防波堤まで逃げたのにまだ会場のアナウンスが聞こえていたので、波の音で掻き消そうとテトラポットを降りていく。
 残念なことに片足がないので歩いては降りられず、座り込んでお尻をずるように進んでいく。
 しかしあと少しで一番下というところでヒールが隙間に挟まってしまい、引っこ抜こうと体重をかけたお尻ががくんと滑った。
 背中をがりがりと削りながら滑り落ち、なんとか突起にしがみつく。
 擦れた背中がひりひりと痛い。

(散々だわ……)

 内心で吐き捨てると水面近くに座りなおした。
 今頃は決勝戦が始まる頃だ。
 準決勝のクイックステップもボイコットしているわけだし、もうマリには関係のないことだったが。

 日はすっかりと暮れていて、照明も設置されていないテトラポットから見るコールタール状の黒い海は空との境界線がわからなかった。
 波打つたびにあがってくるラムネのようなしゅわしゅわの泡は、一粒一粒が青白い月の光を反射してきらきらと輝く。
 まるで海に星屑が落っこちているみたいだ。
 もしかしたら夜になると空と海が繋がって地続きになるのでは。
 波間に揺れる星屑の上を飛び石の要領で渡っていけば、いつの間にか水平線を越えて月までたどり着けるかも。

(行っちゃおっかな)

 そろりと足を降ろしてみる。
 打ち寄せる飛沫(しぶき)がかろうじて陸の終わりを告げていた。
 ハイヒールは隙間に挟まったままなのですでに素足になっている。
 生身のつま先が生ぬるい水面を引っ掻いた瞬間、吹きあがった飛沫が足首に纏わりついた。
 夢の中のノイズと重なり反射的に足を引っ込める。
 こちらの足まで持っていかれてはさすがに困る。

 夜の海はまるで生き物のようにうねって押し寄せて、マリのことを飲み込もうとしていた。
 漂流したぼろぼろのビニールやペットボトルが人魚たちの死体のようにテトラポットに絡みついていて、よく見れば大して綺麗ではない。
 もしかしたらラムネみたいだと思ったあの泡も、実は元人魚だったりするのだろうか。

 わたしみたいだ、と思った。
 外見上は美しく見えるこの海も、月や太陽が水面(みなも)のスクリーンを乗っ取って美しく見せているだけで、それ自体は汚いったらない。
 人魚の墓場。
 マリの還るところ。

「マリちゃん、そんなところに降りたら危ないよ」

 聞き覚えのある声に振り向くと、槙島が恐る恐るテトラポットを降りてくるところだった。
「お隣いい?」と訊ねる割にはこちらが許可するのも待たずに座っている。

 もしかして連れ戻しに来たのか。
 はたまた途中で逃げたことに対する説教か。
 報酬は支払えないと言うのなら、準決勝までは踊ったのだから半額はもらう権利があると交渉するしかない。

「準決勝、通ってたよ」

 何を言いだすかと思えばそんなことか。
 予想していたパターンに当てはまらず、少し考え込んでから「……なんでよ、わたし、逃げたじゃん」と口を尖らせる。

「君らのスローフォックストロット、フルチェックだったからね。七点で決勝進出だから、クイックで〇点でも通過しちゃったんだろうね」

 やっぱり、フルチェックだったのか。
 憎い夏目の顔が浮かぶ。
 たとえフルチェックであろうとも、決勝に進出していようとも、それはマリの功績ではないのだ。
 あれは夏目がたった一人で勝手にやったことで。

「わたし、カンケーないもん」

 心の中で思っていたことがつい口にでた。

 たちまち隣から押し殺したような笑い声が聞こえてきたので「何よ」と睨みつけると「ごめんごめん」と言いながらもまだ笑っている。
 謝る気あるのかそれ。

「マリちゃんかわいいなあと思って」
「はい? どこをどう捉えたらそうなるわけ?」
「だって詰まるところマリちゃんは、慧が自分に合わせて棒立ちになって、一緒に恥をかいてくれなかったから拗ねているわけでしょ?」

