俺、白岩望は治谷市の隣にある藤咲市の小さなアパートで生まれた。

父さんと母さんの間に。

生まれたときにはすでに、俺には兄がいた。


名前は、白岩(つばさ)。俺とは二歳差で、名前の通りまるで翼が生えているみたいに元気で明るい性格。

俺が生まれてから一年半後、弟が生まれた。“望”にちなんでつけられた名前は、“流星(りゅうせい)”。


「流れ星に望んでそれでも叶わないのなら、翼をはためかせていけばいい」。


よく、母親が言っていたその言葉のように、俺と流星は弟として翼を頼りにしていた。




「ほんと、白岩さんちの三兄弟は仲がいいわね」



近所では、名物みたいにいつもそう言われる。



「三人とも!お菓子あげるっ」



近所の人たちは良くしてくれて、可愛がってもらえた。

それぞれ小一、年中、年少の手のひらに小さな袋に入ったチョコレートが乗せられる。



「ありがとー!おばさんっ!」

「……ありがとう、ございます」

「ありがとうございます」



人としゃべるのが苦手なせいで、家族以外の人とは目が合わせられない。

正反対に誰とでも仲良くなれる翼は、内気な性格の俺にとってあこがれの存在だった。

幼稚園を卒業するまで、俺はよく翼のあとをついていった。翼は眉の端を下げて「しょうがないなー」って言いながら笑っていて。

その笑顔が俺は、好きだった。




そして翼が中学三年生、俺が中学一年生、流星が小学六年生のころだった。


翼は、いじめを受けていたんだ。

でもクラスメイトとかではなく、学校の不良グループから。

みんなに分け隔てなく明るく接する翼は、慣れあうことを嫌う不良たちからは真逆の存在だった。だから、標的にされたんだと思う。

俺はそのことを知らなかった。同じ学校に通っておきながら。


中三の先輩がやられているらしいといううわさはかすかに耳にはしていたが、それがまさか翼だなんて思いもしなかった。

家でも変わらず当たり前のように明るくて、元気だったから。


頭のいい翼は、よく俺に勉強を教えてくれていた。

休日は、知らないどこかに連れて行ってくれたりもして。



「今日は、にーちゃんの秘密の場所に連れてってやるよ」



小学生のとき、放課後翼に連れられて小学校裏にある小さな丘の上まで行ったことがあった。

流星もつれて三人で競争するみたいに駆け上がった坂は、今でも覚えている。

そして丘の頂には、初めて見たってくらいきれいな景色があって。

真っ赤な夕日が、脳裏に焼き付くのを感じたくらいだ。


翼と俺と流星。三人で並んで同じ景色を見れたことが、俺はうれしかった。

元気で頼りになる翼と、素直じゃないけど優しい流星、そして俺。
傍から見れば同じなのは苗字くらいで、まったく個性がバラバラな兄弟。だけどなぜか気が合って。

俺にとってこの“白岩家”に生まれたこと、翼の弟であること、流星の兄であることが、俺にとって一番の誇りだったんだ。



なんでも新しいことを教えてくれる兄。

まるで、生えている翼に乗っかっているような気分。

俺にとって翼は、どこまでも頼りがいのある強い人だった。



ある時を境に、翼は帰りが遅くなっていった。

翼は陸上部に所属していて、夏に向けて大会の練習をしているのだと特に疑問は持たなかった。

……だけど、怪我をしてくるようになると話は別。

父さんも母さんも心配していて、俺も何があったのかと思った。

でも翼は。



「ああ、これ?けっこう派手にこけちゃってさー。最近多いんだよね。だから、心配しなくても大丈夫だって!」



よく転ぶのは病気の可能性があるかもしれないって母さんが心配していたけど、翼は軽くあしらっていて。

……まあ、本人が大丈夫っていうなら大丈夫か。

と、俺も翼の言葉を信じ切っていたんだ。



6月のある日、俺はゴールデンウイークあたりに志望校を決め、勉強をしていた。


俺がそのとき一番目指していたのは、藤咲高校だった。

藤咲高校は近所で通いやすいし、なにより偏差値が高い。目標は高いほうがいいと父さんから勧められた学校。

この前受けた模試では見事にA判定で、これなら藤咲高校に受かるかもしれないと思っていた。



「へえ、お前、藤校受けるんだ。えーなになに?えっ、A判定っ!?やっば、すげーじゃん望!」



机に向かっていた俺の手元を覗き込みながら、翼が叫ぶ。

ほめてもらえたことがうれしくて、頬が緩んだ。



「てか、小学生の頃はあんなに勉強が苦手だったのに、ここまでよく頑張ったよなー。やっぱオレの教え方がよかったのかなっ?」



翼が笑いながら頬をツンツンしてくるので、「なんだよ」と言って睨んでみる。



「あははっ、そんなに怒んなよ。見てほら、お前の顔ひどいぞ」



翼がどこからか取り出した鏡を俺に向けてくる。俺はそれに反論しながらふと鏡を見てみれば、たしかに眉間にしわの寄った顔をしていた。



「な?今から根詰めてもしょーがないって。望なら出来ること、翼おにーちゃん知ってるし?」


「……ああ、ごめん。……ありがと、翼」



お礼を言えば、翼は笑って部屋から出ていく。

昔から、翼は誰かが落ち込んでいたり元気がなかったりするとほっとけない人だった。

例えば、流星が友達ともめていたら、さりげなく相談に乗っているのを俺は見たことがある。


今だって、翼のやり方で俺のことを元気づけてくれたのだろう。


あのとき気が付けば、もう少し干渉していれば、話を聞き出せばと、今でも後悔している。そしたらあんな“事件”も起こらなかったのに。

……こんなに優しい人が、まさかあんなふうになるなんて————。




本当の事件が起こったのは、俺が中学三年生で翼が高校二年生だったとき。夏の始まりのことだった。

中三の夏、7月21日。夏休み直前。

その日は、とても暑い日だった。


朝。両親はもう仕事に出ていて翼と流星も部活でいなく、部活に入っていない俺は一人遅れてのんびり家から出ようとしたときだった。

靴を履こうとした瞬間、家の固定電話が鳴ったのだ。

俺はなんだろうと思い家にあがる。


そして、なんの疑いもなしに固定電話の受話器を手に取った。



「……え」



思考が止まる。ついでに心臓も止まった気がした。


……電話の相手から告げられたのは、翼が交通事故にあったことだった。

車にひかれて、意識不明。


俺は電話を切って、勢いのまま玄関のドアを開けて駆け出していた。


翼、翼、つばさ————っ!


