ベッドの上で小さくなって泣いていると、部屋の扉が開く音がした。ハッとして、両手のひらで乱雑に涙を拭う。

「……水波」

 戻ってきたのは、朝香だった。
「あ、朝香……なんで? お土産は……」

 朝香は少し怒ったような顔をしてベッドに座る私に近付くと、おもむろに抱きついてきた。
 驚いて固まる私に、朝香は「もう……やっぱり泣いてた」と呟く。

「……朝香?」
「……ごめん。水波、私……カフェの話聞いちゃったの」

 朝香は私と目が合うと、泣きそうな顔を俯けた。

「勝手なことしてごめん。でもなんか……水波が思い詰めた顔してたから心配で……」

 着いていっちゃったんだ、と言いながら、朝香の瞳からはぼろぼろと涙が零れていた。

「でも、ダメだった。すごくショックだった。水波が抱えてるものは知ってたのに、いざ話を聞いたら……私が理解してると思ってた水波の苦しみは、本当にふんわりした、なんとなくな悲しみだったんだなって思って……私、水波の辛さとかぜんぜん分かってなかった」
「……仕方ないよ」

 彼女に、させなくていい悲しみを与えてしまったのだと思うと、さらに心が重くなる。

「……ごめんね。せっかくの修学旅行なのに、気分の悪い話を聞かせちゃって」
「違うよ! 私が勝手に聞いたんだから! ……私こそ、ごめん。プライベートな話なのに……気を悪くしたよね」

 首を振る。少しの間を開けて、私は朝香にならいいかと話し始める。

「私ね、あの事故のとき、大好きな人に命を救ってもらったの。それなのに私、その人のこと今まで忘れてたんだ」

 自嘲気味な笑みが漏れた。

「信じられないよね。事故のあと、今まで一度も思い出すことなく、忘れて生きてたんだよ……」

 震える声で呟くと、朝香が強い口調で「それは違う」と否定した。

「……仕方なかったんだよ。その人を忘れることは、水波の心を守るために必要なことだったんだと思う」

 それでなくても怖い思いしたんだから、と朝香が慰めてくれる。

 それだけだったらまだ、私も仕方ないと思えたかもしれない。けれど、今の私はそれを素直に受け取ることはできない。

「……でも、綺瀬くんは命と引き換えにしてまで私を助けてくれたのに、私はまた死のうとした」

 朝香の目が泳ぐ。

「それは……そうかもしれないけど、覚えてなかったんだから仕方ないよ」

 違う。仕方ない、では許されないのだ。

「簡単に言わないでよ。これは、そんなひとことで片付けていいことじゃないんだよ! 綺瀬くんは死んじゃったんだよ! 死んだ人はもう二度と戻ってこないの。残された家族の気持ち考えたことある!? その人の命と引き換えに生き残った人間の気持ちが、朝香には分かるの!? 綺瀬くんは私を助けたせいで、今もたったひとりで海の底に沈んでるんだよ!」

 激高した私に、朝香が静かに息を呑んだ。

「……ごめん」

 しょぼんとした朝香を見てハッとする。

 朝香はなにも悪くない。ただ落ち込んだ私を元気づけるために気を遣ってくれていただけなのに。

「はぁ……」

 学習しないなぁ、私は……。
 また、朝香を傷付けた。


「……違うの。ごめん。朝香には怒ってないんだ。ただ、私が私を許せないだけ」

 ……あのとき、綺瀬くんはじぶんだってきっと泣きたかったはずだ。泣くのをこらえていたはずだ。

 恐怖をこらえて、私に頑張れと、生きろと声をかけ続けてくれていたのに、それを私は……。

 ごめん、ごめんと繰り返しながら、私は頭を垂れた。

「……水波」

 両手で頬を掴まれ、上を向かされる。
 朝香が泣きながら、私と目を合わせる。

「たしかに水波の苦しみは水波にしか分からない。でも、だったら水波はずっと後悔したまま下向いて生きてくの? それで本当に、生きてるって言えるの?」

 ハッとする。
 違う。綺瀬くんが、穂坂さんが教えてくれたことは違う。こんなふうに塞ぎ込むことじゃない。
 頭では分かってる。
 ……けれど、もうなにも分からなくなる。

「生きるとか前を向くとか、そんなのは結局、きれいごとだよ。……もう放っておいて」

 やけになり、私は朝香の手を振りほどいた。それでも朝香はもう一度私の手を掴んで、上を向かせる。朝香の潤んだ瞳と目が合い、涙が込み上げた。

「きれいごとじゃないよ。もし水波が自殺未遂をしてなかったら、水波の心はずっと死んだままだったと思う。だって、入学した頃の水波は生気なんてこれっぽっちも感じなかったもん! 死んだように生きてたもん。それじゃ、ちゃんと生きるってことにはならないよ」