 訊かれた台詞を反芻し、意味を理解した途端にかあっと熱くなった。

「そんなんじゃっ」

 と放熱するように言い返すと、槙島が意地の悪い顔を浮かべてこちらを覗き込み、

「じゃあなんであんなに怒ってたの?」
「なんでって、」

 不意打ちの質問に声が揺らいだ。
 あの自分本位な夏目がマリに合わせて棒立ちにならないことなんか百も承知だ。
 「やってらんねえ」とマリを置き去りにするほうがしっくりくるし。
 ……想像上の夏目にむかっときた。
 もっとこう、言いようがあるだろう。

「ほら、普通なんか言うことあるでしょ」
「たとえば?」
「た、たとえば……?」

 まさか掘り下げられると思っていなかったので完全に怯んだ声になる。

「まあ定番の回答と言えば……〝動けなくなったの? かわいそうに〟とか?」

 瞬間、頭をトンカチで殴られたような衝撃が走った。

 もしかして自分は、かつて教師にやられた〝クラスの絆〟攻撃を夏目にしてしまったのでは――。
 気づいたときには目の前が真っ暗になっていた。

 たとえば徒競走で手をつながせて一斉にゴールテープを切らせるような。
 同情が大前提のくだらない絆。
 マリはこれを一番嫌っていたはずで、そして夏目はこれをしないから居心地がいいと感じていたはずで。

 かわいそうに、俺が一緒にいるよ、二人で恥をかこう……言うはずのない台詞が夏目の声で再生されてぞっとした。
 マリはこんなものを勝手に期待してぶち切れたとでも言うのか。

 だとしたら、もう。

 草むしたあのベランダが頭によぎる。
 ほどよく生ぬるい、現実でありながらも隔離された箱庭で、夏目と額をつきあわせて燃え尽きる線香花火を見つめる青灰色の時間。

「……もし夏目さんがそんなことを言いだしたら、気持ち悪いから舌嚙み切って死んでやる」

 あの居心地のいい場所にもう戻れないかもしれないという不安が憎まれ口になった。

「マリちゃんが何か言えって言ったのに理不尽すぎない?」
「うっさいなあもう」

 というやりとりもどこか遠く聞こえる。

(いや、落ち着け。まだわたしは同情を求めるほど落ちぶれちゃいないはずだ)

 大きく一つ、息を吸って吐く。
 酸欠だった脳が少しすっきりすると、言い返すだけの気力が生まれた。

「さっき言ったまんまだったら」
「まんまって?」
「夏目さんの実力を見せびらかすための道具にされたのがむかついたってこと。わたしは王様の引き立て役でもなければ道化でもないんだから」

 足型構成(アマルガメーシヨン)を変えたのが何よりの証拠ではないか。
 マリに合わせて棒立ちにならないにしても、わざわざ複雑な構成に変える必要なんてなかったはずだ。
 それでも派手な振りつけに変えたのは実力をひけらかすためで――。
 なんだか本当にそんな気がしてきて調子が戻ってくる。

 きっと夏目は久々の試合で実力を見せつけたくなったのだ。
 マリが動けなくなったのをこれ幸いとばかりに利用して。
 だとすればマリが怒るのだって当然じゃないか。
 あのときかっとなったのは夏目が同情しなかったからではなく、この本性を感覚的に見抜いたから。

 だからまだ。
 マリはあの箱庭に帰る資格があるはずだ。
 夏目がマリに言われた程度で変わるとも思えないし。
 大丈夫。
 まだ、あの居心地のいい関係を続けられるはず――。

