通学路にある駅の、可愛らしく着飾った、とても大きなクリスマスツリー。
どこもかしこも、クリスマスのテーマソングが流れており、かつイルミネーションでライトアップされた、賑やか町。
クリスマスらしい赤と緑でデコレーションされたショッピングモールを、楽しそうな恋人たちが手を繋いで歩いている。
そんな騒がしい街を歩きながら、ふと横切ったお店のショーケースには、色とりどりのクリスマスケーキが所狭しと並んでいる。
誰もが幸せそうな雰囲気の中、私は1人、逃げるように駅の乗り換えへと足早に急いでいた。
あぁ、クリスマスなんて、大嫌いだ。
ねえ、本当の自分って、何なんだろう?
私は、最近、そればかりを考えるようになった。
時々、自分の胸をズキズキッと苦しめているのが、気の所為ではないことには、もう気づいている。
「君には、ピアノの才能はないよ」
そうはっきり言われたのは、中学3年生のクリスマスの日のレッスン日のことだった。
幼稚園の頃から習っている、ピアノの先生から告げられた言葉だった。
「どんな曲であったとしても、君は完璧に弾きこなすことができる。だけど、それはあくまで模倣でしかない。
音楽は芸術のひとつなんだ。模倣するだけじゃ、何も伝わらない」
私は、ピアノの先生が言っている言葉を、理解できなかった。
「えっと、どういうことですか。私は、なるべくこの曲の作曲者を思い浮かべて弾いて........」
そういう私に、呆れた顔で、めんどくさそうに、言う。
「だから、それこそが模倣の段階なんだ、自分らしさがない。もっと、自分の思いを込めるんだ」
そう言われても、やっぱり分からない。だから私は再び、こう言うしかなかった。
「...................分かりました、先生。
…………………やってみます」
惨めに俯く私のことさえ全く見ずに、先生は背を向けて言った。
「その言葉はもうずっと前から聞いているんだが。まぁ、やってみるといい」
その時の私は、胸が抉られたような気持ちになって、ピアノ教室を後にした。
ただ、ただ、悔しかった。
自分にとってピアノは、生まれたときからあるようなものだった。
なぜなら、両親がどちらも、世界的に有名なピアニストであるからだ。
この事実は、私にとって良いことなのか、悪いことなのか、私は判断できない。
でも、母や父は、私達姉妹に、直接音楽を教えることを嫌がった。
家族愛が入ると、芸術というものは、上手くいかなくなるものらしい。
そうして私達は、幼い頃から、父の友人のピアニスト、つまり今私達のピアノの先生から、ピアノを教わるようになった。
それで、音楽家である私の家族は、常に自分の思い描く感情について、話すことが多かった。
これは、私が中学1年生のこと。
「今日は、新しい曲が弾けるようになったんだ。ちょっとみんなに、聴いてほしいな」
そう言ったのは、私の唯一のお姉ちゃんだ。
優しくて、可愛くて、素直なお姉ちゃんは、ニッコリとした笑顔で、家族に笑いかけた。
正直にいって、私のお姉ちゃんのピアノは、私のピアノと比べて、強弱の付け方や、弾き方そのものが、丁寧ではなかった。
要するに、私より、上手ではなかった。これは、私がそう思ったのではなくて、両親や先生からの評価だ。
理由は簡単で、私には、絶対音感があるからだ。相対音感の姉とは、ぜんぜん違うのである。
1度聴いた曲は、頭の中で楽譜が流れてくるような感じで、スラスラと弾くことができる。
2,3回弾けば、もうそれは私のレパートリーに自動的に追加される。
これこそが、私に備わった、ピアノの特技だと、感じていた。
所謂、才能というものかもしれない。
だから、私は、いつもの変わらない姉のピアノを鑑賞するものだと思っていた。
でも、それは単なる私の勘違いだった。
その時のお姉ちゃんのピアノは言葉で言い表せないくらい、凄く胸に語りかけてくるものがあった。
「すごいわね、真理。こんなにも感情をうまく伝えられるようになっただなんて。ねぇ、あなた?」
「あぁ。とてもきれいな旋律だ。いつまでも聴いていたい」
母と父は、嬉しそうに、満面の笑みで言った。
今思えば、このときからだろうか。
姉のピアノと比較して、自分のそれは完璧な音色なはずなのに。
言葉に出来ないくらいの、小さな穴があったのかもしれない。
この穴の正体を、かつての私はまだ知らない。
「美月、あなたはどう?ちょっと、弾いてみてよ」
家族にそう促された私は、ショパンの名曲のひとつ、「幻想即興曲」を弾いた。
初めから終わりまで、完璧に弾き切った。達成感を感じつつ、私はピアノから目を離して、聴いてくれた家族に振り向いた。
きっと、さっきの姉のように、褒めてくれるだろうと思った。
けれど、期待していた私は、すぐに、そんなことは無いと思い知らされることになる。
「.............................なんだか、美月のピアノは、好きじゃないな。何か足りないんだよ」
「えぇ、そうね。うまく言葉で表せないけれど.................。真理とはぜんぜん違うのね」
不快な母と父の顔を見て、私は目の前が真っ暗になった。
父と母の評価が、容赦なくふりかかる。
ズキッとした胸の痛みが、また増える。一瞬だけ、顔が引き攣る。
でもそれは、偽りの笑顔の裏に、そっと隠しておいた。
「そっか...............。うん、もう少し、工夫してみるね」
そう言った私は、そのままピアノから離れて、自分の部屋に向かった。
振り返ってみれば、その予兆は、少なからずあったのだった。
一番決定的なのは、小学5年生の、ピアノのコンクールでのこと。
毎年、このコンクールは、クリスマスの日に開催される。
これまで、小学生部門で、3年連続金賞を取り続けていた私は、1歳年上の姉と、昨年と同様にコンクールに出場した。
私達は両親のこともあって、有名人だった。
姉が私と同じく3年連続銀賞を取っていたこともあり、名字と実績から「ワンツー平野姉妹」という名称があったぐらいだ。
そして今回が、姉妹そろってコンクールに出られる最後の機会だった。
もちろん、私も姉も、今まで以上に練習を重ねた。
