もうずっと、忘れていた。

人の温かみとか、優しさとか。そういうもの、全部。


俺にとってそれは、いらないと切り捨てたものだった。


俺は大切な人を心配させて、迷惑かけてばかりだった。それなのに俺を心配した相手は大丈夫だなんて言って。

本当は大丈夫じゃ、ないはずなのに。




あの日は具合が悪かったのに奴らとたまたま会って、向こうから振ってきた。

こっちは俺一人で、向こうは五人。

いつもなら、どうにかなる。だけど今は生憎一人だし、おまけに体調不良。

そんなの無理に決まってるじゃん。分かってる。


ものの開始十分で、あっさりと俺はやられた。



「生意気なんだよ、お前。とっとと俺らの前から消えてくれれりゃいいのにさあ!」



だんっと倒れた俺のわき腹を一蹴りした後、満足したように気持ちの悪いにやっとした笑みを浮かべた。

だんだんと、視界が狭まっていく。目を閉じる前、最後に見たのはあいつらの背後。


前日の雨で濡れたアスファルトが、冷たい。

俺はこのまま死んでいくんだろう。急にふと考える。

金髪の、身体中傷だらけの男なんて誰も助けやしないだろうから。


身体が、痛くて動かない。

死ぬ間際、なんて言いたかねえけど、たぶんそうなるんだろうなとどこか冷静な自分がいた。


俺の人生、むちゃくちゃなことばかりだった。いや、9割そうかもしれない。

死ぬなら、最後に言いたかった。忘れ去られたあの人に。


『ごめんな』と。



6月のある木曜日。誰も知らないこの日、太陽の当たらない裏路地で。


俺は、意識を失った。




気づいたら、目の前に女の顔があった。

肩より長い黒髪を下のほうで二つに縛り、こちらを覗き込んでいる。


俺は、天国に来たのか。この女が、神様かなんかか。うつろな頭ではぼんやりとしか考えられない。

というか、俺は死んだとき地獄に行くもんだと思ってた。


生きている間、地獄に行くそれ相応のことをしてきたから。




その女が鳥越映茉という名前で、俺のことを助けてくれたと知ったのは、すぐのことだった。

薄い生地の服から伸びる細くて白い手足が、今にも消えそうだと思った。


自分の名前を言うときにかんで、恥ずかしかったのか突然床に座り込んだり。

俺の差し出した手を見て、傷を心配し始めたり。

感情の忙しい奴だな、というのが第一印象だった。


こっちが試しに「映茉」と呼んだら、ふわりと笑って返事をしてから俺の名前を呼ぶ。

それが苗字だったことに少し驚いたが。


映茉の家は、とても賑やかだった。

人のよさそうな両親に祖父母だと思われる夫婦と、若い大学生の叔父。


食卓には笑顔が溢れていて、温かな雰囲気。

久しぶりに味わった感覚だった。

理由も聞かずに俺をこの家に置いてくれることになってしまった食後。


どこの馬の骨かも分からない俺に、ここまでしてくれるこの家族が不思議だった。

分からないというより、不思議だ。


とはいえ、さすがにこのまま世話になるわけにもいかない。

だからって、家に帰りたいかと言われればそうでもなかった。






朝。早く目が覚めた俺は、ベッドの上で気持ちよさそうに寝ている映茉を起こさないように布団を畳む。

ふと壁の方を見上げたとき、壁にかかった制服が目に入った。映茉の通っている高校の制服だと思う。今、初めて見た。


……北田高校に、通っているのか。



映茉の部屋を出て、身支度を整えてから階段を降りる。


一階の部屋は薄暗かったが、映茉の母親はもう起きていてキッチンに立っていた。

俺に気づいたのか、「ちょっと待ってて」と言われ足を止めると、生地の厚い上着とおにぎりを二つ手に握らせてくれる。



「どこに行くかはわからないけど。でもきっと、そこに行くのは白岩くんにとって大切なことのような気がするから」



私からも応援させてね。これは、その気持ちだから。と言ってウインクをした。

俺はお礼を言って、今度こそ家を出た。


ズボンのポケットに貰ったおにぎりを入れて、歩き出す。

下はそのままだから短パンだが、初夏だし少し冷えるくらいで寒くはなかった。


6時前の外はまだ少し薄暗くて人の影はなく、鳥だけが元気に鳴いている。

それでも電気の点いている家が多いように思える。こんなに早くから起きているのか。


俺は、朝が嫌いだ。町や人々がやる気に満ち溢れていて、気後れしてしまう。

嫌いというか、苦手といったほうが正しいか。俺にとって朝は、いい思い出がない。


なにかが起こるのは、いつも朝だったから。




とりあえずこの町の駅に着いてみたものの、そこからの行き方が分からない。

金なんてないし、さすがの俺でも電車に無賃乗車しようだなんて思わない。


仕方ないから、線路に沿って歩くことにした。

そうすれば、いつかは目的地に着くだろう。


空は、時計の秒針が進む速さでどんどん明るくなっていく。




藤咲駅の看板が見えてきた。

ここが俺の家のある町、藤咲市。


田舎の駅舎なんて人がいないことも多いが、今は通勤通学時間で人は割と多い。

駅内の時計の針は、7時55分を指していた。

中を通って反対側の方から駅を出る。


駅なのに店は少ないし、外にもなにかあるかと言われれば特にない。