 でも、と私は奥歯を噛む。
 目の縁から、涙がぽろぽろと落ちていく。
 私はその場に崩れ落ちる。

「……じゃあ私はどうしたらいいの? もう分かんないよ。……みんなに助けられたから生きなきゃって思うのに、生きるのが怖いの。だれより大好きだったはずの綺瀬くんのことを忘れてたじぶんが信じられないの。綺瀬くんがいない世界を、このままひとりぼっちで生きてくんだって思うと、怖くて怖くてたまらないんだよ……」

 生きなければならない。私にはもう、生きるしか残されていない。
 だけど、綺瀬くんのいない世界で生きる自信が、私にはない。現実は、どうしてこんなに残酷なんだろう……。

 朝香の手が離れ、私は俯く。

「……この際、だれか殺してくれたらいいのに」

 もう、自殺はできない。でも、生きるのも怖い。

 気が付いたら、そんな言葉を発していた。

 直後、パン、と高い音がした。朝香が私の頬を叩いたのだ。じんじんとした熱さを頬に感じて、私は呆然と手をやる。

「ふざけんな!」

 朝香は目を真っ赤にして、私を睨んでいた。ハッとした瞬間、強く抱き締められる。

「なんでそんなこと言うのよ! ……水波には私がいるじゃん」

 身体をずらして朝香を見ると、悲しそうに唇を引き結んでいる横顔が見えた。

「水波には心配してくれる家族もいるし、歩果や琴音もいる。いっぱいいるじゃん! だから……お願いだから、ひとりぼっちだなんて言わないでよ……」

 胸がきゅっと鳴った。

「ごめん……」
 小さく謝ると、朝香は震える手で私の頬を撫でた。

「……私こそごめん、痛かったよね。叩いてごめんね」

 首を横に振る。

「……ありがとう」

 私は鼻をすすりながら、朝香を抱きしめ返した。

それからしばらく、私は朝香の胸の中で泣きじゃくった。ようやく落ち着いてきた頃、朝香が小さく口を開いた。

「……あのさ、水波。私、宣言するよ」
「……へ?」

 朝香は泣き笑いのような表情を浮かべて、勢いよく立ち上がった。

「私も、水波の罪を半分背負うよ。私は事故の当事者じゃないし、さっきの男の人みたいに命懸けで救助に携わったわけでもないけど……でも、そばにいることだけはできるから」

 でしゃばりかもしれないけど、水波にはそのくらいしないとダメだと思うから、と朝香は私をまっすぐに見て言った。また涙が込み上げてきて、唇を噛む。

「だから……もうひとりになろうとしないでよ。ね?」
「……うん」
「約束だよ」
「うん……」
 私は顔をくしゃくしゃにして、頷いた。


 ***


 翌日、帰りの飛行機の中で、私は来未と綺瀬くんのことを可能な限り朝香に話した。

 綺瀬くんが初恋の人であること。中学時代いじめを受けていて、来未が助けてくれたこと。
 私と綺瀬くんと来未、三人で仲が良かったこと。
 中学最後の思い出に沖縄旅行に行ったこと。
 事故の際、綺瀬くんが身を呈して私を守ってくれたこと。
 朝香に話せば話すほど、不思議と身体が軽くなっていくような心地になった。
 もちろん、後悔は消えないけれど。

 話を終えると朝香は、「水波は綺瀬くんが初恋だったんだね」と言って微笑んだ。

 私もうんと頷き、笑みを返す。
「初恋だったんだ。ふたりとも」
「ふたりとも?」
「来未も、友達としての初恋。初めて大好きになった女の子だったから」
「……そっか。うわぁ、なにそれ。ちょっと羨ましいなぁ」

