先生の呪文のような声が小さくなっていき、意識が遠のいていくのを感じる。
 今は起きていなければならないと分かっていても、瞼が重くて仕方がない。
「おい、おい、谷川!」
「ふぇっ?」
 突然自分の名前が大きな声で呼ばれ、変な声が出てしまった。
 教室には爆笑の渦が起こる。
「おいおい、谷川が居眠りなんて珍しいな。この単元、先生が好きな所だからちゃんと聞けよー」
 そう言うと黒板の方に体の向きを戻した。
 この先生は居眠りの生徒に厳しいことで有名だ。そのうえノリも良い。居眠りなんかしたら、授業のネタにされるに決まっている。
 はい、と短く小さめの返事をし、気恥ずかしさから前髪をいじった。
「でー、落窪物語って言うのは平安時代のシンデレラストーリーと言われていて……」
 何度も閉じてしまいそうになる目を、手で見開かせながらなんとか「落窪物語」についての授業を受け終わった。
 私と境遇が似ているなと少し親近感が湧いた。
 授業が終わると親友の亜子(あこ)が駆け寄ってくる。
 唯一、私が信頼している人で、私と違って活発で社交的な子だ。亜子の明るさに救われていると言っても過言ではない。
琴葉(ことは)、どうしたの?居眠りなんか珍しいじゃん」
「ごめんね。昨日あんまり寝てなくて」
「そっかぁ。ちゃんと早く寝るんだよ」
 お母さんのような口調に思わず笑みがこぼれる。そして、自分の母がこんなお母さんだったらと思うと、ため息もこぼれてきそうだった。
「亜子こそ、早く寝るんだよ。最近クマが出来てるでしょ」
「あちゃー、バレてるか。上手くコンシーラーで隠したつもりなんだけどな。でも私は夜行性だから大丈夫!その代わりに授業中に睡眠をとればオッケーだから」
 自信満々に右手でグーサインを作る。憎めない可愛い子だな、と素直に感じた。
 私達の高校はいわゆる普通の公立で、校則もかなり緩めだ。
「ねぇねぇ、今日の放課後、どこかに遊びに行かない?久々に部活が休みなんだ。それにこれから文化祭の準備とかで放課後帰るのが遅くなっていきそうだし」
「亜子はバスケ部だったよね。ちゃんと練習に出てるなんて偉いなぁ」
「失礼な!私がちゃんと練習に出ないタイプだと思ってたの?」
「あっ、ごめん。そういう意味じゃなかったんだけど……」
「分かってるよ。褒めてくれたんでしょ?本当に琴葉は良い子なんだから」
 そう言ってニッと笑う亜子は私にとって太陽そのものだった。
 周りにいる人を幸せにできる、そんな亜子に心のどこかで憧れていた。
「誘ってくれてありがとう。でもごめんね。今日は帰ってからしないといけない事がたくさんあって……」
 せっかくの休みなのに断ってしまい申し訳なく感じ、眉を下げた。
 そして私の言葉を聞くなり、亜子の表情が険しくなる。
「大丈夫?」
 短く心配してくれる言葉を言うだけで、深く問い詰めてこないのが、私にはちょうど良くて心地良かった。
 初めて私が事情を打ち明けた時も、ただ黙って頷いているだけだった。それでも、私のことを本気で心配してくれている、という視線を感じた。
 そう。私にはこれくらいがちょうど良い。
「大丈夫だよ。ありがとう」
 私がそう言っても、少し満足していなさそうな表情をしている。
 何か話題を変えなければと思い、亜子が最近できたと言っていた彼氏について聞いてみることにした。
「彼氏さんとはうまくいってるの?」
「えっ?まあまあかな」
 そっぽを向きながら答える亜子の表情が緩んでいる。
 さぞかし幸せなのだろう。
「そうそう!前彼氏がさぁ」
 そうして、亜子の惚気話(のろけばなし)が始まった。
 人の幸せ話を聞くのは案外嫌いではないので、相槌を打ちながら最近あった彼氏との会話の報告を聞く。
 私も彼氏が出来たら幸せになれるのかな、と頭の片隅に思い浮かんだ邪念を振り払った。私はそれ以前にしなければならないことがある。
 私が幸せになるなんて、許される日は来ないのだ。


「えっと……買うものはこれくらいで充分かな」
 亜子からの誘いを丁重に断った後、時間がなかったので制服姿のままスーパーにやって来た。
 今日作る料理は、妹から注文があったグラタンだ。時々、銀座にあるような高級料理店でしか食べることの出来ないような無理難題を言われることがあるので、今回の注文はかなり優しい。
 買うものをレジに通すと、崩れないようバランスを考えながら丁寧に袋詰めした。
 スーパーと家は徒歩圏内なので、いつも歩いて買い物に出かけている。
 玄関に着くと、持っていた合鍵で家の中に入った。
「ただいまー……」
 もちろん誰からも返事はない。
 玄関には自分の脱いだ靴が一足だけ、ぽつんと置いてある。
「さあ、ご飯を作らないと」
 さっき買ったものが詰まっているエコバックを持って、エプロンを付け、台所へ向かう。
「いま六時……、早く作らないと皆が帰ってきちゃう」
 そう言って自分を奮い立たせ、あかぎれがたくさんできた手を一生懸命動かした。
 グラタンは、ママが昔よく作ってくれた得意料理だったらしく、赤いグラタン皿が私用のお皿だった。そんなこともあってか、私の得意料理でもある。
 そんな思い出の余韻に浸りながら作業していると、いつの間にかグラタンは完成していた。
 グラタンに合うよう、今日の汁物はポトフを作っている。
 後はこれが煮込み終わるのを待つだけだ。
 ふう、と短く息を吐きだすと、学校の課題が残っていることに気づいてリビングで勉強することにした。
 いつも、このような合間の時間にコツコツ勉強をしてなんとか課題を終わらせている。
 ふと、亜子は今日私が誘いを断って、どのような放課後を過ごしたのか気になった。
 学校のカバンに入れたままだったスマホを取り出す。そして、リンスタのアプリを開くと、亜子のストーリーが更新されていた。
『デートちゅう』
 そんな文字とともに、大きさの違う二つの手がハートを作っている写真もあった。
 公認カップルなんだから匂わせても意味ないのに、と苦笑いする。
 白くてほっそりとした手の方が亜子だ。あかぎれの出来た自分の手と比べると、天と地の差だ。自分もちゃんと保湿クリームを塗っておこう、と思った。
 何はともあれ、亜子にとって大切な部活が休みな日を、私のせいで楽しくないものとならなくてよかった、と安心する。
 スマホを置いて、課題を進めるためテキストと向き合った。
 そこで、ピンポーン、とチャイムが鳴る。
 しまった。もう帰ってきてしまったのか。まだ配膳を済ませていない。時計を見ると、今日はいつもより帰ってくるのが三十分ほど早かった。
 スリッパをパタパタとさせながら、急いで玄関まで向かう。
「今開けます」
 そう言いながら上下に二つある鍵を開ける。
「出てくるの遅い」
 妹が今日私に向かって発した第一声はこれだった。
 鋭い突き刺すような視線が痛い。
「ごめんなさい。勉強してて……」
「別に、言い訳なんて聞きたくないし」
「……」
「母さんとお父さん、もうすぐ帰ってくるって連絡来てたから。それより、はやく家の中入らせてくれない?寒いんだけど」
 スマホを片手に、冷たく私に言い放つ。
 慌てて玄関から数歩下がった。
 通り過ぎるときも何も言わず、ただ黙ってリビングに向かう。
「私には連絡来てなかったんだけどな……」
 誰にも聞こえないよう、小さな声で呟いた。
 中学二年生という絶賛反抗期の妹の理桜(りお)ちゃんから、冷たくあしらわれるのは慣れている。いや、慣れているという訳ではないが、反抗期だから仕方がない、と割切りることが出来る。
 それでも少し悲しさを感じつつ、もうすぐお母さんとパパが帰ってくるらしいので、晩ご飯の準備をするためリビングに戻った。
「ねえ琴葉、今日リビングで勉強したの?」
「えっと、うん」
「やっぱり。机の上の消しカス汚いから、ちゃんと綺麗にしてよ」
「……うん。綺麗にしとくね」
 そこで理桜ちゃんは自分が綺麗にしてあげようとは思わなかったのか、と少しムカついた。自分が出したごみは、自分が綺麗にするのが当たり前なので、自分が怒れる立場ではないのだが。
 また何か言われる前に、机の上を急いで綺麗にした。
 そしてキッチンに戻り、食器を出してポトフを家族四人分に綺麗に分ける。
 よそったものを一人でダイニングテーブルまで運んだ。
 その間、理桜ちゃんはソファーでゆっくりとくつろいでいる。
「ただいま」
 全てを運び終わった後、お母さんとパパが同時に帰って来た。
「お帰りなさい」
 そう言って二度目の出迎えに向かう。
「今日のご飯は?」
 パパが凝った肩をほぐしながら聞いてきた。
「今日のご飯はグラタンとポトフだよ。前に理桜ちゃんから注文を貰ったから」
「へえ、そうなのか。琴葉のグラタンは美味しいからな」
 褒められて気恥ずかしさを感じる。
 そこに、横からお母さんが割って入って来た。
「でも、美味しいと口に合うは違うからねえ。家庭料理は口に合わないといけないのだから」
「お母さん……」
「琴葉、もちろん準備は出来ているんでしょう?」
「あっ、はい」
 私は、お母さんが怖い。一度目を合わせてしまうと「はい」と「いいえ」しか言えなくなる。
 靴を脱ぐと、手を洗って二人もリビングに来た。
 ダイニングテーブルに並んだグラタンやポトフから湯気が立ち上っている。
 前に一度、早く配膳をしすぎて怒られたことがあるのだ。そんなに温かいご飯が食べたいのであれば、理桜ちゃんにいつ帰るのかを伝えるのではなく、直接私に伝えてくれればいいものを、一度理桜ちゃんを経由して伝えてくる。それは、私と無駄なやり取りをしたくないという意思の表れだろう。
「理桜ちゃん、ご飯食べるわよ」
 お母さんが声をかけると、はーい、と間抜けな返事をして家族全員が席に着いた。
 メニューを見るなり、理桜ちゃんがとてもいやそうな顔をする。
「ねえ、なんで今日グラタンなの?」
「えっ……、前に理桜ちゃんが食べたいって言ってたから……」
「そんなの言ったのめっちゃ前じゃん。なんで今作るの?気分が変わってるに決まってんでしょ」
「ごめんなさい……」
「もう良いや。今日は自分でカップラーメンでも作るから。グラタン食べないから捨てといて」
 そう吐き捨てて、二階にある自分の部屋に戻っていった。
 理桜ちゃんが家に帰って来てから、私はご飯の準備をしたり、配膳をしたりしていたので今日の献立は知っていたはずなのに、どうして今更怒ったのだろう。早めに言ってくれたら理桜ちゃんだけ別に簡単なものを作ることが出来たのに。
 机の上に残された、一口も手を付けていない理桜ちゃんの分の晩ご飯に目を落とす。
「家族が満足する料理もまともに作れないなんてねぇ。こんなのでお嫁に行けるのかしら。一生実家暮らしね」
 私の席の前に座っているお母さんから、また小言を言われてしまった。
 下唇を強く噛んで、お母さんと目線を合わせないように下を向く。
 味のしないグラタンを必死に喉に流し込んだ。

