星上園。それは地上から何千キロも離れた、空とも宙とも言えない座標に浮かぶ大地。そんな場所を唯一住みかにしていたのは、天使。彼らのうち、まだ若いものは”学園”にて教育を受けることが義務とされている。それは、地上よりも遥かに楽園に近いこの大地を維持するのには必要なことだからである。しかし、日々勉学や訓練に打ち込む生徒たちにも、休養が全くないわけではなかった。

 ◇◇◇

 学園のある階のある部屋に、素っ裸の二羽の天使が入ってきた。

「わーー!すごい、これがお風呂かぁ!!」
「おいおいフォルン。風呂場で走ると滑るぜ」
「痛たっ!」
「ほら、言わんこっちゃない...」

 ほらよ、と差し出された手を掴んで起き上がったフォルンは初めての大浴場を再度見渡すと、思わず感嘆の息を漏らした。

「マジで風呂に入るの初めてなのか?お前ら」
「うん、森に居た頃はずっと滝で水浴びしてたからね。温かい水に全身浸かるのってそんなに気持ちいいの?」
「俺に聞いてる暇があったらさっさと入ろうぜ!まだ()()()()は準備で遅くなりそうだし」
「そうだね。ひとまず、お先にってことで」

 ほかに誰もいない大きな浴槽に二羽が飛び込むと、中に張っていたお湯は大きな音と水しぶきをたてた。

「ほわぁ、ほんとだ。すごく気持ちいい、、」
「だろ?実技の汗も流れて極楽ってやつだな」

 男子二羽が浴槽の中でそのまま静かに湯を堪能していると、湯気を隔てた入り口の方から誰かが入ってくる音がした。

「あー!やっぱりフォルンたち先に入ってた。ずーるーいー!!」
「か弱い女子たちを置いて風呂を二羽占(ふたりじ)めだなんて良い度胸ね」

「あ、ハニエたちも意外と早く来たね」
二羽占(ふたりじ)めなんかじゃありませぇーん。遅いヨエルが悪いだろ。あとお前らのふたりのどこが()()()んだよ」

 ハニエとヨエルも浴槽へとまっすぐに歩いて来ると、縁に脚をかけ、そのままゆっくりと体を湯船に沈めていった。

「わぁ、ほんとだ、ヨエルの言ってた通りすごくあったかい!」
「でしょー。小さい頃も街のお風呂場にサリルとよく行ってたのよ」

 浴槽に座り込み、肩まで浸かり静かに湯船を楽しむ女子たち。しかし突然、どこからか来た強い波がヨエルの顔を襲った。

「温かいお湯でも水遊びは楽しいんだね!」 
「だろ!風呂ってのは一番はしゃいだもん勝ちなんだぜ。じゃあ、最初に端から端まで泳いだ方が勝ちな」
「いいね。負けないぞ!じゃあ…よーいドン!」
「おい、走るのはずりいぞ!泳ぎっつったろ!」

 ―――――― 
 
「泳ぐのもダメに決まってんでしょうが」
『はい…すみませんでした..』

 頭の上にたんこぶを腫らしたサリルとフォルンを湯船の中で正座させると、ヨエルはやっとゆっくりできるとため息をつきながら体を湯船に沈めた。その間ハニエは楽しそうにはしゃぎまわっていた二羽をどこか羨ましそうな目でぼんやり眺めていた。
 改めて円を囲むように座り、湯船を堪能していた彼らの間にはいつものような活気に満ちた談笑はなく、めずらしく誰も何の口も開かない沈黙の時間が刻々と過ぎていった。
 その沈黙を破るようにサリルが口を開いたのは、体の火照りが煩わしくなった数分後のことだった。

「なあみんな、知ってるか?人間って男女で一緒に風呂に入らないらしいぜ」
「え、なにいきなり?のぼせたんなら早く上がんなさいよ」
「いや、この前本で読んだんだけどさ。人間っていうのは男子と女子で互いに自分の肌を見せるのが嫌なんだってさ。だからこうやって体を洗ったり、服を着替えたりするときも絶対にお互いがいないところでしなきゃいけないんだってよ」
「へぇ、初めて聞いたなそんなこと。さすがサリルだね」
 
