長月の明け方、まだ月が空に残っているころ、門のそばの薄の陰に、見慣れない直衣を見つけたときは驚いた。だいじな貝を入れた瑠璃の壺を持っていたのに、落っことすところだった。
 ただその若い男の人は、動きやすそうにはしていたけれど、身なりに品のある方だった。
もしかして、約束のあるお客様なのかしら、と思ったの。
「ここにどなたかいます……」
 声を上げかけると、その人は、周りがわたしの声を聞きつける前に、人差し指を口にあてた。
「静かになさい。用事があるんだ。ちょっとこっちへ来てくれないか」
 あやしくなったわね。用事のある人が、こんなところで女童を静かにさせたことがあったかしら。
「明日のことを考えたら、ほんとに忙しくて、落ち着いていられないんです」
 早くこの人から離れたい一心で、早口にそう言ったわたしに、男の人は微笑んだ。
「何をそんなに忙しくしているの。少し時間をおくれ、良い話があるかもしれないよ」
 男の人は身の上を、蔵人の少将といった。
 いま、わたしたちは困っている。うちの姫さまを助けに来てくれたのかもしれない、という期待と、怪しいけれど話を聞いたほうがいい、というすがるような思い、ふたつの気持ちが心にわいて、足を止めてしまった。
 わたしは意を決して、わけを話すことにした。
「うちの姫さまと、腹違いのお姉上の姫さまが、明日貝合をなさるの。そのためにここ何ヶ月か貝を集めていらっしゃるのだけど、あちらの姫さまも、女房を使ってたくさん貝を求めさせています。うちの姫さまについているのは、弟君たったお一人で、このままじゃ、勝てそうもなくて……」
 貝合は、左右に分かれて貝を出し合い、よりきれいな貝や珍しい貝を出してみせたほうが勝ち。うちの姫さまはお母上を早くに亡くされていて、貝を集めるにも、人手もご縁も足りていない。
「今も頼れるところに使いを出そうとしているところで、もう行かなくちゃ……」
 この少将が助けてくれるのかくれないのか、それさえわかったら、さっさと立ち去ろうと思った。それか、場合によっては、わたしが人を呼ばなければいけないかも。
 立ち去るそぶりを見せつつ、待ってみると、少将はこんなことを言う。
「姫君がたがゆっくりしてらっしゃるところ、ちょっと見せてもらえないかな。さっき、だれかがとても素敵に琴を弾いていただろう?」
 あ、これは軽い男の人だ。わたしは眉をひそめた。それが目的だったのね。
 用事があるというのは、きっと出まかせね。さっき姫さまが弾いてらした琴の音を聴きつけて忍び込んだ、というわけじゃないかしら。
 こんな男の人を姫さまに近づけてはいけません、ってお母さまも言っていた。恐ろしくなってきたけれど、わたしは勇気をふりしぼってこう突っぱねた。
「そんなこと、だれかに知られたら、お母さまに叱られるから……」
 すると、少将は笑みを浮かべた。
「わたしは軽々しいことは言わないよ。……姫君を勝たせる、勝たせないは、わたしの心ひとつだけどね」
 そんなことを言う。
「貝集め、助けてくださるってこと?」
「さて、きみの返事次第かな」
 藁にもすがる思いで、深く考えることはできなかった。姫さまを助けてくれるかもしれない、と思うと、ちょっと姫さまをお見せするくらい……なんて、魔が差してしまったの。
 貝合はもう明日、だれかに相談している時間なんて、ない。
「じゃあ、お帰りにならないでくださいね。隠れ場所を作って入っていただきますから、人が起きる前に、ほら早く早く!」
 屋敷の西のあたりに、屏風をたたんで寄せておく場所がある。少将にはその屏風の陰に隠れていただいて、わたしは仕事に戻ることにした。
 女童たちみんなで、なんとか手に入れられた貝を小箱に入れたり、物の蓋に入れたり、バタバタしているところに、姫さまが入ってこられた。
 少将を隠しているところを、ちらりと横目に見る。よかった、だれも気づいていない。ぱっと見たかぎり、そこに人がいるという感じもしないから、このぶんならきっと大丈夫ね。みんな忙しいし。
 それにしても、うちの姫さまは今日もおきれいだわ! 頬杖をついて物憂げにしていると、竹取の姫のように天に帰ってしまいそう。
 あの少将も、こんな可憐なお姿を見たら、助けたい、って思わないわけがない。
 そのとき、姫さまの弟君も戻っておいでになった。男童に小さめの紫檀の箱を持たせて、姫君に見せていらっしゃるけれど、こちらもうかないお顔。
