それから、ケーキを食べ終えると私たちは店を出た。

 別れ際、穂坂さんが思い出したように振り向く。
「あぁ、そうだ」

 振り向いた穂坂さんを見上げ、私は首を傾げる。

「これだけは伝えないとって思ってたんだ」
「なんですか?」
「綺瀬くんのことだ」
「……え?」

 その瞬間、世界中の音が一瞬にして鳴り止んだような気がした。

「フェリーから救出したのはたしかに俺たちだけど、船内でずっと君を守っていたのは綺瀬くんだよ。彼がいなかったら、君はきっと今ここにはいない」

 足が地面に根を張ったように、動けなくなる。

「瓦礫が人為的な感じで山になっていたから、ずっと考えてたんだ。これはあくまで俺の想像だけど……綺瀬くんは、取り残された船内で気を失った君をどうやったら助けられるか、必死に考えていたんだと思う。それで、瓦礫を集めて空気が残っている空間への足場にしたんだ。もしじぶんが支えていられなくなったとしても、君に意識がなくても、最後まで沈まないように。あの極限の状況でそんなことができるなんて、ふつうじゃ考えられない。でも、それほどまでに綺瀬くんは君を守りたかったんだと思うよ」

 ……だから、せめて彼の遺体だけは引きあげて、あたたかい場所に弔ってあげたかった。

 そう言って、穂坂さんはやるせなさげに目を伏せた。
 私は、穂坂さんの話を呆然と聞いていた。

 ――今、この人はなんて言った? 綺瀬くん……? 穂坂さんがなんで綺瀬くんを知ってるの?

 話の中で、名前は言ってないはずだ。それなのに、なんで……。

 信じられないものを見るように、穂坂さんを見上げる。穂坂さんはひっそりとした声で告げる。

「綺瀬くんを帰してあげられなくて、ごめん」

 穂坂さんの声は金属が擦れるような耳鳴りの音のように、耳の奥で響き続ける。

「親友三人で、中学最後の旅行だったのにな」

 私はその場に立ち尽くしたまま、考える。

 ずっと、疑問に思っていた。ずっと、違和感を感じていた。でも、知るのが怖くて目を背けていた。

 綺瀬くんに会うたび、ずっと感じていた違和感の正体に。

 自殺しようとした日、初めて出会った不思議な男の子。まるで運命の糸を手繰り寄せたかのように出会った男の子。

『落ちてたら、死んでたんだよ!』
 死のうとした私を全力で引き止めてくれた。

『俺が君を助けた理由はね、俺の手が届くところにいたからだよ』
 今思えば、私はあの日恋に落ちたのだと思う。

 綺瀬くんは、私の話を最後まで静かに聞いてくれて、そして、『助けられたから生きているのだ』と、ごくごく当たり前のことを教えてくれた。

 いつだって会うのはあの広場で、綺瀬くんはいつも寒い寒いと言っていて。手を握ってあげると、ひどく安心した顔をして眠る。私も、綺瀬くんと手を握ると、悪夢を見ずに眠れる。

 どうしてだろうって、ずっと思ってた。

 私は息を吐きながら、穂坂さんに訊く。
「綺瀬くんって、あの……紫咲……綺瀬ですか」
 すると穂坂さんは、戸惑いながら頷いた。

「ごめん、俺……なにかまずいこと言った?」

 綺瀬くんが、沖縄にいた? 一緒に旅行に、あのフェリーに乗っていた……?