「美月、必ず金賞と銀賞を取って、お母さんやお父さん、先生を喜ばせようね」
「うん、お姉ちゃん。絶対に今年も成功させよう!」
そう笑顔で言い合って、私達は最後の大会に臨んだ。
毎回のことだけど、私達の演奏に、1つもミスはなかった。
だからこそ、また今年は、いつもの結果で、笑って帰ることができると、思い込んでいた。
でもそれは、違っていた。
「平野美月さんの演奏、聴いていてどうでした?」
演奏を終えて、たまたま会場の審査員室を通って、客席に戻ろうとしていた私に、そんな声が聞こえてきた。
ドキッとしつつも、足早に通り過ぎようとしていたけれど、次の一言で、思わず足を止めてしまう。
「うーん、なにか足りないんだよな。音も強弱も弾き方も、最後のお辞儀でさえも、全てにおいて完璧なんだけどなぁ」
「分かります。それに比べて、美月さんのお姉さんの真理さんの演奏は、とても満足のいくものだと感じました」
「共感です。というか、美月さんの演奏は、一昨年、去年と年を重ねるたびに、どんどん完璧になっているはずなのに、なにか胸に響かないなぁ」
「そうですね。他の演奏者さんも、美月さんほどノーミスで弾けているわけではありませんが、思わずもう一度聴きたくなるような演奏をしてくれていますよね」
「あの有名な平野さんの娘さんも、結局はその程度なのでしょうか」
「お姉さんのポテンシャルには、幅広く伸びていきそうなものを感じます。ですが妹さんは........................」
「あくまで模倣の面では去年同様に金賞であるが、ピアノは芸術の一種だと捉えると...............美月さんの演奏は、ここまでかもしれないな」
中にいる審査員は、好き勝手自由に、私の演奏について評価を下している。
審査員であろう人の言葉が、頭の中で繰り返し繰り返し流れ込んできて、エコーみたいに響いている。
聞いているうちに、どんどんと闇に落ちていくような感覚に襲われた。
例えるならそう..................................行き場をなくした、憐れな子猫のような。
あるいは.................................どこまでも広がる暗く深いブラックホールに、引きずり込まれていくような。
今すぐここから逃げ出したいはずなのに、足が鉛のように重くなって、動かない。
「....................美月?こんなところにいて、どうしたの?お母さんやお父さんが、待ってるよ」
そんな明るい姉の声で、私ははっと姉の方を向いた。同時に、足が軽くなった。
「ううん、お姉ちゃん。なんでもないよ。ちょっと頭が痛くなっちゃっただけ」
慌ててそう言った私に、姉は心の底から心配した表情を見せる。
「そうなの、大丈夫?」
「うん、大丈夫。心配してくれて、ありがとう」
「家族なんだから、心配して当たり前でしょ?まったく、早く戻るよ」
「はーい」
このとき、私は、まだあの審査員の言葉を、信じきれていなかった。
きっと、頭が痛くなって、幻聴が聞こえてきただけだと、思っていた。
だって、私のピアノはいつだって、間違えることはないから。
ミスをすることなんて、ありえない。
いや、正確には、そう思い込もうとしていただけかもしれない。
「今回のコンクール、金賞は平野真理さんです。受賞、おめでとうございます!」
コンクール主催者の声が、会場いっぱいに響き渡る。
銀賞、銅賞ともに私ではない人が選ばれ、受賞した3人は、壇上に上がっていく。
私は、ただぼうっと、3人の姿を見つめていた。
そして、ヒソヒソとした声が、私にもはっきりと聞こえてくる。
「平野美月さん、今年銅賞にも選ばれなかったのね」
「まぁ、信じられないわ。あの絶対音感を持つ、真理さんの妹さんが?」
「確かお姉さんの真理さんは、絶対音感は持っていなかったはずよね?」
「ほんと、びっくりですわ。お母様やお父様に、似ていないのかもしれませんね」
「まぁでも、そこまで素晴らしい演奏かと言われれば、そうではない気もしますけれども」
「ちょっと、本人に聞かれたらどうしますの。もう少し声を落としましょうよ」
「でも、銅賞も取れない娘さんなんかに聞かれても、どうってことありませんわ」
「ご両親が、少し可哀想ですわね。あんなに優秀ですのに...........」
聴きたくない言葉が、自然と耳に入ってくる。
特に両親のことを聞いた瞬間、私はビクッと肩を揺らして反応し、隣に座る母と父の顔を見つめた。
そんな私の事を知ってか知らずか、2人とも金賞を受賞した満面の笑みの姉にしか、目を向けていなかった。
授賞式が終わると、母と父は私の方を見た。そして言った。
「美理、あなた本当にここまで頑張ってコンクールに臨んだのかしら?」
「絶対音感を持っているからって、あまり練習していないのではないか?」
私は、すぐに反論した。
「えっ..................。私は、この1週間はピアノしか練習してないよ。ずっとずっと、何度も弾いて.................」
「真理はもっと練習していたぞ。朝昼晩、一日中だ。わかっているのか」
「でも.....................私は... 私も..」
「言い訳なんか聞きたくないぞ、なぁ、お母さん?」
「えぇ、美月、次こそは、失敗せずに、やりきってくれるわよね?
これ以上、お母さんを失望させないで頂戴。先生にだって、どう顔向けすればいいのよ」
次々と私を追い詰める、容赦のない言葉。
見たことがない、父と母の、冷たい目。思わず、目を逸らしてしまう。
今までの、築き上げてきたものが、次々と壊れていくこの感じ。
あぁ、結局、私は、ただの道具だったんだ。誰も、私の気持ちを受け入れてくれないんだ。
私は、苦しい思いを隠して、言った。
「お母さん、お父さん、ごめんなさい。もう、落胆させないようにするよ」
ーーーーーーーー私は初めてここで、偽りの「笑顔」の作り方を、自分なりに理解した。
私にとっては、最悪のクリスマスだった。
そして私は高校1年生になった。
優秀な姉は、日本でも有名なアメリカの音大に、17歳という史上最年少で見事に入学を果たした。
え、私は何をしているのかって?
