放課後になって、ウィリアムは床の隙間を確かめるためにもう一度資料室に行った。
そしてあの風が来ていた床の前で腰を落ろした。
石床を叩いてみて隙間に手をかざしたそのとき、資料室のドアが開く音がしてウィリアムは動きを止めた。
そのまま息も止めてじっとしていると足音がだんだんと近づいてきた。
少し迷いながら、しかし着実に近づいてくる足音に、汗がウィリアムの首筋をつたった。
(別に悪いことはしてないよな)
そう思い、意を決して立ち上がったウィリアムは姿を現した人物に目を丸くした。
「何してるんだ?」
「ルネ!?」
「君、変だよ」
ウィリアムが呆然としていると、ルネはさらに距離を詰めてきた。
「どうして……」
「君の様子が変だったからつけてきた。それでそこに何かあるのか?」
ルネはウィリアムの足元を指さした。
「あ、ああ……、この床下から風が来ているんだ」
「風?」
ルネがウィリアムの隣に来てしゃがみこんだ。
「ほんとだ」
「この下に何かあるかもしれない」
それをきくとルネは立ち上がって資料室の中を歩きまわり何かを探しはじめた。
そして戻ってきたその手には鉄梃が握られていた。
「おい、まさか」
「だって開けるんだろ?」
狼狽えるウィリアムに対してルネは平然としていた。
「いやいやいや」
ウィリアムが止めようとするのを振り切ってルネは躊躇することなく鉄梃の先端を隙間に差し込んで引き上げた。
すると床が少し浮いて持ち上がった。
「開いた」
ウィリアムが呆然としてそれを見ているとルネが苦しそうな声を上げた。
「ウィリアム、一緒に持ち上げてくれ」
「え? ああ……」
そうして二人で石床を持ち上げると、その下には人一人が通れるほどの大きさの穴が空いていた。
そしてよく見ると地下へと続く階段があるのがわかり、二人は顔を見合わせた。
「どうだ?」
ルネの声が少し離れた場所から響いた。
「うん、先に行けそうだ」
そう返事をするとウィリアムはルネのいる場所に戻った。
二人は地下に降りてきていた。
天井を見上げると入ってきた穴は小さく切り取られた光となっていた。
その光は地下には届かず、資料室から持ってきた手提げ灯はこの暗さには少し頼りなかった。
ウィリアムとルネは徐々に奥へと足を進めていった。
「ルネ、ここに段差があるから気をつけて」
「どこ?」
ルネがウィリアムの服の袖を引っ張った。
「ここ」
ウィリアムは自分の手提げ灯で段差を照らしてみせた。
「あ、ありがとう」
それからまた先へ進んでいくと、明かりが壁を照らしだした。
少し時間をかけて進んだが地下の広さはおよそ資料室と同じくらいだと思われた。
「暗いからよくわからないけど、特に何もなさそうだ」
ウィリアムが後ろを振り返るとルネがあっと声を上げて前方を指さした。
「何か光った」
ウィリアムもそちらへ視線を向けるとたしかに何かが光っているのが見えた。
二人が恐る恐る近寄ると、そこに光の正体があった。
それはそれ自身が光を放っているのではなく、手提げ灯の明かりを反射して光っていた。
両手のひらほどの大きさの半透明の楕円形の置物で、中の様子は外からは確認できなかった。
「これって卵のカプセル!?」
ルネの弾んだ声が響いた。
「まさか、本当に?」
ウィリアムが驚いているうちにルネはそれを持ち上げた。
「待て、それをどうするんだ?」
「持って帰ろう」
「いや、まずくないか?」
「なぜ?」
「なぜって……」
「不都合があれば後で戻しに来ればいい」
ウィリアムはその発言に言葉をなくした。
「戻ろう」
そう言ってルネはさっさと歩きはじめてしまった。
「待って! 暗くて危ないから」
ウィリアムは慌ててあとを追った。
そしてルネが歩いていった方へ手提げ灯を向けたがそこには彼の姿はなかった。
「ルネ、どこだ!?」
呼んでみても返事はなかった。
さらにあらゆる方向を照らしてみたが、どこにもルネの姿は見えなかった。
「先に上がったのか?」
ウィリアムはもと来た方へ歩みを進めた。
先ほど通ってきた段差を通過して、あと少しで階段下にたどり着くはずだった。
しかしいくら進んでも階段は現れなかった。
「……方向を間違えた?」
ウィリアムは向きを変えてまた進んだ。
しかし同じようにどこにもたどり着かなかった。
「そうだ壁づたいに進もう」
ウィリアムは一呼吸置いて手提げ灯を握り直し、額の汗を拭った。
そしてひたすらまっすぐに歩いた。
まっすぐにまっすぐに。
そうして壁際へ行こうとしたが歩いても歩いても壁にはたどり着かなかった。
「なぜだ!」