「写真とか……ありませんか。綺瀬くんの」
「あぁ……うん」

 穂坂さんはポケットからスマホを取り出し、画像を見せてくれた。

「これ……綺瀬くんのお母さんにもらったものだけど」

 かすかに息が漏れた。

 そこに写っていたのは、海岸で撮ったと思しき写真。四角い枠の中で三人の少年少女が笑っている。それは紛れもなく、私と来未と――そして、綺瀬くんだった。

 決定的な写真を前に、脳内でビジョンが爆発した。

 紫咲綺瀬。

 来未と同じく中学生のときに知り合った私たちは、三人でいつも一緒にいた。

 綺瀬くんはもともと来未の幼なじみで、私と来未が仲良くなったことで知り合った。優しくて、爽やかで、スポーツも運動もできる男の子。

 綺瀬くんは内気な私にもすごく良くしてくれて、私は川の水が上流から下流、そして海へ流れ着くのと同じくらい当たり前のように、綺瀬くんのことを好きになった。

 中三の春、私は親友の来未に綺瀬くんが好きだと告白した。そうしたら来未はとても喜んで、卒業前に三人で旅行に行こうと言ったのだ。そこで告白すればいいと。

 そして中学最後の夏休み、私たちは三人で計画を立てて沖縄へ旅行に行ったのだ。

 そこで……あの事故が起こった。

 呼び覚まされた記憶に、愕然とする。

 沖縄に来た私たちは、受験生であるということも忘れてはしゃいだ。海でバナナボートに乗って、シュノーケリングをしたり。水族館で見たことのない魚をたくさん見て、地元で有名なアイスを食べて、食べ歩きも散々した。

 そして、三日目の朝、あのフェリーに乗ったのだ。

 綺瀬くんへの告白は、フェリーでする予定だった。来未が席を外して、ふたりきりになったとき。

『トイレに言ってくるね』

 来未のその言葉が合図だった。

 だけど、いざその日になったら怖くなってしまって、フェリーに乗る直前、私は来未にやっぱり告白するのはやめると言ったのだ。

 ……そうだ。それで、喧嘩になった。

 来未は、私が綺瀬くんに告白するのをやめると言ったら、怒ったのだ。

「なんのためにここまできたの。志望校違うんだから、卒業したら離ればなれになっちゃうんだよ。今言わなきゃ絶対後悔するんだからね!」

 それから来未はずっとぷんすかしていて、告白しないならもう口を聞いてあげないからと、なにを話しかけてもぜんぜん反応してくれなくなった。
 そんなものだから私も悲しくなって、寂しくて……それで、無視し返したのだ。

 綺瀬くんは喧嘩してしまった私たちを取り持つように、間に入って場を盛り上げてくれていた。
 フェリーが出航し、そのうち朝香がトイレに行くと言って席を立った。来未は最後に、ちらりと私を見た。たぶん、合図をしたのだと思う。それからしばらく、来未が帰ってくる気配はなかったから。

 ふたりきりになると、綺瀬くんは私にどうして喧嘩なんてしたのかと訊ねられた。けれど、私が綺瀬くんへの告白を諦めたから来未が怒ってしまったなんてとても言えないので、なんでもないのだと笑って誤魔化した。

 そうこうするうち、あの事故が起こった。

 突然、ものすごい音がした。と思ったら、一気に船体が傾き、あちこちから悲鳴が上がった。私は衝撃に驚いて動けず、声すら出せなかった。
 振動で椅子から転がりかけた私を、綺瀬くんが咄嗟に支えてくれる。

