しばらく曇りの日が続いた。
この土地はルネの住んでいた南西部に比べて冬でも雨がよく降りそのたびに寒さが厳しくなっていった。

昼間、マーサが買い物に家を出てから家の呼び鈴が鳴った。
ルネは掃除をしていた手を止めて玄関に行きドアを開けた。
久しぶりに見た晴れ間は淡い水色で降りそそぐやわらかな日差しにルネは目をまたたかせた。
「元気にしてたか?」
「……はい」
目の前にはイオが立っていた。
あれから二ヶ月が経っていた。
「今日は俺だけだ」
イオがおかしそうに口元を歪めたので、ルネは慌てて視線を下げた。
「今日はどうしたんですか?」
「コットンに呼ばれたんだ」
「……そうですか」
束の間、二人の間に沈黙が流れた。
「まあ俺も話があったんだ、君に」
「え?」
ルネが顔を上げたちょうどそのときイオの後ろからコットンが顔を出した。

二人が話をしている間、ルネは台所に立って水を入れた薬缶を火にかけ湯を沸かした。
「申し訳ないが、ルネをもう預かっていられなくなった」
コットンの声にルネは手を止めた。
「何か理由が?」
「そろそろここを立つことになりそうなんだ」
「そろそろって、また派遣されるんですか?」
「以前いた所だよ。私も年だからこれが最後になるかもしれない」
「そうですか」
イオは顎に手をやって顔の向きを変え、仕切りの向こうにいるルネに話しかけた。
「こっちに来いよ」
そう言われてルネはコットンの隣の席に着いた。
「ルネ、国外に行ってみたくないか?」
「国外?」
「とはいってもそんなに遠くない場所だ。コットン、どうです?」
「うん、そうだね……」
コットンは困ったように眉を寄せてチラリとルネを見た。
「こちらで手続きは済ませます。ルネ、君はもっと外の世界を知るべきだと思う」
イオがまたルネに視線を戻した。
「僕にそんな資格ない……です」
「資格ってなんだよ。必要なのはチャンスだ。今それが目の前にある。君はこの国を出た方がいいと思う」
「どうして? 僕やっぱりオカノ……父さんのところへ戻るよ」
「無理だ」
「どうして!?」
「オカノが自分から君にしたことをすべて話したよ」
その言葉にルネはヒュッと息を吸い込んで固まった。
「育児放棄、暴力。オカノは児童虐待をしたとして君への接近禁止命令が出ている。そして君とオカノの養子縁組は解消された」
「そんな!」
「今日はそれを伝えに来たんだ」
「勝手なことするなよ!」
ルネは声を荒らげた。
「現実を受け入れろ」
イオの目は厳しく、ルネを貫いた。
有無を言わせないその瞳には同時に悲しみも浮かんでいた。

一ヶ月後、ルネはコットンとともに船に乗った。
その前日、イオとリーが寺院を訪ねてきた。
「ほら君の荷物。家と研究室にあったものをわかるだけ詰めてきた」
「ありがとう……」
ルネが荷物を受け取るとイオは寺院にいるコットンの方へ離れていった。
その後ろ姿を眺めているとルネの隣から手が伸びてきた。
「はい、これ。あのとき撮ったものだよ」
リーが一枚の写真を差し出していた。
「ありがとう」
写真を受け取ってルネは息を詰まらせた。
「ひとつきいてもいいですか?」
「なに?」
「リーとイオはどういう関係なんですか?」
「うーん、そうだね……」
リーは珍しく答えにくそうに口ごもった。
「逆に君にはどう見えるの?」
「え、そうですね。同僚というより友人のような……」
ルネも口ごもってしまった。
困り果てて隣を見ると、リーは目を細めておかしそうに笑っていた。



「イオはどうしてここまでしてくれたんだろう。どこかの施設に僕を送ってしまえばこんな面倒なことしなくてすんだのに」
船が出航してまもなく対岸の陸地が見えてきた。
「イオもリーも施設で育ったそうだよ」
「え?」
ルネは驚いてコットンを見た。
「そこでいろいろあったんだろう。彼らはそういう場所にあまり好感を持っていないようだ。その彼らが私を頼ってきた。そして私は引き受けた」
コットンはルネを見つめた。
ルネは後ろを振り返った。
先程までいた港は朝もやに遠く霞んでいた。
「さよなら」
ルネは小さく呟いた。