最後の中学2年生の時の、毎年のクリスマスコンクールで、賞をとることはできなくって。
その時に金賞を取った男の子が、人懐っこい顔で金賞の景品のひとつである花束を受け取っていて。
それをぼうっと見つめているだけの私は何も出来ないまま客席で座っていて。
中学3年生に言われた、「才能がない」という先生の言葉で、再練習して弾いてみるけど、ずっと認めてはもらえなくって。
両親には、「もう期待もしてないし、これ以上親の顔に泥を塗るな」と叱られてしまって。
ピアノ教室はやめたけど、未練がましく自分の部屋で、何故かピアノを弾き続けている。
考えてみれば、あのときに、ピアノなんかやめてしまえばよかったのに。
いったいぜんたい、何をしているんだろうな、私は。
私の存在価値って、あるのかな。
結局、いつまでも感情を込めることができないままでいる私は。
ーーーーーーーーこれからもずっと、偽りの「笑顔」を作り続ける。
そのまた1年後。
「美月ー。音楽室に、筆箱忘れてたって、担任の先生が言ってたよ。放課後に、音楽室まで取りに来て、だってさー」
「りょうかーい!すぐ行くね!」
私は、今、普通の公立高校で、高校生活を送っている。
もちろん、ピアノのいざこざのことは、誰にも話していないし、気楽に生きている。
高校2年生になり、未練がましく弾いていたピアノも、いつの日か自分から遠ざかっていった。
そう、ピアノを完全にやめて、自由なはずなのに。
私はまた、時々胸を抉るように、息苦しく、そしてしぶとく生きている。
ヒヤリと、冷たい風が廊下の窓から吹き抜ける。
また嫌いな冬がやってくる。
多くの人がクリスマスの予定を立てるのに浮き足立っている中、ずっと私はただ1人でポツンとひとりぼっちなのだ。
あぁ、ほんと、クリスマスなんか無くなればいい。
そう、ぽつりと呟く私には、誰も気づかないのだった。
新校舎の3階の右奥。第3音楽室まで、私は急いでやってきた。
ここはあまり人気がなくて、あたりはシンと静まりかえっている。
「(えっとここが、さっきの音楽室だよね。あれっ、鍵が開いてる?)」
ちょっと開いている音楽室のドアに手をかける。
ドアを開けようとしたその時。
「(...!これは、ピアノの音?)」
中から、ピアノの音色が聞こえてきた。
「(しかも、この曲って、ショパンの幻想即興曲だったはず。普通にすごいな、きれいな音色だなぁ)」
「(あれっ、でもこの音色の感じ、どこかで聞いたことがあるような...?)」
何か聞いたことがあるようで、はっきりと思い出せない。でも、どこか懐かしいような、そんな弾き方。
わたしは夢中になって、目を閉じて聴き入っていた。
だから、自分が音楽室のドアの開いている隙間に、だんだんと身を乗り出していたことに、気づかなかった。
「ん?そこに誰かいるの?」
中から声がしたその時、私は初めて我に返って、ドアから離れて逃げようとした。
その行動も虚しく、あちら側からドアがガラリと開けられる。
「....................................」
目が合う。
お互いに、何も話さない。
「(..........................................何か、話さなくっちゃ!)」
気まずくなる前に、先に口を開く。
「...........................えっと、その。盗み聞きしてしまい、すみません。
私、その。忘れ物してしまって。筆箱を取りに来たんです。赤い筆箱、なんですけど.......」
焦って早口になってしまう。自分でも何を話しているのか、分からない。
「あぁ、そうだったんだ。その、俺がいたせいで、入りにくかったよね。.........................これかな?」
「それです、ありがとうございます」
そう言って顔をあげると、私は息を呑んだ。
すごく、きれいな人だった。さらさらの髪に、形の良い眉と唇。鼻筋もよく、やさしそうな大きな瞳。
おまけに、女である私も羨ましいぐらいの、長いまつ毛が、美しい目を縁取っている。そして、顔に影を落としている。
思わず、じっと見つめてしまう。
暫くそうしたままでいると。
「..................あの、俺の顔に........................何かついてる?」
ポリポリと頭をかきながら、彼は言った。
はっとなって、慌てて、顔を下に向ける。
「すみません、その、あの、きれいな顔だなって思って............................」
「.............................」
「(ん?私今、なんて言った?)」
自分の失態に気づき、顔が真っ青になっていく。
彼の顔をおそるおそる見ると、それはわかりやすいほどに真っ赤になっていて。
青かった私の顔も、だんだん赤くなっていくのを感じる。
お互い、何も言えずに、立ち尽くす。
彼はしびれを切らして、私をまっすぐに見つめた。
「えっと.................そんなことを言われたのは、初めてだったから。その..............ありがとう」
恥ずかしそうに、でもどこか人懐っこい顔で微笑みかけられて、そんなふうに言われる。
ありがとうという言葉が、頭の中で木霊する。
ーーーー人から感謝してもらうのなんて、いつぶりだろうか。
ーーーーーーまっすぐに自分を見つめて、笑いかけてくれた人は、今までにいただろうか。
私の中で消えかかっていた欲望が、押さえつけていたはずのものが、一気にこみ上げる。
ほら、いつもみたいに、笑ってよ、私。
偽りの「笑顔」をつくるのは、得意でしょ。
そう自分に言い聞かせるのに、なぜかできない。
そう、1度出てきてしまったものをせき止めるのは難しい。
体が、心が、じんっと熱くなる。
彼はそんな私を、不思議そうに見つめた。
「どうしたんだ?........................!」
そうすると彼は形のいい眉を歪めて、オロオロとしながら、私にゆっくりと…………ハンカチを差し出した。
それからだった。私が泣いている、ということに私自身が気づいたのは。
一粒、また一粒、頬を伝って流れていく。
拭っても拭っても、止まらない。むしろ、せきを切ったように、流れ落ちる。
「すみません、私..............すみません。その、本当にごめんなさ」
「謝らなくていい!」
彼は強い言葉で、私の謝罪を遮った。
その力強い声に、一瞬、涙が止まる。
ポカンとした顔の私に、彼はバツが悪そうな顔をして、言う。
「違うんだ。その、君はさっきから、謝ってばかりだから........君は何も悪くないから」
そう言って、彼は優しく、ハンカチで私の涙を拭いた。
「つらいときは、泣いたって良いんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の中から何かが弾けとんだ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
ーーーーーーーーーーー私はその時、初めて人の前で慟哭した。
「少しは、落ち着いた?」
ずっと泣き叫ぶ私に、黙ってただそばで背中を擦ってくれた彼。
涙も流れすぎて、むしろすっきりした私は、すくっと立ち上がって、頭を下げた。