走っている間、頭に浮かぶのはたった一文字。その名前。何回だって数えきれないくらい呼んだ名前。

警察の言葉は信じられない。自分で確かめに行きたい。そうしないと、納得できない。


翼の通学路なら、一度だけ本人に連れて行ってもらったことがある。

北田高校に行くまでの道を、俺はただひたすらに走った。


電話で伝えられた場所には、数人の警察とパトカー、車が一台だけがあった。

翼はもう、救急車で運ばれたのだろう。

いや、それすらほんとなんだろうか。俺はまだ事件の現場に行っても、信じられないでいた。
事故にあったのは本当に白岩翼なのかと、疑うまでに。



そのあとのことは、あんまり記憶にない。

スマホが鳴って、家に連れ戻されて。

すでに帰っていた父さんと母さんと流星、俺で翼が運ばれたという病院へ向かった。


運ばれたのは市外の大きな病院で、大城病院というところ。

病院についたら翼は手術中で、何を思って待合室のベンチに座って待っていたのか、俺は覚えていない。

手術が終わり治療室から出てきた医師が、一呼吸おいてから俺たちに告げたのは、『翼の意識はかなりの確率で戻らない』ということだった。

一番動揺していたのは、母だった。



「翼!私の翼は帰ってこないのっ!?ねえ、なんで!なんでよっ!!」



そう叫んで、医師の胸ぐらを掴んだのを流星が必死にはがす。

父さんが母さんのことをなだめる。

俺は目の前で繰り広げられる光景を、ただぼーっと見つめていた。


俺が最後に翼を見たのは、「行ってきまーす!」といつもみたいに大声で挨拶をし、笑顔で家を出て行った姿だった。




俺たちは、父さんから明後日から学校に行くように言われた。父さんもその日から会社に行くから、と。

翼が事故にあった日から、自分の部屋に閉じこもって母さんは出てこなくなった。


でも、例えば俺や流星が事故にあって翼と同じ状況になっても、母さんはここまで落ち込まなかったんじゃないかと思う。

母さんが一番に溺愛していたのは翼だと、手に取るように分かるから。



あの事故から一週間経っても、母さんは部屋から出てこなかった。

飯は料理上手な流星が作ってくれて、母さんの分まで作ってわざわざ部屋の前に置いてやっていることを、俺も父さんも知っていた。


翼の事故は、事故の一週間後に地方ニュースでも報道され、俺はそれを自分のスマホで見た。テレビを付けてニュースを見るのは、今は母さんが嫌がりそうだから。



『続いてのニュースです。7月21日、藤崎市内に住む17歳の男子高校生が車にひかれて病院へ搬送されました。現在も意識不明の重体ということです。同じく男子高校生の集団ともみ合って車道へはみ出したという目撃者の証言をもとに警察側でも現在調査中です。続いてのニュースです————』



…………もみ合って、車道にはみ出した?

俺は再生バーを巻き戻して、もう一度確認する。

でも、何度見ても同じだった。


そんなこと、今まで誰にも言われなかった。聞かされなかった。

しばらく考えて、心当たりを思い出す。

一昨日の夜、珍しく父さんが出かけて行った。

あのときもし病院か警察に行っていて、今のニュースと似たような話を聞いたんだとしたら。

それなら、俺が知らなくても無理はない。

一人で行ったのは、きっと父さんなりの優しさなんだろう。


……翼がもみ合った相手は、誰なんだ?

それに、集団。車道の近くでもみ合ったのなら、そんなに相手の人数は多くないはず。



—————まさか。



俺は頭に一つの可能性が思い浮かぶ。


まさか、まさかまさかまさか!翼は!


