それから数分後。
私は人生初の鬼ごっこをリアルタイムで経験していた。
「来ないで下さい!」
だがこれが果たして鬼ごっこと言えるのだろうか。
鬼から逃げる役とはいえ、その意味は壊滅的にずれている。
「おいおい、んな逃げなくてもいいだろ」
「では白夜様が止まって下さい!」
「いや~だね」
これが園児のやる鬼ごっこならまだ可愛げがあった。
だが見よ、あの満面の笑みを。
傍から見れば下心丸出しで今にも襲い掛かろうとしているようにしか見えない。
白い巨人に小さな逃走者が一つ。
追いかける追いかけられるの話ではない。
もはや喰うか喰われるかを極めた捕食者と被食者だ。
「ああ…もうダメかも」
「お、追いかけっこは終わりか?時雨」
白夜様はにこやかな笑みで決して走ることなく追いかけてくる。部屋は広いから今のところ捕まることなく逃げられていた。
だが着物と体力には限界がある。
限られた足幅と長く続かない体力では敵わない。
こんなに息を切らしている私を差し置き、白夜様は余裕そうだ。
「いやー!痴漢・変態・強制わいせつ!!」
「おいおい…愛しの旦那に向かってなんつーこと言ってんだよ」
苦笑いをする白夜様だったが、私がずるりとその場に座り込んでしまうと、直ぐに追いつき目の前に腰を下ろした。
「時雨」
「嫌です」
「いや、まだ何も言ってねぇだろ」
「言わなくても分かります。その口調は絶対に何かする時の口調です」
「え、俺ってどれだけ信用されてねぇの?」
今、この部屋には二人しかいない。
青龍さんは宿に到着すると神聖力温存のために龍の姿で眠り込んでしまった。完全に人の形を宿し続けるのには、まだまだ時間がかかりそうだ。
「尊敬はしてます。ですが信用となれば話が違いますので」
「ひで~笑」
密室で彼と二人きり。
しかも相手は白夜様だぞ?
これで何も起こらない方が可笑しい。
すると白夜様はこちらに手を伸ばしてくる。
私は咄嗟に目をつぶったが怖くはなかった。
それは彼を愛してるからこそ…
本当はどこか、その先を期待してしまう自分がいたからだ。
「今日の俺への補充だ」
「!!」
彼の声と共にふわりとした感覚が体を駆け巡れば、次の瞬間、私は白夜様の腕の中にいた。
ギュッと抱きしめられれば予想とは違う反応に戸惑ってしまう私に、頭上からは笑い声が聞こえてきた。
「はは、襲われるとでも思った?」
白夜は面白そうに混乱している時雨を見やればくしゃりとその頭を撫でた。
その服からは上品な香の香りが漂い鼻をかすめていく。
時雨はやっと自分がからかわれていたことに気づいた。
「…いじわる」
「はは、悪かったって」
つまり初めからからかうつもりでいたのか。
それを鵜吞みに信じて慌てふためく様子を観察しようと。
「最低、性格悪すぎです」
「悪かった、謝る。でもすんげぇ可愛いかったぞ」
時雨はガバリと顔を上げるとムーっと頬を膨らませて白夜を睨みつけてやった。
酷い、こんな仕打ちを受ける自分が悔しくてたまらない。またもや彼の手のひらで弄ばれたようだ。
「時雨」
「!!」
名前を呼ばれて彼を見る。
だが気づいた時、自分の目の前には美しい顔が視界いっぱいに広がっていた。
ささやかな抵抗はもう効かないようだ。
自然な流れでその顔は近づけば、口には優しくキスをされる。
「はは、顔真っ赤」
何が起こったか分からないまま、お互いの口は離れていく。長いまつ毛の間からは美しいアメジストの瞳がこちらを覗く。
「ッ//」
「はは、照れてんの?」
先ほどまでの威勢はどこへやら、顔をパクパクとしたまま何も言い返せない。彼は依然と目視できるほどの距離で静止すれば、私を面白そうに観察している。
「可愛い」
「んッ//」
白夜様は満足気に顔をほころばせれば、今度はウットリと微笑んだ。私はというと羞恥心と謎の敗北感に押し負けプイッと顔を背けてしまう。
また一つ彼は上手のようだ。
何をするにも上手く流されてしまえば、なかなか自分の思い通りにはいかない。
「お前はそのままでいてくれ」
「?」
そう白夜は言うので時雨は首を傾げた。
「ずっとこのまま、いつまでもお前を自分の手元に閉まっておきたい。決して誰にも奪われない場所に」
その言葉は妙に色気を放ち、時雨の体には甘い痺れが突き刺さった。
「好きだ」
「!」
「お前が好き、これからもずっと。お前は俺のもんだ、離れんなよ」
その言葉でポーっと顔には熱を帯びていくのを感じとる。白夜は愛おしそうに時雨を見つめていたが、やがて静かに立ち上がった。
「白夜様?」
「名残惜しいけど、そろそろ行かねーと」
「行く?あ、もしかしてお仕事ですか?」
「本番は明日なんだけど。妖都には他にいくつかの業務が入っててな」
そっか…白夜様、お仕事があるんだ。
もう夜になるのに。
今からお仕事へ行くとなると、帰って来るのは明け方になりそうだ。
せっかく一緒に過ごせると思っていたのに。
「そんな顔すんな、俺も仕事に行けなくなる」
白夜様が困ったように笑っている。
どうやら顔に出ていたようだ。
「…申し訳ございません」
そうだ、本当なら自分は屋敷で留守番のはずだった。
いくら条件で来たとはいえ、ここには危険を承知で無理に連れてきてもらったんだから。
我儘を言って白夜様を困らせてはいけない。
「寂しい?」
「…はい」
「お、珍しく素直だな」
白夜様は咎めることもなく笑ってくれた。
彼と出会ってからの私は可笑しい。
でも、自然と自分の気持ちを素直に言えるようになっていた。