昨夜のことを思い出すと、落ち着いてはいられないはずなのに、今の自分は妙に落ち着いている。

 私の余命は1週間だと宣告されたにもかかわらず、私の心臓は安定したリズムを刻む。

 普通なら、取り乱してしまうのだろうか。それとも、残りの日数に絶望して諦めてしまうのか。

 私にはわからないが、そのどちらでもないとは言い切れる。

 良いことか悪いことかと聞かれたら、間違いなく悪いことであると思う。

 生きている意味が見つからない私には、この先続く未来などほとんどなかったかのようなもの。

 明日も明後日も、1週間後も...私にはどれも同じ毎日。

 変わることのない『死』を連想するだけの...

 「もうすぐで、0時だ」

 隆ちゃんが現れるのは、決まって0時を過ぎたあたり。みんなが寝静まった真夜中というわけだ。

 きっと今日ももうすぐ彼はやってくる。夜に溶けるように、ひっそりと音すらも消して。

 5分後に彼はやってきた。いつもと同じように、窓をすり抜けて。

 「お待たせ」

 「うん。待ってたよ」

 「今日はどこに行こうか」

 「んー、海に行きたい」

 「海か。懐かしいね、よく自転車に2人乗りして海辺を走ったよね」

 「隆ちゃんの匂いと塩の匂いが、混ざって不思議な香りだったの覚えてるよ」

 「なんか恥ずかしいな」

 照れ臭そうに頬を緩めて笑う彼から目が離せない。久しぶりに見た彼の笑顔は、あの時の青春の一ページを彩っていた顔だったから。

 毎日見ていた彼の笑顔が、今となってはレアなものだ。

 「さ、隆ちゃん! 海へ連れてって!」

 「任せといて! 先に外行って待ってる。着替えたら出ておいで」

 「うん」

 彼が窓を通り抜けるのに、見慣れてしまった。そのせいで、彼がこの日常にいるのが当たり前だと感じてしまっている自分がいる。

 絶対に叶うことはない願いなのに。

 クローゼットを開け、綺麗に整頓された服の中からネットで注文したまま着ないでいたワンピースを手に取る。

 1年間放置されたワンピースは、1年前と何ひとつ変わっているところはなかった。

 変わったのは、服ではなく私自身だった。

 隆ちゃんとのデートのために買っておいた純白のワンピース。

 そのデートを迎える日は、来なかったのだが、今こうしてその日の続きをできることが、私にとって幸せそのもの。

 廃れてしまった1年間の中で、もっとも幸せな日だと言っても過言ではない。

 ワンピースにつけられたままのタグを鋏で切り取る。

 ジャキンという音とともに床へ落ちたタグ。タグに書かれた価格が、意外にも高価だったことに少し戸惑ってしまう。

 あの時は、彼に見せるために値段すらも気にしていなかったのだと思うと、本当に好きだったのだと実感できる。

 価格通り、サテン生地のワンピースは、触り心地も滑らかで気持ちがいい。

 手が沈んでいくように布に吸い込まれていく。

 スルッと足を通しただけでもわかる高級感溢れるワンピースに胸の高まりが収まらない。

 等身大の鏡に映った私は、これから夜の世界へと飛び出していくには相応しくなかった。

 夜の散歩にしては明らかに浮いた格好。でも、私はこれがいい。

 これが、日中だったらどれほど映えていただろう。

 どちらにせよ、今の私には陽の光は眩しすぎるのだ。

 「さ、いこっか」

 誰もいない部屋で呟く独り言。寝ている両親を起こさないように、今日も私は忍び足で夜へと向かう。

 明日も明後日も、そして最後の日だって私には夜がついている。

 最後までずっと...開けない夜が私を誘う。

 玄関を開ける。スーッと私の横を通り抜ける風が、妙に体に馴染むように心地よくて、息が吸いやすい。

 あぁ、今日も私は夜に溶けてゆくんだ。

 扉を開けた先で微笑んでいた彼の顔がやけに眩しかった。