俺は昔から、そういう町で育ったんだ。

目まぐるしく変わる世界に、寂しく取り残されてしまったようなこの場所で。



「たい焼き〜、たい焼き〜。おいし~いたい焼きだよ~」



遠くからたい焼き屋の声が聞こえる。

木が風でざわざわと音を立てて揺れ、昇ってきたきた太陽の光がその葉の隙間から差してくる。

駅から目的地までは歩いて15分ほどだ。そんなにはかからない。


すれ違うのは、制服を着た学生やスーツを着た社会人。ランドセルを背負った小学生が集団で歩いているのも見かけた。



「ねえ、もうすぐ夏休みだね~」

「ちょ、気が早いよ~!」




ふと、真横を通った女子高生二人の会話が耳に入る。

とても楽しそうに笑って話していた。


俺も、こうやって楽しく登下校できていたはずだろうか。学校生活を、送れていたのだろうか。でも、俺は自らその道を選ばなかった。

代償はつきものだ。仕方ない。


しばらく歩いていると、目的地が見えてきた。

古びていて、築四十年以上はあるだろうと思われる外観の三階建てアパート。

錆びて今にも壊れそうな鉄製の外階段を上がる。


この辺は静かで、人もあまりいない。だからか、朝なのに幽霊でもでそうな雰囲気だ。



三階の階段から一番遠い奥の部屋。ここまで伸びてきているツタを気にすることもなく踏みながら、やっとドアの前まで来た。

試しにドアノブを回してみるとガチャリと音を立てながら回る。

ゆっくり開いて、俺は中に入った。


部屋の中は特に荒らされた形跡もなく、金目のものが取られた感じでもない。一昨日、俺は開けっ放しで出て行ったのか。


散乱した部屋の中を進み、一番奥の部屋の扉を開ける。

人気はなく、そこには湿った空気が流れていた。


ほこりのかぶった学習机の引き出しを開け、財布を取り出す。

中身は、一万円札が三枚と小銭がいくつか。しばらくは、これで足りるか。

端のほうにあったゴミ箱におにぎりを包んであったラップを捨てる。中身は、線路を歩いている途中で食べた。

タンスから服を数枚持ち、その辺に転がっていたリュックに財布と一緒に詰め込む。


一通り準備が終わり、部屋を出る。ダイニングテーブルにスマホらしきものが見え、手に取り電源を入れる。

充電は80%。放置してたのに結構ある。

スマホはポケットに入れて玄関に向かう。ここにはもう用はない。またなにか足りなければ戻ってくることになるが。


とりあえずは大丈夫だ。そう思って玄関で靴を履こうとしたとき、リビングのほうで電話が鳴り始めた。


俺は、忘れていた。いつも電話には出ないようにしていること。

この家にかかってくる電話なんて、一つくらいしか思いつかない。


俺はリビングに戻り、鳴り続ける固定電話の受話器を取ってしまった。



「白岩か!?お前、何をしていたんだ今まで!電話にも出ずに!学校に来てもお前の席はないぞ!入学式でお前は周りの人を絶望させた!お前のようなヤツに学校に来る資格はないが、そんな中先生がチャンスを与えてやってるんだ!俺は白岩のことを思って……!」



名乗ることもせずいきなり俺の名前を呼び、受話器の向こうの人間は鼓膜が破れそうなくらい大声をあげた。

聞いたことのある声。


分かっている。俺が何をしているのか、向こうの相手が誰なのかくらい。

それでも、身体が拒否反応を起こさずにはいられなかった。


うるさい、うるさい、うるさいんだよ。

偉そうに説教をするその声を聞くと、あることを思い出す。

だから、嫌なんだ。



「おい白岩!聞いてるのか!」



その言葉を最後に、俺は電話を無理矢理切った。

息が少し乱れている。この一瞬でひどく疲れた。


今度こそ玄関で靴を履いて、靴箱の上に置いてあった鍵を掴む。

外に出て、ドアの鍵をかける。それをスマホと同じポケットへ乱雑に突っ込んだ。


アパートの階段を降り、来た道を戻る。

今度は電車で帰ろう。さすがに往復で隣の市まで歩くのはきつい。

電車なら、向こうまでは大体15分でつく。


歩きながらスマホで時刻表を調べる。見れば、ちょうど電車は行ってしまったみたいだった。

次は、45分後。田舎の電車の待ち時間なんてそんなものだ。

ゆっくり歩いても間に合うか。そんなことを考えながら、俺は元の場所に再びスマホをしまった。


帰る途中、映茉の通う北田高校に寄った。時刻は10時前くらいで、運動場には誰もいない。

北田高校に来るのは、受験以来だ。ちょうど三か月くらい前のことだったか。


本当は俺も、北田高校の生徒だ。受験に合格して、この春から通うはずだったんだ。制服を着て。

でも、それは出来なかった。無理矢理受験させられて、入学させられた高校になんて通いたくなかった。

プライドが高いとか、そういうことじゃないんだと思う。多分。

ただ、嫌だったんだ。自分の意思に反して『高校に通う』というレールをつくりその道を進ませようとした母親に従う、その行為が。


入学式は無断欠席した。だから、受験からそれきりだ、本当に。

俺の同級生は、映茉は。今この校舎の中で授業を受けているんだろう。


あの町だけじゃない。この学校に、同級生に置いて行かれて取り残されているのは、俺もそうなんだ。