 
 薄暗い部屋の中で、私が食器をカチャカチャと鳴らす音だけが聞こえる。
「はぁ」
 理桜ちゃんに喜んでもらえるかもしれない。そんな淡い期待を持ちながら作ったグラタン。さすがに捨てる訳にはいかないので、私の明日の弁当行きだ。
 シンクの中に食器を残したまま次の日を迎えると、朝っぱらからお母さんに怒られないといけないので、みんなが寝た頃に一人悲しく洗っている。
 食器をすべて洗い終わると、手を拭いて自室のベッドにダイブした。
 すかさず隣の部屋から「うるさい」と罵声が飛んでくる。理桜ちゃんはどうやらまだ起きていたらしい。
 物音を立てないように布団の中に潜り込むと、やっと一日が終わったんだ、と脱力感に襲われた。
 そう言えば昨日は全然寝ることが出来なかった。今日は授業中にも寝てしまったし、自分も相当疲れているのだろう。
今日はスマホをつつく暇もなく、意識がプツリと途切れてしまった。


 元々私は、ママとパパとの幸せな三人家族だった。
 ママはピアノの先生で、パパはサラリーマンという、どこからどう見ても普通の家族。
 しかし、私が三歳の頃にママはいなくなってしまった。パパ曰く、もともとママは病弱だったらしい。
 そこからはパパと私の父子家庭となる。パパは遅くまで仕事で忙しかったりしたので、小学校高学年の頃にはある程度の家事は自分一人でこなせるようになっていた。特にグラタンはパパのお気に入りで、これを作ってパパを家で待っている日が多かった。グラタンを作った日は決まってこう言う。
『琴葉がママのご飯の味を覚えてる訳ないのに、ママの味に似ているなぁ』
 と。
 料理は特に私の得意分野で、家庭科の先生によく褒められていた。
 そんな生活が続いていたある日。パパは今のお母さんを連れて来た。その時の私は中学生だった。
『パパ、この人と再婚しようと思っているんだ』
 その言葉を聞いた時の動揺は今でも鮮明に思い出せる。
 もちろん簡単に受け入れることは出来なかった。それでも、パパが今まで妻という存在がいなくて苦労してきたのを一番近くで見ていたのは私なので、最終的には頷くしかなかった。
 私の家は一軒家だったので、そこにアパートに住んでいたお母さん達が引っ越してきた形だ。お母さんは一度、ある男性と離婚しているそうで、理桜ちゃんはその方との間に出来た子である。
 しかし、最初の頃こそは仲睦まじい家族だったが、次第にお母さんが私の事を良く思わないようになっていった。大きな原因として、パパが私の事を過剰に可愛がるからだろう。お母さんは今まで我が娘の理桜ちゃんが世界一可愛いと思っていた。まあ確かに、理桜ちゃんの方が整った顔立ちをしているし、そこは間違っていない。そんなお母さんの前で、パパが私の事を可愛がったので、標的はパパではなく私に向いた。
 仕事が忙しいからという理由で、半強制的に家事を代行させたり、ひどい悪口を言ってくる。
 家事を押し付けてくる分ついては、何の文句も無い。別に今まで通りご飯を作って家族の帰りを待つだけだ。それに得意分野だと自負しているだけあって、家事をしているときはひたすら手を動かす事だけに集中できるし、苦痛も無い。何なら、お母さんの代わりにしてあげようと自分から進み出ようと思っていたぐらいだ。だが、罵声が飛んでくるのは我慢ならなかった。
 どんどん私の心は擦りてっていき、それを感じたお母さんからのいじめは激しくなる一方だ。
 気の弱いパパは、何も言い返すことが出来ず現状は変わらないままだ。
 そんなこんなで、私の家はお母さんと理桜ちゃんが強い権力を握っている。
 私の心の拠り所は、この事情を知っていていつも励ましてくれる亜子だけなのだ。

 
 学校に近づくにつれ、制服姿の生徒が目立つようになってきた。
 家から高校までは自転車で行っている。徒歩でも全然歩ける距離なのだが、学校が終わった後は高速で家まで帰らなければならないため、自転車通学だ。
歩いている生徒を颯爽と抜かし、校内の駐輪場に停めた。
「琴葉じゃーん、おはよ」
 不意にかけられた声に、ビクッと肩を震わせた。
「あっ、亜子か。誰かと思ったよ。おはよう」
 まあ実際のところ、私に挨拶をしてくれる子なんて亜子しかいない訳だが。
「えへへ、急に声かけてごめんね。一緒に教室行こー」
「うん」
 半歩先を歩く亜子の背中について行く。
「そう言えば、昨日は彼氏さんとデートしたんだね」
 何か話題を振らなければと思い、昨日リンスタのストーリーで得た情報を口にした。
「そうそう!ストーリー見てくれたんだ」
 嬉しそうに微笑んでくる。
「そう言えば、琴葉って私の彼氏の顔と名前ってはっきり分かる?」
「えっとー、同じ学年で隣のクラスのだったよね?たしかバスケ部つながりで……?」
「うん。時々女バスと男バスが一緒の時間に体育館を使う時があってね。その時に、まあなんと言いますか……出会いまして」
 うん、と軽く頷く。
「でも、どうして急に?」
 どうしてこんな質問をしてくるのかが分からず、疑問に思う。
「あー、それは……琴葉にとってちょっと迷惑かも知れないんだけど……」
 少し言いづらそうに、言葉をつっかえさせる。
「私は大丈夫だよ?」
 そう言うと、意を決したように話し始めた。
世成(せな)って言うのが私の彼氏の名前なんだけど、世成の友達がお前の彼女が見てみたい、って言って、一回だけ世成とその友達二人でこっそり私達の教室まで来たことがあるんだって」
「はぁ」
 話の展開がつかめず、あやふやな返事を入れる。
「で、その友達が私と話していた琴葉に一目惚れしたらしく……」
「えっ、私⁉」
「だからその友達に琴葉の連絡先を聴いて来るように頼まれた、と昨日私の彼氏が言っていて……」
「そ、そんなの無理だよ。無理無理、絶対に無理」
 強く首を横に振って否定する。
 一目惚れなんて本当にあるわけがない。それに急に連絡先を交換しようとするなんて、どこのチャラ男だ。
「あー、ごめん。やっぱそうだよね。早いうちにお断りのメール送っとくね」
 苦笑いを浮かべる亜子を見ると、少し態度が悪かったかもしれないと反省した。
 ポケットからスマホを取り出している所を見るに、今メールを送ってくれているのだろう。
 安心し、ほっと胸をなでおろした。
 私みたいな人に一目惚れしたのは何かの間違いだ。地味だし、何のとりえもない容姿をしている。
「ごめんね。伝えない方が良かったかも。正直言って困ったでしょ?」
「えーっと……、まあまあ困ったかな」
「だよね、ホントごめん。あっ、でも自己肯定感下げるようなこと考えてないよね?琴葉は可愛いんだから。自分は可愛くないからとか考えないでよ!」
 亜子が言うことはもっともだが、可愛くない人にいくら可愛いと言ったとしても、可愛くないままだ。
 取り合えず、ありがとう、と言って愛想笑いをした。
「さ、教室入ろっか。この瞬間って、今日一日が始まったって感じするよねー」
「そうだね」
 今日一日は、いつもとは少し違う一日になる。どこからともなく、そんな自信が湧きてきた。

