"コンコン"
今日もまたこの音が、私たちの一夜の始まりを告げる。
しかし、窓をノックする音を聞くのも今日で最後。
今日は、事前に準備を済ませ、いつでも外に出ることができるようにしておいた。
隆ちゃんが窓をすり抜けて入ってくる前に、窓を開ける。
「今行くね!」
突然、私の顔が出てきたから驚いたのだろう。少し後退りして、胸の辺りを押さえていた。
その様子が面白くて笑っていると、「置いていくからね」と急かされてしまった。
本当は置いていくことなんてできないのは知っている。
素直じゃないところは、1年経っても変わらない。
音を立てないように忍足で、階段を降りて玄関の扉を開ける。
夜風がフワッと髪の毛を通過し、家の中へと流れ込んでゆく。
今夜の夜風は春の訪れを感じさせるほど穏やかで、どこか儚い雰囲気を纏った空気。
きっと、もうすぐ咲き誇る春の代名詞を連想しているからに違いない。
春の象徴的存在の桜。緑に生い茂った公園にピンクの華やかさが混ざり合う。
今年の桜は、一体どんな春を運んできてくれるのだろうか。
「陽菜?」
不思議そうに私の背丈に合わせて顔を覗き込んでくる。
グッと寄せられた顔から、目を背けてしまいたくなるほど距離が近い。
「さ、いこ!」
ヒュッとぶつかることはないのに、彼の体をかわして先陣を切って歩く。
私たちの夜は始まったばかり。
残り数時間の私たちの最後のデートがスタートした。
1秒1秒時間は止まることなく、私たちを別れへと導くように。
歩いて数分が経過した。今のところ、私たちに目的地はない。
ただ目の前に続く道をひたすら目的なく進み続けるだけ。
時折、すれ違うサラリーマンや大学生らしき若い人たち。
彼らも懸命に日々を生きている。明日も生きているかわからないこの世界で。
明日も確実に生きていることが確約された人間なんて、この世には存在しない。
皆が死と隣り合わせの日々を過ごしている。
それでも私たちは生き続けないといけない。
生きる意味を見失っていた私に、生きる大切さを教えてくれたのは、隣を歩いている君でした。
私は2度彼に救われてしまった。1度目は、命そのものを。2度目は、心を。
物理的にも間接的にも私は、彼には多大なる恩がある。
それに気付けず、生きる意味を見失っていた私は、彼の恩を裏切っていたのだと最近気付かされた。
できることなら、私も彼に何かをしてあげたい。でも、私にはそんな力はない。
彼を生き返らせたり、死神としてこれからも生き続けさせることすらもできない。
それなら、私ができることは一つしかないのだ。
明日を...未来を生き続けることが、私が彼にできる最大限の恩返しになる。
今ならわかる。彼がそれを望んで私の元へと現れてくれたのだと。
「行きたいところないんだったらさ、僕らが通ってた高校に行かない?」
「いいけど、最後の場所がそこでいいの?」
「うん。むしろ、高校がいいな。陽菜と1番時間を長く共有した思い出の場所だし、最後くらいは僕も高校生になりたいから」
「・・・そっか。じゃあ、高校にいこっか」
『最後』という言葉が、今になって重くのしかかる。まだ泣いてはいけない。
頭ではわかっていても、心が乱されてしまう。時間が過ぎていくたびに私の涙腺は緩まり始めてしまうだろう。
一度崩壊したら、止めどなく溢れてしまう涙を抑えることはできない。
せめて、彼がいなくなる時までは我慢したいが、今の私に出来るか怪しいところだ。
何度も歩き慣れた通学路も、今となっては懐かしい。
1年間歩き続けたはずの通学路は、何一つあの頃と変わってはいなかった。
路上に設置された自販機、22時には閉店しまうスーパー、一箇所だけ点灯しない街灯、剥がれかけたまま放置された看板。
全てが過去に記憶された時のまま。変わってしまったのは、私たちの現在の姿と関係性だけ。
「何も変わってないな・・・」