それしか、思いつかなかった。

違っていてもいい。少しでもある可能性をつぶしたい。

勘違いでもよかった。むしろ、勘違いのほうがいい。


俺は急いで玄関へ向かった。いや、向かおうとしたとき。

ふいに後ろから物音がした。


振り返れば、奥の部屋の扉から母さんが顔をのぞかせていた。



「のぞむ……」


「……母さん」



一週間ぶりに見た、母さんの顔。やつれていて、髪もぼさぼさで。

翼が目覚めるまでもう部屋から出てこないんじゃないかって思ってたから、顔に出る驚きを隠せない。


さっきの勢いを無くした足は、ゆっくりと母さんのほうへ進む。

目の前まで来たとき、母さんはまっすぐ俺を見上げた。


そして、水分を失ったぱさぱさの唇を開く。



「望……」

「かあさ……」



俺がそう、呼ぼうとしたときだった。



「望……学校は、北田高校に行って……」


「は……?」



一瞬、耳を疑った。

同じ家に住んでいるのに一週間ぶりに会って、開口一番の話題にしてはおかしいと。


なんで、高校の話なんて。

……それに俺の志望校は藤咲高校だ。レベルが高くて届かないから変えろと言われるのは分かるが、藤咲高校の模試判定で俺はAだった。

それを家族は、母さんは知っているはずで。

何を今更、しかもこのタイミングで言うんだろう。

そのとき俺は気付く。


北田高校は……翼が通っている学校だ。

俺を見つめる瞳が、怖い。



「今日から、あなたは翼になるの。ううん、あなたは翼にはなれない。だから、せめてあの子に出来なかったことを全部やってほしい。ね————望?」



母さんに望と呼ばれたのは、それが最後だった気がする。

『白岩望』、として。



あの日から、自分の思い通りにいかないと母親は俺に『あなたは翼』と言い続けるようになった。

機嫌が悪いと、よく流星には物を投げつける。

せめて弟は、と俺は流星を庇う。母親は見えていないのかよくわからないが、俺が庇っても特に何も言わずただ繰り返すだけ。

ただ一点を見つめていれば、痛みは軽くなる。

俺は中三で幼くない。力も母親よりはあるだろう。

それを分かっているから、手をあげたりはされなかった。


あの日から一週間経つと母親は元に戻っていて、外に出るようになった。しかし、仕事はいつの間にかに辞めていたみたいだが。

そして出かける度になぜか大量の本や参考書を買ってくるようになった。



『あなたのために買ってきたの。ね、望』



そうして、俺に突き出してくる。渡されるのはいつも高校の内容のものばかりで、まあ買ったものだしもったいないからと勉強の合間に解いていた。

そしたら、いつのまにか高校一年の勉強範囲は終わってしまっていた。


そうして俺は母親の思惑通り、着々と『翼』になっていった。

母親は、今ここにいる、自分の手元にいる『翼』にしか興味がない。

病院で眠っている本物の『翼』には、興味がない。


ずっと前に、母親が言っていた。



『一番手がかかるのは、翼なのよ。元気だからか、いつもなにかやらかしてくるの。私が居なきゃだめなのよ』



翼はお前の恋人じゃない、息子だよって初めて聞いたときは思った。

でも、今考えると少し違う。

一番手のかかる翼を育てている私は立派だって、思いたかっただけ。


結局は、自己満足の愛だったんだ。母親から翼に向けられていたのは。