 
 授業が終わってお昼ご飯の時間になる。
「琴葉ー、お弁当食べよ」
「うん。そだね」
 亜子が私の席の近くまでイスを運んでくる。
 そして近くにあった誰かの机を拝借し、二人が向き合うように机をくっつけた。
「ふぁー、午前中の授業は疲れたなぁ。午後の方がまだまし」
 そう言って大きなあくびとともに伸びをした。
 どうせ授業寝てたくせに、と心の中で突っ込む。
「私も今日の午前中は長く感じたな。特にさっきの先生は声が優しいから眠たくなっちゃって、ついついウトウトしちゃった」
「それなぁ。授業中寝るなって言うんだったらもっと鬼みたいな声で授業しろっつーの。私達を寝させる気満々でしょ。子守歌聞いてる気分だったよ」
「ふふ、鬼みたいな声ってどんな声なの?」
「えー、がなりとかしゃくりとかがたくさん入ってる声とか?」
 少し怒りながら話す亜子が面白くて噴き出してしまった。
 ランチバックの中に入れていた弁当箱を取り出す。毎日自分が作っているので、今日は何が入って入るのだろうというドキドキが味わえない。
 タッパーを開け、机の上にコトリと置く。
「えー、美味しそう。羨ましい」
「ありがとう。昨日の残り物なんだけどね」
 スプーンの先で、グラタンのチーズの部分をつつく。顎が鍛えられそうだ。
「えっと……昨日の晩ご飯も琴葉が作ったの?」
 聞きにくそうに尋ねてくる。
「うん、基本私かな。昨日は反抗期の妹ちゃんが晩ご飯はいらない、って言って一人分が丸々余っちゃって」
 扱いにくくて困っちゃうよ、とヘラッと笑って見せた。
「そうなんだ……」
 私を気遣うような視線に、誤解を解かなければ、と訂正し直した。
「亜子、私は別にご飯を作ることが嫌じゃないの。毎日嫌味を言われることが嫌なだけだから」
 亜子が黙って俯いてしまった。
「えへへ、何かごめんね。場がしらけっちゃった。さっ、お弁当食べようか」
 亜子がここまで無口になるのは珍しい。
 でも私が気を使ったら、亜子がもっと気まずくなってしまうと思い、あえて何も触れなかった。
 二人ともお弁当を食べ終えたとこで、こんな案を亜子に持ち出す。
「ねぇ、ちょっと校内散歩しない?何気に休憩時間教室から出たことないよな、って思って」
「あー、うん。良いね。今日は天気良いし」
 手元から、窓の外に視線を移した。
「そう来なくっちゃ」
 イスから立ち上がり、教室から出るために後ろのドアに向かった。
 今日はいつも以上にドアに人が溜まっている。
 あそこの中を突っ切らないといけないのか、と思うと少しげっそりした。
 大きい声で会話をしていたので、嫌でも内容が聞こえる。
「ねえ、あの亜子ちゃんの彼氏の隣の男の子、イケメンで有名な子だよねぇ」
「そうそう。亜子ちゃんの彼氏さんも負けず劣らずのイケメンだね」
「なんでわざわざ私達の教室来たんだろ?亜子ちゃんに会いに来たのかな?」
「かもしれないねぇ。亜子ちゃん呼びに行く?」
 そこまで言ったところで、話していた女子達は後ろに立っていた亜子と私に気づいたようで、笑顔で亜子の背中を押した。
「亜子ちゃん、彼氏さんが来たよ」
 なぜ急に亜子の彼氏さんが私達の教室を訪ねてくるのかが分からない。わざわざ、教室にまで来てイチャイチャするようなバカップルではなかったはずだ。
「琴葉……、世成達が急に来たの、琴葉狙いな気がする」
 深刻そうな顔で私を見つめる。
「えっ、何で私?」
「ほら、今日の朝言ったじゃん。琴葉に一目惚れしたから連絡先を教えて欲しい、って言ってきたチャラ男。あいつが来てる」
「えっ、もしかして、結構まじ、な感じ?」
「そんな感じっぽい」
 額に手を当てた。厄介なことに巻き込まれたかもしれない。
「取り合えず、私が追い払ってくるから、琴葉は待ってて」
 そう言い残すと、教室を出たすぐそばに立っている二人の男の子に近づいていった。
 こういう時に亜子は心強い。その勇敢な背中に見惚れそうになった。
 離れたところからなのでなんとなくしか状況が把握できないが、亜子とたくさん話している方が亜子の彼氏で、その横に立っているのが私と連絡先を交換したいと言っていた男の子で間違いないだろう。
 戦況を見守っていると、亜子が教室に帰って来た。
「ど、どうだった?追い返せた?」
「いや、あのチャラ男、一回でいいから琴葉と話させてほしいって強情で。琴葉からはっきり、無理、って伝えてくれない?あれじゃ一生帰りそうにないや」
 世成の奴め、何で連れて来たの、と小言で呟いている。亜子はそうとうご立腹なようだ。これが原因で大きな喧嘩に繋がらないと良いのだが。
「わ、分かったよ。はっきりと断りに行く」
「ごめんね。私もついて行くから」
 ありがとう、と笑顔になる。
 スカートをキュッと握りしめて、男の子達のところに向かった。
「あっ、やっと来てくれたんだ。谷川琴葉ちゃん、だよね。よろしく。俺、(らい)っていいます。ちなみに、これ苗字じゃなくて名前なんで。良く間違えられるんだよね」
 さわやかな笑顔で私に右手を差し出してきた。
 この人が私に連絡先を訪ねてきた人なのか。今まで告白されたことなどないし、現実味がなく、照れてしまったりなどは特に感じなかった。
「あのっ、私……」
 それよりも、早く断らないといけないという使命感に駆られ、声が裏返ってしまう。
「うん、何?」
 頭を傾げられる。
 隣にいる亜子は世成さんのことを睨んでいるし、世成さんは気まずそうに眼を泳がせていた。
 私の心拍数が最高点に到達した時、ピンポンパンポーンと間抜けな音が校内に鳴り響く。
『えー、男バス、女バス、各部員はバスケットゴールの取替えに当たり、伝えなければならないことがあるので、至急体育館に集まってください。男バス、女バス各部員は全員集まってください』
 この声は、バスケ部の顧問だ。
 ということは、亜子も世成さんも行ってしまうという事だろうか。
 この状況で頼さんと一対一なんて無理に決まっている。
 すがるような目で亜子を見た。
「ごめん琴葉……この場にいたい気持ちは山々なんだけど、あの顧問怖いから早くいかないといけなくって……。ホントにごめん。すぐ帰ってくるから。ほら、世成も行くよ」
「あーっ、痛いって!ごめん、謝るから……」
 世成さんの耳をがっしりと掴んで、亜子は体育館へと向かった。
 私は唖然としてその背中を見送ることしかできなかった。