 朝香が目を細めて窓の外を見る。

「私は二番目の女かぁ」と、わざとらしく言う朝香に、私は口を尖らせた。

「ちょ、言い方ひどいよ」
 すると、朝香はふふっと笑って「冗談だよ」と舌を出す。

「初恋は譲ってあげるんだよ」
「……うん。ありがとう、朝香」

 それからの飛行機は、お互い急に眠気に襲われて、私たちは手を繋いだままうとうととしていた。

 着陸のアナウンスが流れ、微睡みから目覚める。数度瞬きをしてとなりを見ると、朝香がこちらを見ていた。

「少しは眠れた?」
「……うん、まあ」
「よかった。少しすっきりした顔になった気がするよ」と朝香に言われた。少し恥ずかしい。

 飛行機から降りながら、朝香に告げる。
「……私ね、これから綺瀬くんのところに行こうと思ってるんだ」

 すると、朝香がはにかんだ。
「……そっか。うん、いいと思う。着いてく?」
 朝香の申し出に、私は静かに首を振る。

「……大丈夫。ちゃんとひとりで行ってくるよ」
「……じゃあ、そのあと会おうよ」
「え?」
「駅前のドーナツ屋で待ってるから、思いを伝え終わったら、おいで」

 どこまでも過保護な朝香に苦笑する。

「……うん。ありがとう」

 空港で現地解散となると、私はまっすぐあの場所へ向かった。

 綺瀬くんはきっと、お墓にはいない。会えるとしたら、たぶんあそこだ。

 街の中央、小高い丘のさらに上。

 朱色の鳥居を目指して、長い石段を駆け上がる。神社を突っ切り、反対側に現れる天まで続くかと思うような石段をまた登る。

 そうして辿り着いたのは、あの広場だ。

 人生を終わらせようとして、私が生まれ変わった場所。初恋の人と再会した場所……。

 綺瀬くんと出会って四ヶ月。

 私の世界は百八十度変わった。

 家族と向き合って、朝香という親友ができて、修学旅行にまで参加している。
 夏休み前での私では、とても考えられない。

 そして、穂坂さんとの再会で、私は私自身さえ気付かなかった本心に気付いた。

 私は本当は、必死で生きたいと思っていたこと。
 上がる息のなか、懸命に足を動かす。

 まだ間に合うだろうか。どうか、間に合ってほしい。どうしても会って伝えたいことがある。

 綺瀬くん、綺瀬くん、綺瀬くん。お願い、間に合って……。
 祈る思いで石段を駆け上がった。

「綺瀬くんっ!」

 ようやく広場につき、膝に手を置いた。息を整えながら、彼の定位置のベンチを見る。
 そこに、綺瀬くんの姿はなかった。だれもいない。人の気配もない。

「綺瀬くん……どこ?」

 力が抜け、その場にへたり込む。

「そんな……やっと、思い出したのに」

 やっぱり、もう綺瀬くんに会うことはできないのだろうか。私が、綺瀬くんがいないということを認識してしまったから……。

「綺瀬くん……出てきてよ」
 涙が込み上げ、しゃくり上げた。
「お願い……」

 私、思い出したんだよ。綺瀬くんに助けられたこと思い出したんだよ。綺瀬くんと過ごした日のこと。綺瀬くんのことが大好きだったこと。ぜんぶ、ぜんぶ思い出したのに……。私はもう、さよならを言えないの? いやだよ。さよならもできないなんて、いやだよ。会いたい。

「綺瀬くん……っ!」

 思いの限り、叫んだ、そのとき。

「――水波?」

 ふと焦がれた声がして、弾かれたように振り向いた。
 目を瞠る。

「綺瀬、くん……」

 振り向いた先に、綺瀬くんがいた。
 夕陽を背に、中学のときの制服を着た綺瀬くんが、そこにいる。

 よろよろと立ち上がり、綺瀬くんの元へ向かう。

「綺瀬くん……? 本当に、綺瀬くん……?」
「どうしたの、水波。お化けでも見たような顔して」

 微笑む綺瀬くんに、涙が込み上げる。あっという間に視界が滲んで、奥歯を噛み締めた。

「いないから……もう、会えないかと思った……よかった」

 言いながら、綺瀬くんに縋るように抱きつく。

 懐かしい。綺瀬くんの匂いだ。大好きだった匂いだ。私は顔を綺瀬くんの胸に押し当てる。

「おっと……なに、修学旅行の間、そんなに俺に会いたかった?」

 戸惑うような、それでいてどこか嬉しそうな声で、綺瀬くんは言う。

「会いたかった。会いたくてたまらなかった」
「おわ、素直だな」

 ぎゅうっと手に力を入れると、綺瀬くんは優しく、でも強く抱き締め返してくれた。しばらくそうしてから、私たちは手を繋いだままいつものベンチに座る。

「私ね、修学旅行で私を助けてくれた人に会ってきたよ」
「そう」
「綺瀬くんの言う通りだった。私は、生き残っちゃったんじゃない。助けられたから、今こうしてここにいられるんだね」
「うん」と、綺瀬くんがにっこりと笑う。
「それでね、その人に言われたの。私を助けてくれたのは、綺瀬くんだって」