苛立ちに声を上げたそのときフッと明かりが消えた。
「嘘だろ!」
ウィリアムはつばを飲み込んだ。
気を持ち直して再び歩き始めたがやはりどこにもたどり着かなかった。
(僕は本当にまっすぐに歩けているんだろうか)
どこもかしこも真っ暗闇でウィリアムはだんだん目を開いているのか閉じているのかわからなくなってきた。
(この感覚どこかで……)
ウィリアムは一度立ち止まった。
そして今度は大きく深呼吸をした。
それから息を吐きながらゆっくりと瞼を閉じた。
(外には光がある。このすぐ上に。永遠の暗闇なんて存在しない)
ウィリアムは自分にいいきかせた。
(春だ)
きらめく小川、川辺に咲く黄色い花、気ままに踊る柔らかな髪。
それらを思い出して、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
そこには変わらず暗闇が広がっていた。
そして先ほどまで思い浮かべていたものは霧散していた。
(このまま出られなかったら?)
その考えがよぎった瞬間、ウィリアムは恐怖に支配されるのではないかと覚悟した。
しかし不思議なことにそれは半分だけで、後のもう半分を占めたのは別のものだった。
(ここで死ぬならそれもいいか)
しかしウィリアムは頭を振った。
「いや、母さんが心配するな」
「そうかな?」
突然別の声がして、ウィリアムは固まった。
その声は少し不快な高さでウィリアムの鼓膜をザラリと撫でた。
どこからきこえたのか測りかねていると前方にぼうっと青白い光が浮かび上がり、徐々に形をとって現れはじめた。
(老人?)
それは五、六歳くらいの子どもの背丈で、背中が丸まった、人のような輪郭をしていた。
しかしすぐにそれが人ではないことにウィリアムは気がついた。
というのもそれは全身毛むくじゃらで、白目のない瞳は穴でも空いているかのようにポッカリと真っ暗だったからだ。
そしてさらに見えはじめた顔の表情は笑っているようでも怒っているようでもあり、口元はぎっしりと生え揃った黄色い歯がむき出しになっていた。
ウィリアムはとっさに体を引こうとしたが、左右に空いた穴に吸いこまれるかのように目が離せず、足も地面に張りついて動かなかった。
「私はサルだ」
目の前の生き物がまた言葉を発した。
「知ってるか?」
サルはそう言って足を一歩前に踏み出してきた。
「サルは人を喰うんだ」
その声は楽しそうに震え、甲高い笑い声となった。
ウィリアムは全身の血が引き、体がこわばるのを感じた。
「ここはね、昔隠れ家だったんだよ」
サルの声が急に老人のように低くしわがれたものになった。
「人々はここで震えながら神に祈った」
サルはぴったりと両手の指を絡めて、祈るような仕草をした。
「助けてください、どうぞ救ってください。でも敵はここを見つけて押し入った。そして隠れていた人々を引きずり出して切り刻んで殺した」
それから組んでいた手を解いてそれを両頬に持っていった。
「まあ、なんということでしょう!」
先ほどまでのしわがれた声から一変して今度は高く澄んだものになった。
「奴らも祈っていたのです。神よ、我らを異教徒の元へ導き給え。そう同じ神にね」
その声にウィリアムは驚愕して声を上げようとしたが、喉が張りついて出てこなかった。
「どうして最近帰りが遅くなるの?」
同じ声がウィリアムに問いかけた。
「以前はもっと早くに帰ってきてたじゃない?」
サルの様相から発せられるにはあまりに不釣り合いなその声に、ウィリアムは顔をしかめた。
「黙れ!」
「ごめんなさい。そうよね、帰りたくないわよね。だってあの家にあなたの居場所はないのだから」
そう言ったサルの声は楽しげに響いた。
「叔父さんといるのが嫌なんでしょう?」
「そんなことない、叔父さんは優しくて良い人だ」
「そうね、でも優しくて良い人が一緒にいたい人とは限らないでしょう?」
「叔父さんには感謝してる。今までどんなに救われてきたか」
「それは母親と叔父の関係が変わるまでは、だろ?」
サルの声音と口調があの不愉快なザラリとしたものに戻った。
「母親が叔父を父の弟として見ていた頃まではよかった」
「何が言いたい?」
「おまえは母親を叔父に奪われて嫉妬してるんだろう。もう母親はおまえを必要としていないから」
「嫉妬なんかしていない! それに叔父さんが家にいない間は僕が傍にいないと」
「そうか? おまえがいようがいまいが母親は気にしない」
「違う。僕が遅く帰ると心配して不安そうにする」
「遅く帰るのは構ってほしいからか?」