 視線を感じて横目に窺えば、槙島がじっとこちらを見つめている。

「な、何?」
「いや、俺ならもっとうまくやるのにって思ってさ」
「何をよ」
「マリちゃんの言うとおり。見せびらかしてたんだよ、慧は」
「あ、ふーん。やっぱりね」

 自分で言っておきながら肯定されて、心臓がべこんとへこんだ気がした。

「でもそれは実力を誇示するとかじゃなくて、単純にマリちゃんを自慢したかったんだよ」
「はあ? あれのどこが」

 反発して声が大きくなる。
 槙島は立てた膝に顎を乗せると軽く目を伏せた。

「ダンスのペアってさ、ちょっと歪なんだよね」

 聞きたくもない会話を振られ「何、急に」と突き放すような返答になった。
 しかし槙島は聞く気があろうがなかろうが話すつもりだったらしく言葉を続ける。

「選手として登録されるのは男だけなんだよ。女はカップル登録っていう、付属品みたいな欄に名前を書くんだ。ゼッケンを与えられるのも〝選手〟である男だけ」

 そういえば、今日の競技会でもゼッケンを与えられたっけ。
 一枚だけ渡されたそれを、夏目の背中に安全ピンで貼りつけた。

「何それ、結局わたしは夏目さんの付属品だから振り回されても納得しろって話?」
「そうじゃないんだけど、競技会って残酷でさ。審査員は男の踊りを見て点数を入れるんだ。つまり競技会の序盤では女の子がどんなにうまく踊っても、男が下手なら落とされるんだよ」
「ダンスって超理不尽なんだねぇ」

 槙島が何を言いたいのかわからなかった。
 聞けば聞くほど〝マリ不要論〟が加速していくだけではないか。
 身を乗りだして指先を揺らし、テトラポットの乾いた部分に落書きをする。
 なぞったところが濃灰色に変わり、浮きでたのは夏目の顔。
 うまく描けすぎてくつくつと笑う。
 完全に話半分だった。
 しかし槙島は話をやめる素振りがない。

「でもね、男が勝ち進めば女も選手として扱われる。むしろ準決勝や決勝ではカップル全体が見られるから、男がいくらうまくても女の子が下手なら勝てないんだ」
「へぇー」

 夏目の顔にくまを書き足す。
 さらに笑えてお腹が痛い。

「だから男は、女の子をそこまで引っ張りあげる責任がある。たとえ嫌われようとも、自分のパートナーを見てもらうためには男が女の子をそのステージまで連れていかないと」

 せっかく描いた落書きも夏の熱気ですぐに乾いてしまい、笑いの種がなくなると嫌でも槙島の言葉が頭に入ってきた。

(つまり、わたしを見てもらうためにやったって言いたいわけ?)

 むすっとして今度は手首まで水に浸すと、たっぷりの水で槙島の顔を描きつける。
 何がマリのためだ。
 そんな偽善者みたいな理由より、単純に自分のためだったと言われたほうがすっきりする。
 第一、それによって披露されるのは下手くそで惨めなマリではないか。

「引っ張りあげられても困るよ。わたし下手っぴだし。決勝では女も審査対象なら、むざむざ負けにいくようなもんじゃん」
「慧はたぶん、そう思ってないよ」
「え?」
「さっき言ったでしょ。慧が勝てるって言った理由がわかったって」
「言ってた、けど」

 どうせお世辞としか思っていなかった。
 相変わらず槙島が何を言いたいのか見当もつかない。

「マリちゃんの持つ空気感っていうのかな。すごく表現者向きだと思うよ」
「何それ、全然意味わからない」
「んー、なんて言えばいいのかな。立っただけで空気が変わるんだよ。たとえば……そう、海の中にいるみたいな」

 ふと息が詰まった。
 〝海が見えたから〟――確か、夏目もそんなことを言っていた。

「慧はたぶん、マリちゃんをみんなに見せびらかしたかったんだよ。マリちゃんのことを正当に評価してくれる決勝まで連れていくことで〝俺のパートナーは義足だけどこんなに踊れるんだぞ、見ろ〟って。文句なしの優勝だろって。だから、あそこで負けるわけにはいかなかった」

