夏の熱と湿度でモヤァっとした部屋の中に息苦しくなりつつ、窓を全開に開けた。
向こうは涼しかったな。
窓の外に見えるのは、見上げるほどのビルと青々と緑をつけた並木。
広い空なんてわずかにしか見えない。
だけど、あたしはこの空がどんなに広いかを知った。この空には無数の星屑があることを知った。輝く月は、どこまでもあたしを追いかけてくることも。
ちっぽけだと思っていた世界が、今のあたしには、今までとは違う様に見えている。
だから、大丈夫。
陽太の手術は夏休み最終日。
あたしは学校の残りの課題を終わらせる。
手術が終わるまで、陽太には会えなくなる。たぶん、昨日が手術前に陽太と顔を合わせるのが最後だったはずだ。病院へ向かう時に連絡をくれる様には言われたけれど、あたしのことは気にせずに手術に集中してほしいから、こちらから連絡するのは辞めようとスマホはテーブルに置いたまま、じっと我慢していた。
課題がひと段落してから、ペンを机の上に転がして手放すと立ち上がった。
冷蔵庫からサイダーを取り出して飲んでいると、スマホが鳴る。
画面には〝陽太〟の文字。
思わず炭酸にむせてしまいながら、あたしは急いでスマホを手に取った。
「よ、陽太?」
『あ、水瀬さん……大丈夫、ですか?』
あたしのむせた変な声に違和感を感じたのか、陽太に心配されてしまう。
「全然、平気。今サイダー飲んでてむせただけ」
『そっか、なら良かったです』
「……どう、したの?」
なにかあったのかな? 聞いても大丈夫なこと?
どうしても、あたしは不安になって陽太に聞けなくなる。
それなのに──
『あの、えっと……水瀬さんの声が、聞きたくなってしまって』
「……え」
あたしが心配しているのを知ってかしらずか、そんな言葉をくれるから、スマホ越しの陽太の声が、全身にくすぐったくなる。
『あの、頑張れ……って、言ってもらえますか?』
だけど、不安げに聞いてくる陽太の声。
あたしの胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられるように苦しくなる。
「……頑張れ、陽太」
『……ん、ありがとう。頑張ります』
あたしが答えると陽太はためらうように一呼吸おいて言葉を返した。
優しく、ふんわりした陽太の声が愛しい。きっと、あたしの大好きなあの、ハニかんだ笑顔をしているんだろうな。
──会いたい。
そんな陽太の姿を思い描いてしまって、途端に会いたくなってしまう。
『水瀬さん……僕、頑張ってきますから、そしたら必ず、水瀬さんに会いに行きます。すぐに会いに行きます。だから……』
泣いているように震えている陽太の声に、込み上げてくる感情が止められなくなってしまう。
あたしが想う会いたい気持ちは、もしかしたら陽太もおんなじなのかな。だとしたら、この気持ちを伝えてしまっても、いいのかな。
もうずっと、陽太と満天の星を見たあの日から、言いたくて仕方がなかった言葉。
「うん、陽太、あたし陽太のことが好きだよ。大好き。だからね、帰ってきたら、一番にあたしに会いにきてね。約束」
『……っ……ん、はい。約束、します』
「じゃあ、またね」
これ以上話してしまえば、もっと会いたくなってしまう。
スマホ越しで、陽太がついに泣き出してしまった声に、あたしまで泣いてしまいそうだ。グッと詰まる胸に手を当てた。さっさと通話を終了させようとしたあたしの耳に、陽太の焦る声がして。
『水瀬さん!!』
思わず、離しかけたスマホを耳に戻してしまった。
『僕も、水瀬さんのことが大好きです! じゃあ、また』
不意をつかれた。
通話の終了したスマホを抱きしめて、ギュッと目を瞑った。
抑えきれなくなる気持ちが溢れてしまう前に、あたしから通話を終わらせようとしたのに。気がつけば、陽太の声がいつまでも耳に残る。
──僕も、水瀬さんのことが大好きです!