 
 涼しい風が私の頬を撫でる。
 これが秋風というものか、と思うと感慨深い。私が高校に入学してから、もう七ヶ月も経っているのだ。時間の経過が恐ろしい。
「どうー?屋上に出るの、初めてでしょ?」
 鍵を片手に、頼さんが私の方を向く。
「は、はい。あの、屋上に出ても大丈夫なんですか?人が多かったから場所を移動したいのは分かるけど、わざわざここまで来なくても……」
 あの後、どんどん野次馬が多くなっていったのだ。何て言ったって、相手は学年一美形と謳われている頼さん。頼さんは人目に慣れているのか、平気そうな顔をしていたが、私は平静を装いきることが出来なかった。
 それを見計らった頼さんが、私をここに連れて来た。
「あー、うん。気にしないで。俺、天体部なんだよね。屋上の鍵は天体部が管理することになってるんだ。部活以外でここに来ることは禁止されてるんだけど」
 そう言うと、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「わっ、私は帰ります」
 学校の規則に背くなど言語両断だ。もし誰か生徒に見られて先生にチクられたらどうすればいい?家でも学校でも居場所がなくなるなんて散々だ。せめて学校では出来る限りいい子ちゃんでいたい。
「琴葉ちゃんは真面目だなぁ。大丈夫だよ、俺バレたことないし」
「そういう問題じゃなくて……」
「それに。今から部活したらいいじゃん」
 どこからともなくレジャーシートを引っ張り出してきて、地面の上に敷いた。
 その上に頼さんがゴロンと転がる。
「もう一枚レジャーシートあるから、お隣どうぞ」
「私は、遠慮しときます。頼さんだけでどうぞ」
 つれないなぁ、と困ったような笑みを浮かべる。
「さん呼び禁止にしよう。なんか堅苦しいし。君、または呼び捨てでどうぞ」
「えぇ……?」
 呼び捨てはハードルが高すぎる。
「頼君、で」
「じゃあ俺は琴葉、で」
「えっ、さん呼び禁止にするだけじゃないんですか?」
「けど極力短い方が名前呼びやすいし」
 眩しそうに空を見つめる頼君を見ると、何も言えなくなってしまった。
「じゃあ……お好きにどうぞ」
「ありがとう、琴葉」
 そこからは、会話が途切れてしまった。
 何でもかんでもぐいぐいくる人だと思っていたので、少し拍子抜けした。
 でも、今の私には丁度心地よい距離感かもしれない。
 そこでやっと初めて頼君の顔をまじまじと見つめた。
 少し茶色い髪の毛に、キレイな鼻筋、そして薄い唇。吹き出物一つない頬は、まるで赤ちゃんの肌のようだった。
「そう言えば、天体ってこんな真昼間に観察して、何かあるの?」
 いつの間にか、自分の口から発せられた言葉は敬語ではなくなっていた。
 けれど、頼君はそんなことに気にする様子もなく話し始める。
「特にはないけど、こんな青々とした空が、夜になると一面星になると考えると、すごいよなぁ、って」
「なるほど?」
 いまいちピンとこなかった。
「ねぇ、それ絶対分かってない人の返事だって」
 お腹を抱えて笑い出した。
「えっ、そっ、そんな笑う事じゃないでしょ」
「いやいや、基本俺部活一人だから、こうやって部活中誰かと話すのが新鮮で」
「幽霊部員ばっかりなの?」
「いや、俺しかいないんだ。中学校の頃仲が良かった先輩達が天体部だからここに入ったんだけど、受験勉強で即離脱しちゃってさ。一個上の学年の部員はいないし、一年生も俺だけだから、俺一人って訳」
「そうなんだ……」
 その環境が、頼君にとってはどのようなものなのかが分からない。一人しかいなくて寂しいのか、それとも静かに天体観測出来て幸せなのか。でも、楽しそうにずっと空を見つめていた頼君からは、寂しいという感情は読み取れなかった。
「さぁ、俺の事はたくさん話したことだし、次は琴葉の番。何でもいいから、琴葉の事、聞かせてほしい」
 寝そべっていた体勢から座りなおすと、私の方を真っすぐに見つめてきた。
「私……?特には無いんだけど……」
「趣味とかの話、聞かせてよ。日常の事とかでも全然かまわないし」
「趣味……」
 亜子からは聞き上手と太鼓判を押されている。そんな私が急に何か話せと言われても難しい。
「うーん、だったら俺が話題振る。じゃあ、昨日の晩ご飯で!」
 子どもっぽいテーマに笑ってしまう。
 昨日作ったご飯か、と記憶を遡らせた。
「昨日は、グラタンを作ったかな」
「えっ、作ったって、琴葉が?」
「一応……」
 想像以上に驚かれて、そんなに意外なのか、と悲しくなる。
「へぇ、料理するのが好きなんだ。じゃあ、お菓子作りとかも?」
「うーん、作ろうと思ったら作れるだろうけど、普段は全然作らないかな。本当に普通の家庭料理が専門だから」
 お母さんには、まだ家庭料理として認めてもらえていないのだが。
 そんなことを思い出すとため息が出そうだった。
「そうなんだ。俺、琴葉の料理食べてみたいかも」
「えっ、そんなに美味しくないよ」
「美味しくなくても、鼻つまみながら食べるよ」
 そう言いながら鼻をつまんで見せた。
「ちょっと!馬鹿にしないで」
「へへっ、ごめんって」
 いたずらっぽく笑う頼君を見ていると、無意識のうちに口角が上がる。
でも誰かに私の作るご飯が欲しいと言われたのは久しぶりだった。
今、この一言で私が頼君にとって必要な人間である、と認められたような気持ちになった。
「頼君、ありがとう」
「えっ、何急に?」
「最近、よく妹に私の作ったご飯が残されるようになって。私の作ったご飯が食べたいって頼君が言ってくれて、嬉しかったよ」
 苦しい気持ちを噛みしめながら、精一杯の笑顔で頼君にお礼をする。
「そっか。それは辛いな。妹さん、今何歳?」
「中学二年生。ちょっと難しいお年頃に入っちゃったから。それに、色々と家庭環境が複雑で……」
 どうしてだろう。この人に私の家庭の事なんて話すつもりもなかったのに、いつの間にか話してしまっていた。亜子でさえ、初めて言う時はかなりためらった。
 それでも、頼君は私の話をしっかりと受け止めてくれるような気がした。
 頼君が息を吸って、少し間が開いた。
 少し話しづらそうに、口を動かす。
「俺にも妹がいてさ、年子なもんだから、わーわーギャーギャーうるさいんだよ。俺の事、この世の誰よりも嫌い、って目で睨んでくるから」
「そうなんだ。睨まれるの、私と一緒だ」
 理桜ちゃんの瞳で見つめられたら、怖くてしばらくの間立ちすくんでしまうほどだ。
「うーん。難しいよな。誰かに分かった気になられるのが一番ウザいし、でも俺から言えるのは」
「言えるのは?」
「困ったときは、亜子でも俺でも世成でも誰でもいいから、友達に助けを乞うこと」
「えっ」
 思ってもみなかったセリフに驚きが隠せない。
「なんだよ。えっ、って」
「いや、意外とカッコつけでキザなんだなーって」
「うわっ、琴葉ひどい。せっかく人が勇気出して言ったのに」
「あはは、ごめん」
 面白くて涙が出てきた。
 数分前に出会った人とは思えないほど親近感がある。それはやはり、この人のコミュニケーション能力にあるのだろう。
 頼君が、次に私が話すべき内容を引き出してくれているような気がする。
「あっ、やっと笑った」
「え?」
「えくぼ、可愛いね」
 右手を自分の頬に当てた。
 そうか。自分の顔にはえくぼがあったのか。
「ありがとう。自分が笑ったらえくぼが出来るの、忘れてた気がする」
「琴葉、いつも口角を少し上げるだけの愛想笑いだから、えくぼが出てこなかったんじゃないかな?」
「うん。ありがとう」
 でも、と少し引っかかった。
「何?」
「いつも、って?もしかしてストーカ……」
 私がそこまで言うと、頼君が慌てて否定する。
「違う違う!それは、語弊が……」
「ウソウソ、冗談だよ」
 拗ねたように目線をずらした。
 見た目に反して、案外子供っぽいところがある。それでいて、一緒にいて場を盛り上げてくれる、少しマイペースな頼君が、もし私の友達だったらどんなに充実した毎日になるのだろうと考えずにはいられなかった。
「ねぇ、頼君。私からお願いです。連絡先、交換してください。あと、もしよかったらお友達になってください」
 えっ、と驚いたような表情をされる。
「ほんとに連絡先交換してもらえるとは思ってなかった」
「えっ、連絡先を交換するのが本来の目的じゃなかったの?」
「いや、そうだけど……」
 困ったように後頭部を掻いている。
 もしかしたら「一目惚れした」というのはただの口実であって、実際は違うのかもしれない。
「何か、他に理由があったの?」
「うーん、まあ、そんな感じ」
 曖昧に答えられてもやっとする。言うなら最後まで言って欲しい。
「気になるよ。はっきり言って欲しいな」
「いや、別に隠すほどの事では無いんだけど……世成と亜子が付き合ってすぐぐらいの時から、琴葉の事は時々見てて、あの子可愛いなー、ぐらいにね」
「っ……」
 本人の目の前でそんなこと言わないで欲しい。照れてしまうじゃないか。
「でも、最近見ててあんまり元気なくなってたから、声かけたくて」
 なるほど。確かに最近にかけて、お母さんから悪口を言われる回数が増えている気がする。
 そんなことにも自分で気づけないなんて、私もとうとうおかしくなったのかも知れない。
「その……強引な手口使ったのは本当にごめんなんだけど……。でも、一つ言い訳してもいいですか?」
「いい、けど」
「これ企んだのは八割方が世成だから。俺は実行犯だけど、あいつも共犯だから。怒るならあいつと一緒に怒られたいです」
 怒られた子犬のようで、思わず笑ってしまう。
「別に、もういいよ。世成さんが無理やりでもこうしてなかった限り、わたしは頼君と今話せていなかっただろうし。それに、頼君がやっぱりストーカーみたいに人にことを見てたって分かったからね」
「ん……」
 図星を突かれたような表情を浮かべる。
 どうやら人の事をジロジロ見ていた自覚はあったようだ。
 そこでちょうど予鈴が鳴った。
「もうそろそろ教室帰るか。今日は話せて楽しかったよ。また連絡する」
「あっ、ありがとう」
 そんな短いやり取りをした後、しっかり施錠をして、二人ともそれぞれの教室に戻った。

 
 自転車を走らせながら、今日はとんでもないことがあったな、と思い返す。
 あの後、部活の話し合いから帰って来た亜子に事情を説明するのには骨が折れた。「どうして屋上にいたのか」「頼というやつとは一体どのような感じになったのか」などなど、それはほとんど尋問に近い形だったような気がする。しかもそれは、放課後までの延長戦にもつれ込んだ。
 私自身も、頼君とはあやふやに終わってしまったような気がして、友達なのか、またはそれ以下なのかは分かっていない。
 掴みどころがなかったが、悪い人ではないと思う。
 赤信号で止まったところで、腕時計で時間を確認する。いつもより、帰る時間が三十分ほど遅くなってしまいそうだ。
 買い物も昨日のうちに済ませているし、今日は手の込んだものを作る予定ではなかったので、多少は大丈夫だろう。
 家に着くと端の方に自転車を止め、玄関の鍵を開ける。
「ん?あれ?」
 鍵を回すと、既に鍵は開いていた。
 いつも家を最後に出るのは理桜ちゃんなので、鍵を閉めるのを忘れてしまったのかもしれない。
 私から咎めることは出来ないので、特に気にすることなく家に入った。
「ただいまー」
 いつも通り誰からの返事も無いままだ。
 だが、今日はいつもと違っていた。足元に視線を落とすと、理桜ちゃんとお母さんの靴が置かれてある。
 血の気が引いていき、冷や汗が出てきた。いつもなら、まだこの時間は家に帰ってきていないはずだ。
 恐る恐るリビングへと向かう。
「あらぁ~、遅かったわね。いつもこのくらいの時間には帰ってるって言っていたけど、嘘をついてたのかしら」
 ソファーでくつろいでいたお母さんが、そう言いながら私に近寄ってきた。
「……お、お母さん」
「あら、何?そんな小さい声じゃ聞こえないわよ」
 目を合わせたら駄目だ。
 爪が食い込んでしまうほど、強く手を握りしめた。どうすれば、お母さんは早く退散してくれるだろうか。
「きょ、今日は仕事が終わるの、いつもより早かったんですね。えっと、理桜ちゃんももう帰って来てるみたいだし、今日は早くお風呂のお湯張ってきますね」
 急ぎ足で脱衣所に逃げ込んだ。
 手が震えて、思うように動かせない。
 はぁ、と盛大なため息を漏らす。
 早く帰ったり、いつもと違う時は直接私に連絡して欲しい。そうしてくれていたら、今日もちゃんと早く家に帰っていたのに。
 お風呂の準備をすると、リビングに戻って晩ご飯の準備を始めた。


