中一の冬に数年分のお年玉をはたいて買ったギターが俺の相棒だった。ろくでもない高校を卒業してから、俺は駅前の広場で毎日ギターを演奏していた。田舎で電車の本数も少なかったから人はあまりいなかったけれど、田舎だからこそ演奏許可だとか堅苦しいことを言う大人もいなかった。
 ごくまれに投げ銭をくれる人がいた。投げ銭だけで上京に必要なだけのお金がたまったら、その時がきっと東京で通用する時だ。そう信じて自作の曲を披露していた。
 大体の人が素通りしていく中、毎日足を止めて聞いてくれる人がいた。地元では数少ないお嬢様高校の制服を着ていた。笑顔が可愛い子だった。それが二条(にじょう)貴子(たかこ)。彼女はまだ十六歳だった。
「私、あなたの曲が好き」
 そう言って無邪気に笑う貴子と俺が恋に落ちるのに時間はかからなかった。

 貴子は家が厳しくて、毎日茶道や華道などの習い事をしていたので、あまり話す時間はなかったし、どこかへ遊びに行くこともできなかった。連絡先を交換して、夜に少しだけ彼女の親の目を盗んで電話をした。秘密の逢瀬を重ねているようでドキドキした。
「カルマくん、好き」
「俺も貴子が好きだよ」
 人生で一番幸せな季節を過ごしていた。
 貴子は色々な話をしてくれた。理科の授業は苦手だけれど、音楽の授業は好きなこと。お兄さんは柔道が得意で、小学生のころまでよく肩車をしてくれたこと。さらにインターハイに出場経験があり、親戚の間では “SPいらず”と呼ばれていること。
 夏が来て、秋が来て、俺の音楽は貴子への恋心に彩られていた。少しずつ俺の音楽に価値を見出してくれる人も増えて、東京への一人分の旅費とボロアパートの初期費用くらいはたまっていた。
 北の大地に少し早い初雪が降っても俺は路上ライブを続けた。俺の音楽を聴いてくれる貴子の表情が一番好きだったからだ。ある雪の夜、俺は貴子に電話越しに伝えた。
「なあ、貴子。貴子が高校を卒業したら、一緒に東京に行かないか?」
「それって、プロポーズ?」
「ああ。俺は絶対日本一のミュージシャンになる。だから、結婚しよう」
「うん! 約束だよ」
 俺たちの未来に胸が躍った。

 それから少しして、年が明けた。地元の神社に一人初詣に行った。そこで貴子を見かけた。貴子は振袖を着ていた。晴れ姿で、きらびやかな真珠の髪飾りをつけていた。貴子は友達と一緒にいたので声をかけるのは憚られたが、貴子と目が合うと微笑んでくれた。俺も微笑み返した。
 貴子の学校は新学期を迎えたが、貴子は駅前に現れなくなった。貴子曰く、車で送り迎えされるようになったかららしい。断ったが、安全のためにと言われたらしい。不審者の目撃情報は聞いたことがなかったが、それも仕方がないのだろう。

 それでも、俺は駅前で演奏を続けた。夢のために。貴子と一緒に東京で暮らすために。そんな時、俺に転機が訪れた。俺の前に高級車が止まった。高そうな時計をつけた中年男性が降りてきた。
有原(ありはら)駆真(かるま)さんで間違いありませんね?」
 どこかの企業の社長に見えた。俺はスカウトだと思い舞い上がった。
「はい! 有原駆真と申します。得意な音楽ジャンルは……」
「ああ、そういうのは結構ですから」
 俺の言葉をさえぎって男は名刺を渡してきた。芸能プロダクションの名刺かと思い期待したが、そうではなかった。彼は二条工業という一般企業の社長だった。二条。貴子と同じ苗字だ。
「娘と別れていただけませんか。それ相応のお金は払いますので」
「お金でこういうのって、何か違くないですか」
「娘には未来があるんです。どうかご理解ください」
 そう言って彼は頭を下げた。
「わかっていただけますね。こちらとしても穏便に済ませたいものですから。お金は後日お渡しいたします」
 有無を言わせない圧力を俺にかけると、貴子の父親は去っていった。