私の思っていたことが伝わったのか、彼の口からもこぼれ落ちる。
きっと私たちの思っていることは同じ。時間に取り残された。いや、前へと進もうとしていないのは自分達だけだったのだと。
「変わらないね」
「あ、これって・・・」
彼が指差したのは、横断歩道の手前に置かれた花束やジュースたち。
1年経った今でも、こんなに置かれているのは彼の人柄が周囲の人たちに影響を与えていたから。
知れずと彼は皆の太陽だったのだ。
「全部隆ちゃんへのお供物だよ」
私もこの場所に訪れては、何度も1人で涙を流した夜を過ごした。
数えきれないほど涙を流し、自分を恨んだ。気付くとこの場所に立っていたなんてことも、ザラにあるほどだった。
「僕は皆に愛されていたんだね。嬉しいな・・・みんなに会いたいよ」
「隆ちゃん・・・」
「ごめん! 湿っぽくなっちゃったね。もうすぐで到着だ、早く行こ! 夜が明けちゃう前に」
私にはわかる。彼と過ごしてきた時間が長いからこそ、彼が今強がっていることくらい。
本当は弱音を吐きたいだろうに、我慢するなんて辛いだけだよ。
右手を差し伸べようとするが左手で制す。甘えてほしい。私に君の弱さを見せてほしい。
でも、私は伸びる手を元に戻し、大きくも小さな背中に目を向ける。
薄情かもしれないが、今は彼の弱さには触れてはいけない気がした。
一度触れてしまえば、私は彼を手放すことができなくなりそうだったから。
最後の日に、彼を困らせてしまうことだけは絶対に避けたかった。
家を出る前に決めたんだ。今日の夜明けは絶対に笑顔で彼を見送ると。
これ以上心配をかけることがないように、明日を生きると決心した私を見せられるように。
ぶら下がるように下がった右手をグッと握りしめて前へと進む。
彼が鼻を啜っていたのを私は、聞こえないふりをして彼のあとを追った。
「着いた」
「あの頃のままだ」
「何も変わらないね」
1年前に見た学校と何の変わりもなかった。あるとするなら、時間が時間ということもあり、少々薄気味悪さがあるくらい。
彼にとっても、私にとっても1年ぶりの学校。
毎日通っていたはずなのに、1年間も通わないことになるなんて思ってもいなかった。
「入ってみる?」
「え、入るの」
「せっかく来たんだしさ、校舎は流石に無理だけど、校庭くらいまでならいけそうじゃない?」
今更止めても聞かなそうにウキウキした気持ちを露わにする隆ちゃん。
最後の学校に気分が高揚しているのだろう。
夜の学校に侵入するのは怖いし、不法侵入と同じなので誰かに見つかったら大問題ではあるが、この気持ちに応えない方が私にとっては後悔することに違いない。
「行こう!」
金属でできた閉ざされた校門。足をかけ、よじ登るようにして乗り越える。
1年前の私には想像できないだろう。こんな大問題行動を起こすなんて、何度想像してみても私には似つかない。
それを今は自分の意志に基づいて行動している。
生まれ変わった気分だった。控えめでおとなしい性格だった自分が、嘘みたいに思えてくる。
羽ばたくようにジャンプし、地に足をつける。ジーンと衝撃で足が痺れるように痛むが、今はその痛みが成長の証にも感じ取れた。
痛みが成長の第一歩なんておかしな話だ。
背後から音もなくスーッとすり抜けてくる彼を見て、少しだけ羨ましく、腹立たしくなったのは内緒にしておこう。
きっと彼もこの痛みが欲しかっただろうから。
校庭まで続く道には、蕾がポツポツと実っている桜の木々たちが、私たちを出迎えていた。
数日もしないうちに満開になるであろう桜。ちょうど、3年生たちの卒業式には、この道はピンクの絨毯となり卒業生たちを祝うのだろう。
私は来年その景色を見ることができるだろうか。黒いアスファルトがピンクに染まった道を友達と笑いながら。
ねぇ、その時は隆ちゃんはどこにいるの。私を見守っていてくれるの?
