「マリちゃんはよくやってるよ。ただあいつ、義足のことになると周り見えなくて。ごめんね」
ロアーなし、つまり大きく膝を曲げない状態でボックスを踏みながら槙島が言った。
夏目が去ったあと「気分変えて楽しくやろうよ」と槙島が提案し、まずは三拍子に合わせてステップを踏む練習から始めた。
右足を前にだし、九十度回転しながら左足を横に広げ、最後に右足を左足に揃えて閉じる。
そのまま腰をおろすことなくもう一度右足を前にだして……の繰り返し。
ライズはたまに不発に終わって左足だけ足首直角のまま床から浮いてしまうけれど、それでもロアーよりかは成功している。
「別に、槙島さんが謝ることじゃないでしょ」
「まあそうなんだけどさあ。でも俺も誘っちゃったし一応ね」
聖人君主と辞書で引けば『例・槙島祐介』とでてくる気がする(対義語はもちろん夏目慧だ)。
さすがは王子と思ったところで、ちょうどいい機会だし気になっていたことを訊いてみた。
「そういえば槙島さんも昔ここに通ってたんだよね?」
「ん、そうだよ」
「じゃあさ、十年前にそこの大きな窓から女の子が覗いてたのって知らない?」
「女の子?」
首をかしげて窓のほうを眺め、窓とマリの間で黒目が右往左往すること数回。
はっとした顔になってようやく首ごとマリのほうへ向き直る。
「もしかしてあの小さな女の子ってマリちゃんだったの?」
「えっ」
自分で訊いておきながら話が通じてしまったことに驚いた。
一方槙島はそんなマリを置いてけぼりにするようなはしゃいだ笑みを浮かべて。
「十年前って言ったらマリちゃん五歳だもんね。あの子も確かそのくらいの歳だったなあ。なんか甚平みたいな服着てたよね」
とマリがまだ明かしてもいない情報を告げる。
あのときは入院着のまま逃げだしたので、確かに甚平によく似た前合わせの服を着ていた。
「じゃあやっぱり、あの日に声をかけてきた王子様って槙島さんだったんだ」
「王子様?」
きょとんとした顔で復唱されて顔から火がでそうになった。
なんてこっぱずかしい台詞を口走っているのだか。
しかし槙島はまんざらでもない顔で頷いたかと思うと、
「そうだよ。十年前に声をかけたのは俺だよ、マリちゃん」
肯定された瞬間、少しがっかりしている自分に気づいてもやっとした。
一体全体、何を期待していたというのか。
ふいに誰かが脳裏を横切った気がしたが、灰色の瞳の輪郭だけを残して立ち消えた。
ピロリロリロ……という味気ない電子音が槙島のウエストポーチから響いた。
「あ、やばっ。バイトの時間だ」
マリとつないでいた手を放し鞄を拾いあげる。スマートフォンの画面には『ママ』と表示されていた。
「ママ? 家の手伝いでもしてるの?」
「ちがくて、スナックのママってこと」
「槙島さんのバイト先ってスナックなの? ボーイってこと?」
ペンギンみたいな黒服を着てグラスを運ぶ槙島を想像する。
確かに似合いそうな気もした。
「ボーイはボーイなんだけどね。ダンスパブっていって、一番の目玉はダンスなんだよね」
「え、お酒飲みながらダンスするの?」
なんだかイケナイ大人の社交場という感じがする。
思わず眉根を寄せたマリに向けて槙島が軽妙に笑い、
「そうそう、マリちゃんが考えてるようなホストっぽいやつだよ。俺は相手役として常駐しているスタッフで、俺から誘うこともあるけど指名されることのほうが多いかなあ。最近はガチで踊る人のためのパブも増えたけど、うちは昔ながらのゆるーい感じ」
「ふーん。なんか似合うね、槙島さん」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
実際褒め言葉だった。
不特定多数の女性に愛嬌を振りまいて、王子様よろしくダンスに誘う姿は槙島にこそよく似合う。
一回だめもとで夏目の姿を想像してみたが、フロアの隅に座り込んで石膏をこねくりだしたのでやめた。
たぶん全ての誘いを断って自分の作業に没頭する。
「ちなみに慧も昔バイトしてたよ。十七のとき、歳ごまかして」
「ええっ」
妄想の中でコンクリートをこねていた夏目が振り返り、大声をあげたマリに対して舌打ちを決めた。
どう考えても夏目にホスト役が務まるとは思えない。
「というわけで今日の練習はここまで。もう日も暮れるしマリちゃんも帰りなね?」
マリの驚嘆顔を満足げに眺めた槙島は、意地の悪い笑みを浮かべて玄関のほうへと歩いていく。
特大ネタのお預けを食らって口をへの字に曲げると、槙島はさらに笑みを濃くした。
「あ、靴紐変えたんだ。マリちゃんはかわいい系だからピンク色似合うね。じゃあまたね」
ダンスシューズの靴紐を掴み、肩に引っかけてスタジオを飛びだす槙島の背中を呆気に取られて見送った。
ピンクが似合う?