『なにごとだよ!?』
『フェリーが座礁したらしい! このままだと……』

 乗客たちは、フェリーが座礁したのだと知ると、我先にとライフジャケットを着用し始めた。

 当時、私たちはライフジャケットを着ていなかったのだ。


 事故後のニュースでは、ライフジャケット着用の指示をしていなかったフェリー運営会社が責任問題を問われ、世間からの集中砲火を浴びていた。

 緊迫し始めた空気の中、だれかが沈没する、と呟いた。
 それから、あっという間に海水が入り込んできて、だれかが叫んだのを皮切りにあちこちから悲鳴が飛び交う。

『いやだ、死にたくない』
『だれか助けて』
『どうして避難誘導がないんだよ!』
『怖いよ、お母さん』
『助けはまだなの?』
『どうしてこんなことに私が……』

 私は突然のことに怖くて動けなかった。

『水波。大丈夫だよ。もう通報は済んでるみたいだし、すぐ助けが来るからね』

 ガタガタ震える私を、綺瀬くんが優しく抱き寄せて落ち着かせてくれる。
 深呼吸をするなかで、私は大事なことを思い出した。トイレから、来未がまだ戻っていない。

『……ねぇ、来未は?』

 顔面から熱が消えていくような心地になる。

『来未がいない。私、探してくる』
『ダメだよ。俺が行くから水波はここに……』
『いい! 私が行く!』

 来未は私が告白するタイミングを掴めるように出ていったのだ。私が連れ戻さなくては。きっと、デッキのほうにいるはずだ。

『おい、水波!』

 綺瀬くんの静止を振り切って、私は急いで来未を探しに向かった。来未は船首近くの通路にうずくまっていた。揺れがひどく、身動きが取れないようだった。

『来未!』
『水波!』

 私に気付いた来未が、ホッとした顔をする。

『来未! 危ないから、早くこっち!』
『うんっ……!』

 すぐに綺瀬くんもやってきた。手にはライフジャケットを持っている。

『来未、とりあえずライフジャケット持ってきた! これを着て……うわっ!』

 直後、さっきより大きな爆発音とともに、ものすごい揺れが船体を襲った。

『きゃあっ!』

 衝撃で派手に転び、私はデッキを滑り落ちる。

『水波っ!』

 間一髪で綺瀬くんが滑りながらも私を抱き寄せ、デッキの手すりに掴まる。一秒もなかったように思う。
 バクバクする心臓を押さえながら、視界に青色がはためいた。それが来未のワンピースだと分かるまで、時間を要した。

『来未っ!』

 綺瀬くんが叫んだ。
 その瞬間。来未の姿が消えていく。目の前の光景が、私の目には世界中の時計が止まったんじゃないかと思うくらいスローモーションに映った。

『来未!』

 叫びながら、私は綺瀬くんの手を振りほどいて来未に手を伸ばす。

『水波っ』

 来未が伸ばしたその手を掴むと、私は来未の体重に引っ張られるようにデッキを滑った。全身が勢いよく手すりにぶつかり、痛みにうめき声が漏れる。
 そして、手の力が緩んだ一瞬。海水で、手が滑った。
 来未の手の感触がなくなった。

『くるっ……』

 ライフジャケットを着ていなかった来未は、瞬く間に白い波の中に消えた。
 消えた来未のゆくえを探そうと、手すりに乗り出す。水の中から、手だけが見えたような気がした。

『来未っ! 来未!!』
『水波! 危ないっ!』

 呆然とする私を、綺瀬くんが無理やり手すりから引き剥がし、船首の近くの部屋に連れ込んだ。
 心臓が口から飛び出すんじゃないかというくらい、どくどくと高鳴っている。

『どうしよう……どうしよう、綺瀬くん。来未が……』
『大丈夫だから、とにかく落ち着こう』

 綺瀬くんはパニックになる私を優しく抱き締めて、何度も『大丈夫』だと言い続けた。

 到底、落ち着くことなんてできなかった。
 来未が流されていく光景が頭から離れない。海面から伸びた手が、こちらに向かって広げられた手のひらが、こびりついて離れなかった。

 来未が落ちた。来未は、まだライフジャケットを着ていなかった。このまま流されたら、溺れてしまう。

『どうしよう、私のせいだ……来未……どうしよう』
『水波。来未は大丈夫だから、じっとして。頭切れちゃってるから止血しないと』
『そんなことより、急いで来未を探さないと! このままじゃ、来未が』

 再びデッキに向かおうとする私を、綺瀬くんが強く引いて制した。

『ダメだよ! 水波も怪我してるんだ! 水波まで海に落ちたら大変だ! ……大丈夫。すぐに助けが来るから、来未のことはレスキューに任せよう』
『そんなこと言ってたら来未が死んじゃうよ!』
『落ち着けって、水波!!』