「思い当たるところはくまなく、貝を探して回ってきました。承香殿の御方さまのところに参って、お願いしましたら、この貝をいただくことができたのですが……。上のお姉さまの女房から聞きましたところ、あちらは、藤壺の御方さまからもたくさん貝をいただいたのですって。どれもすばらしいものばかりらしくって、お姉さまはどうなさるのかしらと思うと、帰る途中も気がかりで……」
 弟君は消え入りそうなお声でそうおっしゃって、姫さまもほんとうに心細いご様子。
「上のお姉さま、たいそうものものしく貝をお探しになっておられるようですね」
「内大臣さまの奥方にまで、貝を求めて使いを出されたそうなんです。こちらも母上がいらっしゃったなら……」
 ご姉弟が涙ぐみながら話し合っているとき、来客の気配があった。わたしはだれよりも早くそちらへ向かい、女房が応対している相手がだれかを確認しに行った。
 山吹、紅梅、薄朽葉の色合いのよくない襲が目に入る。男の人の直衣を見つけたときよりも肝が冷えた。
 偵察しに行ってよかった! すばやくみんながいる場所に戻り、声をかける。
「姉君さまがいらっしゃいました! 貝を隠してくださいな!」
 姫さまのそばで控えていた、女童の仲間たちの反応もすばやかった。周囲を厚く壁土で塗りこめた部屋に、集めた貝をぜんぶ隠しおいて、みんなそしらぬ顔をして、姉君を出迎えた。
 やってきた姉君は居丈高なご様子で、姫さまに話しかけられた。
「弟君の持ってこられた貝は? あなたのほうは貝を探すことはされまいと思って、こちらだって少しも探していなかったわけですけど」
 女房から、弟君が貝を探しに行ったことを聞いたのね! 嘘つき、ご自分はもう、貝をたくさん集めて回っていらしたくせに。
 口をはさめない立場が悔しい。
「どこかから譲っていただいたものがあるなら、こちらにも、ちょっとくらいわけていただけないものかしら」
 このうえ姫さまからも取り上げようだなんて、ひどいわ。姉君の、もう勝ちほこったようなお顔がにくたらしかった。周りの女童たちも同じことを考えているにちがいなく、あたりに緊張感が満ちている。
 そのなかで、姫さまがいちばん、落ち着いていらっしゃった。
「ここには、他を探して回った貝なんてありませんわ。弟は、何も持って帰りませんでした」
 そうお返事するご様子の、凛となさっていること。わたし、一生この姫さまについていくわ。
 姉君はしかたなく、あたりをきょろきょろ見回しながら帰っていった。姫さまが終始堂々と対応していらっしゃって、わたしたち仕える者もみんな、冷静になることができた。
 姉君の姿がなくなったところで、わたしははっと少将のことを思い出した。
 人が気づく前に、少将をお出ししないと。そう思ったとき、女童の仲間が三、四人連れ立って、屏風のほうへ近づいた。
 心臓が止まるかと思った。
 ただ、彼女たちは屏風をどうこうするわけではなくて、西の方角を向いて、手を合わせた。
「観音さま、わたしたちの姫さまを、どうか負けさせないでください!」
 お祈りしているだけで、少将の居場所がばれることはなさそう。
 安心すると、笑いがこみ上げて、わたしは袖で口もとを隠した。自分のいるほうに合掌されて、少将はどんな心境でいらっしゃるだろう。
 女童たちの様子を見て、今すぐ少将が見つかることはないだろう、と判断した。いったん少将をほうって、わたしは別用のためにその場を走り去った。
 戻ってきたとき、さっきの女童たちが、姫さまに何ごとか報告しているところだった。
「観音さまにお祈りしていたら、声が聞こえましたよ!」
「貝がないと嘆くことはない、姫さまに心を寄せていますよ、って歌をお詠みになりましたの!」
「きっと観音さまが助けてくださいますよ!」
 わたしは冷や汗を流し、少将が隠れているほうを見た。こんな状況で観音さまのふりをして、人に聞こえるように歌を詠むなんて! 何やってるのかしら、あの人。女童たちが観音さまのお姿を探そうと屏風の陰をのぞいたって、知らないんだから。
 姫さまがどうされるのか、おそるおそる様子をうかがっていると、姫さまはただ、嬉しそうにこうおっしゃる。
「本当かしら。そうなったらいいわね」
 本当に信じていらっしゃるかどうかは、わからない。ただ頬杖をつくのをやめて、女童の話に耳をかたむけているお姿は、とってもお可愛らしい。
 危ない橋をわたる蔵人の少将にはあきれちゃったけれど、わざわざ歌まで詠むなんて、姫さまを助けようとする気持ちは信じられる気がする。
 待ってみよう、と思った。

 その日のうちに、少将は、夕方には自分でぬけ出したみたい。
 そして翌日の夜明けに、早速、お付きの人を連れて戻ってきてくれた。