だから、動かなくて面倒を見る必要のない翼はどうでもいい。


そんな母親のことを知ってか知らずか、9月の下旬あたりに父さんが離婚したいと言い出した。

別に驚きはしなかった。仕事をせず金ばかり使う母親のせいで家計は火の車だったし、いずれはそうなるんだろうなって思っていたから。

そのとき、離婚したら翼がどうなるのかを誰も口にしなかった。

でも父さんもこんな状況で大変だっただろうし。とにかく耐えられなかったのだろう。


離婚すると告げられたとき、俺は当然父さんについていくつもりだった。

あんな女のところにはいられない。精神が削られていくだけだと思ったから。もう自分を見失いそうだった。

だけど、父さんはこう言った。



「望は、母さんのところに居てあげなさい。母さんが、不安がるだろう」



なんでだよ、って思った。

この女の近くにいて、なにもいいことなんてない。

日々『翼』であることを求められて、精神的に追いやられて。


自分が自分じゃなくなっていく感覚なんて味わいたくない。

この人は、一人で本物の『翼』が戻ってくるまで待っていればいい。


なのに、とうとうその思いは届かずあっけなく離婚は成立してしまった。

母親が拒否すると思っていたが、そんなことはなかったのだ。


もう、諦めてしまおう。

俺が、俺自身でいることを。

とっととそうしていればよかった。


『翼』になれば、早く楽になれるかもしれない。


俺は、第一志望校を藤咲高校から北田高校に変えた。偏差値は多少低くなるが、自分の身体のことを考えれば別にどうでもいい。

つるむことの多い竹林渉———渉には不思議がられたが、本当の事情は説明できなくてごまかしてしまった。


そして11月になるころ、父親は流星を連れてこのボロアパートを出て行った。

流星は転校したらしく、冬休みが明けたら学校内で見かけることもなくなった。

出ていくとき、流星はこっちを見ようともせず、ただ下を向いていた。まあ、そうなるのも仕方ないか。こんなだもんな、お前の人生の片隅にいた家族という存在は。


苗字変更の手続きはしなかったから、苗字は“白岩”のままだった。母親も手続きしなかったので逆に旧姓に戻った。だけど、二人の苗字が違えば戸籍も違くなる。でも同じく手続きをしなかった翼は『白岩翼』のままだし別によかった。


離婚したといううわさは当然学校でも流れ、好奇の視線にも晒されるようになった。最初こそ正当な内容だったが、時間が経つにつれどんどん話が膨らんでいった。



「白岩くんのお母さんて、陰で暴力団と繋がっているんだって」

「なんか、高校も理事長買収して不正入学するとか」



誰がそんな頭の悪いうわさを流したのか知らないが、俺は別に気にしていなかった。
離婚したのは事実だし。

だけど、俺の周りから人がいなくなっていったのも事実で。



「望はそんな奴じゃない!お前ら、そんなうわさ気にしてないで、単語の一つでも覚えたらどうだ!」



そのとき、どんどん話が膨らんでいったうわさを唯一否定したのは、渉だった。

俺は渉に、くわしく家庭のことについて話したことはなかった。なのに、ここまで必死になってくれる理由が分からない。

それこそ、渉がうわさの標的になったらどうするんだよ。なんか話をでっちあげられて。火のないところにうわさは立たないっていうが、話なんて悪意があればいくらでも作れる。