「あの、本当にありがとうございました。あきれましたよね、初対面なのに」
「..............初対面、か」
ぼそっとつぶやかれた言葉が、うまく聞き取れなくって、私は聞き返す。
「ん?どうしました?」
「いや、なんでもないよ。そういえば、まだ俺、名乗ってなかったよね。
日野悠陽。よろしくな。ちなみに、君は平野美月さんであってる?」
「っ、知っていたんですね、私のこと。そうです、合ってます。よろしくおねがいします、日野さん」
「......................敬語で喋ってるけど、俺、君と同じ高2だよ」
苦笑いしながら、日野さんは言う。
「えっ、そうなんですか。てっきり、先輩かと」
「.........そんなことより、君。どうしてそんなに思い詰めてるの?」
見透かされるような目で見つめられ、私の体に動揺が駆け巡る。
寒いはずなのに、血流が溢れるかのように熱い。
「思い詰める、ですか?そんなつもりは」
「なかったって言いたいの?絶対ウソでしょ。なんかあるでしょ..............話してみなよ」
「だから、話してどうにかなる問題ではなくて............................あっ」
この言い方はだめだ、ミスった。
「ほら、なんかあるじゃん。.....................吐き出してみなよ。さっきみたいに、楽になれるかもよ?」
彼の屈託のないその笑顔で、言われる。
不思議だ。この人といると、自然と体が重くない。
日野さんなら、何も批判せずに、聞いてくれるかもしれない。
あぁ、そっか。
私はずっと、誰かに聞いてほしかったんだ。
「実は、その.....................」
いつの間にか私は、昔のことについて、洗いざらいすべて話していた。
「................でももう、いいんです。私は、もうピアノはやめましたから。音色に感情をのせることが出来なくたって、どうでもいいんです」
全部話した後、私はニコッと笑って、自虐的に言った。そうでもしないと、心が持たない。
どうせ、『そっか』とか、『災難だったな』で終わるだろう。
そう、思っていたのに。
「嘘だな、それは。」
私の言葉を、一刀両断されるなんて、思ってもみなかった。
「嘘、なんてついてません。私はありのままで」
「違う、そこじゃない。..................まぁ、いい。美月、明日、放課後、ここに来い。
もし、俺のピアノに、少しでも興味があるなら」
「あっ、待ってください!」
私の言葉を聞いているのか聞いていないのか、彼は身をかわしてひらりと教室を出る。
まだ、ありがとうも言えてないのに。
でも、不思議と頬がゆるむのを、自分でも感じる。
ーーーーーーーー人の前で、自然体でいられたのって、いつぶりだったかな。
ーーーーこんな自分も、悪くないや。
翌日。
私は、やっぱり昨日の事が気になって、音楽室へと向かっていく。
ちょっと日が傾いた太陽が、教室棟を照らしている。
「......................来たんだな、美月。早く入ってこいよ」
また昨日と同じように、ドアの前で気配を伺っていると、先回りしてそう言われた。
「はい、来ましたけど。ていうか、いきなり呼び捨てですか!まあ、良いですけど。
あの、それより、昨日の私の話の何が、嘘なんですか?」
矢継早に聞いた私を宥めるように、日野さんは言う。
「そんなに焦るな。まずは、俺のピアノを聞いてくれ」
そうすると彼は、そっと私のもとから離れて、ピアノの椅子になれた手付きで座った。
どこかで見たことがある気がするのは、気のせいだろうか。
それでも、私は何も言わずにピアノのそばに立ち、日野さんのきれいな手を見つめた。
日野さんは私のことなんか気にせずに、すっとピアノを弾き始めた。
ーーーーーすごく、きれいだな。
私が日野さんのピアノを聞きながら、一番に思った感想は、これに尽きる。
まず、模倣ばかりの私にはできない、今の季節のクリスマスの曲のアレンジバージョンで、どこか胸を叩くような感情が込められていて、それが聞き手に凄く伝わる。
急に激しい音になったかと思えば、切なく悲しい感情もあって。
純粋に、すごいな、と思った。
そして、久しぶりにピアノの音を聞いていて、気分がノってきた私は、体全体でリズムを取っていた。
るんるんとしている最中に、曲が終わる。
日野さんは、私に聞いた。
「どうだった?」
「.................すごかったよ、なんだかもう一度、聴きたくなった」
「そうか」
そうすると彼は立ち上がって、私の方に近づく。そして、軽く私の手を握る。
「えっ、何?」
音楽ばかりで男子に免疫のない私は、手を握られただけでも一気に顔が真っ赤になる。
「一回でいいから、今の俺の曲、弾いてみて」
「え、そんなの無理だよ。てゆうか、ピアノはもう嫌だって.............」
「いいから早く、やってみろって、ほら」
私を優しく椅子に座らせて、握っていた手をピアノの鍵盤に乗せた。
「弾けないなんて、言わせないからな」
「え」
内心、弾けないって言って誤魔化そうと思ってたのに、そうはいかないらしい。
仕方なく、私は、言った。
「...............何個か間違えたら、ごめんね。できる限り、間違えずに弾くから」
そして、演奏を始める。
頭の中で、組み合わされていく楽譜を、次々に作り出していく。
この感覚、久しぶりで、もう嫌いなはずなのに。
なぜか、楽しくなって、弾き続けた。
それから、私は日野さんの事を忘れて、無我夢中で弾き続けた。
「はぁ、はぁ、疲れた」
集中しすぎて、久しぶりすぎて、思ったより疲れた。
「ごめん、どうだった?久しぶりすぎて、ちょっといろいろ力が入っちゃったけど」
彼は神妙な顔をしたが、一瞬で、穏やかに笑った。
その笑顔に、胸がトクンと跳ねる。
「やっぱり、音楽、好きなんじゃないか、美月」
その言葉に、私はすぐさま反論する。
「違うよ、それは」
「だって今お前、すごく笑顔なんだぜ、ほら」
いつの間にか撮っていたのか、彼は内カメにしたスマホを見せてきた。
そこに映るのは、今まで見たことのないほどの、幸せそうな私。
これはきっと、偽りの笑顔じゃない。
「お前は昨日、自分の感情を音楽にのせることができないって言っていたな。
でも、俺は、それはちょっと違うと思う。だって、美月のピアノには美月の楽しそうな気持ちが、音に乗って響いてきたんだから」
そう言って彼は、太陽のような笑顔で言った。
「才能がないって、決めつけたのは親か、先生か。そんなことなんか、どうでもいい。
ようは美月、お前次第だ。本当はどこかでまだ、諦められないんだろ?」
はっとなって、顔を上げて、彼を見つめる。
ニヤッと挑戦的な笑みで、彼は続ける。
「エピローグは、まだ早いぜ。
まだ、中途半端じゃ、終われないんだろ?なんなら、最後まで、好きなように、暴れてみせろよ」
ーーーーーーまだ、中途半端なままでは、終われない。
そのとおりだ。諦めきれていないから、やめると苦しい。
好きだから、何よりもピアノが、私にとって大切で、楽しいから。
それで無理矢理やめたと思っても、それは自分に枷をつけているのと一緒で。
私はまだ、音楽を、ピアノを、楽しみたいんだだ。
ーーーーーーそれ以外に、やり続ける理由なんて、必要あるの?