 何、それ。

 一息に言い切った槙島が満足そうに身体を揺らして「そして、悔しいことに俺も同じ気持ち」と呟いたので顔をあげた。
 いつの間にかテトラポットに両手をついて、こちらに身体を寄せている。
 下からすくいあげるようにマリを覗き込んだ槙島の吐息が睫毛を揺らす。
 鼻の奥に馴染んだ粉っぽい匂いとは違う、糖度百パーセントの甘い匂いがした。

「ねえ、慧なんかやめて俺と組もうよ」
「はあ? だって妹と組んでるんじゃ」
「そうなんだけど、俺マリちゃん気に入っちゃったんだよね。慧とは違って、公私ともに優しくするよ?」
「公私って」
「年上は嫌い?」

 槙島の温かい指先がマリの頬に触れた。
 そっと引き寄せられると、伏せた長い睫毛に水面の光が反射してぱちぱちと光る様が至近距離で目に映る。

 一際大きな波が打ち寄せて風が吹き抜けた。
 ドレスの裾を大きく巻きあげ、下から入り込んだ風がマリの汗ばんだ身体を冷やす。
 思わずくしゃみをすると、槙島が伏せた瞳をわずかにあけた。

「ああ、いくら夏でも汗かいたままだったら冷えるよね。こっちおいで」
「いや、ちょっ……」

 突然、頭の上からばさりと布が降ってきて、マリに覆い被さった。
 目の前が真っ暗になり、かわりに嗅覚が冴え渡る。
 洗濯糊のぱりっとした香りの中に、ほんのわずかだが石膏の匂いが混じっている。
 鋭い舌打ちが布越しに響く。

「ったく、風邪引きたきゃ構わないが明日以降にしろ」
「そ、そんなのコントロールできるわけないじゃんっ……」

 理不尽すぎる要求に反発しながら布を剥ぐ。
 夏目の燕尾服のジャケットだった。
 振り返ると、うんざり顔を貼りつけたいつも通りの夏目が突っ立っている。

「あーあ、もうちょっとだったのにぃ」

 槙島がため息交じりに立ちあがって夏目とすれ違う。
 その肩を夏目が掴んで何やら耳打ちすると「えー……まあ言うだけ言ってみるけど」と何やら不服そうに吐き捨てて立ち去った。

「あいつ、なんか機嫌悪くね? なんで?」
「こっちだって知らないわよ」
「あ、そう」

 訊いた癖にまったく興味がないというような淡白な返答をして、夏目がマリの隣に腰をおろした。
 槙島から解放されたのは素直にほっとしたが、また厄介なのが来てしまった。

 ていうか今、キス、されそうになったんだよね。

 言葉にするとなんだか心臓がべっこんばっこんとへこんだ。
 引きこもり、不登校、友達ゼロという黒に限りなく近い灰色のセイシュンを送るマリには無縁だと思っていたのだから当然だ。
 だから余計にからかわれるのだろうけれど。

 とはいえ、たかがキスぐらいで動揺する自分にばつの悪さを覚えて、膝を抱えて心臓のへこみを悟られないように隠す。
 今日び女子高生、挨拶がわりにキスくらいはする……たぶん。

「……というか、見た?」
「見たって何が?」
「いや、見てないならいいんだけどっ」

 膝に顔を(うず)めてもにょっと答えると「たかが未遂でそんなにうろたえなくても」と言う声が聞こえてきたので顔を跳ねあげた。

「やっぱり見たんじゃん!」
「見てないとは言ってない」
「ぐうっ」

 確かに。
 生命力がごっそりと抉られてもう一度膝に突っ伏した。
 何故だか知らないが槙島に触れられたときよりも心臓が痛い。
 見られたく、なかったなあ。
 なんとなく。

 マリの呻きを最後に、再びテトラポットに沈黙が降りてしまい勝手に気まずくなる。
 横目に顔を覗けばいつものポーカーフェイス。
 余裕綽々ってか。
 気にもならないってか。
 夏目だってどうせ青い春なんか送っていないくせに。
 よくて灰色、十中八九真っ黒だきっと。