「違う」
「代わりに叔父の帰りが遅くなった」
「仕事だから仕方ないだろう」
「でも本当はそうではない」
「……僕に気を遣っている?」
「そうだ、お前の帰りが遅くなっていた原因が自分だと叔父は気づいたんだ」
「だって僕がいたら二人の邪魔だろう?」
「違うな。お前が叔父を邪魔だと思っているんだ。本当は結婚にも反対だった」
「そんなことはない。母さんに頼れる人ができてよかった」
「母親の興味が自分から逸れて嫌なんだろう」
「違う。本当はもう子離れしてほしかった」
「そうか、ならよかったじゃないか。母親の腹には子がいる。その子が生まれればお前は用済みだ」
「そうだ、よかった」
「そしてお前は邪魔者となる」
「ならない! 僕は母さんと父さんの子どもだ」
「でも母親は今は叔父を愛している。お前の父親ではなく」
「違う!」
「母親が気にするのはお前が反発して、異を唱えることだ。彼女が恐れるのは今の幸福を脅かすもの、おまえだ」
「僕は母さんが望むような返事をしてきた、生き方をしてきた! 僕がなにかするとでも?」
「そうだ。あのときお前が結婚に反対すれば叔父はすぐに引き下がっただろう。だから母親はお前が反対しないかだけが気がかりだった」
「違う」
「おまえはもう必要ない」
「違う!!」
ウィリアムが叫ぶとそこでサルの声はやんだ。
前を向くと青白い光もサルの姿もなくなっていた。
流れていた汗がスウっと冷えてウィリアムの首元をゾクリと震わせた。
辺りはまた暗闇に包まれ、ウィリアムは早くこの場から離れようと足を踏みだした。
しかしそのとききつく肩を掴まれて引き戻された。
「肉の捌き方を知ってるか?」
すぐ耳もとで声がしてウィリアムは凍りついた。
もうききたくないと思っていた声が直接鼓膜を震わせた。
「まずは毛をむしり取る」
サルはそう言って一呼吸置いた。
「それから丁寧に皮をはぐんだ」
「……やめろ」
「ああ、忘れていた。血抜きもしなくっちゃ。くくっ、でも大丈夫」
「ききたくない」
「まだ生きているから」
ウィリアムは声を上げた。
「内蔵も取り出してバラバラにする。下の方からゆっくりと。まだ死なれちゃ困るから」
ウィリアムは堪らず耳を塞いだがそれにもかかわらず声は頭の中にまで響いてきた。
声は頭の中をグルグルと旋回して出口を見失っていた。
「なあ、知ってるだろう。そうやって人が人を喰ってきた歴史を」
均衡をなくした体が斜めに傾いた。
ウィリアムは踏みとどまろうと片足に力を入れたが、その地面がズルリと沈み込んだ。
もう片方にも力を入れたがそちらも同じように沈み込んだ。
そして地面はゆっくりと流砂のようにズルズルと、ウィリアムを下へ下へと引っ張っていった。
ズルリ。
(もういい)
ズルズル。
(誰も気にしない)
ズルズル、ズルズル。
(このまま僕が消えてしまっても彼女は——)
「心配するだろ!」
突然響いた声とともに腕を掴まれてウィリアムは引き上げられた。
「君、いつまで地下にいるんだ」
光が顔を照らして、ウィリアムは眩しさに目を細めた。
流砂はなくなっていて、代わりに硬い地面がそこにはあった。
「ルネ?」
「そうだよ。上に戻っても君がいっこうに上がってこないからまた降りてきた」
「……よく戻れたね」
「来た道を戻るだけだろ」
「はは……」
ウィリアムは力なく笑った。
「行こう」
ルネはそう言うとウィリアムの腕を引っ張って歩いた。
手提げ灯が照らす先にはあの段差が見えた。
ルネがそれをひょいと飛び越えるとウィリアムも同じようにひょいとそれを飛び越えた。
そしてすぐに地上へ続く階段が現れた。
そしてあの風が来ていた床の前で腰を落ろした。
石床を叩いてみて隙間に手をかざしたそのとき、資料室のドアが開く音がしてウィリアムは動きを止めた。
そのまま息も止めてじっとしていると足音がだんだんと近づいてきた。
少し迷いながら、しかし着実に近づいてくる足音に、汗がウィリアムの首筋をつたった。
(別に悪いことはしてないよな)
そう思い、意を決して立ち上がったウィリアムは姿を現した人物に目を丸くした。
「何してるんだ?」
「ルネ!?」
「君、変だよ」
ウィリアムが呆然としていると、ルネはさらに距離を詰めてきた。
「どうして……」
「君の様子が変だったからつけてきた。それでそこに何かあるのか?」
ルネはウィリアムの足元を指さした。
「あ、ああ……、この床下から風が来ているんだ」
「風?」
ルネがウィリアムの隣に来てしゃがみこんだ。
「ほんとだ」
「この下に何かあるかもしれない」