 もしあの日、綺瀬くんがあの場で瓦礫の上に私を押し上げてくれていなかったら。

 穂坂さんは言っていた。
 意識を失っていた私は、死んでいただろうと。

 綺瀬くんが助けてくれたから、私は今ここにいる。

「綺瀬くんに言わなきゃいけないことがあって」
 一度言葉を切り、綺瀬くんを見つめる。
「助けてくれてありがとう。私、ぜんぶ思い出したよ。綺瀬くんのこと」
 まっすぐに綺瀬くんを見て言う。

 綺瀬くんは一瞬驚いたように固まって、そのあと小さく笑った。
「……そっか。思い出しちゃったか」
「ずっと忘れててごめんなさい」
 静かに首を振り、綺瀬くんは私の手を握り直す。
「俺こそ、黙っててごめんね」
「私のためだよね。綺瀬くんのことを思い出したら、また落ち込むと思ったんでしょ?」
「水波、俺のこと大好きだったからさ」

 茶目っ気たっぷりに綺瀬くんは言い、からりと笑った。

「そうだね。大好き」

 事故の恐怖。流されていく来未の手。綺瀬くんの死。
 現実は救いようがないほど残酷で、泣き叫びたくなる。

「あのときのことを思い出すのは、今でも怖い。来未や綺瀬くんのことを思うと、悲しくて、死にたくなるときもある。でも……お母さんにもお父さんにも、それから穂坂さんにも……生きててよかったって、泣きながら言われたから。怖いって言うとね、朝香や友達が手を繋いでそばにいてくれるんだ。だから、捨てない。私は生きるよ。辛くても踏ん張るよ」

 綺瀬くんが、私はひとりじゃないって教えてくれたから。

「水波は強いなぁ……」
 綺瀬くんは眩しそうに目を細め、私を見つめた。

「綺瀬くんは?」
「ん?」
「私は、綺瀬くんのおかげで本音を言えるようになったよ。……綺瀬くんは?」

 きっと、たくさんあるはずだ。綺瀬くんの本音。

 聞くのは怖い。胸がちりちりと痛む心地になる。けれど、彼の声を聞くべきはほかのだれでもなく私なのだと思う。

 まっすぐに見つめて訊ねると、綺瀬くんは顔をくしゃっと歪めた。

「俺は……」

 その瞳にじわじわと涙が浮かんでいく。

「俺は……死にたくなかった。もっと水波と一緒にいたかった。来未も助けてやりたかった。三人でもっともっと、思い出作りたかった……っ!」

 綺瀬くんは潤んだ声で叫んだ。私はたまらず綺瀬くんを抱き締めた。

 綺瀬くんは痛いくらいに私を抱き締め返しながら、思いを叫ぶ。

 大きい身体は弱々しく震えていて、恐ろしいくらいに冷たい。
 その現実が、余計に胸を苦しくさせる。

「……ずっとひとりで寂しかった。暗くて、寒くて、怖かった。……水波に、会いたかった」
「うん……うん」
 私は気の利いた言葉をなにひとつかけられないまま、ただただ綺瀬くんの背中をさすり続けた。

 そっと身体を離し、綺瀬くんと目を合わせる。

「……ずっとひとりにしてごめんね。私はここにいるよ」
 綺瀬くんに優しく微笑む。かつて、彼がそうしてくれたように。
「水波……」
 泣きじゃくる綺瀬くんは、幼い子供のように見える。

「……水波に触りたい」
 私は強く抱き着いた。
「じゃあ、ずっと抱き締めててあげるよ」
「……水波の可愛い声が聞きたい。ずっと、聞いていたい。叶うなら、そのまま眠りたい」

 なにを言おう、と少し唸る。

「うーん……いきなり言われると思いつかないなぁ。……綺瀬くんの泣き虫! ……とか? あ、それともうそつき? かっこつけ……?」

 一瞬きょとんとした顔をして私を見下ろしたあと、綺瀬くんはくすくすと笑った。つられて私も笑う。

「……水波。俺のこと、思い出してくれてありがとね」
「……うん」
「もう、忘れないで。好きな人に忘れられるのは、辛いよ」
「忘れない。もう、絶対忘れないよ……っ」

 この世のすべてに誓って忘れない。そう言おうとしたとき、綺瀬くんはふと寂しげに笑った。

「……うそ。俺のことは忘れていい。忘れて」

 目を瞠る。

「……どうして、そんなこと言うの?」

 信じられない思いで綺瀬くんを見上げる。すると、綺瀬くんは私を見つめて弱々しく微笑んだ。

「水波には、だれより幸せになってほしいんだ。これからもたくさん友達を作って、恋をして、大人になって結婚して子供を作って、幸せなおばあちゃんになってほしい。今、俺にとって大切なのはね、俺自身が水波を幸せにすることじゃなくて、水波が幸せでいることだから。水波が幸せなら、そこに俺はいなくてもいいんだ。だからね……お願いだから、俺のことはひきずらないで」

