母は二年前に逝った。心筋梗塞だった。不整脈は以前より出ていたが、医者も心配いらないと太鼓判を押してくれていたし、本人もさほど気にしていなかった。たぶん病的なものだとは思わなかったのだろう。
早朝、台所に立って朝食の支度の最中に倒れた。辛そうな表情で「大丈夫よ」と息も絶え絶えにつぶやいた。最初の発作でそのまま召されたのだった。
私は慌てて救急車を呼んだ。そのあとのことはあまり覚えていない。まさか、母を奪われるとはこれっぽっちも考えもしなかった。食卓には鯖の塩焼きが、一切れずつ小皿に取り分けられ、それぞれの席に載っていた。私は母の亡骸を寝室に寝かせたまま台所に入ると、放心状態でそれを眺めていた。大学一年のキャンパス生活にも慣れ、ようやく充実してきた暮の寒い朝だった。
喪失感と悲しみ、怒りに苛まれながら一年を過ごした頃、やっと立ち直ることができた。ひとりで生きねば、と決意し、あっという間に今日を迎えたのだ。
高校を出てすぐに就職するつもりでいたのだが、高三の秋に担任に呼び出され、進学を促された。最後の三者面談の際にも担任は母に強く進言した。母はそのとき初めて私の考えを知った。
母は最初から私を進学させたいと思ってくれていたが、私は頑として拒否するつもりだった。母を楽にさせてやりたい。その一念だったから。だが、母の説得についに私のほうが折れたのだ。
思案の末、働きながら通える夜間部への進学を決めた。私立だったが、学費もなんとか母に負担をかけずにやっていけそうだった。深く考えて学部を選択したわけではない。たまたま商学部だったので、在学中に資格を取得するにも好都合だと思い至ったのだ。私は普通高校に入ったことを幾分後悔していた。商業科なら、もう少し就職にも資格を取るにも有利だったかもしれないと思っていたから。
就職を決めて入学するつもりでいたが、母も周りの者も慌てることはないと強く助言をくれ、アルバイトをしながらということにした。早朝の新聞配達から始まって、午前中はファーストフード店で、午後は五時まで飲食店で仕事に勤しんだ。そのあと六時から九時頃まで講義を受ける。私には学生気分など微塵もなく、早く社会に馴染むことしか頭にはなかった。
母の三回忌の法要を済ませて間もなく、得意な英語を生かして翻訳の仕事も請けるようになった。最初はさほどの収入にはならなかったが、そのうち独力で医学の勉強を始め、知識を少しずつ積み重ねつつ今では他のアルバイトは全て辞め、フリーランスで医学専門に絞って翻訳だけで生活費と学費を賄うまでに至った。このまま卒業してもこの仕事だけでじゅうぶんにやっていけるのだが、やはり実社会に身を置きたい。生来の寂しがりやな人好きからか、孤独な作業よりも人とかかわって生きたいと切望している。どこかの翻訳会社に就職するのもひとつの手かもしれないが、別の分野の世界も覗いてみたい、可能性をフルに発揮してみたい願望──否、欲望というべきかもしれない──のほうが勝っている。そして今は就職活動中なのだ。だが、今日ばかりはリクルートスーツは脱ぎ捨ててきたけれど。
「お母さん、お母さん……」
何度かつぶやいてみた。頭の中で母の声が木霊する。
「弘美、好きな人はいないの?」
「うん……まだね」
「どんな人を選ぶのかしらね、弘美は」
「優しい人ね、きっと。現れるかなあ……? 私って、美人じゃないし……」
「あらっ、そんなふうに思ってたの? あなたは美人よ、とても」
「ありがとう、お母さん。それって親の欲目ってやつね。でもいいの、慰めてくれなくても。身のほどは知ってるつもり」
「そうかしら? わからないのは本人ばかりなり、じゃない?」
母はそう言って声を上げて笑った。「そのうち、きっといい人が現れるわよ。あなたみたいな美人、誰もほっとかないのよ。お母さんの娘でしょ」
「もう、娘をからかって……」
私は膨れっ面を見せる。「娘で遊ばないの!」
ゲラゲラ笑っていた母を、私も笑いながら睨みつけてやった。
「弘美……」
「なに、まだなにか?」
私は取り澄ました。
「幸せになるのよ」
母はこちらに優しい眼差しを向けた。私は仕方なく首を折って母を一瞥した。その顔がやけに老けて見えた。母は炬燵を抜け出て夕食の支度に取りかかり始めた。私は何度も母の痩せた後姿に目をやった。とても幸せな気分だったが、それがなぜか私の心に寂しさを誘ってきた。母の頼りなげな背中に一抹の胸騒ぎを覚えたのだった。それが何だったのかわからなかったが、翌朝、母は呆気なく逝ってしまった。今にして思えば、あれが虫の知らせだったのだろうか。
「私、幸せになるからね」