ーーー他人によって左右される人生なんて、つまらない。
空気が、浄化されていく。
私、遅かったな。気づくのが。
今の声色で、確信した。
目の前の彼が、中3の時に先生に呆れられた言葉を言われる前の、確か中2の冬のクリスマスの日の、私の最後のコンクールで。私の代わりに金賞を取った人。
やっと、それに今気づくなんて。
そして今、それからちょうど、3年後のクリスマスの日で。
彼はあのコンクールの時と、全く同じ曲を、私の前で弾いてみせたのだ。
あの時の、再現をするかのように。
こんな偶然、存在するのだろうかと、疑いたくなる。
それも全部理解した私は、頭が一気に覚醒していくのを感じた。
きっと、私にとって、こんなにかっこよくて優しくて、人を導くことのできる君。
今も胸の高鳴りが、止まらない。
だから、私の憧れの、それでこそ初恋の人になるのかもしれないけど。
正直そんな邪な気持ちよりも、私は今、ライバル心が強い。
「...........日野、悠陽くん。次こそは、私、絶対に負けないから。覚悟、しててね」
そんな挑戦的な私に彼は驚いたように目を見張ったが、私の強気な笑顔を見て、満足そうに微笑んだ。
「あぁ、いつでも待ってる。それと...............」
彼は私に近づき、軽く私の肩を引き寄せて、耳元で囁いた。
「ーーーーーーーーー俺も、容赦しないぜ?」
その優しくも男らしい声に、思わず顔が真っ赤になっている私。
そんな私を見て、くすくす笑っている君。
イタズラが成功したような顔だった。
きっと私をからかったのだろう。
「.................っ、あ、明日から、どちらがいい曲弾けるか、勝負ね!」
動揺したことを隠すように焦って言いながら、私は音楽室を飛び出す。
彼ーーーーー悠陽くんの笑い声が、廊下に出た私にも、聞こえてくる。
恥ずかしいような、照れくさいような。
そんな気持ちもあるけれど。
ーーーーーーーーーこんな、ありのままの私でも、いいじゃん。
夕日がかった廊下の窓から、私は顔を出して、ゆっくりと、息を吸う。
まだまだ冬は終わらない。
校舎を出て、力強く歩いていく。
冬の、清々しい匂いを感じる。
その、なんの混じり気のない爽やかな空気を全身で受け止めながら、私は。
今までは大嫌いで色褪せたクリスマスの風景がが、ほんの少し、赤や緑といった鮮やかな色になっていくのを感じた。
今日は、彼の弾いたあの曲を、家でもう一度奏でてみよう。
肌寒い風も、街の喧騒も、キラキラしたイルミネーションも、そして仲良く歩く恋人たちでさえも。
全て私の一部になるように、体が受け入れられて、そして賑やかな雰囲気の中で。
私も心から嬉しい気持ちで、スタッカートのような足取りで。
今までで1番、晴れやかな気分のまま。
「メリークリスマス!」
優しくそう祝うことが出来たのだった。
どこもかしこも、クリスマスのテーマソングが流れており、かつイルミネーションでライトアップされた、賑やか町。
クリスマスらしい赤と緑でデコレーションされたショッピングモールを、楽しそうな恋人たちが手を繋いで歩いている。
そんな騒がしい街を歩きながら、ふと横切ったお店のショーケースには、色とりどりのクリスマスケーキが所狭しと並んでいる。
誰もが幸せそうな雰囲気の中、私は1人、逃げるように駅の乗り換えへと足早に急いでいた。
あぁ、クリスマスなんて、大嫌いだ。
ねえ、本当の自分って、何なんだろう?
私は、最近、そればかりを考えるようになった。
時々、自分の胸をズキズキッと苦しめているのが、気の所為ではないことには、もう気づいている。
「君には、ピアノの才能はないよ」
そうはっきり言われたのは、中学3年生のクリスマスの日のレッスン日のことだった。
幼稚園の頃から習っている、ピアノの先生から告げられた言葉だった。
「どんな曲であったとしても、君は完璧に弾きこなすことができる。だけど、それはあくまで模倣でしかない。
音楽は芸術のひとつなんだ。模倣するだけじゃ、何も伝わらない」
私は、ピアノの先生が言っている言葉を、理解できなかった。
「えっと、どういうことですか。私は、なるべくこの曲の作曲者を思い浮かべて弾いて........」
そういう私に、呆れた顔で、めんどくさそうに、言う。
「だから、それこそが模倣の段階なんだ、自分らしさがない。もっと、自分の思いを込めるんだ」
そう言われても、やっぱり分からない。だから私は再び、こう言うしかなかった。
「...................分かりました、先生。
…………………やってみます」
惨めに俯く私のことさえ全く見ずに、先生は背を向けて言った。
「その言葉はもうずっと前から聞いているんだが。まぁ、やってみるといい」
その時の私は、胸が抉られたような気持ちになって、ピアノ教室を後にした。
ただ、ただ、悔しかった。
自分にとってピアノは、生まれたときからあるようなものだった。
なぜなら、両親がどちらも、世界的に有名なピアニストであるからだ。
この事実は、私にとって良いことなのか、悪いことなのか、私は判断できない。
でも、母や父は、私達姉妹に、直接音楽を教えることを嫌がった。
家族愛が入ると、芸術というものは、上手くいかなくなるものらしい。
そうして私達は、幼い頃から、父の友人のピアニスト、つまり今私達のピアノの先生から、ピアノを教わるようになった。
それで、音楽家である私の家族は、常に自分の思い描く感情について、話すことが多かった。
これは、私が中学1年生のこと。
「今日は、新しい曲が弾けるようになったんだ。ちょっとみんなに、聴いてほしいな」
そう言ったのは、私の唯一のお姉ちゃんだ。
優しくて、可愛くて、素直なお姉ちゃんは、ニッコリとした笑顔で、家族に笑いかけた。
正直にいって、私のお姉ちゃんのピアノは、私のピアノと比べて、強弱の付け方や、弾き方そのものが、丁寧ではなかった。
要するに、私より、上手ではなかった。これは、私がそう思ったのではなくて、両親や先生からの評価だ。
理由は簡単で、私には、絶対音感があるからだ。相対音感の姉とは、ぜんぜん違うのである。
1度聴いた曲は、頭の中で楽譜が流れてくるような感じで、スラスラと弾くことができる。
2,3回弾けば、もうそれは私のレパートリーに自動的に追加される。
これこそが、私に備わった、ピアノの特技だと、感じていた。
所謂、才能というものかもしれない。
だから、私は、いつもの変わらない姉のピアノを鑑賞するものだと思っていた。
でも、それは単なる私の勘違いだった。
その時のお姉ちゃんのピアノは言葉で言い表せないくらい、凄く胸に語りかけてくるものがあった。
「すごいわね、真理。こんなにも感情をうまく伝えられるようになっただなんて。ねぇ、あなた?」
「あぁ。とてもきれいな旋律だ。いつまでも聴いていたい」
母と父は、嬉しそうに、満面の笑みで言った。
今思えば、このときからだろうか。
姉のピアノと比較して、自分のそれは完璧な音色なはずなのに。
言葉に出来ないくらいの、小さな穴があったのかもしれない。
この穴の正体を、かつての私はまだ知らない。
「美月、あなたはどう?ちょっと、弾いてみてよ」
家族にそう促された私は、ショパンの名曲のひとつ、「幻想即興曲」を弾いた。
初めから終わりまで、完璧に弾き切った。達成感を感じつつ、私はピアノから目を離して、聴いてくれた家族に振り向いた。
きっと、さっきの姉のように、褒めてくれるだろうと思った。
けれど、期待していた私は、すぐに、そんなことは無いと思い知らされることになる。