かわいい系?
お世辞だとは思いつつ……最後に振り返った槙島の顔は本気だった気もして困惑した。
そもそも靴紐の変化に目ざとく気づくなんて。
嵐のような槙島が去るとフロア全体が静まり返った。
額の汗を袖で拭った肩越しにマッドサイエンティスト工房の扉が見えた。
もう二時間くらい経つが夏目がでてくる気配はない。
気持ちゆっくりめに義足をはずし、ライナーを脱ぎ……やはり夏目はでてこない。
「……帰ろっと」
声にだしてみたものの、工房に籠もりっきりの夏目には天地がひっくり返っても聞こえまい。
そこでふと、横暴で、俺様で、できないことは何もないと思っている魔法使いは、自信作の膝をぽんこつ呼ばわりされた今、どんな顔をしているのだろうと気になった。
好奇心が湧きあがり四つん這いで工房まで忍び寄ると、わずかにドアをあけ中を覗き込んだ。
デスクスタンドの明かりの下に夏目はいた。
青白く光るパソコンの画面が顔に照り映えていていつも以上に顔色が悪い。
指先は止まっていた。
だが灰色の瞳だけはせわしなく動き続けている。
相変わらずの仏頂面。
でも、あれはたぶん……〝真剣〟という名の仏頂面だ。
ぴたりと瞳の動きが止まり、途端に魂を吐きだすようなどす黒いため息。
ぼさぼさの頭を掻きむしってさらに無惨な髪型に変えると、手元にあったレポート用紙を丸めて捨てた。
足元には無数の紙屑が山を作っている。
〝俺は嘘にしない〟
夏目と交わした約束がリピートした。
あのときのきらきらした瞳は影を潜め、かわりに骨まで一刀両断する日本刀のような鋭い光が宿っていた。
それはそれでずるい目だと思った。
(気に食わないわ)
初めて聞いたときはなんと傲慢で麻薬のような言葉だろうと思った。
あまりに蠱惑的で抗いがたい、依存性の高い劇薬のような言葉だ。
だが夏目の毒に慣れた今となっては気に入らない。
むしろ、
(何が俺は、よ。わたしたちは、でしょどう考えても)
この数日振り回されっぱなしでとことん愛想が尽きていた。
夏目に従うのも、ご立派な膝が提供されるのを待つだけなのも。
癪に障るったらなかった。
妙案が思いついた。
もし夏目の手を借りずにこのぽんこつ膝のままでロアーを完璧にこなせたらかっこいいんじゃないの、って。
当人公認の出来損ないの膝で、そのハンデをもろともせずに踊って見せる自分。
叛逆の泡がぼこぼこと音を立てて湧きあがる。
汗でべしょべしょのライナーを再び装着し、逆再生で義足もつけて立ちあがる。
一呼吸ついてから、右足で一歩前へと踏みだした。
ロアーなし、つまり大きく膝を曲げない状態でボックスを踏みながら槙島が言った。
夏目が去ったあと「気分変えて楽しくやろうよ」と槙島が提案し、まずは三拍子に合わせてステップを踏む練習から始めた。
右足を前にだし、九十度回転しながら左足を横に広げ、最後に右足を左足に揃えて閉じる。
そのまま腰をおろすことなくもう一度右足を前にだして……の繰り返し。
ライズはたまに不発に終わって左足だけ足首直角のまま床から浮いてしまうけれど、それでもロアーよりかは成功している。
「別に、槙島さんが謝ることじゃないでしょ」
「まあそうなんだけどさあ。でも俺も誘っちゃったし一応ね」
聖人君主と辞書で引けば『例・槙島祐介』とでてくる気がする(対義語はもちろん夏目慧だ)。
さすがは王子と思ったところで、ちょうどいい機会だし気になっていたことを訊いてみた。
「そういえば槙島さんも昔ここに通ってたんだよね?」
「ん、そうだよ」
「じゃあさ、十年前にそこの大きな窓から女の子が覗いてたのって知らない?」