言葉には出さずに飲み込んでかき消す。
「桜もうすぐ咲きそうだな。先輩たちが卒業する頃には満開だ。いい卒業式になるといいな」
「そうだね。私たちの卒業式も来年だよ! 一緒に卒業しようね!」
「あぁ、そうだな。一緒に卒業しよう」
なぜだろう。自分で言った言葉が、私の心をひどく苦しめる。
誰もが思い描くことができるはずの高校卒業。
叶うことがない理想がこんなにも辛いだなんて...
(やっぱり隆ちゃんは、優しいよ。優しすぎるくらい君は・・・)
校庭に取り付けられた時計台。現在の時刻は、4時32分。
彼と家を出てから数時間が経過していたらしい。この時間まで外を出歩いたのは、初めてだった。
朝日が昇るまで残りわずか。私たちのタイムリミットは目前まで迫っている。
広々とした校庭の東側の空がオレンジ色を帯びている。
「隆ちゃん」
「ん?」
「もうすぐ時間になっちゃうよ・・・私、隆太と離れたくないのに・・・」
「僕もだよ。僕も陽菜と離れたくない。離れたくないけど・・・僕らは共には生きられない」
「うん」
「僕ね、1週間だけだったけど最後に陽菜に会えてよかった。最初に会った時は、死の狭間を彷徨っているみたいな顔をしていたけれど、今の陽菜は明日を生きようとしているように見える。僕は、それだけでもう十分満足だよ」
「それは、隆太が私を励まして、側にいて変えてくれたんだよ」
「確かにそれもあるかもしれない。でもさ、結局明日を生きてみようと思ったのは陽菜自身だよ。だから、これは僕のおかげじゃない。陽菜が成長したんだよ。僕の死を乗り越えようと、頑張ったんだ。いいんだよ、たまには自分自身を褒めることだって大切だから」
「私、明日から1人で生きていけるかな。不安だよ。この1週間は隆太が側にいてくれたから、私は前を向くことができた。未来を生きようと思えた。でも・・・」
「大丈夫。陽菜は強いから。僕がいなくても、陽菜の記憶に・・・心の中に僕はいつだっているよ。辛いことがあったら、僕を思い返して。いつだって、僕は君を助けてみせるから。だから、明日を、未来を生きてほしい。僕のためにではなくて、陽菜自身のために」
気付けば、私の頬には涙が伝っていた。口に触れる微かな塩味。
彼が消えてから涙を流したかったのに、涙は待ってはくれなかった。
とめどなく溢れる大粒の涙。私の足元は、雨が降ったかのように土は湿り、涙の跡が黒くなっている。
「陽菜?」
「ごめん、泣くつもりはなかったの・・・」
口元を緩めて優しく微笑む顔は、朝日を吸収してしまうくらい透き通っていた。
もうすぐ別れの時間がやってくる。彼の体は徐々に透明なものへと変わり始めている。
彼の背後に映る空は、もうほとんど夜を含んではおらず、朝日が地に降り注いでいた。
まるで、空から彼の迎えの者がやってくるかのように神々しい景色。
「笑ってほしいな。最後くらいは、笑顔でさよならをしよう!」
「そ、そうだよね。最後は笑顔で・・・」
消えかかる彼の胸に飛び込みたい。でも、今の私たちには絶対にできはしない。
涙で視界が雨模様に歪む中、口角をグッと無理やり上げる。
歪かもしれないが、これが今の私にできる精一杯の笑顔。
「最後に言い忘れてたことがあるんだ」
「え?」
その言葉に反応したのか、涙はピタリと止み視界が幾分かマシになった。
彼の顔は満面の笑みだった。曇った景色を一蹴してしまうくらいの影響力。
迫り来る朝にマッチしているためか、彼が朝を連れているようにさえ見えてしまう。
私に朝を迎えさせるために...