「.............................なんだか、美月のピアノは、好きじゃないな。何か足りないんだよ」
「えぇ、そうね。うまく言葉で表せないけれど.................。真理とはぜんぜん違うのね」
不快な母と父の顔を見て、私は目の前が真っ暗になった。
父と母の評価が、容赦なくふりかかる。
ズキッとした胸の痛みが、また増える。一瞬だけ、顔が引き攣る。
でもそれは、偽りの笑顔の裏に、そっと隠しておいた。
「そっか...............。うん、もう少し、工夫してみるね」
そう言った私は、そのままピアノから離れて、自分の部屋に向かった。
振り返ってみれば、その予兆は、少なからずあったのだった。
一番決定的なのは、小学5年生の、ピアノのコンクールでのこと。
毎年、このコンクールは、クリスマスの日に開催される。
これまで、小学生部門で、3年連続金賞を取り続けていた私は、1歳年上の姉と、昨年と同様にコンクールに出場した。
私達は両親のこともあって、有名人だった。
姉が私と同じく3年連続銀賞を取っていたこともあり、名字と実績から「ワンツー平野姉妹」という名称があったぐらいだ。
そして今回が、姉妹そろってコンクールに出られる最後の機会だった。
もちろん、私も姉も、今まで以上に練習を重ねた。
「美月、必ず金賞と銀賞を取って、お母さんやお父さん、先生を喜ばせようね」
「うん、お姉ちゃん。絶対に今年も成功させよう!」
そう笑顔で言い合って、私達は最後の大会に臨んだ。
毎回のことだけど、私達の演奏に、1つもミスはなかった。
だからこそ、また今年は、いつもの結果で、笑って帰ることができると、思い込んでいた。
でもそれは、違っていた。
「平野美月さんの演奏、聴いていてどうでした?」
演奏を終えて、たまたま会場の審査員室を通って、客席に戻ろうとしていた私に、そんな声が聞こえてきた。
ドキッとしつつも、足早に通り過ぎようとしていたけれど、次の一言で、思わず足を止めてしまう。
「うーん、なにか足りないんだよな。音も強弱も弾き方も、最後のお辞儀でさえも、全てにおいて完璧なんだけどなぁ」
「分かります。それに比べて、美月さんのお姉さんの真理さんの演奏は、とても満足のいくものだと感じました」
「共感です。というか、美月さんの演奏は、一昨年、去年と年を重ねるたびに、どんどん完璧になっているはずなのに、なにか胸に響かないなぁ」
「そうですね。他の演奏者さんも、美月さんほどノーミスで弾けているわけではありませんが、思わずもう一度聴きたくなるような演奏をしてくれていますよね」
「あの有名な平野さんの娘さんも、結局はその程度なのでしょうか」
「お姉さんのポテンシャルには、幅広く伸びていきそうなものを感じます。ですが妹さんは........................」
「あくまで模倣の面では去年同様に金賞であるが、ピアノは芸術の一種だと捉えると...............美月さんの演奏は、ここまでかもしれないな」
中にいる審査員は、好き勝手自由に、私の演奏について評価を下している。
審査員であろう人の言葉が、頭の中で繰り返し繰り返し流れ込んできて、エコーみたいに響いている。
聞いているうちに、どんどんと闇に落ちていくような感覚に襲われた。
例えるならそう..................................行き場をなくした、憐れな子猫のような。
あるいは.................................どこまでも広がる暗く深いブラックホールに、引きずり込まれていくような。
今すぐここから逃げ出したいはずなのに、足が鉛のように重くなって、動かない。
「....................美月?こんなところにいて、どうしたの?お母さんやお父さんが、待ってるよ」
そんな明るい姉の声で、私ははっと姉の方を向いた。同時に、足が軽くなった。
「ううん、お姉ちゃん。なんでもないよ。ちょっと頭が痛くなっちゃっただけ」
慌ててそう言った私に、姉は心の底から心配した表情を見せる。
「そうなの、大丈夫?」
「うん、大丈夫。心配してくれて、ありがとう」
「家族なんだから、心配して当たり前でしょ?まったく、早く戻るよ」
「はーい」
このとき、私は、まだあの審査員の言葉を、信じきれていなかった。
きっと、頭が痛くなって、幻聴が聞こえてきただけだと、思っていた。
だって、私のピアノはいつだって、間違えることはないから。
ミスをすることなんて、ありえない。
いや、正確には、そう思い込もうとしていただけかもしれない。
「今回のコンクール、金賞は平野真理さんです。受賞、おめでとうございます!」
コンクール主催者の声が、会場いっぱいに響き渡る。
銀賞、銅賞ともに私ではない人が選ばれ、受賞した3人は、壇上に上がっていく。
私は、ただぼうっと、3人の姿を見つめていた。
そして、ヒソヒソとした声が、私にもはっきりと聞こえてくる。
「平野美月さん、今年銅賞にも選ばれなかったのね」
「まぁ、信じられないわ。あの絶対音感を持つ、真理さんの妹さんが?」
「確かお姉さんの真理さんは、絶対音感は持っていなかったはずよね?」
「ほんと、びっくりですわ。お母様やお父様に、似ていないのかもしれませんね」
「まぁでも、そこまで素晴らしい演奏かと言われれば、そうではない気もしますけれども」
「ちょっと、本人に聞かれたらどうしますの。もう少し声を落としましょうよ」
「でも、銅賞も取れない娘さんなんかに聞かれても、どうってことありませんわ」
「ご両親が、少し可哀想ですわね。あんなに優秀ですのに...........」
聴きたくない言葉が、自然と耳に入ってくる。
特に両親のことを聞いた瞬間、私はビクッと肩を揺らして反応し、隣に座る母と父の顔を見つめた。
そんな私の事を知ってか知らずか、2人とも金賞を受賞した満面の笑みの姉にしか、目を向けていなかった。
授賞式が終わると、母と父は私の方を見た。そして言った。
「美理、あなた本当にここまで頑張ってコンクールに臨んだのかしら?」
「絶対音感を持っているからって、あまり練習していないのではないか?」
私は、すぐに反論した。
「えっ..................。私は、この1週間はピアノしか練習してないよ。ずっとずっと、何度も弾いて.................」
「真理はもっと練習していたぞ。朝昼晩、一日中だ。わかっているのか」
「でも.....................私は... 私も..」
「言い訳なんか聞きたくないぞ、なぁ、お母さん?」
「えぇ、美月、次こそは、失敗せずに、やりきってくれるわよね?
これ以上、お母さんを失望させないで頂戴。先生にだって、どう顔向けすればいいのよ」
次々と私を追い詰める、容赦のない言葉。
見たことがない、父と母の、冷たい目。思わず、目を逸らしてしまう。
今までの、築き上げてきたものが、次々と壊れていくこの感じ。
あぁ、結局、私は、ただの道具だったんだ。誰も、私の気持ちを受け入れてくれないんだ。
私は、苦しい思いを隠して、言った。
「お母さん、お父さん、ごめんなさい。もう、落胆させないようにするよ」
ーーーーーーーー私は初めてここで、偽りの「笑顔」の作り方を、自分なりに理解した。
私にとっては、最悪のクリスマスだった。
そして私は高校1年生になった。
優秀な姉は、日本でも有名なアメリカの音大に、17歳という史上最年少で見事に入学を果たした。
え、私は何をしているのかって?