「頂きます」
 家族四人が揃ったところで、晩ご飯を食べ始める。
 今日は理桜ちゃんも、私の作ったご飯を食べてくれた。
 麺をすする音と、ゴールデンタイムの番組の司会者の声以外は何もしない。
 この雰囲気だけは一向に慣れる気がしなかった。これならまだ一人の方がくつろぐことが出来る気がする。
「そう言えば」
 と、パパが口を開いた。
「琴葉はもうそろそろ文化祭じゃなかったか?再来週の土曜日だったっけ?」
「あ……、うん」
 家族のだれにも話していなかったのに、なぜ知っているのか疑問を抱く。
 もしかしたら、勝手に行事予定表を見たのかもしれない。
「だよな。パパは行くつもりだったんだけど、理桜ちゃんとお母さんも一緒に行くか?」
「「「えっ」」」
 その場にいる全員が顔を引きつらせた。
「私は行かない」
 真っ先に理桜ちゃんが否定した。
「私だって行かないわ。だってその日は理桜ちゃんの運動会の日でしょう」
「あっ、理桜ちゃん、運動会があったのか」
「なっ!あなた、知らなかったわけ?」
「すまん、すまん。分かった、その日は理桜ちゃんの運動会を見に行こう。琴葉、ごめんな」
 大丈夫、と首を振った。
 お母さんと理桜ちゃんが来たら大変なことになるに決まっている。来ないことになって安心した。
 でも、心の中で少し寂しく思ってしまっている自分もいる。今まで授業参観などで見てきた、温かい家族像が私の頭の中から離れない。
「そうそう。今日、琴葉家に帰ってくるのが遅かったのよねぇ。まだ理由を聞いていなかったわ」
 思い出してしまったのか、と心の中で舌打ちをした。
「放課後に遊ぶなんて、青春だね。良かったじゃないか」
「ちょっとあなたは黙ってて」
 パパはお母さんに制されてしまった。
「で、何で今日は帰ってくるのが遅かったの?理由によっては、ねぇ?」
「っ……」
 どこまで本当のことを言えばよいのだろう。
 言葉を喉に詰まらせてしまう。
「えっと……、放課後、ちょっと友達と話してて、遅くなりました」
 一部の出来事を抜粋しながらお母さんに事情を説明する。
「はぁ?琴葉に友達?笑わせてくれるわ。琴葉の友達なんて、どうせ陰湿な性格をしているだわ。そんな嘘バレバレに決まってるでしょ」
「嘘、じゃないです」
 今まで家で友達の事を話したことは無かったし、信じてもらえないだろうとはなんとなく予想がついていた。
 それでも、私の大切な友達の事を馬鹿にしたようなことを言われて、私が怒る理由には十分だった。
「私の友達に、そんなこと言わないでください」
 イスから立ち上がり、お母さんを見下すような姿勢できっぱりと言い放つ。
 お母さんの頭に血がのぼるのが目に見えて分かった。
「あっ……」
 言い終わった後に、自分の言ってしまった事の大きさを知った。
 今までお母さんに対して反抗したことは無かったが、今日初めてお母さんに歯向かったのだ。
「ごっ、ごめんなさい」
 慌ててイスに座る。
 恐る恐るお母さんの様子を窺った。
「何よ!そこまで言うなら明日友達を家に連れてきなさいよ。良いわね?」
 命令するような口調で私に指差してきた。
「それは……できません」
「何ですって?やっぱり、元々友達なんかいないんでしょう」
 そういう訳ではない。亜子をこの家に連れてきたくないのだ。このどんよりとした雰囲気の家に亜子が入ってしまうなんて、と考えるだけで恐ろしい。
 何も言い返せなくなってしまい、下唇を強く噛んで俯いた時だった。
――ブーブブー
 ポケットの中に入れたままだったスマホが振動する。
 机の下でこっそりと画面を開いた。
『琴葉ー、今日は色々とありがと。今学校の近くなんだけど、今日、世成と遊んでたら気づけばこんな時間になってた(笑)琴葉ともいつか遊びたい』
 頼君からのメッセージが表示される。
 そう言えば、また連絡すると言っていた。
『会いに行きます』
 気づけば指が文字を打っていた。今までになく胸が張り裂けそうなこの思いを、誰かに聞いてほしい。
 困ったときは友達を頼れと言ったのは頼君だ。今助けを求めずに、いつ助けを求めたらいい。
 イスからもう一度立ち上がると、近くにあった薄いアウターを羽織った。
「ちょっと、外出してきます。食べ終わった食器は流しに入れておいてください。帰って来たらちゃんと洗うので」
「ちょっと、待ちなさい!」
 お母さんの声がするが聞こえなかったふりをして、玄関から飛び出した。


「はぁはぁ」
 学校の近くにある古びれた公園にまで走ってきた。
 急いで家から出たため、自転車の鍵を忘れてしまったのだ。
 上がった息を何とかなだめる。
「あっ、頼君」
 揺らす度にギーギーとなるブランコに座って、空を見上げていた。
「あっ、琴葉」
 頼君も私に気づいたようで、よっ、と軽く手を挙げた。
 歩いてブランコに近寄り、頼君の隣のブランコに座った。
「えっと、急に呼んでごめんなさい」
「えっ、ちょっと待って。何で敬語に戻ってるの?」
 家で敬語が染みついているせいで、自分では何の違和感もなかった。
 二回ほど軽く咳払いして、今日のお昼に話していた時のような口調に戻す。
「頼君、ごめんね。急に呼び出したりなんかして。頼君がちょうどいいタイミングで、連絡くれたから」
「ううん、大丈夫。何かあったの?」
 私の様子からして、ただ事ではないと直感したらしい。
 息が上がっているのと、何を話せばいいのか頭の中で整理できていないので、言葉がつっかえてしまう。
 それでも、頼君の方から深く問い詰めるようなことはなく、私が話し始めるのをずっと待っていてくれた。
「あの、さっきお母さんに癇癪を起されちゃってね。もとはと言えば、私が原因なんだけど……。お母さんが亜子達の事悪く言うから、私が逆切れしちゃって、そうしたらお母さんが更に怒っちゃって、大変だったんだ」
 ポツリと私が言うと、頼君は静かに頷いてくれた。
「お前なんかに友達がいる訳ない。いるなら明日連れてきなさい。そう言われたんだ」
「そうなんだ……。琴葉のお母さんって、いつもそんな感じなの?」
「今日は特にひどかったけど、基本そんな感じ。ほら、言ったじゃん?家庭環境が複雑で、って。お母さんと妹とは血が繋がってないの。で、どうしても私が憎らしいみたいで」
 弱った笑みを浮かべる。
 心はこんなにも苦しいと感じているのに、人前になると泣くことなんかできない。
「そっか。俺、力になれるかな?」
「えっ」
「琴葉はさ、どうしたいの?」
「どう、したい?」
 言っている意味が分からず、疑問で問い返してしまう。
「そう。どうしたいのか。お母さんに対して復讐したいのか、それとも仲直りしたいのか」
 自分の中で考えるが、いまいちピンとこない。
 復讐だなんて残酷なことがしたいとは思わないし、もともと仲が良かったわけじゃないので仲直りをしようとも思わない。
「そんなの、自分じゃ分かんないよ……」
 しばらく考えて出てきた答えがこれだった。
「……まあ、そうだよね」
 落胆させてしまったかもしれないと焦る。
「ごめんね。こんなこと相談しちゃって。話しにくいよね」
 ううん、と首を横に振った。
「確かに俺達部外者が入ってもいい話じゃないのかもしれないけど、友達が苦しい時は助けになりたい」
「頼君……」
 ありがとう、そう口にしたかったけれど、口からは嗚咽が漏れるだけだった。
 何年もの間封じ込めていた思いが、とうとうはち切れたのだ。
 高校に入って、亜子という友達が出来たが、心配を掛けたくなくて深い相談をしたことは無かった。友達に負担を掛けないように、と私が出来る精一杯の気遣いだった。
 それでも、もしかしたら、友達というものはそういう気遣いが要らないのかもしれない。
 お互いに困っているときや悲しんでいるときは寄り添い合って、一緒にいると笑顔になることが出来る、それが真の友達と呼べる存在の定義なのだろうか。
「ハンカチ、いる?使ってないから安心して」
 涙を拭くように促された。
「だっ、大丈夫。自分の持ってるから」
 頼君から背を向けるように立つと、顎まで流れてきた涙を丁寧にふき取った。
 頼君といるときだけ、私は私のありのままの感情をさらけ出すことが出来ている気がする。
「ねえ、琴葉のお母さん、友達がいるなら連れてきなさい、って言ったんだよね」
 ブランコを揺らしながら、私に問いかけてくる。
「う、うん」
「だったら、俺が行こうか?亜子とかも連れて、みんなで一緒にさ」
「そっ、それは……、とっても嬉しいけど、遠慮しとこっかな」
 困ったときに寄り添い合うのが友達なのであれば、ここは頼君の親切にすがりたい。
 それでも、あの家に友達を上げることにはまだ抵抗があった。
「こんなことで友達の力を借りるなんて、申し訳ないよ」
「別にそんなこと気にしないよ。何ならもっと力になりたいぐらいだし」
 強いまなざしで見てくる。
「ううん。まずは自分の力で頑張ってみたいから……」
 そう言うと、あまり納得していないような表情を浮かべながら、分かった、と言った。
 親切を断ってしまい、申し訳なさで胸が痛む。
「でもさ、今日あったこと、亜子達には伝えていいかな?さすがに酷すぎるから、何か対策を取らないと」
「あっ、うん。それは全然構わないよ。ありがとう」
 今日知り合った人のために、どうしてそこまでできるのか聞こうと思ったが、やめておいた。
 それが友達という存在だと思ったからだ。
「それでも、俺の名前“頼”だから。困ったときはもっと頼って?」
 笑顔で言ってくる頼君に、やっぱカッコつけだな、と思わずにはいられなかった。