それをきくとルネは立ち上がって資料室の中を歩きまわり何かを探しはじめた。
そして戻ってきたその手には鉄梃が握られていた。
「おい、まさか」
「だって開けるんだろ?」
狼狽えるウィリアムに対してルネは平然としていた。
「いやいやいや」
ウィリアムが止めようとするのを振り切ってルネは躊躇することなく鉄梃の先端を隙間に差し込んで引き上げた。
すると床が少し浮いて持ち上がった。
「開いた」
ウィリアムが呆然としてそれを見ているとルネが苦しそうな声を上げた。
「ウィリアム、一緒に持ち上げてくれ」
「え? ああ……」
そうして二人で石床を持ち上げると、その下には人一人が通れるほどの大きさの穴が空いていた。
そしてよく見ると地下へと続く階段があるのがわかり、二人は顔を見合わせた。
「どうだ?」
ルネの声が少し離れた場所から響いた。
「うん、先に行けそうだ」
そう返事をするとウィリアムはルネのいる場所に戻った。
二人は地下に降りてきていた。
天井を見上げると入ってきた穴は小さく切り取られた光となっていた。
その光は地下には届かず、資料室から持ってきた手提げ灯はこの暗さには少し頼りなかった。
ウィリアムとルネは徐々に奥へと足を進めていった。
「ルネ、ここに段差があるから気をつけて」
「どこ?」
ルネがウィリアムの服の袖を引っ張った。
「ここ」
ウィリアムは自分の手提げ灯で段差を照らしてみせた。
「あ、ありがとう」
それからまた先へ進んでいくと、明かりが壁を照らしだした。
少し時間をかけて進んだが地下の広さはおよそ資料室と同じくらいだと思われた。
「暗いからよくわからないけど、特に何もなさそうだ」
ウィリアムが後ろを振り返るとルネがあっと声を上げて前方を指さした。
「何か光った」
ウィリアムもそちらへ視線を向けるとたしかに何かが光っているのが見えた。
二人が恐る恐る近寄ると、そこに光の正体があった。
それはそれ自身が光を放っているのではなく、手提げ灯の明かりを反射して光っていた。
両手のひらほどの大きさの半透明の楕円形の置物で、中の様子は外からは確認できなかった。
「これって卵のカプセル!?」
ルネの弾んだ声が響いた。
「まさか、本当に?」
ウィリアムが驚いているうちにルネはそれを持ち上げた。
「待て、それをどうするんだ?」
「持って帰ろう」
「いや、まずくないか?」
「なぜ?」
「なぜって……」
「不都合があれば後で戻しに来ればいい」
ウィリアムはその発言に言葉をなくした。
「戻ろう」
そう言ってルネはさっさと歩きはじめてしまった。
「待って! 暗くて危ないから」
ウィリアムは慌ててあとを追った。
そしてルネが歩いていった方へ手提げ灯を向けたがそこには彼の姿はなかった。
「ルネ、どこだ!?」
呼んでみても返事はなかった。
さらにあらゆる方向を照らしてみたが、どこにもルネの姿は見えなかった。
「先に上がったのか?」
ウィリアムはもと来た方へ歩みを進めた。
先ほど通ってきた段差を通過して、あと少しで階段下にたどり着くはずだった。
しかしいくら進んでも階段は現れなかった。
「……方向を間違えた?」
ウィリアムは向きを変えてまた進んだ。
しかし同じようにどこにもたどり着かなかった。
「そうだ壁づたいに進もう」
ウィリアムは一呼吸置いて手提げ灯を握り直し、額の汗を拭った。
そしてひたすらまっすぐに歩いた。
まっすぐにまっすぐに。
そうして壁際へ行こうとしたが歩いても歩いても壁にはたどり着かなかった。
「なぜだ!」
苛立ちに声を上げたそのときフッと明かりが消えた。
「嘘だろ!」
ウィリアムはつばを飲み込んだ。
気を持ち直して再び歩き始めたがやはりどこにもたどり着かなかった。
(僕は本当にまっすぐに歩けているんだろうか)
どこもかしこも真っ暗闇でウィリアムはだんだん目を開いているのか閉じているのかわからなくなってきた。
(この感覚どこかで……)
ウィリアムは一度立ち止まった。
そして今度は大きく深呼吸をした。
それから息を吐きながらゆっくりと瞼を閉じた。
(外には光がある。このすぐ上に。永遠の暗闇なんて存在しない)
ウィリアムは自分にいいきかせた。
(春だ)
きらめく小川、川辺に咲く黄色い花、気ままに踊る柔らかな髪。
それらを思い出して、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
そこには変わらず暗闇が広がっていた。
そして先ほどまで思い浮かべていたものは霧散していた。
(このまま出られなかったら?)