(……って気にして欲しいのかわたしは)

 いやいやあり得ん。
 全力で否定して、止まっていた息を吐きだすついでに声をあげた。

「今さら、なんの用?」
「煙草、吸いに来たらお前がいただけ」

 夏目は普段と同じで投げやり気味に答えつつ、スラックスのポケットから煙草を取りだして火をつけた。
 濃紺の空間に一瞬だけ灯った赤い火がいやに綺麗だった。
 つい見とれてしまい、ごまかすように燕尾服のジャケットをもぞもぞと羽織る。

「何お前、連れ戻しに来たと思ったわけ?」
「ばっ」

 慌てすぎて(つば)を変な風に飲みこんでしまいいったんむせ込んでから、

「ばっかじゃないの。夏目さんと違って、そこまで自惚れてないんですけど」
「俺も自惚れてねぇって」
「どーだかねっ」

 優勝できると思っている時点で明らかな自惚れだと思ったが、何故だか声にはならなかった。
 かわりに裸足になった右足を持ちあげる。

「おあいにく様、ハイヒールはそこの隙間に挟まって踵が折れたのでもう踊れませーん」

 夏目が指差したほうを振り返った。
 一メートル弱上の隙間にハイヒールが突き刺さっている。
 滑り落ちるときにぼきっと折れた感触があったので、もう踊れないことは知っていた。
 つい勝ち誇った顔をしていると、夏目が左手を伸ばしてハイヒールを引っこ抜いた。

「確かに折れてる」

 ぱこぱこと踵をいじくる様子に「でしょ」と満足げな言葉を返すと、目の前にハイヒールが突きだされた。
 何かされるのかと思って首をすくめたマリを尻目に、夏目がぽんっとハイヒールを跳ねあげる。

「流れ星」
「は?」

 月明かりを受けてきらきらと光るエナメル靴が濃紺の空に放物線を描いた。
 それが海面に落ちた瞬間、ぶわっと青白い光が湧きあがる。
 何度も振ったラムネ瓶から泡が噴きだすように、水面からしゅわしゅわの青い光が飛びだしてきてマリと夏目を通り抜けていく。
 海蛍の光だと理解するまでに数秒かかり、

「わ、あっ……」

 気づいたときには夏目の肩口を引っ張ってはしゃいだ声をあげていた。
 夏目が日焼けしていない白い顔の上に青い光を映しながら、ぼそっと言った。

「海に星が落っこちたみたいだろ」

 既視感のある台詞にどきっとして、夏目のシャツから手を離して膝を抱えた。
 少しだけ夏目のほうに身体を寄せて、夏目が浴びるコバルトブルーの光をマリの顔にも分けてもらう。
 青白いプリズムが二人の顔の上をゆらゆらと揺蕩った。

 ハイヒールの超新星爆発で生まれた星屑たちは、大気圏に突入して燃え尽きるみたいに、青い光をじわっとすぼめて、白く小さくなっていく。
 夏の気配が星屑と一緒に消えてしまうような気がして息が苦しくなった。
 夏が終われば、もう夏目とは踊れない。
 ふいにシャルウィダンスの歌詞が脳裏によぎる。

 それともひょっとしたら、
 最後の小さな星が空から消え去ったとき、
 まだわたしたちは一緒にいるのかしら?
 お互いに腕を回したままで、
 あなたはわたしの新しい恋になってくれるのかしら?
 そんなことが起こりえるかもしれないと承知の上で、
 踊りませんか、踊りませんか、踊りませんか?

