ベランダの戸を開けると、夜が顔を出した。
街の灯りが、控えめに輝いている。
私は、右側を見た。そして、こう言った。
「…こんばんは、夕矢さん」
「こんばんは、藍詩さん」
最初は、挨拶を交わすだけでもぎこちなかったのに。今、こんなに自然と言えるようになっていたなんて。
「久しぶり、というか…。おとといは、急に逃げちゃったような形で、ろくに挨拶もせずいなくなってごめんなさい」
私は頭を下げる。けれど、夕矢さんの言葉が私の肩をさするようにして、全身に染み渡っていく。
「いや、僕こそ…。藍詩さんに無理をさせちゃったなら、本当にごめんね」
「いいんです。本当に、謝らないでください。…全部、私の心が脆いからなんです。お願いだから、謝らないで…」
これ以上謝られると、私の心が本当につぶれてしまいそうだった。私は人一倍、罪悪感にかられやすい性格なのだ。
「…お手紙、読ませていただきました。あんなに書いてくださっていたので、心が温まりました。ありがとうございます」
私はそう言って、また夕矢さんにお辞儀をした。
「それはよかった。…なんか藍詩さん、今日はやけにかしこまってない?」
「これが本当の私なんです、って言ったらかっこつけちゃうけど、元々は優等生の可愛い女の子だったので。本当は結構礼儀正しくなっちゃうタイプなんです。今はもう心根腐ってるダメ人間ですけどね」 
そんなこと言わなくても、と夕矢さんが少し笑った。年上の人なのに、心から笑えているようで安心してしまった。
しばらく話して、ふと夕矢さんが言った。
「藍詩さん、僕、あの日言えなかったことがあるんだけど」
「なんですか?」
私は、なぜかまた怖くなってきてしまった。夕矢さんに、何を言われるのか。
けれど、夕矢さんが、そんな言葉を言うわけない。
夕矢さんは、本当に優しくて、温かい人だから。
ひゅるるる、と音を立てて走る夜風が、未来を切り拓いていく感触がした。
「藍詩さんは、もしかしたら、この先もそういう辛い事を思い出す時があるかもしれない。でもそれは、藍詩さん以外の人間だってそうだ。嫌な事を思い出して、不安になって、夜が怖くなる。そして、朝を望む」
誰かに同情されるのが嫌だった。その暇があるなら、私の気持ちをまるごと受け止めてくれる方がいい。そう思っていた。
それは、絶対に私の気持ちを完全完璧に理解(わか)ってくれる人が、どれだけ数少ないかを知っているからだ。
でも、夕矢さんは言った。
「藍詩さんなら大丈夫」
真剣な眼差しは、私の体を貫通するような、静かな強さをまとっていた。