その考えがよぎった瞬間、ウィリアムは恐怖に支配されるのではないかと覚悟した。
しかし不思議なことにそれは半分だけで、後のもう半分を占めたのは別のものだった。
(ここで死ぬならそれもいいか)
しかしウィリアムは頭を振った。
「いや、母さんが心配するな」
「そうかな?」
突然別の声がして、ウィリアムは固まった。
その声は少し不快な高さでウィリアムの鼓膜をザラリと撫でた。
どこからきこえたのか測りかねていると前方にぼうっと青白い光が浮かび上がり、徐々に形をとって現れはじめた。
(老人?)
それは五、六歳くらいの子どもの背丈で、背中が丸まった、人のような輪郭をしていた。
しかしすぐにそれが人ではないことにウィリアムは気がついた。
というのもそれは全身毛むくじゃらで、白目のない瞳は穴でも空いているかのようにポッカリと真っ暗だったからだ。
そしてさらに見えはじめた顔の表情は笑っているようでも怒っているようでもあり、口元はぎっしりと生え揃った黄色い歯がむき出しになっていた。
ウィリアムはとっさに体を引こうとしたが、左右に空いた穴に吸いこまれるかのように目が離せず、足も地面に張りついて動かなかった。
「私はサルだ」
目の前の生き物がまた言葉を発した。
「知ってるか?」
サルはそう言って足を一歩前に踏み出してきた。
「サルは人を喰うんだ」
その声は楽しそうに震え、甲高い笑い声となった。
ウィリアムは全身の血が引き、体がこわばるのを感じた。
「ここはね、昔隠れ家だったんだよ」
サルの声が急に老人のように低くしわがれたものになった。
「人々はここで震えながら神に祈った」
サルはぴったりと両手の指を絡めて、祈るような仕草をした。
「助けてください、どうぞ救ってください。でも敵はここを見つけて押し入った。そして隠れていた人々を引きずり出して切り刻んで殺した」
それから組んでいた手を解いてそれを両頬に持っていった。
「まあ、なんということでしょう!」
先ほどまでのしわがれた声から一変して今度は高く澄んだものになった。
「奴らも祈っていたのです。神よ、我らを異教徒の元へ導き給え。そう同じ神にね」
その声にウィリアムは驚愕して声を上げようとしたが、喉が張りついて出てこなかった。
「どうして最近帰りが遅くなるの?」
同じ声がウィリアムに問いかけた。
「以前はもっと早くに帰ってきてたじゃない?」
サルの様相から発せられるにはあまりに不釣り合いなその声に、ウィリアムは顔をしかめた。
「黙れ!」
「ごめんなさい。そうよね、帰りたくないわよね。だってあの家にあなたの居場所はないのだから」
そう言ったサルの声は楽しげに響いた。
「叔父さんといるのが嫌なんでしょう?」
「そんなことない、叔父さんは優しくて良い人だ」
「そうね、でも優しくて良い人が一緒にいたい人とは限らないでしょう?」
「叔父さんには感謝してる。今までどんなに救われてきたか」
「それは母親と叔父の関係が変わるまでは、だろ?」
サルの声音と口調があの不愉快なザラリとしたものに戻った。
「母親が叔父を父の弟として見ていた頃まではよかった」
「何が言いたい?」
「おまえは母親を叔父に奪われて嫉妬してるんだろう。もう母親はおまえを必要としていないから」
「嫉妬なんかしていない! それに叔父さんが家にいない間は僕が傍にいないと」
「そうか? おまえがいようがいまいが母親は気にしない」
「違う。僕が遅く帰ると心配して不安そうにする」
「遅く帰るのは構ってほしいからか?」
「違う」
「代わりに叔父の帰りが遅くなった」