「僕は今日で消えるわけじゃないよ。最後まで黙っていてごめん。僕は、新たな命に生まれ変わるんだ。だから、もしかしたら・・・」
声が聞こえなくなり、次第に彼の姿も朝日と同化して、景色の一部と成り果ててしまう。
そして、とうとう私の視界から消えてしまった。
最後に見た彼の顔は、笑顔なんかじゃなかった。涙を豪快に流して私を見つめていた。
「嘘つき。最後は笑顔でって言ったじゃんか。それに、生まれ変わるなんて一言も・・・」
朝日が私の全身を包み始める。1年ぶりの日光は不思議なほど温かくて、心が安らかになる程気持ちのいいものだった。
まるで、大好きな彼に抱きしめられているかのような温もり。
この世界には私が大好きだった彼はもういない。世界中のどこを探しても、私の愛した彼はもう。
でもね、私はあなたの幸せを願っているよ。たとえ、生まれ変わって再会できなくとも、この世界のどこかで生きているあなたの幸せを私は、誰よりも願っている。
だから、今度はその命が寿命で尽きるまで生きて。生きて生きて、親しいものたちに看取られながら眠って。
そしたら、今度はあっちの世界で再会しよ。2人の思い出話やそれぞれの歩んだ人生話に花を咲かせてさ。
それまでのお別れだよ。
「私を愛してくれて、信じてくれて、助けてくれて、ありがとう。また会える日まで、私は懸命に生きてみようと思うよ。あなたがくれたこの命が寿命で尽きる日まで。最後に、伝えられなかったけど、たぶん聴こえているよね。一回しか言わないからちゃんと聴いててね」
スーッとまだ肌寒い朝の空気を肺に取り込む。新鮮な空気によって満たされた肺。
彼までこの声が届きますように。
「大好きだよ!!」
朝日が街全体を覆い尽くしていく。私にも朝がやってきた。闇に包まれていたはずの私が、またこうして朝を見ることができるようになったのは、私を2度助けてくれた彼のおかげでした。
大きく足を踏み出す。朝日が私の体を照らし、足元に影が大きく伸びる。
遠くの空で、新たな命として誕生した彼を想いながら、私は朝日が照らしてくれる道へと足を進めた。
今日もまたこの音が、私たちの一夜の始まりを告げる。
しかし、窓をノックする音を聞くのも今日で最後。
今日は、事前に準備を済ませ、いつでも外に出ることができるようにしておいた。
隆ちゃんが窓をすり抜けて入ってくる前に、窓を開ける。
「今行くね!」
突然、私の顔が出てきたから驚いたのだろう。少し後退りして、胸の辺りを押さえていた。
その様子が面白くて笑っていると、「置いていくからね」と急かされてしまった。
本当は置いていくことなんてできないのは知っている。
素直じゃないところは、1年経っても変わらない。
音を立てないように忍足で、階段を降りて玄関の扉を開ける。
夜風がフワッと髪の毛を通過し、家の中へと流れ込んでゆく。
今夜の夜風は春の訪れを感じさせるほど穏やかで、どこか儚い雰囲気を纏った空気。
きっと、もうすぐ咲き誇る春の代名詞を連想しているからに違いない。
春の象徴的存在の桜。緑に生い茂った公園にピンクの華やかさが混ざり合う。
今年の桜は、一体どんな春を運んできてくれるのだろうか。
「陽菜?」
不思議そうに私の背丈に合わせて顔を覗き込んでくる。
グッと寄せられた顔から、目を背けてしまいたくなるほど距離が近い。
「さ、いこ!」
ヒュッとぶつかることはないのに、彼の体をかわして先陣を切って歩く。
私たちの夜は始まったばかり。
残り数時間の私たちの最後のデートがスタートした。
1秒1秒時間は止まることなく、私たちを別れへと導くように。
歩いて数分が経過した。今のところ、私たちに目的地はない。
ただ目の前に続く道をひたすら目的なく進み続けるだけ。
時折、すれ違うサラリーマンや大学生らしき若い人たち。
彼らも懸命に日々を生きている。明日も生きているかわからないこの世界で。