 何だよ、ふざけるな。娘に未来があるって、俺には未来がないって言うのかよ。馬鹿にするな。俺は貴子と一緒に夢を叶えたいんだよ。夢を叶えた時に隣にいるのは貴子じゃないとダメなんだよ。
 俺は別れることに同意していない。貴子に連絡をした。
「貴子、今話せる?」
 すぐに既読がついて、通話がかかってきた。貴子の声を聞いて俺は決心した。
「貴子、明日の朝一緒に逃げよう」
 貴子の返事を聞いて、俺は夜が明ける前に貴子の家へと向かった。それは星の綺麗な夜だった。

 家族が起きる前に、俺は貴子の家へとたどり着き、彼女と落ち合った。貴子を連れ出して、俺はまっすぐに走り出した。最寄り駅の始発まではまだ時間がある。俺たちは二つ隣の町まで行くことにした。そこまでいけば、本州へ向かうフェリーの港までの直通列車が出ている。
 俺たちはがむしゃらに走った。これは誘拐だ。そんなことは分かっている。それでも一緒にいたかった。後先なんて考えていなかった。
 やがて朝日が昇ってくる。貴子のスマホには既に何件かの着信が入っていた。もうすぐ最寄り駅の始発の時刻だが、あの駅を使わなくてよかったと心から思う。きっと、待ち伏せされていただろうから。
 隣町へ行くには林を抜ける必要がある。俺たちはひたすら走り続けて林を抜けた。この辺りは初めて来る。林を抜けると視界が開けた。

 俺たちの視界に飛び込んできたのは無数の光の粒だった。俺の家よりも巨大な宝石箱を丸ごとひっくり返したように、空中が煌めく。キラキラという音が耳からも聞こえてきそうなほどに眩く、この町を出たらこの光景を音楽にしたいと思った。
「綺麗……」
 貴子が足を止めて見とれた。空の宝石たちに目を奪われた貴子の顔が光のシャワーに照らされていた。
「そうだな」
 僕は貴子の手を引いて再び走り出しながら言った。空気中を光が舞う中を通り抜けていく。どこもかしこも煌めいていた。ひんやりとした感覚が肌を伝った。
「これ、何かな?」
 貴子に問いかけられた。俺は答えなかった。正確には答えられなかった。まじめに勉強をしてこなかった俺には、それが何であるのかわからなかったからだ。答える代わりにひたすらに走り続けた。
 夢か幻かと思えるほどの光の世界を抜けて、知らない町にたどり着いた後も貴子はあの空中の宝石の話をしていた。
「あれ、真珠だったのかな? ダイヤモンドだったのかな?」
 俺はその答えがわからなかった。

 しかし、ここが夢の世界ではないことは確かだ。そして、あの光が俺たちを祝福する類の神様からのプレゼントではなかったことも確かだ。なぜなら、午後になると天気が大きく崩れたからだ。雨が降り始めた。
 いわゆるアイスストームというもので、過冷却水すなわち零度以下の雨が降った。零度以下の水は衝撃を受けるとすぐに凍る。つまり、雨が地面に落ちたそばから凍り始める。非常に厄介な天気だ。
 夜になるころ、何とか目的の駅までたどり着いたが、悪天候のために電車が運休していた。明日の朝まで電車を待つにしても一晩二人で宿に泊まるだけのお金は持ち合わせていなかったし、深夜に営業しているようなお店もなかった。
 そのため俺たちは無人駅のホームの待合室で夜を越すことにした。無人駅であったため、ホームから追い出されることはなかった。ドアを閉めれば風雨をしのげるし、幸いにも電気ストーブが自由に使えた。
 外では激しく雷が鳴っている。外がピカッと光り、真っ暗だった空間に光が差す。その瞬間、貴子の不安そうな顔が見えた。
「大丈夫。俺が守るから」
「ほんとに?」
「ああ、世界中が敵になったって俺が貴子を守ってやる」
「世界中って……殺し屋とかスパイからも?」
 殺し屋という言葉は、貴子が言うと冗談には聞こえなかった。駆け落ちの数日前に、海外で要人が何者かに殺害されたニュースが報道され、一説には明らかに殺しを生業とするプロの犯行とどこぞのジャーナリストが言っていたことも大きかったかもしれない。
 しかも、俺と違って貴子は金持ちの家庭に生まれた。産業スパイや殺し屋の類とも無縁とはいかないのだろう。しかも、あの性格の悪い父親が社長ともあれば恨みを買うことも多いだろう。
「もちろん。海外の諜報機関やマフィアからだって、暗殺のエキスパートからだって命に代えても守ってやるよ」
 俺は貴子を強く抱きしめた。

