったから俺名前知らんねんな?」
「…なんで自己紹介し合う流れになってんの。…白海沙夜。」
「しらうみ?」
「うん。白い海で、白海。」
「珍しい名字やんな。」
「うーん。そうっぽい。」
「せやけど綺麗な名前やわ。白海沙夜って。」
「…そう。ありがと。」
「いくつ?俺高2やけど。」
「…同い年。」
「やっぱそうなんや!同じくらいなんかなーとは思っとったけど」
夜に似合うのは沈黙。
この人に沈黙は似合わない。
だからうるさいこの人は夜に似合わないはずなのに、ふわりと哀愁のベールを被っているように見えるのは、夜に溶けて流れていきそうに見えるのは、気のせいなんだろうか。
「んで、どしたん?」
「なにが?」
「いや、こんな真夜中にベランダに出るのもまずなんかあるんやろうなって感じやし、しにたい言うてるし。」
「あー。うーん、いや別に、何にもないんだよね。」
「それでなんもあらへんっちゅうんは逆にやばいやろ…。」
「んー…。でもほんとになんもないんだよね…。」
なにも、ない。けどなんとなく、ぼーっとするとか、自己嫌悪に押しつぶされた時とか、しにたいしにたいって、ひたすら頭が連呼する。
「辛い、とか、しんどい、とか、やばい、とか。どうしよう、どうしようもない、そんなのを全部ぐちゃぐちゃに混ぜたら、こんな感じ、みたいなのが、白海沙夜語の、しにたい。自殺願望は、ない。」
「…へぇ。そうなんや。」
横をチラリと見ると特になんにも思ってないような、それでいて憂いを帯びているような顔で彼は道を見下ろしていた。思わずその端正な横顔にどきりとする。
恋愛的に…では無いとは言いきれなくても、少なくとも美しさにハッとしたのは事実だった。
「よ、よくわかんないけど、とりあえずなんか…うん。…勝手に浮かんでくる。」
それこそ水の中からボコボコと空気が湧き上がってくるように。炭酸水のように。
気がついたらどんどん泡が増えていて、水面に向かって上がって、パチパチと弾けていく。
「んー、俺は大した人間ちゃうし、何もないと思ってても気づいておらへんだけでほんとはなんかあるんかもしれんし、なんとも言えんけど。まーなんか言いたいことがあるんなら言っといた方がええで。聞くことはできるけん。」
「…そんなただのお隣さんが。」
「真夜中のこんな辺鄙な時間に会ったんもご縁やろご縁。」
こんな東京の繁華街でも歩いてそうなオシャレそうで華があるイケメンがおばあちゃんみたいなこと言ってる。ご縁、だってさ。
「んで、もう2時やで?ねーへんの?」
「ねーへんの?」
「あー、寝ないんかって。」
「あぁ。いや、なんか、眠れなくて。最近。」
「不眠症なん?」
「さぁ。どうだろう。わかんない。あなたは?」
「そんな硬い言い方せんでも。伊織でええで?」
「…伊織。」
いい名前だなと思った。いおり。音が柔らかい。
「なんや?」
ニヤッとしている。これは間違いなく楽しんでいる。趣味が悪い…。
「…言ってみただけだけだし。」
「ははは、知っとる知っとる。あー、沙夜って呼んでええ?」
「…別にいいよ。」
「おーおー塩対応やなぁ。そんな怒らんといてや〜」
「怒ってないし。」
「それ怒ってるっていうやで〜?」
ケラケラと楽しそうに笑う。
軽そうなのに、その辺の馬鹿騒ぎしてる男子とはまた違った感じ。
嫌な感じじゃなくて、一緒にいて楽しい、感じ。
「それで、伊織は寝ないの?」
「あー。いやなんか、寝れへんのよね〜。ショートスリーパー?なんかな?でも昼間は眠いんやけどな。ってか1人で暗い部屋にいるの怖いねん。」
「え、一人暮らし?」
「せやで?」
「…よくそれで一人暮らししようと思ったね。」