明日も確実に生きていることが確約された人間なんて、この世には存在しない。
皆が死と隣り合わせの日々を過ごしている。
それでも私たちは生き続けないといけない。
生きる意味を見失っていた私に、生きる大切さを教えてくれたのは、隣を歩いている君でした。
私は2度彼に救われてしまった。1度目は、命そのものを。2度目は、心を。
物理的にも間接的にも私は、彼には多大なる恩がある。
それに気付けず、生きる意味を見失っていた私は、彼の恩を裏切っていたのだと最近気付かされた。
できることなら、私も彼に何かをしてあげたい。でも、私にはそんな力はない。
彼を生き返らせたり、死神としてこれからも生き続けさせることすらもできない。
それなら、私ができることは一つしかないのだ。
明日を...未来を生き続けることが、私が彼にできる最大限の恩返しになる。
今ならわかる。彼がそれを望んで私の元へと現れてくれたのだと。
「行きたいところないんだったらさ、僕らが通ってた高校に行かない?」
「いいけど、最後の場所がそこでいいの?」
「うん。むしろ、高校がいいな。陽菜と1番時間を長く共有した思い出の場所だし、最後くらいは僕も高校生になりたいから」
「・・・そっか。じゃあ、高校にいこっか」
『最後』という言葉が、今になって重くのしかかる。まだ泣いてはいけない。
頭ではわかっていても、心が乱されてしまう。時間が過ぎていくたびに私の涙腺は緩まり始めてしまうだろう。
一度崩壊したら、止めどなく溢れてしまう涙を抑えることはできない。
せめて、彼がいなくなる時までは我慢したいが、今の私に出来るか怪しいところだ。
何度も歩き慣れた通学路も、今となっては懐かしい。
1年間歩き続けたはずの通学路は、何一つあの頃と変わってはいなかった。
路上に設置された自販機、22時には閉店しまうスーパー、一箇所だけ点灯しない街灯、剥がれかけたまま放置された看板。
全てが過去に記憶された時のまま。変わってしまったのは、私たちの現在の姿と関係性だけ。
「何も変わってないな・・・」
私の思っていたことが伝わったのか、彼の口からもこぼれ落ちる。
きっと私たちの思っていることは同じ。時間に取り残された。いや、前へと進もうとしていないのは自分達だけだったのだと。
「変わらないね」
「あ、これって・・・」
彼が指差したのは、横断歩道の手前に置かれた花束やジュースたち。
1年経った今でも、こんなに置かれているのは彼の人柄が周囲の人たちに影響を与えていたから。
知れずと彼は皆の太陽だったのだ。
「全部隆ちゃんへのお供物だよ」
私もこの場所に訪れては、何度も1人で涙を流した夜を過ごした。
数えきれないほど涙を流し、自分を恨んだ。気付くとこの場所に立っていたなんてことも、ザラにあるほどだった。
「僕は皆に愛されていたんだね。嬉しいな・・・みんなに会いたいよ」
「隆ちゃん・・・」
「ごめん! 湿っぽくなっちゃったね。もうすぐで到着だ、早く行こ! 夜が明けちゃう前に」
私にはわかる。彼と過ごしてきた時間が長いからこそ、彼が今強がっていることくらい。
本当は弱音を吐きたいだろうに、我慢するなんて辛いだけだよ。
右手を差し伸べようとするが左手で制す。甘えてほしい。私に君の弱さを見せてほしい。
でも、私は伸びる手を元に戻し、大きくも小さな背中に目を向ける。
薄情かもしれないが、今は彼の弱さには触れてはいけない気がした。
一度触れてしまえば、私は彼を手放すことができなくなりそうだったから。
最後の日に、彼を困らせてしまうことだけは絶対に避けたかった。
家を出る前に決めたんだ。今日の夜明けは絶対に笑顔で彼を見送ると。
これ以上心配をかけることがないように、明日を生きると決心した私を見せられるように。
ぶら下がるように下がった右手をグッと握りしめて前へと進む。