 貴子を安心させた後、貴子には体力温存のために始発まで寝てもらうことにした。貴子をベンチに寝かせ、俺は外を見張った。雷の音が何度も激しく鳴っていた。
 いくら目が暗闇に慣れたところで、こちらからはほとんど何も見えなかった。しかし、俺たちの駆け落ちを邪魔する輩がいるとして、こちらが光をともせば自ら場所を教えるようなものだ。
 暗闇の中で息をひそめて身を隠しながら、周りの気配に気を配った。そうして夜が更けるのをひたすらに待ち続けた。

 どれくらい時間がたったころだろうか。ほんの一瞬の出来事だった。首の後ろにトン、と衝撃を受けた。脳みそを激しく揺さぶられるような感覚に襲われた。意識が遠のいていった。本当に一瞬のことで何が起こったのかわからなかった。眠るように気を失った。
 夢を見た。貴子が鬼に食べられてしまう夢。巨大な鬼だった。貴子は悲痛な断末魔を上げて、丸呑みされてしまった。ひどい悪夢だった。

 はっ、と目が覚めると夜が明けようとしていた。大雨も雷雨も嘘だったみたいに静かになり、朝日が昇りつつあった。真っ暗だった待合室にも光が差し込んで部屋全体がはっきりと見える。
 貴子がいなくなっていた。
「貴子? おい、貴子!」
 俺は貴子の名前を大声で呼んだ。何度も何度も叫んだ。貴子がいない。まるで神隠しにでもあったかのように貴子が消えてしまった。

 貴子は本当に鬼に食べられてしまったのだろうか。正夢になってしまったのだろうか。俺は必死で貴子を探した。しかし、トイレには誰かが入った形跡すらなかった。もしかしたら、貴子は飲み物や食べ物を買いに行ったのかもしれない。そう自分に言い聞かせるようにスマートフォンを確認する。きっと貴子から書置き代わりのメッセージがあるはずだ。
 しかし、そんな都合のいいことがあるわけもなかった。連絡を取っていた貴子のアカウントそのものが削除されていた。

 貴子は本当に鬼に食べられてしまった。鬼に存在ごとなかったことにされてしまった。俺は膝から崩れ落ちた。呼吸も鼓動も全部がおかしくなって、心も体も全部がぐちゃぐちゃになった。
「ごめん、守れなくて」
 そう、俺は守れなかったのだ。怪異が相手ではない。鬼などいるはずもない。貴子が恐れていた殺し屋から貴子を守れなかった。命に代えても守ると言ったはずなのに、貴子を死なせてしまった。
「うあああああ!」
 俺は泣き叫んだ。貴子を殺されてしまった。闇夜に紛れて忍び寄った殺し屋に、無様に昏倒させられて、みすみす貴子を殺されてしまった。殺し屋はその痕跡すらも残さなかったのだ。その殺し屋はありとあらゆる貴子のSNSもトークアプリも全部アカウントを消去して、貴子がいた証ごと葬り去った。その間俺は何もできなかった。
「返せよ! 貴子を返せよ!」
 とっくに現場を立ち去ったであろう殺し屋に向かってありったけの声で叫んだ。頭と全身を掻き毟り、聞き分けのない子供のように地面に転がって地団太を踏みながら泣き喚いた。どんなに泣いても、貴子は戻って来なかった。