「まだ来ないかなぁ」

 ベッドの上で体をうねらすことおよそ1時間。危うく芋虫にでもなるところだった。

 彼が来たのは昨晩と同じように、なんの前触れもなかった。

 昨晩と違ったことといえば、さらにタチが悪くなったことくらい。

 「起きてる?」

 「うわぁぁぁぁ!!!」

 音もなく私の部屋に忍び込んでは、仰向けになっていた私の顔を上から覗き込んでくる。

 衝撃的な登場の仕方に、思わず飛び上がってしまう。

 ベッドのスプリングがギシギシと嫌な生活音をもたらす。

 「な、なんでいるの!」

 「んー、会いたくなったからじゃだめ?」

 冷えるフローリングに尻餅をついた私を見下ろす彼。

 「だめ?」なんて言われたら、断りようがないじゃないか。

 相変わらず、ちょっとした可愛さは抜けてはいない模様。本当にずるい男だ。

 これで、一体何人の女性が勘違いをして振られたのだろう。考えただけでも切なくなる。

 「だ、だからって急に来ないでよ! 私だって女の子だよ。ノックくらいして!」

 「ごめん」

 あからさまに落ち込んでいる彼を見ると、懐かしくも感じる。

 私たちが付き合っていた時は、いつも私が機嫌を損ねて、彼が慰めてくれていた。

 今思うと、彼は年齢にそぐわないくらい大人だった。私がすること話すこと、何一つとして否定せず、温かく見守る。

 そんな余裕のある彼が私は大好きだった。

 今もその気持ちは変わらない。絶対にこれから先も。

 だが、昨晩は初めて温厚な彼を怒らせてしまった。私が何をしても怒ることは決してなかった隆ちゃんが...

 怖かった。でも、それ以上に隆ちゃんに嫌われたくはなかった。

 何度も反省し、もし次再開できたら謝ろうと決めていたのに、最初に謝罪の言葉を述べたのは、やはり隆ちゃんだった。

 「ごめん」の意味は違えど、本来は私が彼に言う言葉。

 手に纏わりつく汗をスウェットのズボンで拭いて、ぎゅっと拳を握り締める。

 「隆ちゃん、昨日はごめんね」

 「へ?」

 「だから、死にたいだなんて言ってごめん」

 「いいよ。僕こそ、怒ってごめんね。冷静に考えてみたら、残された方も辛いよね。僕、陽菜のことわかったようで、全然わかってなかった。だから、ごめん!」

 「隆ちゃ〜ん!」

 彼の優しさに甘えたくなってしまう。隣でしゃがんでいる彼に手を伸ばせば届く距離。

 それなのに、私の手は彼の体を通り抜ける。近いようで遠い、永遠に縮まることがない空間。

 恋人だった頃は、この距離などすぐに埋めることができたのに、今はその距離が恋しくてたまらない。

 そんな私の甘えに気付いたのか、触れることはないが、そっと私の頭に手を添える彼。

 温もりは全くない。でも、彼の優しさだけは伝わってくる。ほんのりと私の体を流れるように。

 「泣くなよ陽菜。可愛い顔が台無しだぞ」

 「可愛くないもん。隆ちゃんだけだよ、私のこと可愛いって言ってくれるの」

 「当たり前だろ。僕には、陽菜が誰よりも輝いて見えるんだから。僕には君しかいないからね。そのおかげで・・・」

 「隆ちゃん?」

 「いや、なんでもないよ。そうだ! 少しさ、外でも歩かない?」

 「でも、もう外は真っ暗で危ないよ」

 「大丈夫。僕がいるさ。それに、陽菜の身に危険があっても僕が必ず守るよ。この命に・・・」

 「え、他の人には見えないんじゃなかったの?」

 「それは企業秘密ってことで!」

 「ふーん。怪しいけど、隆ちゃんのことだから信じるよ。ちょっと着替えるから外で待ってて」

 逃げるように私の部屋の窓から外へと通り抜けていく。紳士なところがいいところだが、もう少し恥じらいを見せる姿も見たかったのは、私だけの秘密にしておこう。

 隆ちゃんがいなくなった後の部屋は、不思議と静かになるはずが、妙に落ち着かなかった。

 きっと、私の心臓がありえないくらいに跳ね上がっているからかもしれないが。

 当然だ。久しぶりのデートに心が動かない女性などこの世には存在しないのだから。

 夜が更けていく。私の高揚感とは相反して夜はどんどんと闇を纏い続ける。

 心地がいいな。この夜が明けないでほしい。そうすれば、きっと私たちはずっと共にいられる気がするから。  

 益々夜が手放せなくなっていく。それでもいい。もう私が太陽の光を浴びる日は訪れないのだから。