最後の中学2年生の時の、毎年のクリスマスコンクールで、賞をとることはできなくって。
その時に金賞を取った男の子が、人懐っこい顔で金賞の景品のひとつである花束を受け取っていて。
それをぼうっと見つめているだけの私は何も出来ないまま客席で座っていて。
中学3年生に言われた、「才能がない」という先生の言葉で、再練習して弾いてみるけど、ずっと認めてはもらえなくって。
両親には、「もう期待もしてないし、これ以上親の顔に泥を塗るな」と叱られてしまって。
ピアノ教室はやめたけど、未練がましく自分の部屋で、何故かピアノを弾き続けている。
考えてみれば、あのときに、ピアノなんかやめてしまえばよかったのに。
いったいぜんたい、何をしているんだろうな、私は。
私の存在価値って、あるのかな。
結局、いつまでも感情を込めることができないままでいる私は。
ーーーーーーーーこれからもずっと、偽りの「笑顔」を作り続ける。
そのまた1年後。
「美月ー。音楽室に、筆箱忘れてたって、担任の先生が言ってたよ。放課後に、音楽室まで取りに来て、だってさー」
「りょうかーい!すぐ行くね!」
私は、今、普通の公立高校で、高校生活を送っている。
もちろん、ピアノのいざこざのことは、誰にも話していないし、気楽に生きている。
高校2年生になり、未練がましく弾いていたピアノも、いつの日か自分から遠ざかっていった。
そう、ピアノを完全にやめて、自由なはずなのに。
私はまた、時々胸を抉るように、息苦しく、そしてしぶとく生きている。
ヒヤリと、冷たい風が廊下の窓から吹き抜ける。
また嫌いな冬がやってくる。
多くの人がクリスマスの予定を立てるのに浮き足立っている中、ずっと私はただ1人でポツンとひとりぼっちなのだ。
あぁ、ほんと、クリスマスなんか無くなればいい。
そう、ぽつりと呟く私には、誰も気づかないのだった。
新校舎の3階の右奥。第3音楽室まで、私は急いでやってきた。
ここはあまり人気がなくて、あたりはシンと静まりかえっている。
「(えっとここが、さっきの音楽室だよね。あれっ、鍵が開いてる?)」
ちょっと開いている音楽室のドアに手をかける。
ドアを開けようとしたその時。
「(...!これは、ピアノの音?)」
中から、ピアノの音色が聞こえてきた。
「(しかも、この曲って、ショパンの幻想即興曲だったはず。普通にすごいな、きれいな音色だなぁ)」
「(あれっ、でもこの音色の感じ、どこかで聞いたことがあるような...?)」
何か聞いたことがあるようで、はっきりと思い出せない。でも、どこか懐かしいような、そんな弾き方。
わたしは夢中になって、目を閉じて聴き入っていた。
だから、自分が音楽室のドアの開いている隙間に、だんだんと身を乗り出していたことに、気づかなかった。
「ん?そこに誰かいるの?」
中から声がしたその時、私は初めて我に返って、ドアから離れて逃げようとした。
その行動も虚しく、あちら側からドアがガラリと開けられる。
「....................................」
目が合う。
お互いに、何も話さない。
「(..........................................何か、話さなくっちゃ!)」
気まずくなる前に、先に口を開く。
「...........................えっと、その。盗み聞きしてしまい、すみません。
私、その。忘れ物してしまって。筆箱を取りに来たんです。赤い筆箱、なんですけど.......」
焦って早口になってしまう。自分でも何を話しているのか、分からない。
「あぁ、そうだったんだ。その、俺がいたせいで、入りにくかったよね。.........................これかな?」
「それです、ありがとうございます」
そう言って顔をあげると、私は息を呑んだ。
すごく、きれいな人だった。さらさらの髪に、形の良い眉と唇。鼻筋もよく、やさしそうな大きな瞳。
おまけに、女である私も羨ましいぐらいの、長いまつ毛が、美しい目を縁取っている。そして、顔に影を落としている。
思わず、じっと見つめてしまう。
暫くそうしたままでいると。
「..................あの、俺の顔に........................何かついてる?」
ポリポリと頭をかきながら、彼は言った。
はっとなって、慌てて、顔を下に向ける。
「すみません、その、あの、きれいな顔だなって思って............................」
「.............................」
「(ん?私今、なんて言った?)」
自分の失態に気づき、顔が真っ青になっていく。
彼の顔をおそるおそる見ると、それはわかりやすいほどに真っ赤になっていて。
青かった私の顔も、だんだん赤くなっていくのを感じる。
お互い、何も言えずに、立ち尽くす。
彼はしびれを切らして、私をまっすぐに見つめた。
「えっと.................そんなことを言われたのは、初めてだったから。その..............ありがとう」
恥ずかしそうに、でもどこか人懐っこい顔で微笑みかけられて、そんなふうに言われる。
ありがとうという言葉が、頭の中で木霊する。
ーーーー人から感謝してもらうのなんて、いつぶりだろうか。
ーーーーーーまっすぐに自分を見つめて、笑いかけてくれた人は、今までにいただろうか。
私の中で消えかかっていた欲望が、押さえつけていたはずのものが、一気にこみ上げる。
ほら、いつもみたいに、笑ってよ、私。
偽りの「笑顔」をつくるのは、得意でしょ。
そう自分に言い聞かせるのに、なぜかできない。
そう、1度出てきてしまったものをせき止めるのは難しい。
体が、心が、じんっと熱くなる。
彼はそんな私を、不思議そうに見つめた。
「どうしたんだ?........................!」
そうすると彼は形のいい眉を歪めて、オロオロとしながら、私にゆっくりと…………ハンカチを差し出した。
それからだった。私が泣いている、ということに私自身が気づいたのは。
一粒、また一粒、頬を伝って流れていく。
拭っても拭っても、止まらない。むしろ、せきを切ったように、流れ落ちる。
「すみません、私..............すみません。その、本当にごめんなさ」
「謝らなくていい!」
彼は強い言葉で、私の謝罪を遮った。
その力強い声に、一瞬、涙が止まる。
ポカンとした顔の私に、彼はバツが悪そうな顔をして、言う。
「違うんだ。その、君はさっきから、謝ってばかりだから........君は何も悪くないから」
そう言って、彼は優しく、ハンカチで私の涙を拭いた。
「つらいときは、泣いたって良いんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の中から何かが弾けとんだ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
