一段と外吹く風が涼しくなった夕暮れ。
 屋上で一人空を見上げていたあたしは、スマホを掲げて狭いオレンジ色を写真に収めた。喧騒の中に微かに響くシャッター音。
 スマホの中に閉じ込められた空の画像は、晴れているのに今にも泣き出しそうな灰色が混じる。まるで、あたしの感情までも写し込んでしまったんじゃないかと思うくらいに哀しげだ。

 「もう、夏も終わっちゃったよ、陽太……」

 あれから、毎日毎日握りしめたスマホを見ている。手放せなくなってしまって今もしっかり手にしているスマホは、今日もなんの知らせもないままだ。ゆっくりしゃがみ込んで、その場で膝を抱えて顔を埋めた。
 目を瞑ると、何も見えなくなる。
 耳に聞こえてくるのは、誰かの楽しそうな笑い声と車の走行音。
 真っ暗になってしまった世界に陽太の光を探すけれど、全然見つけられない。
 夢でもいいから会いたいのに、それすらも叶わない。毎日眠るのも怖くなる。明日目が覚めて、もしも、陽太のいない世界が待っていたら──なんて
 また、怖いことを考えてしまったりする。

 そんなだからか、涙も枯れてしまったみたいに心の中にぽっかりと空いた穴。どうしたって埋められなくて、ひとりぼっちになってしまったような感覚に、どうしようもない寂しさが募る。
 毎日毎日、あたしはそう思いながら屋上で一人過ごしていた。

 ──ダメだ。
 最近は本当にマイナスなことしか頭ん中考えていない。
 大丈夫だからって。
 信じてあげようって。

 サチコさんとも、そう約束したじゃないか。
 陽太だって、「頑張る」って約束した。

 大丈夫。
 うん、……大丈夫
 信じてるから、お願い。もう一度、また笑顔でここへ現れてよ、陽太。

 「──帰ろう」

 そう呟いた瞬間、手にしていたスマホが震え出した。
 驚いて、慌てて画面を見ると、そこに表示された名前に思わず手が震えてしまう。
 あたしは、震える指先でゆっくりと通話ボタンをタップして、スマホを耳へと当てた。

『水瀬さん、僕です。分かりますか?』

 スマホから聞こえてきた声。
 ずっと、ずっとずっと、聞きたかった声。

 待ち望んでいた陽太の声に、呼吸を忘れてしまう。そして、次の瞬間、あたしの涙腺は一気に崩壊してしまった。

「……分かる、よ……」
『覚えてくれていますよね? 山中陽太です』
「……病院……は? 退院、したの?」

 退院したらすぐに連絡すると言われていた、それなのに碧斗くんからの連絡は来ていなかった。だから、まさか陽太から連絡が来るなんて、奇跡でもなければありえないと、そう思っていた。

『はい。しばらくは無理な運動は控えないといけないけれど、今まで通り、僕は元気になりました。みんなが、僕のことを信じて支えてくれていたからです。ありがとうございます』

 溢れ出して止まらない涙を拭いながら、ただただ、陽太の声が聞けるのが嬉しくて、ずっとその声を、聴いていたくなる。

『水瀬さん、会いたいです。水瀬さん、僕と会ってくれますか?』

 不安げに聞いてくるのはどうして?
 あたしが、どれだけ陽太に会いたかったか、分かっていないの?
 毎日毎日、不安だった。怖かった。どうしようもなかった。

「……会いたいよ。陽太に早く、今すぐ、会いたい……」

 途切れ途切れ、消えそうに、だけど精一杯の想いを言葉にして紡ぐ。
 ──今すぐに会いたい。
 そう思って立ち上がったあたしは、屋上の入り口のドアがギィッと開く音に振り返った。

『やっぱり、ここに居た……」

 まだわずかに残る夕焼け。ビルとビルの合間から伸びた一筋の光が、ずっと会いたかった彼を照らす。一瞬、逆光に目を細めてから微笑んだ彼に、スマホを耳から外して、あたしは一気に駆け出す。
 陽太だ。陽太がいる。陽太が──

 溢れ出てくる涙で、もう顔はぐちゃぐちゃだと思う。前も歪んで、せっかくの陽太の微笑んだ顔もよく見えない。懸命に涙を拭いながら陽太の前まで駆け寄ると、ようやく見上げた先の陽太の泣き笑いに、安心した。

「……っ、陽太ぁ」

 また、ぼやけ始める視界に唇をキュッと噛み締めた。

「誰よりも一番に、水瀬さんに会いたかったから。家に帰る前に学校に寄ってもらったんだ」

 そう言って照れ笑いするから、そんな陽太が愛おしくてたまらなくなる。
 そっと、陽太の手に触れてみた。
 あたたかい。ちゃんと生きている。
 手術、頑張ったんだね、辛かったね、苦しかったね、怖かったよね。
 言いたい事がたくさんある。
 頭の中で、今までの想いが次々と湧き上がってくる。