彼が鼻を啜っていたのを私は、聞こえないふりをして彼のあとを追った。
「着いた」
「あの頃のままだ」
「何も変わらないね」
1年前に見た学校と何の変わりもなかった。あるとするなら、時間が時間ということもあり、少々薄気味悪さがあるくらい。
彼にとっても、私にとっても1年ぶりの学校。
毎日通っていたはずなのに、1年間も通わないことになるなんて思ってもいなかった。
「入ってみる?」
「え、入るの」
「せっかく来たんだしさ、校舎は流石に無理だけど、校庭くらいまでならいけそうじゃない?」
今更止めても聞かなそうにウキウキした気持ちを露わにする隆ちゃん。
最後の学校に気分が高揚しているのだろう。
夜の学校に侵入するのは怖いし、不法侵入と同じなので誰かに見つかったら大問題ではあるが、この気持ちに応えない方が私にとっては後悔することに違いない。
「行こう!」
金属でできた閉ざされた校門。足をかけ、よじ登るようにして乗り越える。
1年前の私には想像できないだろう。こんな大問題行動を起こすなんて、何度想像してみても私には似つかない。
それを今は自分の意志に基づいて行動している。
生まれ変わった気分だった。控えめでおとなしい性格だった自分が、嘘みたいに思えてくる。
羽ばたくようにジャンプし、地に足をつける。ジーンと衝撃で足が痺れるように痛むが、今はその痛みが成長の証にも感じ取れた。
痛みが成長の第一歩なんておかしな話だ。
背後から音もなくスーッとすり抜けてくる彼を見て、少しだけ羨ましく、腹立たしくなったのは内緒にしておこう。
きっと彼もこの痛みが欲しかっただろうから。
校庭まで続く道には、蕾がポツポツと実っている桜の木々たちが、私たちを出迎えていた。
数日もしないうちに満開になるであろう桜。ちょうど、3年生たちの卒業式には、この道はピンクの絨毯となり卒業生たちを祝うのだろう。
私は来年その景色を見ることができるだろうか。黒いアスファルトがピンクに染まった道を友達と笑いながら。
ねぇ、その時は隆ちゃんはどこにいるの。私を見守っていてくれるの?
言葉には出さずに飲み込んでかき消す。
「桜もうすぐ咲きそうだな。先輩たちが卒業する頃には満開だ。いい卒業式になるといいな」
「そうだね。私たちの卒業式も来年だよ! 一緒に卒業しようね!」
「あぁ、そうだな。一緒に卒業しよう」
なぜだろう。自分で言った言葉が、私の心をひどく苦しめる。
誰もが思い描くことができるはずの高校卒業。
叶うことがない理想がこんなにも辛いだなんて...
(やっぱり隆ちゃんは、優しいよ。優しすぎるくらい君は・・・)
校庭に取り付けられた時計台。現在の時刻は、4時32分。
彼と家を出てから数時間が経過していたらしい。この時間まで外を出歩いたのは、初めてだった。
朝日が昇るまで残りわずか。私たちのタイムリミットは目前まで迫っている。
広々とした校庭の東側の空がオレンジ色を帯びている。
「隆ちゃん」
「ん?」
「もうすぐ時間になっちゃうよ・・・私、隆太と離れたくないのに・・・」
「僕もだよ。僕も陽菜と離れたくない。離れたくないけど・・・僕らは共には生きられない」
「うん」
「僕ね、1週間だけだったけど最後に陽菜に会えてよかった。最初に会った時は、死の狭間を彷徨っているみたいな顔をしていたけれど、今の陽菜は明日を生きようとしているように見える。僕は、それだけでもう十分満足だよ」
「それは、隆太が私を励まして、側にいて変えてくれたんだよ」
「確かにそれもあるかもしれない。でもさ、結局明日を生きてみようと思ったのは陽菜自身だよ。だから、これは僕のおかげじゃない。陽菜が成長したんだよ。僕の死を乗り越えようと、頑張ったんだ。いいんだよ、たまには自分自身を褒めることだって大切だから」