そんなのズルい。あたしが言い逃げしようとしたのに、陽太に言い逃げされてしまった。こんなの、ますます会いたくなってしまったじゃないか。どうしてくれるんだ。
深いため息を吐き出して、あたしは「ははっ」と小さく笑った。
「よし、課題の続きでもやるかぁ」
机に向かって意識を課題に移そうとしながらも、あたしは緩んでしまう頬と上がる口角をいつまでも止められずにいた。陽太と同じ気持ちだったことが、嬉しすぎたから。
*
夏休みが明けて学校が始まる。
始業式を終えて教室に戻ると、先生が休んでいる陽太のことをみんなに報告した。
「山中だが、体の調子を悪くして手術を受けたそうだ。術後は安定しているらしいが、まだしばらくは入院しないといけないらしい。みんなで山中に何かしてあげたいと思うんだが、何かアイデアあるやついるか?」
先生の言葉に、初めて陽太が病気だったことを知ったクラスメイト達はみんな驚きの声をあげている。
今日も空は狭く青い。暑さはまだまだ容赦ないけれど、流れゆく雲の形が秋の気配を感じさせる。毎日見上げてきたから、こんな都会の狭い空でもあたしは季節の移り変わりを感じられた。とはいえ、秋はまだまだ遠い気がする。
ぼうっとしていつものように我関せず、頬杖をついていると、先ほどまで多くの質問が飛び交っていた教室の騒めきが止まった。
「山中にはやっぱさー」
「そーだよね、陽太にはね」
なにやら教室の雰囲気が変わったことに気が付いて、窓に向けていた視線を教室側に向けると、何故かみんなあたしの方を見ている。
は? なに?
「水瀬さんからの言葉が一番嬉しいんじゃね?」
「だよねー! 全員で色紙書こうよ! 早く学校戻って来いって」
「だな、で、堂々と教室で話せってな」
「確かに、それね」
教室中のみんなが一同に頷いている。
だけど、あたしだけが、その状況についていけない。
困惑してなにも言えずにいるあたしは、今まで気にも留めていなかったクラスメイト達のこちらを向いている笑顔がみんな穏やかで、優しいことに気がついた。
なんだろう、この雰囲気は。今まで感じたことのない教室の空気に、あたしは更に戸惑ってしまう。
そして、陽太の机の周りで騒いでいるお決まりの男子たちが、あたしが教室にいない時に陽太がいつもあたしのことを話していたと、暴露し始めた。
「山中、毎日水瀬さん水瀬さんってさ、よく話してたんだわ」
「本当は笑うとすっごく可愛いとか」
「そっけないけど優しいんだとか」
「みんなにも分かってほしいって、仲良くしてほしいって、毎回ウザいくらいに言ってたよね」
「本人いないから言うけどさー、陽太ってマジで水瀬さん命だよな」
「わかる! 真剣すぎんだろって引くくらいな」
みんな、あははと笑ってはいるけれど、嫌味な感じは全然しなくて、むしろ優しい。
そんなことは知らなかったあたしは、驚いてなにも言えない。
それ以前に、クラスメイトと話をするのも今更どうしたらいいのかなんて、忘れてしまっていた。
またしても騒がしくなってきた教室。
注目なんてされたくないのに、みんなの視線が刺さるようでため息が出てしまう。
「ねぇ、色紙、書いてくれる?」
今まで声をかけて来たこともない、前の席の女子がいきなり振り向いた。
「書こうよ! あたしもさ、水瀬さんと仲良くなりたいんだよね」
その子の隣の席の女子まで振り返る。
え? あたしと仲良く? こんなとこにも物好きがいた。えっと、この子の名前、なんだっけ?
