君という夢を描いて

*

 五日後の昼過ぎ。
 俺は梨歩を連れて例の河川敷に来た。アパートから十五分程歩くと堤防があり、階段を下って河川敷に降りると一級河川が流れている。その対岸に映る桜の木々と晴れ渡る空のコントラストが俺のお気に入りだ。
 五月も中頃に差し掛かると、もうすっかり夏が訪れたような陽気に包まれる。
「わ、思ったより暑いね。もう少し陰になるところない?」

 背中にアコースティックギターを背負った梨歩は、額に汗を滲ませ手の甲で軽く拭った。俺はスケッチブックと色鉛筆の入ったショルダーバッグをかけ、「この辺りなら」と梨歩に木陰になる場所をすすめる。
「ありがとう。うわ、背中汗ヤバい」
 背負ったギターを降ろすと、梨歩は背汗の跡を気にするように背後に手を回し、背中に張り付いた服を引っ張りながら風を通している。
「何この暑さ。もう夏じゃん。服選び失敗したわ」
「確かに、今日は特に暑いな」
「ねえ、デオス持ってない?」
「え、でお……?」
「あ、ごめん。デオドラントスプレー」
「ああ、脇シューのことか」
「え、何?」
「あれ? 脇シューって言うんじゃ……」
 マジか。ギリ通じると思ったのに。10代の女子なら共通語なのかと思っていた。
 あれは、方言だったのか?

「あっははは! 脇にシューってするから? 何それ、めっちゃ面白い!」
 案の定、大笑いされた。
「あー……もしかして、通じなかった?」
まさか。
 通じないとは思わず、当たり前のように発した言葉が恥ずかしい。

 俺の地元では、高校時代に女子が「ねえ、脇シュー貸して」などとしょっちゅう言っていたから。
 標準語だと思っていた。
「初めて聞いたわ、それ今度使お。“脇シュー”ね。ねえ、涼ちゃん。脇シュー貸して」
 早速使ってるし。
「ああ、これね」
「ありがとう」
 俺は梨歩にデオス……ではなく脇シューを渡した。俺は手汗と体臭が気になるので、年中持ち歩いている。中学時代に女子から「オッサンの加齢臭みたいなニオイがする」と言われたのがトラウマで、外出先には必ず持ち歩いている。

「涼ちゃんって、もしかして女子力高め?」
「え、いや、そういうわけじゃないけど」
「だって、こういうのササッと出てくるじゃん。あたし現地調達か人に借りることの方が多いからさ、持ち歩く習慣ないんだよね」
 梨歩は俺の脇シューを背中に噴射しながら言った。

「ああ、さっぱりした。ありがとう」
 柑橘系の爽やかな香りが辺りに漂う。
「これめっちゃいい香りするね。あたしも買おうかな。メーカーどこの?」
 梨歩は脇シューの本体を見ながら再び噴き出す。
「ちょ、待って。これ、足用じゃん!」
「ああ、それは……」
「ウケる、もしかして足ムレる系?」
「いや、足だけじゃなくて……え?」
「あっははは! 足だけじゃないって、何? 全身とか?」
「まあ、そんな感じ……」
「出た! “そんな感じ”! やっぱ涼ちゃん最高だわ」

 中学時代の苦い経験がベースなのだと言いかけたが、この様子だとわざわざ言わなくてもいいかと思った。言われた当初はかなりしんどかったが、こんなにも明るく笑い飛ばしてくれる彼女に救われるとは。俺が脇シューを携帯する理由が上書きできそう。そう思うだけで晴れやかな気分になれた。
 俺は脇シューをしまう前に自分にも噴射した。
 この爽やかな香りがいつまでも続いてくれるのがいいのだが……そういうわけにもいかず。
「よし、気を取り直して……やりますか」
 梨歩がハードケースからアコースティックギターを取り出した。
「うん、さっきの脇シューの香りのおかげで創作意欲が湧いてきたわ」
「俺も」
「よし、じゃあ早速作ってみよう。タイトルは……」
『脇シュー』
 かぶった。二人見事にかぶった。
「あっははははは!」
「ヤバ、ここまできれいにかぶるとは思わんかった」
「脇シューに感謝だねえ」
「まさか、こいつに感謝する日が来るとはな」
 馬鹿みたいに笑った。こんなに笑ったのはどれくらいぶりだろう。

 梨歩が歌い、俺が描く。
 共同作業のような時間の中に、それぞれの世界観が絶妙に入り混じる。

 俺が描き、梨歩が歌う。

 春を歌い、春を描く。
 夏を歌い、夏を描く。
 秋を歌い、秋を描く。
 冬を歌い、冬を描く。


 そんなふうに二人の時間を重ねていける。いつの間にか、梨歩と過ごすのが当たり前になっていく。

 少し前までには想像もつかなかった俺の“青春”。

 晴れ渡る空の青さがやけに沁みて、この幸せをずっと噛み締めていたいーーそんな贅沢な思いを抱くようになるほど、俺は梨歩に夢中になっていた。
「ここ、すごくいい場所だね」
「ああ。俺のお気に入りの場所なんだ」
「ねえ、あたしも気に入っちゃった。また一緒に来ようね」
「ああ。いつでも」

 初夏の陽気を浴びた、爽やかな風がそよぐ。
 春と青、か。

 こんなにも“青春”という言葉を身近に感じる日が来るとはな。

 ただのしがない美大生。それが俺のスペックだったのに。
 人生は、いつ何が起こるかわからないものだ。