だから俺は、渉のことを避けるようになっていった。



「望!」
「……お前はもう、ダチなんかじゃねえよ」



俺にはそう、突き放すしか手段はなかった。

これから本格的に受験期に入り、それどころじゃなくなる。

俺なんかに構ってたら渉の人生を台無しにするかもしれない。なら、俺はいなくなったほうがいい。そしてもう、『望』を忘れかけた俺のことを“望”と呼ぶ声を聞くのが、苦しかった。




1月中旬の学校帰り、空き地で飲酒をしている四、五人くらいの男子高校生の集団を見た。

そして運悪く視界に入ってしまったのか、空き地に引き連れられる。


どういう風に対応していいかわからずぼーっとしていると、生意気だと言われて一発顔を殴られた。

楽しそうだなと、思った。俺も誰かを、こんなふうにできたら。


気が付いたら、殴ってきた目の前にいたヤツの腹に強めの拳を入れていた。

うっと、俺に殴られた奴は苦しそうに呻く。


ああそうだ。俺は。

やっと、目が覚めた気がした。

俺は、母親のために生きているんじゃない。いや、『翼』になって母親のために生きているんじゃない。

今、殴られた頬に痛みを感じているのは俺。そして、こいつを殴ったのも俺。

『翼』じゃない。


どうせなら、『白岩望』として母親のために、家族のために生きたかった。

でも全てが変わってしまった今、それはできない。

ならせめて、俺は俺自身のために生きよう。“白岩望”として。




そして俺は、その日から外で喧嘩をするようになりほとんど学校にも行かなくなった。学校に行かなくなったのは、喧嘩をしていることがバレて、そのまま学校に行けば今度こそ本気で渉が危ないからという理由もあったのかもしれない。

でもまあ、うわさは早く、どうせ簡単に広がるだろうが。


—————俺の人生は俺のもの。



喧嘩に勝ち負けをこだわったことはなかった。喧嘩をして得られる『俺』という存在には変わりはなかったから。

一人で喧嘩することが多かったが、一つ上の藤咲中学の卒業生二人と、中二の後輩二人、合計5人とでつるむときもあった。集団で喧嘩をするときは大体5人で。


母親に無理矢理受けさせられた模試は、A判定だった。ほんとは問題を解かずにE判定にでもしてやろうかと思ったが、それほどまでに大胆なことは俺には出来なかった。


そして、3月。


俺の中で“高校に行く”という選択肢はもうなかったが、なぜか反抗もできずに会場まで母親に連れていかれ受験させられた。

そして受験の帰りに、『あなたの中学時代はここまで』と言われいつの間にか購入されていた新しいスマホを携帯ショップで渡されて、持っていたスマホのデータを移すことなくその場で契約が解除されて処分された。