「私、明日から1人で生きていけるかな。不安だよ。この1週間は隆太が側にいてくれたから、私は前を向くことができた。未来を生きようと思えた。でも・・・」
「大丈夫。陽菜は強いから。僕がいなくても、陽菜の記憶に・・・心の中に僕はいつだっているよ。辛いことがあったら、僕を思い返して。いつだって、僕は君を助けてみせるから。だから、明日を、未来を生きてほしい。僕のためにではなくて、陽菜自身のために」
気付けば、私の頬には涙が伝っていた。口に触れる微かな塩味。
彼が消えてから涙を流したかったのに、涙は待ってはくれなかった。
とめどなく溢れる大粒の涙。私の足元は、雨が降ったかのように土は湿り、涙の跡が黒くなっている。
「陽菜?」
「ごめん、泣くつもりはなかったの・・・」
口元を緩めて優しく微笑む顔は、朝日を吸収してしまうくらい透き通っていた。
もうすぐ別れの時間がやってくる。彼の体は徐々に透明なものへと変わり始めている。
彼の背後に映る空は、もうほとんど夜を含んではおらず、朝日が地に降り注いでいた。
まるで、空から彼の迎えの者がやってくるかのように神々しい景色。
「笑ってほしいな。最後くらいは、笑顔でさよならをしよう!」
「そ、そうだよね。最後は笑顔で・・・」
消えかかる彼の胸に飛び込みたい。でも、今の私たちには絶対にできはしない。
涙で視界が雨模様に歪む中、口角をグッと無理やり上げる。
歪かもしれないが、これが今の私にできる精一杯の笑顔。
「最後に言い忘れてたことがあるんだ」
「え?」
その言葉に反応したのか、涙はピタリと止み視界が幾分かマシになった。
彼の顔は満面の笑みだった。曇った景色を一蹴してしまうくらいの影響力。
迫り来る朝にマッチしているためか、彼が朝を連れているようにさえ見えてしまう。
私に朝を迎えさせるために...
「僕は今日で消えるわけじゃないよ。最後まで黙っていてごめん。僕は、新たな命に生まれ変わるんだ。だから、もしかしたら・・・」
声が聞こえなくなり、次第に彼の姿も朝日と同化して、景色の一部と成り果ててしまう。
そして、とうとう私の視界から消えてしまった。
最後に見た彼の顔は、笑顔なんかじゃなかった。涙を豪快に流して私を見つめていた。
「嘘つき。最後は笑顔でって言ったじゃんか。それに、生まれ変わるなんて一言も・・・」
朝日が私の全身を包み始める。1年ぶりの日光は不思議なほど温かくて、心が安らかになる程気持ちのいいものだった。
まるで、大好きな彼に抱きしめられているかのような温もり。
この世界には私が大好きだった彼はもういない。世界中のどこを探しても、私の愛した彼はもう。
でもね、私はあなたの幸せを願っているよ。たとえ、生まれ変わって再会できなくとも、この世界のどこかで生きているあなたの幸せを私は、誰よりも願っている。
だから、今度はその命が寿命で尽きるまで生きて。生きて生きて、親しいものたちに看取られながら眠って。
そしたら、今度はあっちの世界で再会しよ。2人の思い出話やそれぞれの歩んだ人生話に花を咲かせてさ。
それまでのお別れだよ。
「私を愛してくれて、信じてくれて、助けてくれて、ありがとう。また会える日まで、私は懸命に生きてみようと思うよ。あなたがくれたこの命が寿命で尽きる日まで。最後に、伝えられなかったけど、たぶん聴こえているよね。一回しか言わないからちゃんと聴いててね」
スーッとまだ肌寒い朝の空気を肺に取り込む。新鮮な空気によって満たされた肺。
彼までこの声が届きますように。
「大好きだよ!!」
朝日が街全体を覆い尽くしていく。私にも朝がやってきた。闇に包まれていたはずの私が、またこうして朝を見ることができるようになったのは、私を2度助けてくれた彼のおかげでした。
大きく足を踏み出す。朝日が私の体を照らし、足元に影が大きく伸びる。
遠くの空で、新たな命として誕生した彼を想いながら、私は朝日が照らしてくれる道へと足を進めた。