「戻ってたんだね!」
 健祐は興奮した。垣根越しに懐かしい人の顔がある。
 最初、彼女は怪訝な表情を浮かべながらこちらに歩み寄った。
「どなたかしら?」
 懐かしい声だ。健祐は無言で彼女を見つめる。胸が詰まって声が出せない。微笑むのが精一杯だった。
「どなたかしら?」
 彼女はもう一度尋ねた。
「僕だよ……」
 健祐は声を絞り出した。「健祐だよ」
 彼女は急に足を止め、その場に立ち尽くしたまま唇を微かに動かした。
「健祐……さん?」
 健祐は大きく頷いた。
 いっとき二人を取り巻く空間は静まり返った。健祐は微かに震える胸に息を吸い込み、発声の準備を整える。
「会いたかった」
 自身の声はかなり震えてしまった。上下の奥歯が小刻みにぶつかり合うので、歯を喰いしばり、口を真一文字に結ぶ。
「健ちゃん! 健ちゃん……なの?」
 彼女は目を見開いてこちらを見る。
 もう一度健祐はゆっくりと大きく頷く。
「健ちゃん……なのね……」
 彼女も声を詰まらせ、語尾がうまく言葉にならない。その目に涙が滲んだ。
「いつ……いつ戻ったの? どうして……どうして連絡くれなかったの?」
 健祐は息をするのも忘れて一気に言葉を吐き出した。
「ごめんなさいね……」
 彼女の目には涙が溢れ、瞬きをする毎に次々と零れ落ちた。「健ちゃん……立派になったわね」
 健祐は必死に涙を堪えた。目の前が歪んで見える。
 ついにこの日が来たのだ。健祐が待ち望んだ日が。十年の歳月を経て、一途に思いを募らせ、この世で唯一愛も命も分かち合える女性との再会の瞬間が。健祐にとってこれ以上の幸福は最早なかった。

   *

 健祐の胸は高鳴った。これまでの不安はこの一瞬に吹き飛んで行った。やっと辿り着いたのだ。
「あの頃は……色々とお世話になって……ありがとうございました」
 健祐は途切れ途切れに言うと、深々と(こうべ)を垂れた。その目からひと粒だけ涙が零れてしまった。
「なに言ってるの、そんな真似しないで。章乃……章乃の方こそ、ありがとう」
 章乃の名を、今、母親の幸乃の口から聞いたことが何より嬉しかった。
 ──もしかすると?
 一瞬また健祐の心を過ぎった。いや違う。もうそんな問いかけは必要ない。章乃はいる。章乃に会える。会えるのだ。今日、全てが報われる。最早疑う余地などあろうはずがない。今、章乃の息遣いを間近に感じた気がする。直ぐにでも章乃の命の息吹を抱き締められるだろう。この腕の中に章乃を(いだ)き、全身で体温を感じ取りたい。そう思うだけで今は幸せだった。長年の夢が現実になるのだと確信できたこの瞬間、健祐の心は満たされていた。
「おばさん、アヤちゃんは?」
 幸乃はしばらく無言で健祐の顔を見つめたまま目頭を押さえた。
「待っていたのよ……健ちゃんを……」
 途切れ途切れに言葉を発しながら、幸乃は垣根越しに手を伸ばし、健祐の手を取った。「章乃は……いないの」
「アヤちゃん、戻ってないの?」
「ごめんね、健ちゃん」
「いや、いいんだよ。でも、早く会いたいなあ」
「本当に懐かしいわね。健ちゃんは、どうして、ここに?」
 幸乃は止め処なく溢れる涙を拭った。
「中学の同窓会に出ようと思って」
「そう。あの子も、みんなと会いたかったでしょうね……」
「仕方ないよ、また、いつか必ず会えるんだし」
「健ちゃん、いつまでこちらに?」
「明日、夕方には戻らないと」
「そう、また帰りにでも……寄ってくれる?」
「ああ、必ず。おばさん、元気そうでよかった。アヤちゃんも元気?」
「また、寄ってくれたときに、お話しましょうね」
「そうだね」
「……この方は?」
 幸乃は健祐の隣の文に視線を向ける。
「はじめまして、私、三枝文と申します」
 健祐が紹介するよりも先に、文がすかさず口を開いてお辞儀をした。
「可愛い方ね。健ちゃんのガールフレンド……かしら?」
「とんでもないです。私、会社の後輩でございます」
 健祐が幸乃の言葉にどぎまぎするうちに、文自ら説明する。
「そうなの? 健ちゃん、お仕事は?」
「私どもは、建設会社の設計課に勤務しておりまして、立花は一級建築士、私は二級建築士でございます。予てより、立花から、こちらの環境の素晴らしさを聞いておりまして、私も仕事柄大変関心がありましたもので、今回、同行した次第でございます」
 健祐が答えるより早く、また文が口を開いた。
「そうなの。ごめんなさいね、変なこと言って……」
 文は穏やかな笑顔で首を横に振って見せた。
 健祐は思わず首筋を掻いていた。
「健ちゃん。その癖……直らないみたいね」
「はい、そうです」
 文が答えた。「立花さんって、分かり易い人です。嘘もすぐ見破られますから」
 健祐は文を見て目を見開いた。文は笑っている。
 幸乃も微笑みながら文を見て頷く。
「おばさん、もう行かないと」
 健祐は腕時計を指した。
「先輩、お逃げにならなくても……」
 健祐は文を無視して半身だけを路地側に向ける。
「明日の朝にでも、また、必ず寄るよ」
「そうね。そのときに、お話しましょう」
「じゃあ、もう行くから」
「同窓会、楽しんで来てね」
「そうするよ。今日、アヤちゃんに会えないのは残念だけど、また近いうちに会えるから。じゃあ……」
 健祐は一礼して、手を振りながらその場を離れ、同窓会会場へと足を向ける。
 文も、幸乃に丁寧に暇乞いをすると、健祐に続いた。

   *

 健祐の胸は弾んでいた。
「先輩、よかったわね」
 文は優しく微笑んでくれた。
 また首筋を掻きながら、健祐も微笑を返す。
 健祐の心に一条の光が差し込んでいた。今、全身でその温もりを感じている。ほとばしる喜びを、誰に憚ることなく叫びたい衝動に駆られた。
「ねえ、私の言うこと、聞いてよかったでしょう? 感謝しなさい」
 文は冗談めかして健祐の顔を下方から覗き込んできた。悪戯な笑みを浮かべながら、しばらくそのままの状態を保った。
 健祐は息苦しさの余り、天を仰いでまた首筋を掻いてしまった。
「その癖、お直しになった方が、よろしくってよ。なに考えてるか、お見通しだもん」
 文は健祐の仕種を真似て冷やかした。
「い、いやあ……」
 健祐は苦笑して瞬きを繰り返すだけで何も言えない。
「でも、残念ね……」
「なにが?」
「私も会いたかったわ、章乃さんに」
「いつでも会えるよ」
「そうね……」
 文は真顔で頷くと、直ぐに表情を崩した。「じゃあ同窓会、行きましょうか?」
「フミちゃんも?」
「なによ! ご一緒しては、ご迷惑?」
 文は不機嫌な口調で、づかづかと健祐に詰め寄った。「私じゃ不服かしら? アヤちゃんじゃなくて……」
 ぐんぐん迫ってくる文の顔を、健祐は半身を引いてかわしながら後ずさった。