所詮は親子。そのつながりはどうやったって切れなくて。母親が俺を『翼』に染め上げようとしたことについて本人にはなにも言えなかった。

翼が今ここにいないのは、どうやったって事実なのだから。


でも、母親が俺を『翼』にする計画が終わる日がやってくる。

それは、北田高校の入学式だった。

俺は初めて、母親に強く反抗した。


俺が出た行動は、まず卒業式の無断欠席。そして高校の入学式にも出なかった。

卒業式では代わりに喧嘩して、巻き込まれたのだと勘違いしてそのときは注意ほどで済んでしまったのは予想外だったが、入学式では思惑通り母親に怒られた。



『なんであなたは翼にならないの!』



と。そして、こうとも言われた。



『翼にならないあなたに、価値などない』と。



俺は、まるで本当に翼が生えたようだった。

自由になって。もう、縛られない。

俺はこれで本当に、『翼』ではなくなったのだ。

そして、4月の中旬。俺はあいつらと出会った。

そう、石井たち。

喧嘩をしているうちに情報が耳に入り、会ってみたいと思った。


その石井たちは————。

俺の通っていた藤咲中学の卒業生だった。

俺よりも二つ上で、石井たちは中学生時代に不良として有名だったらしい。


藤咲中学出身で、二個上で、不良として有名———。

なにか、思い当たる節がある。

しばらく考えて、ふっと思い出す。


翼は中学生時代いじめにあっていた。もしかして、その相手がこいつらなのではないかと。

すると、思い出すのは母親に『翼』になれと言われた日。

そういえば、あの日たしか俺は、翼を車道に突き出して事故に合わせたやつらに復讐しようとしていた。


藤咲中学で有名だった、不良五人組に。



……石井たちと喧嘩をするのは自分のためであって、翼のためじゃない。

そう遠くない記憶が呼び起されるのを必死に抑えて、俺は石井たちがいるというたまり場に一人で向かった。



「あんたが、白岩翼の弟?顔似てんねー」



ぐいっと顔を寄せて、俺の顎を力任せに掴む。



「……なんか、ムカついてきたわ。お前の存在が、白岩翼を思い出させる」



そう言って、リーダーと思われるピンク髪のヤツ————石井が、俺の頬に一発拳を入れた。

兄が車から受けた衝撃よりも強くないと思えば、別に痛くはなかった。


翼が中学時代に傷だらけでいつも遅くに帰ってきていたのはこのせい。
あれは翼なりの優しい嘘だったんだと、今更ながらに気が付いた。


高校生になってもやられていたのかは分からないが、少なくとも関係は続いていたはず。じゃなきゃ、あの日翼が事故に遭うことはなかったわけだから。

だが、こいつらが一人の人間に執着して、ここまで徹底的につぶす理由が分からない。


俺は、自分という存在があることを確認するために喧嘩をしていた。“喧嘩”という言葉でひとくくりにしてしまえば同じだが、違う。何かが。

それは、悪意を持って、白岩翼に攻撃をする。それは喧嘩じゃなく、一方的な暴力であり、いじめだ。


翼のためじゃない。そう自分に言い聞かせたって、蘇る記憶がそうさせてくれない。

なら受け入れよう。その優しさから反抗できなかった白岩翼の代わりに、俺がこいつらに反抗してやろうと思った。

俺は、そんなに優しくない。



それからも石井たちとときどきやりあうことはあったが、一人ではなく、五人でやった。

するといつの間にかに時は過ぎて、早くももう6月になろうとしていたとき。

この頃担任が学校に来いとうるさい。しかも名乗らずとつぜん怒声を浴びせてくる。うるさいし、出なきゃ出ないで永遠にコールを鳴らし続けてくるので、電話線を切ってやろうかと思っていた。


あの入学式以来家に帰って来ていない母親がいないこの家は、わりときれいで。

けど、ある日たまたま押入れを開けたら、物が飛び出してきてあっという間に散らかってしまった。


俺はイライラしながらとりあえず物を押しのけていると、一つのノートが目に入る。

表紙には、『オレの日記』と書かれていた。


“オレ”って誰だよ、と思いながらノートを手に取り何気なくページをめくってみれば、最初のところには中学の入学式についてつづられている。

翼か、流星か。でも、流星はこういうまめなことはしないだろうから、多分翼のものだ。


他人の日記を見たらまずいかと思いながらも、好奇心に負けて最後までパラパラとめくってしまう。紙の擦れる傷に痛みを感じながら。

中身は極力読まないようにしたものの、俺は最後のページに釘付けになってしまった。


一番上に『大切な人』とタイトルがあり、上から父さんと母さん、俺、流星の名前が大きく書かれている。


……自分は、大切じゃないのかよ。


俺は見た瞬間、そう思ってしまった。

昔からそうだった。白岩翼は。


翼は今の俺を見て、どう思うだろうか。

自分が必死に守ってきたものを、俺にあっけなく壊されてしまって。

いじめにだって隠れて耐えてきたはずなのに、俺がこうも簡単に復讐だと言って手をあげていいんだろうか。


気づいたら、涙が出ていた。


俺もいつか、大切な人ができたら、喧嘩するのを止められるだろうか。

誰かのために、生きたいと思えるだろうか。




あの日、大城病院で退院するとき、ふと一つの病室が目に入った。

『白岩翼』と書かれたネームプレートが貼ってある。






母親からは、自己満足の愛を。父親からは、終わった愛を。

俺からは、復讐の愛を。


複雑で醜く、それでも引き裂くことのできない愛を注がれた俺の兄である白岩翼に、弟である白岩望が胸を張れる日は、来るのだろうか。


でも、今の俺は翼に会えない。いや、合わせる顔がない。

もしも、もう一度会えたなら。この戸を開けられたのなら。翼に言いたいことがある。



『ごめんな』と、『ありがとう』を。