「女の子?」
首をかしげて窓のほうを眺め、窓とマリの間で黒目が右往左往すること数回。
はっとした顔になってようやく首ごとマリのほうへ向き直る。
「もしかしてあの小さな女の子ってマリちゃんだったの?」
「えっ」
自分で訊いておきながら話が通じてしまったことに驚いた。
一方槙島はそんなマリを置いてけぼりにするようなはしゃいだ笑みを浮かべて。
「十年前って言ったらマリちゃん五歳だもんね。あの子も確かそのくらいの歳だったなあ。なんか甚平みたいな服着てたよね」
とマリがまだ明かしてもいない情報を告げる。
あのときは入院着のまま逃げだしたので、確かに甚平によく似た前合わせの服を着ていた。
「じゃあやっぱり、あの日に声をかけてきた王子様って槙島さんだったんだ」
「王子様?」
きょとんとした顔で復唱されて顔から火がでそうになった。
なんてこっぱずかしい台詞を口走っているのだか。
しかし槙島はまんざらでもない顔で頷いたかと思うと、
「そうだよ。十年前に声をかけたのは俺だよ、マリちゃん」
肯定された瞬間、少しがっかりしている自分に気づいてもやっとした。
一体全体、何を期待していたというのか。
ふいに誰かが脳裏を横切った気がしたが、灰色の瞳の輪郭だけを残して立ち消えた。
ピロリロリロ……という味気ない電子音が槙島のウエストポーチから響いた。
「あ、やばっ。バイトの時間だ」
マリとつないでいた手を放し鞄を拾いあげる。スマートフォンの画面には『ママ』と表示されていた。
「ママ? 家の手伝いでもしてるの?」
「ちがくて、スナックのママってこと」
「槙島さんのバイト先ってスナックなの? ボーイってこと?」
ペンギンみたいな黒服を着てグラスを運ぶ槙島を想像する。
確かに似合いそうな気もした。
「ボーイはボーイなんだけどね。ダンスパブっていって、一番の目玉はダンスなんだよね」
「え、お酒飲みながらダンスするの?」
なんだかイケナイ大人の社交場という感じがする。
思わず眉根を寄せたマリに向けて槙島が軽妙に笑い、
「そうそう、マリちゃんが考えてるようなホストっぽいやつだよ。俺は相手役として常駐しているスタッフで、俺から誘うこともあるけど指名されることのほうが多いかなあ。最近はガチで踊る人のためのパブも増えたけど、うちは昔ながらのゆるーい感じ」
「ふーん。なんか似合うね、槙島さん」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
実際褒め言葉だった。
不特定多数の女性に愛嬌を振りまいて、王子様よろしくダンスに誘う姿は槙島にこそよく似合う。
一回だめもとで夏目の姿を想像してみたが、フロアの隅に座り込んで石膏をこねくりだしたのでやめた。
たぶん全ての誘いを断って自分の作業に没頭する。
「ちなみに慧も昔バイトしてたよ。十七のとき、歳ごまかして」
「ええっ」
妄想の中でコンクリートをこねていた夏目が振り返り、大声をあげたマリに対して舌打ちを決めた。
どう考えても夏目にホスト役が務まるとは思えない。
「というわけで今日の練習はここまで。もう日も暮れるしマリちゃんも帰りなね?」
マリの驚嘆顔を満足げに眺めた槙島は、意地の悪い笑みを浮かべて玄関のほうへと歩いていく。
特大ネタのお預けを食らって口をへの字に曲げると、槙島はさらに笑みを濃くした。
「あ、靴紐変えたんだ。マリちゃんはかわいい系だからピンク色似合うね。じゃあまたね」
ダンスシューズの靴紐を掴み、肩に引っかけてスタジオを飛びだす槙島の背中を呆気に取られて見送った。
ピンクが似合う?