「仕事だから仕方ないだろう」
「でも本当はそうではない」
「……僕に気を遣っている?」
「そうだ、お前の帰りが遅くなっていた原因が自分だと叔父は気づいたんだ」
「だって僕がいたら二人の邪魔だろう?」
「違うな。お前が叔父を邪魔だと思っているんだ。本当は結婚にも反対だった」
「そんなことはない。母さんに頼れる人ができてよかった」
「母親の興味が自分から逸れて嫌なんだろう」
「違う。本当はもう子離れしてほしかった」
「そうか、ならよかったじゃないか。母親の腹には子がいる。その子が生まれればお前は用済みだ」
「そうだ、よかった」
「そしてお前は邪魔者となる」
「ならない! 僕は母さんと父さんの子どもだ」
「でも母親は今は叔父を愛している。お前の父親ではなく」
「違う!」
「母親が気にするのはお前が反発して、異を唱えることだ。彼女が恐れるのは今の幸福を脅かすもの、おまえだ」
「僕は母さんが望むような返事をしてきた、生き方をしてきた! 僕がなにかするとでも?」
「そうだ。あのときお前が結婚に反対すれば叔父はすぐに引き下がっただろう。だから母親はお前が反対しないかだけが気がかりだった」
「違う」
「おまえはもう必要ない」
「違う!!」
ウィリアムが叫ぶとそこでサルの声はやんだ。
前を向くと青白い光もサルの姿もなくなっていた。
流れていた汗がスウっと冷えてウィリアムの首元をゾクリと震わせた。
辺りはまた暗闇に包まれ、ウィリアムは早くこの場から離れようと足を踏みだした。
しかしそのとききつく肩を掴まれて引き戻された。
「肉の捌き方を知ってるか?」
すぐ耳もとで声がしてウィリアムは凍りついた。
もうききたくないと思っていた声が直接鼓膜を震わせた。
「まずは毛をむしり取る」
サルはそう言って一呼吸置いた。
「それから丁寧に皮をはぐんだ」
「……やめろ」
「ああ、忘れていた。血抜きもしなくっちゃ。くくっ、でも大丈夫」
「ききたくない」
「まだ生きているから」
ウィリアムは声を上げた。
「内蔵も取り出してバラバラにする。下の方からゆっくりと。まだ死なれちゃ困るから」
ウィリアムは堪らず耳を塞いだがそれにもかかわらず声は頭の中にまで響いてきた。
声は頭の中をグルグルと旋回して出口を見失っていた。
「なあ、知ってるだろう。そうやって人が人を喰ってきた歴史を」
均衡をなくした体が斜めに傾いた。
ウィリアムは踏みとどまろうと片足に力を入れたが、その地面がズルリと沈み込んだ。
もう片方にも力を入れたがそちらも同じように沈み込んだ。
そして地面はゆっくりと流砂のようにズルズルと、ウィリアムを下へ下へと引っ張っていった。
ズルリ。
(もういい)
ズルズル。
(誰も気にしない)
ズルズル、ズルズル。
(このまま僕が消えてしまっても彼女は——)
「心配するだろ!」
突然響いた声とともに腕を掴まれてウィリアムは引き上げられた。
「君、いつまで地下にいるんだ」
光が顔を照らして、ウィリアムは眩しさに目を細めた。
流砂はなくなっていて、代わりに硬い地面がそこにはあった。
「ルネ?」
「そうだよ。上に戻っても君がいっこうに上がってこないからまた降りてきた」
「……よく戻れたね」
「来た道を戻るだけだろ」
「はは……」
ウィリアムは力なく笑った。
「行こう」
ルネはそう言うとウィリアムの腕を引っ張って歩いた。
手提げ灯が照らす先にはあの段差が見えた。
ルネがそれをひょいと飛び越えるとウィリアムも同じようにひょいとそれを飛び越えた。
そしてすぐに地上へ続く階段が現れた。