 初めて、綺瀬くんが声を荒らげた。いつも穏やかな綺瀬くんに怒鳴られ、私は息を呑む。驚きと恐怖で、余計に涙が込み上げた。

 泣き始めた私に気付いた綺瀬くんが、ハッとした顔をする。

『……大きい声出してごめん。でも、今はとにかく、俺たちも助かることを考えるんだ。ね?』
『……うん』

 こめかみをあたたかいなにかがつたっていく感触に、そっと手を持っていく。
 ぬめりと生あたたかい液体が指先に触れる。見ると、私の手は赤黒く染まっていた。そういえば、デッキにぶつかったときに頭を打ったのだった。

 思い出したように頭がズキズキとして、意識がゆっくりと遠くなっていく。

 その間にもフェリーはどんどん沈んでいるようだった。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。
 綺瀬くんは爆発で壊れた瓦礫やなんかを集めてきては、なにかをしていた。お互い喋らなくなって、私は痛みで意識がぼんやりとし出して。

 次第に頭痛がひどくなり、視界が白く霞み始めた。

『ねぇ……綺瀬くん』

 私はぼんやりした意識の中で綺瀬くんに声をかける。

『私たち……ここで死ぬのかな……』
『なに言ってるの。もうすぐ助けが来るから、諦めちゃダメだよ。大丈夫。もう頭の血も止まったよ。ゆっくり深呼吸してみて』
『うん……』

 あのときの私は、もう生きることを諦めていた。だから、どうせ死ぬならばと思って、言ったのだ。

『綺瀬くん……私ね、ずっと綺瀬くんに言いたいことがあったんだ』
『なに?』

 綺瀬くんは、優しく私の手を握ってくれた。

『私……今日告白しようとしてたんだよ』

 白くぼやける視界の中で、綺瀬くんの喉仏がゆっくりと上下するのが見えた。

『……綺瀬くんにね、好きって言おうとしてたんだ』

 人生で初めての告白なのに、私はそのときぜんぜん緊張なんてしてなくて、言えてよかったという安心すら覚えていた。

『……そっか。ありがとう。水波、俺も好きだよ。水波のことが好き』
『本当……?』

 綺瀬くんは今にも泣きそうな顔をして、私の顔を覗き込んでいた。

『……うん、うん。だからもう少し……』
『ありがとう……。私、死ぬ前に告白できてよかった』

 今度こそ、綺瀬くんが潤んだ声で叫んだ。

『死なないよ! 生きて帰ろう。絶対、生きて帰るんだよ』
『……うん……』

 目を閉じる。

『水波!』

 遠くで綺瀬くんの声がする。
 何度目か分からない爆発の音が響いて、とうとう私たちがいる部屋にも海水が浸水してきた。

 じゃばじゃばと荒い水の音を聞きながら、ぼんやりと考える。ほかの人はどうしているだろう。もう救助の人は来ただろうか。
 来未も、助け出されただろうか。

 私たちがここにいることをだれか知っているのだっけと思い、すぐにどうでもいいか、どうせもう死ぬんだし、と考え直して目を閉じた。

 このフェリーはじきに沈む。助けなんてこない。私たちはきっとこのまま死ぬんだ、そして、海の底に沈む……。

 それなのに、綺瀬くんはまだなにかをやっていた。目を開くと、真剣な横顔が見える。

 こんなにも絶望的な状況を前にしても、綺瀬くんはぜんぜん諦めている様子はなかった。それどころか、私の気が抜けるのをなんとか阻止しようと必死に声をかけてくれていた。

『水波、なにか楽しい話をしよう。助けが来るまでもう少しだから』

 こんな状況で楽しい話なんて浮かぶわけないのに、それでも綺瀬くんは本気で考えているようだった。
 そんな綺瀬くんの横顔を見つめて、やっぱり好きだなぁ、と改めて思った。