「ただいま……」
 家の中の様子を見ながら、あまり物音を立てないように玄関のドアを閉める。
 何かあったら危ないし、家まで送って行こうかと言われたが、断っておいた。心配してくれるのはありがたいが、人に頼ってばかりではいけないと思ったからだ。頼ってほしいと言われたが、自分が出来ることぐらい自分でしたい。
 どうやらお母さんはもう自室にこもっているらしい。
 ふう、と胸をなでおろした。取り合えず、今日は怒られることはないだろう。
「あっ、琴葉」
 そう思ったのもつかの間、理桜ちゃんがリビングから出てきた。
「理桜ちゃん……?」
「丁度良かった。今日はもう帰ってこないのかと思ってたから」
「それは……どういうこと?」
「取り合えずリビング来てよ。玄関で話すような事でもないし」
「えっ……?」
 理桜ちゃんが私の前をズンズンと歩き、私はその後ろをついて行った。
 理桜ちゃんから私に話しかけてくるなんて、一体どういうことなのだろう。もしかしたら、今日の一連の出来事で私が怒られるのかもしれない。
 そう思うと恐ろしくなって、肩をびくびくと震わせた。
 リビングに入ると、食器が既に洗ってあることに気づく。
「あれ?食器は?」
 そう小さく漏らすと、私、と短い返事が返ってきた。
「こうでもしないと、話すきっかけが出来ないと思ったから」
「どういうこと……?」
 ますます理桜ちゃんのしたいことが分からない。
「突っ立ってないで座りなよ」
 理桜ちゃんがソファーに深く座った。
 座りやすいように置いてあったクッションをどかしてくれる。
「あ、ありがとう」
 このソファーはいつも理桜ちゃんとお母さんが独占しているので、座るのは何気に久しぶりかもしれない。
 妙に緊張して、姿勢を正してしまう。
「琴葉は私達の事どう思ってる?」
「私達って?」
「母さんと私のこと」
「えっ」
 どう答えて欲しいのか、質問の意図が読めず混乱する。
「今日さ、母さんが琴葉に対してめっちゃ切れてたじゃん?その姿見てて、私も琴葉から見たら母さんと同じなのかもしれないって思った」
「……」
 実際、私から見た理桜ちゃんとお母さんは同じようなものだ。
 私が何かするたびに、二人ともから鬱陶しそうな目で見られる。
「母さんは元々あんな感じだったから、私は特にどうも思わないんだけど。ほら、琴葉のお父さんは優しいじゃん?だから、琴葉から見たら私達は邪魔者だよなって」
「えっ、お母さんは元からあんな感じだったの?」
 てっきりここの家に来てから性格が豹変したのかと思っていた。
「まぁ、昔の方がまだましだったとは思うけど、あんまり変わんない。よく物に当たってたから。この家に住むことが決まってから、その標的が実の娘ではない琴葉に向いただけ」
 淡々と当たり前のように話す理桜ちゃんを見て、私はこの人のことを今まで知ろうと思ってこなかったことを反省した。
 私は、自分が置かれた状況を悲観的に見過ぎていただけなのかもしれない。
「私も琴葉に対して酷いことをたくさん言ってきた。標的が私に向くのが怖かったから、母さんと合わせるために」
「それは……」
 違う、とは言えなかった。
 実際、理桜ちゃんの言葉で傷ついてきた自分がいるからだ。
「でも、分かってほしい。今日の母さん見てて思った。この人の娘だから私もそういう人間なんだ、って思われたくない」
 言葉を選ぶように、一度俯いて間を開けた。
 私は何も言うことが出来ず、ただ理桜ちゃんを見つめる。
「だからっ……ごめん。許して欲しいとは言わない。けど、私の気持ちは伝えたかった」
 ソファーから立ち上がると、もう言い残したことはないとでも言うようにリビングから出ていこうとする。
「ちょ、ちょっと待って」
 慌てて私も立ち上がり、その肩を掴んだ。
 掴んだ後で、自分が何を言おうとしたいのかが思いつかず、口をパクパクさせるだけになってしまう。
「えっと……、食器洗ってくれててありがとう」
「……ん」
「その、謝ってくれたことなんだけど……」
 嬉しかった、憎らしかった、そんな言葉では表現できない。
 ただ、自分が今まで理桜ちゃんに対して思っていたことがすべて覆されたような気がした。
 理桜ちゃんはわがままで、自分勝手で、私の事を睨んでくるし、せっかく作ってくれたご飯もまともに食べてくれない。
 もちろん私は、今までされてきたことを全て許してあげれるような善人ではないけれど、理桜ちゃんの気持ちをもっと知りたい。知ったとて、ということは分かっているけれど、それでも、だ。
 理桜ちゃんが振り返ると、いつものように鋭い目つきで私を見てきた。
 でも、私は恐ろしいとは感じなかった。
「私はっ、この家の人を誰も信用してないから。琴葉も含めて!」
 目に涙を貯めながら、きっぱりと私に言い放つ。
「うん。分かったよ」
 私も口角を少し上げてそれに答える。
 理桜ちゃんは、早足で二階に行ってしまった。
 洗われた食器を見て、私は昨日まで理桜ちゃんがこんなことをしてくれるような人間だとは思っていなかったと思う。
 もしかしたら、私と同じように人と接するのがただ単に苦手で、接し方が分からないだけなのかも知れない。
「あれ?」
 よく見たら食器に泡が残っていた。
「理桜ちゃんらしいな」
 小さな独り言を漏らす。
 明日朝起きたら、理桜ちゃんにもう一回丁寧にお礼を言おう。
 そう思いながら、私は泡のついた食器をゆすいだ。


「それでは、琴葉を守ろう!作戦会議を始めまーす」
 亜子が教室から盗んできた小さめのホワイトボードを真ん中に置き、司会を始めた。
 パチパチと頼君が手を叩く。
 その隣にはなぜか世成さんまでいた。
 そして、作戦会議をするのにぴったりな場所と言ったら、屋上だ。
「えっと……ごめんね。みんなを巻き込んじゃって」
「別にいいよ。今まで琴葉を虐めてきたお母さんにガツンと言ってやるいい機会を絶対に設けてやるんだから!ということで、早速作戦会議に入ります」
 事情を頼君から聞いていると知って安心した。
 昨日は勢いで頼君に色々と打ち明けることが出来たが、今もう一度同じことを言えと言われても言える自信はない。
 亜子が司会をしているからか雰囲気自体は明るいものの、みんなの表情は真剣そのものだった。
「亜子、ちょっとその前に良いか?」
 世成さんが片手を上げた。
「まあ、別にいいけど何?」
 興味なさげに返事をする。
「許されないのは百も承知で谷川さんに言いたいことがある。ほら頼も」
 二人が姿勢を正して私の方を向いた。
「「色々とすみませんでした」」
 深々と頭を下げられる。
 普段はいつも頭を下げる側なので、慣れないことに戸惑ってしまう。
「えっと……、それは全然大丈夫だよ。むしろ頼君と話すきっかけになって助かったというか……」
 思ったありのままの事を口にする。
 しかし亜子はまだよく思っていないようで
「琴葉は優しいから許してくれているけど、私だったら絶対に許さないから」
 の一点張りだった。
「っていうか、今回の会議の本題!琴葉を助けることが第一優先でしょ。世成、何か意見出しなさいよ」
「え、何で俺?」
「つべこべ言わないの!早く!」
「えー……」
 考え込むように腕を組んだ。
 仲が良いという事が良く伝わる。
 そんな二人を見ながら、私と頼君は顔を見合わせてクスクスと笑っていた。
「これはあくまで俺の場合だから、谷川さんにも当てはまるかは分からないけど、俺は絶対に逆襲とか復讐したいから、徹底的にお母さんを潰したい、かな……。あとは恥をかかせたいかも」
 世成さんの意見を聞いて、ふむふむと亜子が頷いた。
「なるほど。意外といい案を出すもんね」
「だろ?さすが俺」
「おい世成、調子に乗るな」
 頼君が背中をぺしっと叩いた。
「そう言えば、今日の朝はお母さんに嫌なこと言われなかった?大丈夫だった?」
「あっ、うん。心配してくれてありがとう、頼君。なんか私の顔も見たくないらしくて、私が起きた頃にはもう職場に向かったって妹ちゃんが言ってたから」
「そっか……」
 私が虐められていなくて良かったと安堵する気持ちと、いくら血のつながっていない娘とはいえ、娘の顔を見たくないという親を憎むような、感情が入り混じった表情を浮かべる。
 亜子と世成さんも、この重たい雰囲気の中で元気に会話することは出来ず、黙り込んでしまった。
「な、なんかごめんね。そんな気を使ってくれなくて大丈夫だから。じゃあ、話を元に戻そっか。あと、恥をかかせる、とかぐらいなら大丈夫なんだけど、復讐とか、暴力的なことはちょっと……」
「大丈夫。そのぐらいはわきまえてるから。もちろん私達だって琴葉の意思を一番尊重したいと思ってるしね」
「あっ、ありがとう」
 亜子が言ってくれたことが嬉しくて、頬が緩む。
「じゃあさっきの続き。例えば恥をかかせるっていう案を採用するとして、やっぱり人目が多い方が良いよね」
「そうだな……。最近人目が集まることと言えば……」
 みんなが考えている間に、亜子がホワイトボードに今まで出た話をまとめた。
 相変わらずきれいな字だ。
「文化祭……」
 ポツリと頼君が呟いた。
「えっ?俺聞き取れなかった。頼、もう一回言って?」
「文化祭。もうすぐ文化祭があるだろ。元々ここの学校生徒の人数多いし、その家族や友達も来るとなれば、人目はかなり多いと思う。それに、わざわざ自分たちの所まで出向いてくれるってことになるから、準備は入念にできるよ」
 今までになく腹黒オーラを漂わせていて、小さく身震いした。
「なるほど!さすが頼!やっぱ世成とは違うわぁ」
「はっ?絶対に彼氏の俺の方が役に立つだろ」
「さぁ、どうだか」
 頼君が一生懸命考えてくれた案だという事は分かっているが、お母さんは文化祭にこないと宣言してしまっている。
 この旨を早く伝えなければならないと思ったが、話は文化祭でトントンと進むので、言うタイミングを見失ってしまった。
「私達のクラスは教室でカフェをする予定だから、教室に誰もいないときにお母さんを誘導して、言いたい放題させる。その姿を、他の生徒やお客さんが目撃。恥をかかせるには十分でしょ。人目が合ったらそれ以上何も言えないと思うから、琴葉がお母さんに言いたかったことを吐き出す」
「おー、すげぇ。それっぽい作戦になってんじゃん」
 えっへん、と亜子が胸を張る。
 どうしよう。さらに言いにくくなってしまった。
「あのー……、実はお母さん、もう文化祭行かないって、宣言しちゃってるんだよね」
 勇気を振る絞り何とか口にする。
「えっ?そうなの?まあそっか。谷川さんの話を聞く限り、来そうにないしな」
「はい……。ごめんなさい……」
「ちょっとぉ、琴葉が謝ることじゃないでしょ。良いの良いの」
 亜子が明るく励ましてくれる。
 その後ろでは、頼君が何度も頷いていた。
 ありがとう、と皆に礼をする。
 そこで予鈴が鳴ってしまった。
「あっ、今日の話し合いはここまでか……。あんまり進展がなかったね」
「で、でも、私のために皆考えてくれてるんだって感じて、嬉しかったよ。ありがとう」
 そこで急に皆が真顔になる。
 もしかしたら何かヤバいことを言ってしまっただろうか。
 しかしその心配は一瞬にして破られた。
 皆が私を見て笑ってくれる。
「当たり前じゃん。友達なんだから」
 その後は、嬉しすぎて気持ちがフワフワしていたことだけを覚えている。


