「…夕矢さんのトラウマって、それのこと?」
「うん」
夕矢さんは、微かに微笑んでいる。
「…その、夕矢さんの親友は、どうなったの?」
微笑んだ銅像のような、作り物の割には繊細な顔が、ゆっくりと俯きはじめる。
そして、硬い唇をほんの少しだけ、震わせながら言う。
「今年、教師になったよ」
きっと、夕矢さんはその親友が子供たちに勉強を教えている姿が目に浮かぶのだろう。
それが一番つらいのに。
見たくなくても、その顔が見えてしまうのだろう。
「…だから今、僕は一年留年してる。もう大学に知り合いはいない。…別にいなくてもいいけど」
…そんなはずないだろ。
「それは噓でしょ」
「…うん、噓かもしれない」
「…本当は、どうしたかったの」
やっと、銅像のようにひんやりとした顔が、温かな人間になってくる気がした。
「…一緒に、もっと勉強したかったよ」
悔しい、でももう後戻りはできない。そこから生まれる複雑な感情が、夕矢さんの顔を乗っ取っている。
ずっと一緒に憧れてきた夢を、ただ一瞬で、壊してしまった。
決断したのは自分のはず。
後悔していない。それは、ただ情けない自分の上にかぶさっただけの言い訳なのだろうか。
「…でももう、遅いから」
夕矢さんはそう言った。
そんなことすらも、「自分」として、生きていかないといけないのだ。
それを一人で背負う義務が、どこかにあるのか?
そんなもの、どこにも、みじんもない。
「遅いとか、関係ない」
「え…?」
ようやく、顔を上げた。
「『諦めた』。それでいて、大学のことが自分の頭にあるってことは」
遅いとか、何も関係ないから。
「まだ諦めてないじゃん。現在進行形で、追っかけてるじゃん」
教師を。君の、夢を。
「取り残された悲しみが、自分のトラウマから生まれる責任感が、夢を追いかけることよりも大きい?」
今、そうだとしても。
「教師になりたい」という鮮明な気持ちが、夕矢さんの中で同じ時間を進んでいる。
それが、今後君を変えるかもしれないじゃないか。
「…決めるのは、自分次第だけど」
夕矢さんが、本当の微笑みを見せた。
「今じゃなくてもいい。これから、自分の気持ちと向き合えばいいと思うよ」
それで、出した結論が、悔いは何もないと、胸を張って言える未来が必ずあってほしい。
何も不安や苦しみを抱えず、ガッチガチの鬼メンタルとありふれる自信で、生きていってほしい。
ただ願うことしかできないけれど、夕矢さんの見えないくらい小さな生きるヒントになっていたらいい。
「…こんな僕の話を聞いてくれて、本当にありがとう」
「どういたしまして」
「勝手に孤独になったように感じてた。でも、きれいな言い方しちゃうけど、進んでみようかな、って思えたよ。ありがとう」
…でも、私は本当に夕矢さんに手を差し伸べられたのだろうか。
「…なんで僕、年下の高校生なんかに救われてるんだろ。藍詩さんの方がよっぽど大人。僕のほうが子供みたいだ」
夕矢さんの笑顔が、今更になって嫌に見えてしまう。
今度は私が、置いてけぼりっていう事?
今になって気付く。
夕矢さんに何度も言った、光の言葉。
それは、私がずっと言ってもらいたかった言葉なのだ。