 ……こんなときなのに。もう死ぬのに。

『……私……綺瀬くんともっと一緒にいたかったなぁ』

 綺瀬くんがハッとしたように私を見た。
『いるよ。今も、明日もこの先もずっと。明日はどこに行こうね? もう一日くらい遊びたいよね』
『……来未とも喧嘩したままだし……私、なんで喧嘩なんかしちゃったんだろう……来未に会いたい……』
『……大丈夫。絶対仲直りできるよ。来未、さっきぜんぜん怒ってなかったじゃん』
『……来未、大丈夫かな……』

 声が震える。頭の痛みが嘘のように消えて、いよいよ死ぬんだと思い始めた。それでも綺瀬くんは取り乱すことなく、私に『大丈夫』だと言い続けた。

『来未は大丈夫だよ。きっと先に救助されて、俺たちを待ってる。だから、最後まで諦めちゃダメだよ』

 あたたかい手のぬくもりを思い出す。

『仲直りするんだろ?』

 綺瀬くんは、優しい声でそう言った。


 そうだ……。

「綺瀬……くん……」

 涙声でその名を呼ぶ。すべて、思い出した。

 あの日私は、最後まで綺瀬くんと一緒にいた。綺瀬くんは、怪我をした私を全力で助けようとしてくれて、実際私は、綺瀬くんのおかげで穂坂さんが来るまで生きていられたのだ。

 足から力が抜け、その場にへたりこんだ。

「水波ちゃん! 君、顔色が……」
「……大丈夫です。すみません、ちょっと、力が抜けちゃって……」

 穂坂さんの声を遠くに聞きながら、私は、どうしようもない悲しみに囚われていた。

 ……今さら思い出したって、なにも変わらない。

 現実は、変わらない。……だって。

 綺瀬くんはもう、ここにはいない。

 あの日、あの事故で死んでしまった。

 すっかり癒えたはずの頭の傷が、ガンガンと痛み始める。私は呻き声を上げ、その場にしゃがみ込む。

「水波ちゃん、ちょっと休もう。もう一度お店に……」
「いえ、大丈夫です……すみません」

 視界が霞み、目をぎゅっと瞑ってこめかみを押さえたそのとき。

『――水波』

 すぐ近くで綺瀬くんの声がした気がした。

 ぼろぼろと涙を零しながら、私は思い出した真実に絶望する。

 頭の中では、あの日のできごと記録された映写機が回り続けている。
 病院で目が覚めてからずっと、なにかが足りないと感じていた。

 来未がいなくなって、ひとりになって。
 死んでしまうのではないかと思うほどの喪失感に襲われて。

 来未の存在の大きさを思い知った。だけど、それでもまだなにか忘れているような気がしていた。

 それを今、ようやく――……。

『……水波。ずっと守ってやれなくてごめん。でも、俺はずっと、死んでも水波のことが大好きだから』

 半分失くした意識の向こうで、綺瀬くんはそう、私に言っていた。

 部屋はどんどん海水に満たされていくなか、必死に私を空気のあるところに押し上げながら。

『だから、水波は生きて』

「あの事故で、綺瀬くんは……綺瀬くんだけフェリーの中に閉じ込められたまま、救出が間に合わず沈んだんですね」
「……うん。綺瀬くんは、足が瓦礫に挟まっていて……即時救出が困難だった。ただ、綺瀬くんの身体があったおかげで、水波ちゃんはわずかに残った空気中に顔を出したままで助かったんだけどね」

 綺瀬くんは事故当時、じぶんの足が挟まれて溺れながらも、必死に私を守ろうとしてくれていたということだ。

「君を先に救出したあと、もう一度フェリーに戻る前に、上から撤退命令が出されたんだ」

 穂坂さんの声が遠くなる。

 そしてあの日、私が死のうとしたときも……。

 再び私の前に現れたのも、きっと私を守るためだ。私がまた、死に近付いたから……。
 息すら忘れて記憶の波に呑まれたあと、思い出したように嗚咽が漏れた。

 それから、どうやってホテルに戻ったのかよく覚えていない。気付いたらホテルで、朝香たちと一緒にいた。

 帰ってきてからも、私の気分は沈んだままだった。そんな私に朝香たちはなにも言わず、いつもどおりに接してくれる。
 ホテルの部屋に入ったとき、事故のときの知り合いと話してきたということだけを軽く伝えたからだろう。