 耳元で鳴るスマホのアラームを手探りで探し、今日も一日が始まってしまったのかという絶望感に普段なら襲われる。
だが今日は違った。友達がいる初めての文化祭だ。気持ちが高まって仕方がない。
 両手を伸ばして大きな伸びをすると、いつものようにカーテンを開けた。
「あっ、雨だ……」
 昨日は雨の予報ではなかったはずだ。
 スマホで天気予報のアプリを立ち上げると、どうやら今日の夜まで降り続けるらしい。
 基本お店やパフォーマンスは屋内なので、雨天決行だ。
 雨の日は太陽が出ていないからなのか、テンションが下がってしまう。
 今日は自転車では行けないから、早めに出て歩いて行こう。
 そう心に決めて急いで着替えを済ますと、部屋を出たら丁度理桜ちゃんと鉢合わせした。
「琴葉、おはよ」
「理桜ちゃん、おはよう」
 このくらいの挨拶は毎朝交わすようになった。
 理桜ちゃんが言うことはいつも素っ気ないが、前よりも私を見る目が柔らかくなった気がする。
「今日は運動会、だっけ?頑張ってね」
「は?何言ってんの?今日雨じゃん。延期になったよ」
「あっ、そっか……」
 単純なことを忘れていて、恥ずかしくなってしまう。
「琴葉は決行なの?」
「うん。ほとんどの出し物が室内なんだ」
「へー、そう。行ってらっしゃい」
「あっ……。う、うん。行ってくるね」
 本当は来ないか誘いたかったが、前に行かないと言っていたので止めておこう。
「そう言えば、今日友達と文化祭行くから。来年受験生だし、高校の偵察しに行く。だから、琴葉のクラス教えて」
「えっ、来てくれるの?」
 思ってもみなかった展開に驚きを隠せない。
「高校の偵察しに行くだけだって言ってんじゃん。早く琴葉のクラス教えて」
「あ、そだね。えっと一年三組だよ。カフェをするから、お友達とぜひ」
「暇だったら行く」
 そう言うと自分の部屋に入って行ってしまった。
 理桜ちゃんが来てくれると知り、張り切っている自分がいる。
 軽い足取りで階段を降りて、リビングへ向かった。
 リビングへ繋がるドアを開けようとしたところで手を止める。
 お母さんとパパの話声が聞こえてきたからだ。
「今日は理桜ちゃんの運動会が延期になったことだし、琴葉の文化祭に皆で行かないか?」
「はぁ?何であの子の文化祭なんかに行かないといけない訳?私はまっぴらごめんだわ。それに今日は理桜ちゃんも友達と遊ぶって言っていたし、行きたいならあなた一人で行ってきたら?」
 お母さんの表情は見えないが、かなり機嫌が悪いという事を察した。
「じゃあ僕一人だけでも行ってあげようかな……。あの子の行事は長い間参加できていなかったから、参加してあげたいんだよ」
 パパがそのような気持ちを抱いていたとは、全く知らなかった。
 嬉しいという気持ちの反面、今の一言でお母さんの気持ちを逆なでしたことをパパは分かっていないだろう。
「何よあなた!琴葉がかわいそう、みたいな雰囲気を出して!かわいそうなのはうちの理桜ちゃんの方よ。運動会が延期になって……」
 “うちの理桜ちゃん”という言い方は、まるで私がよそものであるかのような言い方だった。
 心臓に手を当てると、どくどくと早く波打っている。
「あら。でも琴葉の友達が本当にいるのか確かめるチャンスねぇ。それは良いかもしれないわ。やっぱり文化祭に行くことにしましょう。そうと決まれは準備をしなければ……」
 お母さんの足音がドアの方に向かってきた。
 私は急いでドアから離れ階段を数段上り、今やって来たかのように何食わぬ顔で廊下を歩く。
 その時、お母さんがドアを開けて廊下に出てきた。
「お母さん。おはようございます……」
「あら、おはよう。私、優しいからあなたの文化祭に行ってあげるわ。感謝しなさいよ。お友達と一緒に文化祭を楽しみなさいね」
 不気味な笑顔を浮かべながら、階段を上がっていった。
 大変なことになってしまったかもしれない。
 ポケットからスマホを取り出すと、亜子達にメールを送信した。


「琴葉!」
「亜子、頼君と世成さんも」
 お母さんが来ると決まってから、急遽私達は校門前で待ち合わせすることにした。
 雨なので校舎の中で待ち合わせようと思っていたのだが、校舎の中は文化祭の準備のラストスパートでたくさんの生徒達が慌ただしくしていたため、外で集合することになったのだ。
 自分達も呑気になんてしておられず、早く出し物の準備に回らなければならない。
「琴葉、大丈夫だった?どうしてお母さんが来ることになったか順を追って説明してくれない?」
「うん、分かった」
 今朝あったことを一つずつ丁寧に説明する。
 妹の運動会が開催される予定だったこと。しかし雨天中止になり、私の文化祭に行けるようになったこと。真の目的は私に友達がいない証拠を押さえること。
 自分で説明していて悲しくなってくる。
 それでも、今自分の目の前にはこの事を受け止めてくれる友達がいると思うと、とても心強かった。
「なるほど、大体理解したよ。前考えた計画を実行するチャンスだけど……琴葉はどうしたい?俺達は琴葉の意思を尊重したいから」
 うん、と三人が頷く。
「わ、私は……、お母さんに今までの気持ちを伝える機会を逃したくない」
 言った後で正直後悔した。
 このせいで、私とお母さんの関係がもっと悪くなるかもしれない。ずっとこのままの方が良いのかもしれない、と。
 でも、自分が勇気を出して行動できるのは今だけのような気がした。
「だから私は……実行したい!」
 今までになく凛とした声が出た気がする。
「分かった。だったら絶対に成功させよーね!」
「俺達も出来る限り協力するから。な、頼」
「うん。少しでもいい方向に行くように協力する」
 熱いものがこみあげてきて、視界が鈍る。
「あっ、あれ?何で泣いてるんだろ、私」
 恥ずかしくなって、急いでハンカチで拭う。
 ここのところ涙腺が緩くなってきているような気がする。
「琴葉……、あの私ね、ずっと言いたかったことがあって……。もっと早く琴葉が追い込まれているのに気づいてあげられていたら、琴葉がここまで苦しまなくても良かったのかもしれない、とか毎晩考えたりしてて、自分は琴葉の友達として何が出来たかって言われたら、何も力になってあげることが出来ていなくて……、だから、何が言いたいかっていうと……」
 困ったように下を向く。
 そんな亜子のことを両手で包み込んだ。
 傘なんか地面に捨てて、雨に濡れてしまう事なんか考えていなかった。
「大丈夫、亜子は私の最高の友達だから」
「っ……」
「私の方こそごめんね。今思うと、これくらいの距離感が良い、とか一線を引いたようなことを考えてた」
「それは……」
「だからね。これからは、もっともっと素で亜子と接することが出来るようになりたい!」
 そう宣言すると、亜子がくすくすと笑いだした。
「えー、今までキャラ作ってたって事?」
 意地悪そうな笑みを浮かべる。
「ち、違うって!そういう意味じゃなくて……」
「分かってるよ、そのくらい。伊達に琴葉の友達してる訳じゃないからね」
 お互いに顔を見合わせて、本当に亜子と友達になれて良かったと心から思った。
 頼君が私の落とした傘を拾い上げ、私が濡れないようにさしてくれる。
「風邪ひくよ」
「あっ、ありがとう」
 頼君から傘を受け取る。
 一般の人の入場が開始されるのは、あと一時間後だ。
「いざ決戦の時、だね」
 私が笑顔でそう言うと、三人ともガッツポーズで応えてくれた。