わたしも少将が戻ってくることを期待して、お屋敷の入り口をそれとなく気にかけていたら、まだ暗いうちに門のあたりに現れたの。
 他の人の目につかないよう気をつけて、駆け寄ると、少将はにっこり笑った。
「ほら、これを」
 うながされたお付きの人が差しだしたものを見て、わたしは目を輝かせた。
 なんてすばらしいの。海岸の景色を模した飾り物と、とてもきれいな小箱。飾り物には文が結びつけられていて、小箱には、金銀とりどりの貝がすき間なく入れられている。
「姉君のいじわるな様子を見ていると、どうにもきみの姫君を勝たせてさしあげたい気持ちになってね」
「ありがとうございます……! これで、姫さまに恥ずかしい思いをおさせすることはないわ……」
 わたしがその贈り物をうやうやしく受け取ると、少将はにやっと笑った。
「だれがやったとわからないように、置いていらっしゃい」
「あくまで、観音さまのしわざということになさるんですね」
 わたしがくすくす笑うと、少将は、そういうこと、とうなずいた。
「……お礼といってはなんだけど、今日の貝合も見たいな」
 そんなことをして、だれかに知られたら、大変なお叱りを受けることはわかってる。でも、わたしは、だいじな姫さまを助けてもらえたのが、嬉しくてしかたなかった。
 なんなら、この方にならうちのだいじな姫さまをお任せしてもいいかもしれない、なんて思ってしまっている。
 こんなすばらしいものを昨日の今日に用意してくださるなんて、きっとお立場の確かな方であるはずだし、心ある方だと思うから。
「昨日の隠れ場所、今日はもっと人が来ませんよ」
 そう伝えてから、飾り物と小箱は南の高欄に置いて、少将を例の場所に隠した。
 そのうち、若い人たちから着飾って、格子を上げて動き回りはじめた。
 わたしも立ち働きながら、高欄のほうをうかがっていると、ようやく声が上がった。
「……これはだれが置いたの?」
 見つかったみたい!
 様子を見に集まった女房や女童にまぎれて、周囲の反応をさぐる。だれだろう、あの人じゃないか、口々に推測するなかに、こんなことを言う女童がいた。
「……もしかして、昨日の観音さまのみわざではないかしら?」
 そうだわ、昨日こんなことがあってね……! 昨日男の人がいるほうに手を合わせていた女童が、その場のみんなに例の出来事を話した。
「まあ、なんて情けぶかいこと!」
「もしかしたら、姉君にも勝てるかもしれないわ!」
 みんな、貝を持ってきたのが観音さまにちがいないと信じて、喜び騒いでいる。他の女童が姫さまに知らせに走ったのを見届けたところで、わたしは、そっとその場を抜け出した。
   *
 高欄で見つかった飾り物には、一枚の文が結びつけてあった。
 わたしに心を寄せてくださったなら、わたしもそのかいある心を寄せましょう。そういった意味の歌が、そこには記されていた。
姫は文を抱きしめ、微笑んだ。
 小さな小さな文字で書かれた歌は、確かに人ならぬものの手かもしれない。けれど、やはりこれは心ある人の助けなのではないか、とも思った。
 もしもそうなら返歌を贈りたい、と姫は思った。だれに届ければよいかわからないけれど、もしもこの貝を用意してくれた人物が明らかになったならば、歌を返せるようにしておきたい。
 観音さまのご加護だと喜ぶ女房や女童を何人か見渡して、姫は、頼む相手を決めた。昨日観音さまの声を聞いたという子たちの中におらず、今も一歩引いて状況を見守っている女童がひとり、目に止まった。
 あの子なら、幼いけれど口もかたいし、聡くて気も利いている。何かわかったら、即座に動いてくれるだろう。
 その女童を呼びよせ、その場で書いた歌を託すと、女童は真剣そのものの表情で引きうけてくれた。
「……姫さま、姉君が到着されました。ご準備を」
 女房から声がかかる。そろそろ、したくを終えねばならない。
 返歌を用意するいっぽう、その出会いそのものが観音さまのお導きかもしれないとも思って、姫は、西の方角に向かってそっと手を合わせた。心細さはすっかりなくなっていて、いよいよ貝合の場へ向かおうとした。
「……負けないで!」
 小さな声が聞こえた。涼やかな、男の人の声だったように思う。
 姫はかすかにぎょっとして、とっさに袖で顔を隠し、声のしたほうを振りかえった。そこにはただ、屏風が重なっているばかり。
「姫さま、お早く!」
 女房が呼んでいる。もう時間がなかった。その声を観音さまのものと信じることにして、姫は背筋を伸ばして歩きだした。