「水波、お菓子食べる?」
 琴音ちゃんが聞いてくる。
「ううん。さっきケーキ食べちゃったから」
 そう断ると、琴音ちゃんは、
「えっ、ずるっ!」
 と、私に抱きついた。

「あは、ごめん」
「いいなぁ。なに食べたの?」
「……ティラミス」
「私も食べたかった」

 言いながら、琴音ちゃんは私の頬を片手で掴み、ぷにぷにとしてくる。私はされるがままになりながらも、頭の中は綺瀬くんのことでいっぱいだった。

「あ、そだ。ここ、お土産コーナーのとなりにカフェあったよね! ショーケースのほかに焼き菓子も置いてあったし、なんかご当地お菓子とか売ってないかな?」
「どうだろう……」
「行ってみない?」
「いいね!」
「今日もお菓子パーティーしたいしね! ね、水波ちゃんも行こうよ!」
「……私は、いいや」

 短く言って再び黙り込む。
「……そっか。じゃ、私たちが代表して行ってくるね! 水波は帰りを待つべし。朝香も行こ」
「あ……うん」

 朝香は気が進まなそうにしながらも、琴音ちゃんと歩果ちゃんに連れられて出ていった。

 ひとりきりになった部屋で、私は途方に暮れた。
 ベッドに身を投げ出し、シーツの海に埋もれる。
 無機質な天井やライトを見上げ、私は今まで、彼のなにを見ていたのだろうと考える。

 思えば私は、彼のなにも知らなかった。住んでいる場所も、どこから来ているのかも。聞こうと思えば、タイミングはいくらでもあったはずなのに……。

 たぶん、無意識のうちに避けてたのだ。恐ろしかったのだ。この現実を突きつけられるのが。

 胸が苦しい。でも、綺瀬くんはきっと、もっと苦しい。
 私は、命を懸けて助けてくれた人の前で、なにをした?

『私の命、どうしようが私の勝手でしょ』

 そう吐き捨てたのだ。私のせいで命を落とした綺瀬くんの前で。
 どうして忘れていたのだろう。どうして忘れられたのだろう。
 たったひとりの好きな人を……命の恩人を。

「有り得ない……」

 私はどれだけ綺瀬くんを失望させたら気が済むのだろう。

『俺さ、大好きな人がいるんだ』

 初めて会った日、綺瀬くんは言っていた。

『でもね、その人はもうどうやったって俺の手が届かないところにいる』

 悲しいくらい綺麗な顔で、綺瀬くんは私をまっすぐに見つめていた。
 あの顔は……ぜんぶ、私に向けてくれていた言葉だったのだ。

『生きててよかったよ』

 綺瀬くんの笑顔が蘇る。息ができないくらいに胸が締め付けられた。
 綺瀬くんはずっと、私に会いに来てくれていたのだ。また死のうとした私を、助けるために。生きろと伝えに。
 じぶんは、遺体すら引きあげてもらえていないのに……。

『本当は、ひとりが寂しかったんだ』

 綺瀬くんはいつも寂しそうにしていた。当たり前だ。広くて深い海の底に、ひとりぼっちなのだから。

『俺が水波を助けたのは、俺のため。ちょっとでいいから、そばにいてほしいって思ったんだ。……寂しくて、死にそうだったから』

 震えが止まらない。
 私はなんて愚かなのだろう。どれだけ綺瀬くんの気持ちを踏みにじれば気が済むのだろう。

 最後に告白までして……あれじゃ、綺瀬くんにただ縋っただけだ。助けて、と、みっともなく縋っただけだ。

「私……バカだ……」