 
 作戦ではこうだ。
 亜子が教室でカフェの準備をしている生徒達を、少し早めに開会式の会場の体育館へと移動させる。
 この開会式への参加は任意で、校内放送で流れるため、体育館に行って生で聞いても良し、教室で校内放送を聞いても良し、という事になっている。
 その間に上手くお母さんを私達のカフェの会場である教室に誘導し、お母さんと私が一対一で話せる環境を作る。
 その間、クラスの違う頼君と世成さんは教室の外からこっそりと見守ってくれるそうだ。心強い限りである。
「ねぇ、クラスのみなさーん。準備意外と早く終わったことだし、開会式は体育館に皆で行きませんかー?」
 亜子が大きな声で呼びかけをする。
 確かにカフェの中の装飾はもう十分すぎるほど出来ていた。
「いいけど……行くのダルくない?」
「えー、それなぁ」
 反対派の意見が多そうだった。
「いやさ、私もホントは行きたくないんだけど、バスケ部の先輩から、今年はすごい演出があるって聞いたんだよねー。だったらみんなで見たくない?あっ、これ表立っては言えないらしいからご内密に」
 人差し指を口に当てる。
 さすが亜子だ。話の持って行き方が上手すぎる。
「えっ、だったら行ってみたいかも」
「確かに、初めての文化祭だもんね。最初ぐらいちゃんと行っとこうかな」
 今度は圧倒的に賛成派の意見が多くなった。
「じゃあ全員で行こ!ほとんど終わっているから仕事はもうやめて大丈夫だよ」
 亜子が教室を出ると、皆それにつられてぞろぞろと教室を出て行った。
 教室を出る際で、亜子が私に向かってウィンクをしてくれたような気がする。
 気づけは教室にいるのは私一人だった。
「よし!」
 自分を奮い立たせるため、一回ぺちんと自分の頬を叩いた。
 教室を出た廊下のすぐに、頼君と世成さんが立っている。
「あの……、二人とも」
 教室を出て二人に駆け寄った。
「琴葉、準備お疲れ様。何とか俺達も抜け出してきたよ」
「亜子は上手に皆を体育館に移動できたようだな」
「うん。みんなの協力があってこそだよ。ありがとう」
 頼君が照れたように顔を隠す。
「お母さんの事なんだけど、さっき着いたら教えてくださいってメッセージ送ったら、今既読がついて、もうそろそろ着くって」
「よし。今からが本番だな!頑張れよ、谷川さん。俺達も外から見ててヤバそうだったら参戦するから」
 力強い言葉に背中を押される。
 頼君も私を応援してくれていることを眼差しから感じ取れた。
「そう言えば琴葉、何で私服なの?」
 頭の上からつま先までをまじまじと見られる。
「それは、普通のカフェだったら新鮮さがない、っていう意見が出て、メイドコスとか執事コスとかいう案もあったんだけど、予算とか反対の声が多数あった兼ね合いで私服になったんだ」
「なるほど。そういう事か。良いね、私服」
「そ、そうかな。ありがとう。普段の私はもっとダサいよ。今回の服は亜子監修だから」
「いや、十分似合ってるよ」
 褒められて気恥ずかしさを感じつつも、悪い気はしなかった。
 頬が赤くなるのを感じる。
「ちょっと、何なの二人とも。いい感じじゃん。俺だけ仲間外れみたいになってるの不服なんですけど」
「世成は既に亜子といい感じだろ」
「それはそうだな」
「……ちょっとは否定したら?」
「事実だろ」
 この二人を見ていると、ケンカをするほど仲が良いという言葉がぴったりな気がした。
「あっ、お母さん、もう校内に入ったって」
「おっ、とうとうか……」
「作戦通り頑張るっ、からね」
 緊張しすぎてイントネーションがおかしくなってしまったが、程よくその場が和んだので良しとしよう。


「お母さん、こっちです」
 教室の前で手招きした。来賓用のスリッパを履き、廊下の真ん中を堂々と歩いている。
 いつもより張り切った服を着て、お化粧もいつも以上に手が込んでいた。
 頼君と世成さんもさり気なく教室の外でスタンバイしている。
「あらあら、わざわざ悪いわねぇ」
「いえ、大丈夫です。えっと……」
 お母さんの後ろを見ても、パパの姿はなかった。
「あら、探しているのはあなたのお父さん?」
 “あなたの”などと、なぜ毎回余計な一言を付け足すのだろう。
 怒りに燃える気持ちを抑え込み、平静を装った。
「は、はい。てっきりパパも来るのかと……」
「あの人も来たいって言っていたんだけどねぇ、邪魔だから別行動にしようって話になったのよ。教室の中に入っても良いかしら」
「大丈夫です」
 第一号のお客様を教室に通す。
 ぐるりと教室を見渡すと、なかなか良い装飾ね、と上から目線のコメントをした。
「それにしても、文化祭で私服だなんて恥ずかしいわね」
「そういう設定なので……」
「私、あなたの友達に会うためにわざわざここまで出向いてあげたのよ。感謝しなさい」
「あ、ありがとうございます?」
 私が礼を言わなければならない雰囲気になっていたので、取り合えず礼は言ったが、疑問形になってしまった。
「それであなたの友達とやらはどこに……」
 お母さんが言いかけている途中で放送が入る。
『皆さん、おはようございます。第六十七回、文化祭、開会式を行います。まずは生徒会会長の……』
「鬱陶しいわね。音は止めれないの?」
「確かこの辺りに音量を調節できるリモコンがあるはずです」
 リモコンを見つけると、音を最小に変えた。お母さんのお気に召すままだ。
 でも第一段階。まずはそれで良い。
「で、あなたの友達はどこにいるの?」
「今は……会えません」
 そうだ。今は私とこの人との勝負だ。
「あら、可哀そう。お友達がいないなんて。だからこんな暗い教室にあなた一人だけがいたのね。お気の毒様」
 勝ち誇ったような笑みを私に見せつけてくる。
「そうですね……。確かに私はお気の毒かもしれません。優しかった母とはもう会えず、今は罵詈雑言を浴びせられる毎日」
「なっ!」
「それでも、こんな私でも、仲良くしてくれる友達は学校にいます。私は、そんな友達のおかげで強くなれました」
 落ち着いたはきはきとした声で伝える。臆しているのがばれてしまったらこっちの負けだ。
「何よ。私に歯向かうっていうの?良い?私は母。あなたは娘。この上下関係が覆されることは無いの?分かるかしら」
 ガラス越しに見える頼君が教室に入ってこようとする。
 しかし、まだ様子を見ようとでも言うように、世成さんが行く手を阻んだ。
「私は、元からそんな上下関係は無かったと思います。お母さんは、一度も私の事を娘だと思った事は無いんじゃないんですか?私もそれと同じように、お母さんをお母さんだと思った事は一度もないです。私とあなたは、ただの同居人という関係」
 お母さんが言葉を詰まらせる。
 しばらくの間、お母さんからの返事を待っていたが、何も返ってこない。
「ねぇ、喜多子(きたこ)さん」
「っ……」
 喜多子、それが母の名前だ。
 ここまでお母さん、いや、喜多子さんを刺激させれば、何かしら返事が来ると思った。
「あなたねぇ!いい加減にしなさいよ!」
「ひっ……」
 急に出された大きな声に怯んでしまう。
 しかしその瞬間、教室のドアがガラリと開いた。
「すいません。さすがに黙っては聞いていれなくて」
 頼君だ。
「頼……君?」
「琴葉、ごめん。我慢の限界」
 困ったような笑みを浮かべる。
 そして、その目つきは一瞬にして鋭いものへと変わった。
「俺、琴葉の友達です。琴葉が今まであなたの言葉に苦しんできたのをずっと見てました。日に日に笑顔から力が抜けていって、苦しくて泣いている姿も見ました」
「だから、それが何だって言うの!」
 強がるように語尾を強めて言う。
 今の喜多子さんには、私に友達がいる、いないというのは問題ではないらしい。
 ただ単に自分に反抗する者が気に食わないようだ。
「あんた達!大人を甘く見ると痛い目に合うわよ!」
 上の階まで伝わったのではないかと言うぐらいの大声で叫び散らかした。
 あまりの声の大きさに、頼君ですら驚きで固まってしまった。
「ねー、亜子ちゃん。とびっきりの演出があるんじゃなかったの?」
「えー、あるはずだったんだけどな。先輩が嘘ついたのかも。人を騙すのがあの先輩大好きだから。みんなごめんね」
「まぁ、別にそこまで謝るような事じゃないけど」
「あれ……?教室に誰かいる?」
 しまった。もう帰ってきてしまったのか。
 自分たちの予想よりかなり早く開会式が終わったらしい。
 教室にぞろぞろとこのクラスの生徒たちが入って来た。
「あれ?何で谷川さんと頼君が?それにあの人誰?保護者?」
 数々の疑問が教室中を飛び交う。
 しかし、今までになく怒っている喜多子さんには、他の人達の姿はまるで目に入っていなかった。
「ほんっとにどいつもこいつも!もとはと言えば琴葉!あなたが悪いのよ!」
 びくりと肩を震わせる。
 頼君はそんな私の前に立って、私の盾になってくれた。
「えっ?何あれ?もしかして琴葉ちゃんのお母さんなのかな?」
「えー、マジで?琴葉ちゃんは優しいのに、すんごい毒親じゃん」
 そこでやっと正気を取り戻したかのように周りを見る。
「はっ……」
「もう終わりですよ。琴葉のお母さん。さっき大人をなめんなって言いましたよね。そっくりそのままお返しします」
 短く息を吸うと、喜多子さんに向かって吐き捨てた。
「友情をなめんじゃねーぞ、って」
 喜多子さんは、青ざめた顔で、羞恥心なども抱きながら教室を出て行った。
 とうとう自分は勝ったのだと思うと、天にも昇る思いだった。
「琴葉!大丈夫だった?」
 真っ先に亜子が駆け寄ってくれる。その後に世成さんも来てくれた。
「大丈夫だよ。ありがとう」
「いや、話に聞いてた以上にやばかったわ。よくあんなの我慢してたね」
「全部全部、皆のおかげ。ありがとう」
 クラスの人達からも、心配の声がたくさん寄せられた。
 つくづく学校では良い人達に恵まれたなと思う。
「ちょっと世成!私が来た時に、あんた教室の外で突っ立って見てただけじゃない!」
「いや、それは俺がもしもの時の予備軍だったから……」
「コラ!世成は琴葉のボディーガードをするって話だったじゃない!」
「あぁ~ごめんって」
 喜多子さんを撃退した後に、この二人に構う余力はなかった。
 私も頼君も疲労感に襲われる。
「ねえ琴葉、俺、役に立てたかな?頼れた?」
 頼君が私の方を見てきた。
「うん。十分すぎるほどにね」
見た目に反して、案外可愛いところがある。それでいて、一緒にいてとても頼りがいがあって、少し腹黒な所もある頼君が、もし私の友達以上の関係だったらどんなに充実した毎日になるのだろうと考えずにはいられなかった。
「良かった。困ったときは俺のところに来てね。絶対に琴葉のこと守るから」
「えっ……」
 教室中に女子達の黄色い声が飛び交う。
 
その後家に帰ってから、喜多子さんに苦虫を嚙み潰したような顔で謝罪されたのは、ここだけの話だ。