 すると話を聞いた三羽は意外にも興味を持った様子で、後を絶たず次々と質問を投げつけ始めた。
 
「でもさ、人間たちも顔とか腕は出すんでしょ?肌ってどこからどこまでが恥ずかしいの?教えてよサリル」
「私たち天使も男女一緒に入ってるけど、なんで恥ずかしいって感じないの?教えてよサリル」
「てかあんたどうやってそんな本手に入れたのよ?図書館には人間関連の書物なんて置くのは禁止されてるでしょ?説明しなさいよサリル」
 
 三羽の圧と湯船の熱に耐えかねたサリルは、ついに水しぶきが上げながら勢いよく立ち上がった。
 
「だぁーー!うるせえなお前ら!俺だって人間じゃねえんだからなんでもかんでも質問攻めにされても困るわ!あと書物に関しては内緒」
 
 浴槽の縁に腰を上げて湯船からでるサリルに、三羽は『ちぇ』と軽く舌打ちする。彼以外はまだまだ熱湯に浸かる余裕があるのか、動く素振りもみせずに座り込んでいた。
 
「あ、そういえばだけどフォルン。今日の実技の授業中、いったいどこにいってたのよ?」
 
 ヨエルが思い出したように口を開くと外野でぐったり首を垂れていたサリルも起きて口を挟む。

「ああそうそう、途中まで俺たちと一緒にいたのに、急にどっかにいなくなったもんだから俺たち心配したんだぜ?」
「いやいや、別にそんな話すようなことじゃ……」

 二羽に迫られてもなお、今日の出来事を話すことをためらうフォルン。すると視界に入った目の前のハニエは、いつになく真剣な声で口を開いた。

「フォルン。話して」

 今日一日、もしくばそれ以前からの何かが溜め込まれたような眼差しは、思わず息を呑みこんでしまうほどに彼の奥底に響かせてきた。
 そのひと呑みの後、彼は決心したようにゆっくりと話し始めた。

「うん、心配かけてごめん。長くなるから話すタイミングがなかっただけなんだよ」
 
 ◇◇◇
 
「まじかお前。()()ザゼル先輩と会ったのかよ」
「その名前ってあれだよね?今日ヨエルが言ってた――」
「そうよ!あのザゼル先輩だわ!羨ましぃ…」

 みんなの反応を見て驚いていたのはフォルンの方だった。

「え?なんでみんなザゼルさんのこと知ってるの??」
「そりゃ当然よ。彼、運動好きな生徒の間では尊敬の的なのよ。私もいつか手合わせできる日が来るといいんだけれど。でも彼、めったにほかの天使と関わろうとしないから誰も近づけないんだとか。それどころか授業にも滅多に来ないから、実際にそんな生徒が存在するのか、だなんて都市伝説だと思ってる天使もいるくらいなのよ。けどね入学式の日の大広間で私はしっかりこの目で――」
 
「ヨエル、今日フォルンが目の前で会ってるから都市伝説じゃないと思うよ」
「まあ、うん。そうなんだけど、、」
 
 水を差すハニエに便乗するようにサリルも口を開く。
 
「まったくその通りだな、同じ話を1日に5回も聞かされる身にもなってほしいぜ。だいたいザゼル先輩と手合わせとか言ってるけど、お前はまずハニエに勝つところからだろ」
「うっさいわね!あんただって勝負しても勝てないでしょうが!」
 
 サリルの頭をわしづかみにして湯船に勢い沈めると、大きく上がった水しぶきが音を立てて他の二羽の顔にかかる。

「なんだ。なんやかんや言ってヨエルも結局遊びたかったんじゃない。いいなぁ、私も混ざりたい!」
「いや、遊んでるわけじゃないでしょ...それに止めないと、このままサリルおぼれちゃうんじゃない?」