 だけど今は──

「……陽太……おかえり」

 あたしの出来る精一杯の笑顔で、陽太のことを見上げた。

「ただいま」

 オレンジの空が陽太の頬を血色よく染める。
夕陽は見えないけれど、あたし達はこの空を照らす夕陽がどんなに綺麗かを知っている。

 そっと、陽太を抱きしめた。
 陽太の胸に耳を当てると、心地よい心音が伝わってくる。
 また一緒にいられる。
 ギュッと強く抱きしめると、陽太もあたしを抱きしめてくれた。

「ずっとそばにいるから。幻想なんかじゃなくて、これは現実です。水瀬さんは、僕が生きている意味なんです。とても大切な存在なんです。だから、これからもずっと、一緒にいてほしい」

 苦しいくらいに抱きしめてくれる陽太の腕の力に、あの時震えていた弱々しさは感じない。もう、不安も全部なくなった。

 これからはずっと──

 オレンジから朱に変わった空は、やがて濃紺を連れてくる。
 シルエットに変わるあたし達がコンクリートの壁に映る。陽太の笑顔に顔を近づけると、あたしは目を閉じて唇に一瞬だけ触れた。薄暗くなった空を照れながら見上げる。そして、驚いた顔をしている陽太を見つめた。

「生きていてくれてありがとう、陽太」

 固まってしまった陽太が、ハッとしてから思い切り照れているのか目を合わせてこないから、あたしはそんな陽太の頬を両手で挟み込んだ。

「陽太、よく頑張ったね! えらいえらいっ!」

 陽太の素直な反応に、大胆なことをしてしまったと、あたしは照れ隠しにヨシヨシと陽太を撫でた。きっと、陽太にとってはファーストキスだったのかもしれない。そう思うと、なんだか反省してしまう。
 俯いてしまったあたしの手を掴んで、陽太は真剣な顔でまっすぐにあたしを見つめるから、心臓の鼓動が早まっていく。
 そして、今度は陽太から優しくてあたたかい温もりがあたしの唇に落ちてくる。

 と、あたしのポケットの中でスマホが震えている。
 陽太と離れたくないのに、あっさりと陽太はあたしから離れて「スマホなってるよ」と冷静にいうから、あたしは「わかってる」と頬を膨らます。だけど、チラリと見た陽太が耳まで真っ赤になっているのが暗がりでも見えて一気に嬉しくなった。

 取り出したスマホの画面を見ると「碧斗」の文字。
もしかしたら、陽太が退院して来ることを知らせる着信なのかもしれない。

『水瀬さん! いい知らせ! いい知らせ!』
「……陽太、でしょ?」
『そう! ついに陽太が……って、なんかテンション低くない?』

 目の前に陽太がいるというのに、思い切り喜ぶなんて恥ずかしすぎるから、あたしは至って冷静に努める。
 それに、あたしの陽太に会えた嬉しさの最高潮はさっき超えてしまった。

「あのね、今、会ってる」
『は?』

 スマホの向こうの碧斗くんは間抜けな声を出すから、なんだか可笑しくなる。
 そして、親友の碧斗くんよりも先にあたしに会いに来てくれたんだと思うと、あたしはますます嬉しくなった。

「陽太が、一番にあたしに会いに来てくれたの」

目の前にいる陽太に微笑むと、陽太も微笑んで繋いだ手がより強く握られた。

『うっわ! まじかよ! 親友差し置いて彼女かよー! まじ陽太許さん!』
「あはは、ごめんねー」
『それ絶対悪いと思ってないよね?』
「碧斗くんも彼女ができたら分かるよきっと」
『はいはい、わかりましたよ。まぁ、とりあえず──よかったな』

碧斗くんの「よかったな」が、とても重みがあって、そして優しくて、あたしと陽太の全部を知ってくれているから、余計にジンッとして胸が詰まる。

「……うん、ありがとう」

湧き上がってきた涙。目尻に溜まる雫を拭って、あたしは笑った。

『ちょっとスピーカーにしてよ』
「え、あ、うん」

あたしは碧斗くんの言う通りにスピーカーに切り替えた。そして、すぐに大きな声が聞こえてくる。

『陽太おかえりー!! 待ち侘びてたぜ! 帰ってきたらお祝いしよーぜ! じゃ、あとは水瀬ちゃんとごゆっくりーっ』

最後はからかうようにケラケラ笑って通話は終了した。
静かになった屋上に、顔を見合わせた後であたしと陽太の明るい笑い声が響いた。

「パーティーだって、最高じゃん」
「うん、嬉しい。迷惑じゃなかったら、美月さんと純くんも呼ぼうか」
「え! それいい! 絶対純くん張り切って来るよ」
「あはは、確かに」


 漆黒と煌めきの間に、目には見えないほどわずかな力で、今日も星は瞬いている。

 見えなくても、あたし達は知っている。そこに、無数の星がある事を。

 満天の星に願いをかけよう。
 思いは必ず、叶うから。陽太と一緒なら、何も怖くない。

 これから先、どんな事があっても、あたしは前を向いて歩いていく。

 見上げた空に、星が見えることを信じて。