なんて、呑気なことを考えていると、口々に周りで声が上がった。
「陽太ばっかりずるいよな」
「あいついない間に仲良くなって、驚かせよーぜ」
「あ、それマジいい!」
なに、それ。
「水瀬さん、俺の名前覚えてー?」
「滝沢はタッキーでよくね?」
「俺、まっつー!」
「つーか、お前らちゃんとフルネーム名乗れよ」
楽しそうに自分のあだ名を次々あげていくから、あたしは前にこっそり陽太が送ってくれていたクラス名簿を思い出す。
屋上で会っていた時に、一日一人、どこの席で、どんな特徴があって、喋り方とか、癖とか、細かくクラスメートのことを陽太はあたしに教えてくれていた。
聞き流すように聞いていたけれど、陽太の話し方は歌を歌うみたいに耳に残る。
だから、勝手にあたしは覚えてしまったのかもしれない。
あんなの覚えたって、なんの役にも立たないと、思っていたのに。
「滝沢りょうご」
「……え⁉︎」
「松村ひろき」
「……えぇぇ!!!!」
視線をそれぞれに向けて、あたしが名前を言うと、つんざくほどの叫び声に思わず耳を塞いだ。
「マジマジマジ⁉︎ スゲくない⁉︎」
一気に湧き上がる教室。
あたしの周りにみんなが集まってくる。初めての感覚に引いてしまいつつも、あたしはみんなの名前をたまに間違えつつも当てていく。
楽しそうなみんなの笑顔が、あたしの胸に沁みていく。
なにこれ、最高じゃん。
陽太って、ほんと太陽みたいなやつ。いなくちゃならない存在。陽太がいない教室は、陽太のことを想う友達で溢れている。それが、あたしにまで優しくしてくれる。
あんなに人と関わることが怖かったあたしが、こんなにもみんなに想われている陽太が味方になってくれていることで、何に怯えていたのかもバカらしくなる。
込み上げてくる涙をグッと堪えて、あたしは微笑んだ。
「……ありがとう、最高の色紙を送ってあげよう」
クラスメイトに囲まれていた陽太を見て、あたしは羨ましいと思ったことはなかった。
だって、陽太は友達に囲まれているのが当たり前で、それをあたしにも分けてくれるくらいにおおらかなんだ。陽太が戻ってくるまで、あたしもそんな陽太みたいな人に少しでもなれたらと、願ってしまう。
もう、自分から人と繋がることを怖いとは思わない。
人って、みんな優しいんだ。
あたしが心を開きさえすれば、応えてくれる。それを教えてくれたのも、陽太だよね。
陽太がいたから、あたしは閉ざしていた自分と向き合う決意ができたんだと思う。
*
放課後、誰もいなくなった教室であたしは色紙の仕上げをしていた。
静かにドアの開く音がして顔を上げると、森谷先生が入ってくる。
「完成しそうか?」
「……はい。もう少しです」
好きだと思っていた時間が嘘だったんじゃないかと思うくらいに、先生の姿を見ても、もう何も思わない。あんなに感じていた嫌悪感も恨みも別にない。
きっと、あの時陽太が恨まなくてもいいって、言ってくれたからかもしれない。
「水瀬、すまなかった」
「……え?」
いきなり、あたしの机の横までくると先生が頭を下げてきた。
「本当に申し訳ないことをしたと感じてる。なかなかちゃんと謝ることもずっと出来なくて。こんなバカな俺を許してほしいとも思っていない。ただ、謝らせてほしい」
更に深く頭を下げる先生の姿に驚いた。
あたしはそんな先生の行動にため息を一つ吐き出してから聞いた。
「あのスニーカー、先生が陽太に渡したんですか?」
「……え?」
ようやく顔を上げて、先生と目が合った。その顔は戸惑っている。
「いや、はは……山中に怒られたんだよ。あの温厚でいつもにこやかな山中がさ、けっこうなガチで。だから、目が覚めたって言うか……」
え? 陽太が怒った?
先生の返答にあたしは陽太の笑顔しか思い浮かばなくて、怒っている姿なんて想像もできなかった。
「山中はカッコいいよ。教師やってる俺をものともしないし、正論を言われた。俺のやってたことはほんと、一歩間違えたら犯罪だ。ってか、もうアウトだったかな。水瀬に許してもらおうなんて甘いことは考えていないよ。でも、あんなことがあったなんて公表してしまったら、水瀬の立場も悪くなる。だから、俺は何も言わずに教師を辞めようと思ってる」
「……え」
寂しそうな目をして笑う先生に、あたしは戸惑ってしまう。
確かに先生のしたことは許せない。
最低で最悪だ。だけど──
「辞めることないんじゃない?」
「……え?」
「自分が間違っていたと思うのなら、もう二度と同じことはしないで。もちろんあたしは先生を一生許さない。だけど、憎んでいるわけじゃないから。陽太に言われたの。先生を憎んだって、あたしの心が荒むだけだって。そんなことしなくていいって。だから、あたしは先生のこと憎んだりしないから。この先もずっと」