かわいい系?
お世辞だとは思いつつ……最後に振り返った槙島の顔は本気だった気もして困惑した。
そもそも靴紐の変化に目ざとく気づくなんて。
嵐のような槙島が去るとフロア全体が静まり返った。
額の汗を袖で拭った肩越しにマッドサイエンティスト工房の扉が見えた。
もう二時間くらい経つが夏目がでてくる気配はない。
気持ちゆっくりめに義足をはずし、ライナーを脱ぎ……やはり夏目はでてこない。
「……帰ろっと」
声にだしてみたものの、工房に籠もりっきりの夏目には天地がひっくり返っても聞こえまい。
そこでふと、横暴で、俺様で、できないことは何もないと思っている魔法使いは、自信作の膝をぽんこつ呼ばわりされた今、どんな顔をしているのだろうと気になった。
好奇心が湧きあがり四つん這いで工房まで忍び寄ると、わずかにドアをあけ中を覗き込んだ。
デスクスタンドの明かりの下に夏目はいた。
青白く光るパソコンの画面が顔に照り映えていていつも以上に顔色が悪い。
指先は止まっていた。
だが灰色の瞳だけはせわしなく動き続けている。
相変わらずの仏頂面。
でも、あれはたぶん……〝真剣〟という名の仏頂面だ。
ぴたりと瞳の動きが止まり、途端に魂を吐きだすようなどす黒いため息。
ぼさぼさの頭を掻きむしってさらに無惨な髪型に変えると、手元にあったレポート用紙を丸めて捨てた。
足元には無数の紙屑が山を作っている。
〝俺は嘘にしない〟
夏目と交わした約束がリピートした。
あのときのきらきらした瞳は影を潜め、かわりに骨まで一刀両断する日本刀のような鋭い光が宿っていた。
それはそれでずるい目だと思った。
(気に食わないわ)
初めて聞いたときはなんと傲慢で麻薬のような言葉だろうと思った。
あまりに蠱惑的で抗いがたい、依存性の高い劇薬のような言葉だ。
だが夏目の毒に慣れた今となっては気に入らない。
むしろ、
(何が俺は、よ。わたしたちは、でしょどう考えても)
この数日振り回されっぱなしでとことん愛想が尽きていた。
夏目に従うのも、ご立派な膝が提供されるのを待つだけなのも。
癪に障るったらなかった。
妙案が思いついた。
もし夏目の手を借りずにこのぽんこつ膝のままでロアーを完璧にこなせたらかっこいいんじゃないの、って。
当人公認の出来損ないの膝で、そのハンデをもろともせずに踊って見せる自分。
叛逆の泡がぼこぼこと音を立てて湧きあがる。
汗でべしょべしょのライナーを再び装着し、逆再生で義足もつけて立ちあがる。
一呼吸ついてから、右足で一歩前へと踏みだした。