 何はともあれ、フォルンとハニエもいまだ大きく波立つ抗争の水しぶきの中に参戦していったのであった。
 
 
 ◇◇◇

 二十分後

「いやぁ、お風呂って最高だね。体もぽかぽかだよ」
 
 風呂場から出た脱衣所で布で体の水気を拭いていたフォルンがそう言うと、二つできたたんこぶを押さえながら棚に入った服をまさぐっていたサリルが答える。

「そうだなー。あいつ(ヨエル)がいなけりゃもうちょい楽しめたんだけどなー」
「あはは、、まあでもみんなで一緒に入れて本当に良かったよ。その、なんていうかさ。温かいお湯だからなんでも話せたっていうか、、」

 明後日の方向を見ながらどこか落ち着かない様子で話すフォルンの顔は、しかしどこかほっとした表情をしていた。それを見たサリルはすると、彼のもとに一歩踏み出して下から覗き込むようにこう言った。

「なあ。そういうのをなんて言うのか知ってるか?」
「へ?」

「”いい湯だった”って言うんだぜ」
「いい湯だった...そうだね。いい湯だった!」

 言い放った後に大きな満面の笑みで白い歯を見せられると、心の奥から湧き上がってくる何かにサリルも微笑みを隠せなくなる。
 
「……へへ、じゃあ次は早着替え競争な。よーいドン!」
「わ、ずるいよ!自分でタイミング決めるの」


 
 またもや騒ぎ出した男子たちの声に呆れたヨエルがため息をついたのは、ちょうど彼女たちが反対側の棚で着替え終わった頃だった。
 
「またあいつら、、というかあいつ(サリル)がフォルンに悪影響を与えないか心配ね。ごめんねうちのバカが――」
「さっきフォルンがしてくれた話だけどさ、ザゼル先輩が言ってること、私も間違ってないと思う」
「ん?」

 ヨエルの話を断ち切ったその重たい一声を上げたのは、その横で着古した服を畳む手を止めたハニエだった。しかし何を話し出すかと思えば、それ以上に彼女からどこか普通ではない何かを、この瞬間で薄々と感じ取ってしまっていた。
 
「実技とかテストの点数とか、そんなのだけで私たちの”価値”まで学校は決めてくる。ましてや、それを覚えた生徒たちが評価がほしいばかりにその腐った価値観に感化される。そうなったあいつらはもはや学校と同じ尺度でしか目の前の誰かを測れなくなる。だからほんのちょっとみんなよりできるわたしとフォルンとで違う目を使い始めた」
「ハニエ?」
「私たちは...わたしはそんな目で誰かを見る奴らとは違う。なのにフォルンは、そんな不安を今日の今日まで言えないまま抱え込んでいた。ザゼルさんに押されて話すまで。フォルンは悩んでたの、自分が私たちと一緒にいていいのかなんて。そんな馬鹿げた不安を募らせてしまうくらいに、私の大切な幼馴染を――」

「ハニエっ!」
 
 少し語気を強めたヨエルの声に、彼女はハッとしたようにいつの間にか下を向いていた顔を上げた。まるで正気に戻ったかのように、息が上がった様子も見せまいと何か取り繕う言葉を探そうとする前に、すでに目の前のヨエルは口を開いていた。

「いったいどうして言い直したりなんかしたの。私とサリルだって、あんたたちふたりをそんな目で見たことなんて、一瞬たりともないわよ」
「……いや、ごめん。そうだよね。そうに決まってるよね!わたしったら何考えてんだろう。
 それに、フォルンがもう元気なんだから万事解決だよね!そうそう。向こうはまだ着替えに時間がかかりそうだし、先に外に出とこ?」

 あっという間にその表情に笑顔を取り戻した彼女は、声のピッチも()()()()()()()()自然にいつもの調子に戻っていた。畳んだ服を腕に抱えて入口を指さしながら振り向いてヨエルに見せた”それ”は、まさしくいつも絶やされることのない、一羽の少女の完璧な笑顔だった。

 
 しかしそれでも、”あれ”を見てしまった彼女には、もはやその衝撃を忘れることなどできはしなかった。

「ハニエ....あんな顔するんだ...」