「……水瀬……」
先生の優しさを覚えている。先生の温もりも覚えている。あたしが先生にもらったものは、結果としては最低で最悪だったけれど、あの時には必要なものだったのかもしれない。
だって、あの頃はそれで幸せだと思っていたから。
決して先生だけが、悪いわけじゃない。
「最低最悪教師! 自分がそうだったことだけは絶対に忘れないで。正しい教師として、これからも教壇に立ち続けて。許さない代わりにあたしからは、それをお願いしたいです」
あたし真っ直ぐ森谷先生の目をとらえて、ハッキリと告げた。
また、泣きそうに辛そうな目をして、先生は消えそうな声で「本当に、すまない……」と俯いた。あたしは、完成した色紙を先生にそっと手渡す。
「……山中、大丈夫だよな」
「……え?」
急に不安そうな顔をし出す先生に、なにを言い出すのかあたしまで不安になる。
「ホームルームではみんなにしばらく入院するとは言ったけど、山中な、術後になかなか目を覚まさないらしいんだ」
「……え……」
「水瀬は知って──」
先生がまだ話しているのも途中で、あたしは椅子から立ち上がると鞄を手にして教室を飛び出していた。呼び止める声が聞こえた気がしたけれど、構わなかった。
上履きを脱いで外靴を取り出す手が震えてうまく動かないけれど、必死に靴に足を入れ込んで駆け出した。
さっきからずっと、身体中が震えている。
碧斗くんから、陽太が手術を受けた翌日に『陽太の手術は成功した』と連絡をもらっていた。
だけど──
『術後になかなか目を覚まさないらしいんだ』
先生の一言に、一気に全身の血の気が引いていく感覚になった。
あたしはそんなこと聞いていない。
急いで駅まで向かって電車に乗り込んだ。
流れゆく景色があまりにもゆっくりと通り過ぎていくから、あたしの心だけが急かされる。行き先はとんがり屋根のSunny day。夢中になって走ってたどり着くと、息を切らして急いで店内の扉を開けた。サチコさんがすぐに気が付いて近づいて来てくれた。
「あら、那月ちゃん。いらっしゃい」
「あ、あの……陽太、陽太って……無事なんですよね? 手術、成功したんですよね? すぐ、帰って来ますよね?」
店内にはお客さんもいて、驚いてあたしのことを見ているのが分かった。分かってはいるけれど、聞かずにはいられなくて。必死に詰めるよるあたしに、サチコさんはそっと背中をさすってくれた。「中に入って」と優しく家の中へと入れてくれた。
店の奥の静かな部屋は空調が効いていて、汗ばんでいたあたしに心地いい風を運んでくる。上がっていた息も徐々に落ち着いてきた。窓の外の少し高い位置に数軒並ぶ住宅が見えて、意味もなくそこをじっと見つめていた。
「少し、落ち着いた?」
グラスに入ったアイスティーを差し出されて受け取ると、カランッと氷が涼しげに鳴った。
「……担任の先生に聞いたんです。陽太が、手術後に目を覚さないって……」
震える手を必死に抑え込みながら、あたしは一旦アイスティーをテーブルへと置いた。
「……そう」
小さく呟いて、サチコさんはあたしの前にしゃがみ込んだ。そして、小刻みに震えるあたしの手を、そっと包み込んでくれる。柔らかくてあたたかい温もりに、気持ちが少しだけ落ち着いた。だけどよく見れば、サチコさんの手もわずかに震えているような気がした。
「……怖いわよね、あんなに元気で明るくて良い子、亡くしたくない」
震える声で俯いてそう言ったサチコさんが顔を上げて、あたしを覗き込んで優しく微笑んでくれる。
「大丈夫、陽太くんの生命力を信じよう。あたしや那月ちゃんが弱気になってちゃ、きっと陽太くんに怒られちゃう。陽太くんは今、とても頑張っているんだと思うよ。だから、信じて待ってあげようよ」
サチコさんのキュッと握り締められた手が、少しだけ震えている。
不安なのはみんな一緒。それに、陽太が一番不安を抱えていたんだ。周りがこうして不安になっていたら、陽太の不安もなくならない。
お願いだから、生きてほしい。頑張れ──陽太。
「ユミちゃんから連絡が来たら、すぐに碧斗から那月ちゃんに連絡入れるから。不安だけど、信じていよう」
サチコさんの力強い言葉と優しくあたたかい手で頭を撫でられて、抑えていた涙がボロボロと溢れ出す。陽太のことを信じて待つしかない。
あたしは、何度も何度も頷いた。
*
その日の夜、スマホを握りしめて布団に入ったけれど、碧斗くんからの連絡はなかった。
あたしは陽太を信じているよ。
いつものあの間抜けな笑顔で、またあたしの前に現れてくれるんだよね。