「ほんまよねー。いや知らんかったねん。親が昼夜逆転生活で、夜もいっつも家のどこかが電気ついとったから暗い部屋の感覚があらへんのよね。」
「…親御さん大丈夫なの?」
「え?何が?あ、昼夜逆転の話?母親が物書きなんやけど、夜の方がスイッチ入るとかで。だから別に全然大丈夫やで。」
「すごいね…。」
「ま、そーゆーことやねん。せやから沙夜も寝れへんなら付き合ってよ。夜。」
「…いいよ。」
私と彼の、夜の物語が始まった。
眠れない夜、一人で部屋にいるとどんどん心が薄く水に浸されていく。
最初は気にも留めない程度。だけどだんだん水位が上がってきて、あ、と思うと溺れてる。
ゴポゴポと口から空気が出ていく。待って、と手で掴もうとしても無駄で。
そのうちなんの抵抗もなく私は中まで水に浸っていく。中にある余計な空気は全部抜ける。水の底に沈んでいく。
私の中身が全部なくなったら。泡となって弾けていったら。私はきっと本当の自由。人魚のように、夜という海の底を軽やかに泳いでゆく。
ゆらゆらと波に揺られて自由な私。なのに結局、私はどこにいるのかわからなくなる。上に上がる方法を忘れる。陸で息をする方法を忘れる。すると今度は求めていたはずのこの状況を、強制と感じるようになり、また新たな自由を求めていく。
…結局人間、ないものねだり。
私は窓を開けて、アイスとサイダーを持ってベランダに出た。
空には満天の星…な訳なく。冴えなくくすんだ夜空と、街灯とイマイチ見分けがつかない程度の光の月。
アイスを齧る。つめたい。あまい。でもそれ以外何も出てこない。
最後は必ず棒の味になるアイス。
暑いな。もこもこした空気だ。湿気が鬱陶しい。けどやっぱり包まれているように感じる。頭がぼんやりとする空気だ。
「はー…。しにたい。」
「え、やめてや?」
「……っ!?」
隣から突然声がした。え?誰?何?
思わずアイスの棒を落としてしまった。
カッ、と軽い音を立ててアイスの棒はベランダの地面に落ちる。
「いややで俺真夜中にベランダ出たらお隣さんの自殺現場目撃とか。一生寝れんくなってしまうやん。」
「え?は?いや自殺なんてしませんけど。ってか誰?え?」
隣、つまりベランダの仕切り越しに声がした。ベランダから身を乗り出して仕切りの向こう側の声の主を見る。黒髪ストレートの男子。マッシュっぽくはあるけどそこまできっちりもしていないような髪型が逆にオシャレに見える。同い年くらいだろう。割とイケメン。急に声をかけてくるあたりなんか見た目の印象と違うけど。あとなんと関西弁。なんでだ。
「あ、自殺せーへんの?なんやびっくりしたわ。」
「いや逆になんで急に自殺なんてすると思うの。」
「真夜中にベランダでぼーっとした顔して突然しにたいとか呟くからやろ!」
「なんで聞いてるのよ!」
「ベランダにおったら隣から聞こえてきただけやわ!」
「あと近所迷惑!」
「ほんまやよ!」
なんだこれは。コントじゃん。
2人とも近所迷惑を自覚して黙った。
「…で、誰なの。」
「お隣の早川ですー…。早川伊織。一応挨拶したんやけどな?」
「あー、そうだっけ?」
「でもそっちは特に何も言ってくれなかったから俺名前知らんねんな?」
「…なんで自己紹介し合う流れになってんの。…白海沙夜。」
「しらうみ?」
「うん。白い海で、白海。」
「珍しい名字やんな。」
「うーん。そうっぽい。」
「せやけど綺麗な名前やわ。白海沙夜って。」
「…そう。ありがと。」
「いくつ?俺高2やけど。」
「…同い年。」
「やっぱそうなんや!同じくらいなんかなーとは思っとったけど」
夜に似合うのは沈黙。
この人に沈黙は似合わない。