 同情して欲しかった?
 引き立て役にされたのが嫌だった? 
 ……違う、と今ならはっきりと言える。

 わたしは……この人の隣に、同じように並びたかったんだ。
 隣に立って、一緒に踊れると思っていたんだ。
 自分なら夏目のちょっと変わった世界観を理解して、共有できると思っていたんだ。
 なのに自分の知らない夏目がいたことに嫉妬して、しかもその足を引っ張るしかない自分にいらいらして。
 無理矢理身体を動かされたとき、一本足のマリとして過ごした、あのスタジオでの時間を否定された気がして、悔しかった。

 でもそれは、マリの壮絶な八つ当たりで、勘違いなのだとしたら。
 夏目はいつも通り、配慮もへったくれもなく、勝手にマリの抱えているものを捨てようとしただけなのだとしたら。

 青白い光が燃え尽きて、あたりに濃紺の世界が戻ってきた。
 暗闇の中で機械仕掛けの左足が白く浮いて見える。

「夏目さん、は、さあっ」

 きゅっと燕尾服の襟を寄せ合って、口元を隠しながら突っかかり気味に切りだした。

「あり得ないくらい自信家で、夏目慧って辞書を引くと忖度とか配慮って項目が塗りつぶされてるような人間じゃん?」

 煙草を吹かしていた夏目が一気に白煙を吸い込むと、煙を吐きだすついでにぼやいた。

「何だよ急に。悪口なら祐介とやってくれ」
「こっちの都合も考えずに引きずりだして、説明も全然足りなくて、横暴で自分勝手で、偽善を吐けるほど気配りができる人ではなくて」
「なんの話だいったい」
「だから、夏目さんができるって言うと、本当にできるんじゃないかなって、思っちゃう。迷っているときに聞く夏目さんの言葉は正直麻薬みたいで、理性をずぶずぶに溶かして……そのせいでもしかしたら、二本足で歩けるかもとか、ロアーができるかもとか、……シャルウィダンスの曲で踊れるかもとか、思わされちゃって。だから、」

 言いたいことがうまくまとまらず、息が詰まって鈍色の足を見た。
 この足を初めてもらった日、たぶんマリの世界は壊れてしまったのだ。
 無言のまま荒波が過ぎるのをただ待つだけの日々は、今のマリには退屈すぎて耐えられなくなってしまった。

 だから、言わないと。
 世間が定義した〝正常な判断〟を、夏目という麻薬が、狂わせてくれている間に。

「もう一度、夏目さんと、踊りたい、です」

 一言言うたびに頭の重みが増していき、もたげた首が深くなっていく。
 最後言い切ったときには額が銀色の膝小僧に触れていてひんやりと冷たかった。

 同じくらい冷たい指先が肩に触れて顔をあげた。
 夏目が久しぶりに笑っていて、マリと目があうなり背中を向けてしゃがみ込む。

「行くか」
「ん」

 マリも当然のようにその背に覆いかぶさると、テトラポットの頂上に向かって歩きだした。
 登り切る直前、もう一度黒い海を振り返った。

 青白い星は確かに燃え尽きてしまったけれど――水底(みなそこ)から湧きあがる無数の泡と漂流するごみたちがかわりに煌めいていて、人魚の墓場は今なお綺麗だった。

 ああそうか。
 ヒートの合間に夏目が見ていたのは、この漂流物たちの星だったのだ。
 夏目はいつも、汚くて綺麗な世界を最初に見つけてマリに教えてくれる。
 星が海にある限り、マリの夏はまだ終わらない。

 短い左足から夏目の手が滑り落ちかけたので小さく跳ねて抱えなおしたとき、この足だから一番になれるような気がして、

「勝てそうだね」
「とーぜん」

 夏目のうなじに顔を(うず)めて、しばらくそのままでいた。

 ヘアワックスの匂いはあまり好きではなかったので、早くあの石膏臭いスタジオに帰りたかった。
 けれどもう少しだけ、きらきらしたダンスフロアで王様を独占していたいと思うのは、我が儘すぎる願いだろうか。

 ねえ、夏目さん。
 あなたは本当に、わたしの魔法使いですか。
 もしかして、王子様だったり、しませんか?