空に向かってささやいた。自然と涙があふれそうになる。しかし、今はぐっと飲み込んだ。母と二人だけの生活を懐かしむ代わりに、私は未来を想像しようと思った。そうすれば、涙はこぼれはしない。
早朝、台所に立って朝食の支度の最中に倒れた。辛そうな表情で「大丈夫よ」と息も絶え絶えにつぶやいた。最初の発作でそのまま召されたのだった。
私は慌てて救急車を呼んだ。そのあとのことはあまり覚えていない。まさか、母を奪われるとはこれっぽっちも考えもしなかった。食卓には鯖の塩焼きが、一切れずつ小皿に取り分けられ、それぞれの席に載っていた。私は母の亡骸を寝室に寝かせたまま台所に入ると、放心状態でそれを眺めていた。大学一年のキャンパス生活にも慣れ、ようやく充実してきた暮の寒い朝だった。
喪失感と悲しみ、怒りに苛まれながら一年を過ごした頃、やっと立ち直ることができた。ひとりで生きねば、と決意し、あっという間に今日を迎えたのだ。
高校を出てすぐに就職するつもりでいたのだが、高三の秋に担任に呼び出され、進学を促された。最後の三者面談の際にも担任は母に強く進言した。母はそのとき初めて私の考えを知った。
母は最初から私を進学させたいと思ってくれていたが、私は頑として拒否するつもりだった。母を楽にさせてやりたい。その一念だったから。だが、母の説得についに私のほうが折れたのだ。
思案の末、働きながら通える夜間部への進学を決めた。私立だったが、学費もなんとか母に負担をかけずにやっていけそうだった。深く考えて学部を選択したわけではない。たまたま商学部だったので、在学中に資格を取得するにも好都合だと思い至ったのだ。私は普通高校に入ったことを幾分後悔していた。商業科なら、もう少し就職にも資格を取るにも有利だったかもしれないと思っていたから。
就職を決めて入学するつもりでいたが、母も周りの者も慌てることはないと強く助言をくれ、アルバイトをしながらということにした。早朝の新聞配達から始まって、午前中はファーストフード店で、午後は五時まで飲食店で仕事に勤しんだ。そのあと六時から九時頃まで講義を受ける。私には学生気分など微塵もなく、早く社会に馴染むことしか頭にはなかった。
母の三回忌の法要を済ませて間もなく、得意な英語を生かして翻訳の仕事も請けるようになった。最初はさほどの収入にはならなかったが、そのうち独力で医学の勉強を始め、知識を少しずつ積み重ねつつ今では他のアルバイトは全て辞め、フリーランスで医学専門に絞って翻訳だけで生活費と学費を賄うまでに至った。このまま卒業してもこの仕事だけでじゅうぶんにやっていけるのだが、やはり実社会に身を置きたい。生来の寂しがりやな人好きからか、孤独な作業よりも人とかかわって生きたいと切望している。どこかの翻訳会社に就職するのもひとつの手かもしれないが、別の分野の世界も覗いてみたい、可能性をフルに発揮してみたい願望──否、欲望というべきかもしれない──のほうが勝っている。そして今は就職活動中なのだ。だが、今日ばかりはリクルートスーツは脱ぎ捨ててきたけれど。
「お母さん、お母さん……」
何度かつぶやいてみた。頭の中で母の声が木霊する。
「弘美、好きな人はいないの?」
「うん……まだね」
「どんな人を選ぶのかしらね、弘美は」
「優しい人ね、きっと。現れるかなあ……? 私って、美人じゃないし……」
「あらっ、そんなふうに思ってたの? あなたは美人よ、とても」
「ありがとう、お母さん。それって親の欲目ってやつね。でもいいの、慰めてくれなくても。身のほどは知ってるつもり」
「そうかしら? わからないのは本人ばかりなり、じゃない?」
母はそう言って声を上げて笑った。「そのうち、きっといい人が現れるわよ。あなたみたいな美人、誰もほっとかないのよ。お母さんの娘でしょ」
「もう、娘をからかって……」
私は膨れっ面を見せる。「娘で遊ばないの!」
ゲラゲラ笑っていた母を、私も笑いながら睨みつけてやった。
「弘美……」
「なに、まだなにか?」
私は取り澄ました。
「幸せになるのよ」
母はこちらに優しい眼差しを向けた。私は仕方なく首を折って母を一瞥した。その顔がやけに老けて見えた。母は炬燵を抜け出て夕食の支度に取りかかり始めた。私は何度も母の痩せた後姿に目をやった。とても幸せな気分だったが、それがなぜか私の心に寂しさを誘ってきた。母の頼りなげな背中に一抹の胸騒ぎを覚えたのだった。それが何だったのかわからなかったが、翌朝、母は呆気なく逝ってしまった。今にして思えば、あれが虫の知らせだったのだろうか。
「私、幸せになるからね」
空に向かってささやいた。自然と涙があふれそうになる。しかし、今はぐっと飲み込んだ。母と二人だけの生活を懐かしむ代わりに、私は未来を想像しようと思った。そうすれば、涙はこぼれはしない。