だからうるさいこの人は夜に似合わないはずなのに、ふわりと哀愁のベールを被っているように見えるのは、夜に溶けて流れていきそうに見えるのは、気のせいなんだろうか。
「んで、どしたん?」
「なにが?」
「いや、こんな真夜中にベランダに出るのもまずなんかあるんやろうなって感じやし、しにたい言うてるし。」
「あー。うーん、いや別に、何にもないんだよね。」
「それでなんもあらへんっちゅうんは逆にやばいやろ…。」
「んー…。でもほんとになんもないんだよね…。」
なにも、ない。けどなんとなく、ぼーっとするとか、自己嫌悪に押しつぶされた時とか、しにたいしにたいって、ひたすら頭が連呼する。
「辛い、とか、しんどい、とか、やばい、とか。どうしよう、どうしようもない、そんなのを全部ぐちゃぐちゃに混ぜたら、こんな感じ、みたいなのが、白海沙夜語の、しにたい。自殺願望は、ない。」
「…へぇ。そうなんや。」
横をチラリと見ると特になんにも思ってないような、それでいて憂いを帯びているような顔で彼は道を見下ろしていた。思わずその端正な横顔にどきりとする。
恋愛的に…では無いとは言いきれなくても、少なくとも美しさにハッとしたのは事実だった。
「よ、よくわかんないけど、とりあえずなんか…うん。…勝手に浮かんでくる。」
それこそ水の中からボコボコと空気が湧き上がってくるように。炭酸水のように。
気がついたらどんどん泡が増えていて、水面に向かって上がって、パチパチと弾けていく。
「んー、俺は大した人間ちゃうし、何もないと思ってても気づいておらへんだけでほんとはなんかあるんかもしれんし、なんとも言えんけど。まーなんか言いたいことがあるんなら言っといた方がええで。聞くことはできるけん。」
「…そんなただのお隣さんが。」
「真夜中のこんな辺鄙な時間に会ったんもご縁やろご縁。」
こんな東京の繁華街でも歩いてそうなオシャレそうで華があるイケメンがおばあちゃんみたいなこと言ってる。ご縁、だってさ。
「んで、もう2時やで?ねーへんの?」
「ねーへんの?」
「あー、寝ないんかって。」
「あぁ。いや、なんか、眠れなくて。最近。」
「不眠症なん?」
「さぁ。どうだろう。わかんない。あなたは?」
「そんな硬い言い方せんでも。伊織でええで?」
「…伊織。」
いい名前だなと思った。いおり。音が柔らかい。
「なんや?」
ニヤッとしている。これは間違いなく楽しんでいる。趣味が悪い…。
「…言ってみただけだけだし。」
「ははは、知っとる知っとる。あー、沙夜って呼んでええ?」
「…別にいいよ。」
「おーおー塩対応やなぁ。そんな怒らんといてや〜」
「怒ってないし。」
「それ怒ってるっていうやで〜?」
ケラケラと楽しそうに笑う。
軽そうなのに、その辺の馬鹿騒ぎしてる男子とはまた違った感じ。
嫌な感じじゃなくて、一緒にいて楽しい、感じ。
「それで、伊織は寝ないの?」
「あー。いやなんか、寝れへんのよね〜。ショートスリーパー?なんかな?でも昼間は眠いんやけどな。ってか1人で暗い部屋にいるの怖いねん。」
「え、一人暮らし?」
「せやで?」
「…よくそれで一人暮らししようと思ったね。」
「ほんまよねー。いや知らんかったねん。親が昼夜逆転生活で、夜もいっつも家のどこかが電気ついとったから暗い部屋の感覚があらへんのよね。」
「…親御さん大丈夫なの?」
「え?何が?あ、昼夜逆転の話?母親が物書きなんやけど、夜の方がスイッチ入るとかで。だから別に全然大丈夫やで。」
「すごいね…。」
「ま、そーゆーことやねん。せやから沙夜も寝れへんなら付き合ってよ。夜。」
「…いいよ。」
私と彼の、夜の物語が始まった。