 綺瀬くんから一歩離れる。

「それが、俺のいちばんの願い」

 別れの予感に、足が竦む。

 分かっていた。
 もう、綺瀬くんとは一緒にいられないこと。
 なぜなら私は、沖縄で綺瀬くんが死んでしまったという現実を受け止めてしまったから。

「水波、お願い」
「綺瀬くん……」
 綺瀬くんは、見たことないくらい悲しげな顔をして、私を見つめている。切実な声に、喉がぎゅうっと絞られるように苦しくなった。

 私は、首を振る。

「……やだ。やっぱりやだよ。私、綺瀬くんが好き。このまま、そばにいてよ。どこにも行かないで。消えないでよ、お願い……私をひとりにしないで」

 祈るように言うが、綺瀬くんは静かに首を振った。

「水波はもう、ひとりじゃないだろ。水波を愛する両親がいて、水波の手を握ってくれる親友たちがいて、心配してくれる先生だっている。これから水波は、もっといろんな人に出会って大人になっていくんだ。過去より未来を見て生きていくんだよ」
「……でも、綺瀬くんは……」
「水波は優しいから、いつも俺のことを一番に考えてくれるよね。そういうところ、大好きだよ。……でも、俺のことは心配しなくて大丈夫。水波との思い出があるから、もう怖くないし寒くもない」

 水の惑星を閉じ込めたようなその瞳が、とろりと潤んだ。目が離せなくなる。かすかに綺瀬くんの眉が歪んでいる。苦しげなその顔に、言葉を失う。

「綺瀬くん……」

 お願い、行かないで。
 そう言いたいけれど、ぐっと呑み込む。
 ダメだ。これ以上は、甘えちゃダメだ。

「水波。これまでそばにいてくれてありがとう。俺を好きになってくれてありがとう」

 私は唇を一文字に引き結んだまま、ぶんぶんと首を横に振った。
 綺瀬くんの頬を、涙がつたう。

「俺の人生に寄り添ってくれて、ありがとう」

 いやだ。やっぱりいやだ。待ってよ。行かないでよ。お願い、もう少しだけそばにいてよ。

 綺瀬くんを引き止めるように、私は彼に抱きついた。

 ……はずだったのに。

 私の手は虚しく空を切った。バランスを崩して、危うく転びかける。

 驚いて振り向く。
 もう一度、綺瀬くんに手を伸ばす。
 私の手は、たしかに綺瀬くんの胸に触れているはずなのに、感触はない。
 綺瀬くんの身体は半透明で、彼の身体には夜空の星が瞬いていて。

 綺瀬くんが泣きながら微笑む。

 口を開いてなにかを言っていた。けれど、どうしてか声は聞こえない。
 耳を押さえる。

 どうして? どうして、どうして……。

 綺瀬くんはどんどん空気にとけていく。

「待って……綺瀬くん! 綺瀬くん!」

 何度抱きつこうとしても、私の手はなにも掴めないまま。

「待って……やだ、やだ! 行かないでよ! 綺瀬くんっ……」

 勢い余って、地べたに転がった。しゃくりあげながらもう一度立ち上がろうとしたとき、風が動いた。綺瀬くんがふわりと私の前にしゃがみ込んだのだ。

「綺瀬くん……?」

 綺瀬くんが鼻先の触れそうな距離で私を見つめている。ゆっくりと唇が動いた。

 その唇は、たしかに『ありがとう』と言っていた。
 ぶんぶんと首を振る。

「私こそっ……! どん底だった私を抱き締めてくれて、悩みを聞いてくれて、ずっとずっと、呆れずにそばにいてくれて……」

『ありがとう』と言いたいのに、どうしても言えない。

「綺瀬くん……あのね」

 綺瀬くんの指先が、優しく私の唇に触れた。
 そのまま頬に流れていく。
 あたたかい水に包まれるような感覚が気持ち良くて、私は目を閉じて擦り寄せるように綺瀬くんの指先に応える。

『水波』

 かすかに声が聞こえて、目を開く。

 綺瀬くんの指先は震えていた。綺瀬くんがそっと身をかがめ、私も引き寄せられるように顔を上に向ける。

 そして、触れるだけのキスをした。

 目を伏せると、涙が頬をつたっていく。綺瀬くんのぬくもりを噛み締める。

 次に目を開けると、綺瀬くんの姿はどこにもなくなっていた。