ーーーーーーーーーーー私はその時、初めて人の前で慟哭した。
「少しは、落ち着いた?」
ずっと泣き叫ぶ私に、黙ってただそばで背中を擦ってくれた彼。
涙も流れすぎて、むしろすっきりした私は、すくっと立ち上がって、頭を下げた。
「あの、本当にありがとうございました。あきれましたよね、初対面なのに」
「..............初対面、か」
ぼそっとつぶやかれた言葉が、うまく聞き取れなくって、私は聞き返す。
「ん?どうしました?」
「いや、なんでもないよ。そういえば、まだ俺、名乗ってなかったよね。
日野悠陽。よろしくな。ちなみに、君は平野美月さんであってる?」
「っ、知っていたんですね、私のこと。そうです、合ってます。よろしくおねがいします、日野さん」
「......................敬語で喋ってるけど、俺、君と同じ高2だよ」
苦笑いしながら、日野さんは言う。
「えっ、そうなんですか。てっきり、先輩かと」
「.........そんなことより、君。どうしてそんなに思い詰めてるの?」
見透かされるような目で見つめられ、私の体に動揺が駆け巡る。
寒いはずなのに、血流が溢れるかのように熱い。
「思い詰める、ですか?そんなつもりは」
「なかったって言いたいの?絶対ウソでしょ。なんかあるでしょ..............話してみなよ」
「だから、話してどうにかなる問題ではなくて............................あっ」
この言い方はだめだ、ミスった。
「ほら、なんかあるじゃん。.....................吐き出してみなよ。さっきみたいに、楽になれるかもよ?」
彼の屈託のないその笑顔で、言われる。
不思議だ。この人といると、自然と体が重くない。
日野さんなら、何も批判せずに、聞いてくれるかもしれない。
あぁ、そっか。
私はずっと、誰かに聞いてほしかったんだ。
「実は、その.....................」
いつの間にか私は、昔のことについて、洗いざらいすべて話していた。
「................でももう、いいんです。私は、もうピアノはやめましたから。音色に感情をのせることが出来なくたって、どうでもいいんです」
全部話した後、私はニコッと笑って、自虐的に言った。そうでもしないと、心が持たない。
どうせ、『そっか』とか、『災難だったな』で終わるだろう。
そう、思っていたのに。
「嘘だな、それは。」
私の言葉を、一刀両断されるなんて、思ってもみなかった。
「嘘、なんてついてません。私はありのままで」
「違う、そこじゃない。..................まぁ、いい。美月、明日、放課後、ここに来い。
もし、俺のピアノに、少しでも興味があるなら」
「あっ、待ってください!」
私の言葉を聞いているのか聞いていないのか、彼は身をかわしてひらりと教室を出る。
まだ、ありがとうも言えてないのに。
でも、不思議と頬がゆるむのを、自分でも感じる。
ーーーーーーーー人の前で、自然体でいられたのって、いつぶりだったかな。
ーーーーこんな自分も、悪くないや。
翌日。
私は、やっぱり昨日の事が気になって、音楽室へと向かっていく。
ちょっと日が傾いた太陽が、教室棟を照らしている。
「......................来たんだな、美月。早く入ってこいよ」
また昨日と同じように、ドアの前で気配を伺っていると、先回りしてそう言われた。
「はい、来ましたけど。ていうか、いきなり呼び捨てですか!まあ、良いですけど。
あの、それより、昨日の私の話の何が、嘘なんですか?」
矢継早に聞いた私を宥めるように、日野さんは言う。
「そんなに焦るな。まずは、俺のピアノを聞いてくれ」
そうすると彼は、そっと私のもとから離れて、ピアノの椅子になれた手付きで座った。
どこかで見たことがある気がするのは、気のせいだろうか。
それでも、私は何も言わずにピアノのそばに立ち、日野さんのきれいな手を見つめた。
日野さんは私のことなんか気にせずに、すっとピアノを弾き始めた。
ーーーーーすごく、きれいだな。
私が日野さんのピアノを聞きながら、一番に思った感想は、これに尽きる。
まず、模倣ばかりの私にはできない、今の季節のクリスマスの曲のアレンジバージョンで、どこか胸を叩くような感情が込められていて、それが聞き手に凄く伝わる。
急に激しい音になったかと思えば、切なく悲しい感情もあって。
純粋に、すごいな、と思った。
そして、久しぶりにピアノの音を聞いていて、気分がノってきた私は、体全体でリズムを取っていた。
るんるんとしている最中に、曲が終わる。
日野さんは、私に聞いた。
「どうだった?」
「.................すごかったよ、なんだかもう一度、聴きたくなった」
「そうか」
そうすると彼は立ち上がって、私の方に近づく。そして、軽く私の手を握る。
「えっ、何?」
音楽ばかりで男子に免疫のない私は、手を握られただけでも一気に顔が真っ赤になる。
「一回でいいから、今の俺の曲、弾いてみて」
「え、そんなの無理だよ。てゆうか、ピアノはもう嫌だって.............」
「いいから早く、やってみろって、ほら」
私を優しく椅子に座らせて、握っていた手をピアノの鍵盤に乗せた。
「弾けないなんて、言わせないからな」
「え」
内心、弾けないって言って誤魔化そうと思ってたのに、そうはいかないらしい。
仕方なく、私は、言った。
「...............何個か間違えたら、ごめんね。できる限り、間違えずに弾くから」
そして、演奏を始める。
頭の中で、組み合わされていく楽譜を、次々に作り出していく。
この感覚、久しぶりで、もう嫌いなはずなのに。
なぜか、楽しくなって、弾き続けた。
それから、私は日野さんの事を忘れて、無我夢中で弾き続けた。
「はぁ、はぁ、疲れた」
集中しすぎて、久しぶりすぎて、思ったより疲れた。
「ごめん、どうだった?久しぶりすぎて、ちょっといろいろ力が入っちゃったけど」
彼は神妙な顔をしたが、一瞬で、穏やかに笑った。
その笑顔に、胸がトクンと跳ねる。
「やっぱり、音楽、好きなんじゃないか、美月」
その言葉に、私はすぐさま反論する。
「違うよ、それは」
「だって今お前、すごく笑顔なんだぜ、ほら」
いつの間にか撮っていたのか、彼は内カメにしたスマホを見せてきた。
そこに映るのは、今まで見たことのないほどの、幸せそうな私。
これはきっと、偽りの笑顔じゃない。
「お前は昨日、自分の感情を音楽にのせることができないって言っていたな。
でも、俺は、それはちょっと違うと思う。だって、美月のピアノには美月の楽しそうな気持ちが、音に乗って響いてきたんだから」
そう言って彼は、太陽のような笑顔で言った。
「才能がないって、決めつけたのは親か、先生か。そんなことなんか、どうでもいい。
ようは美月、お前次第だ。本当はどこかでまだ、諦められないんだろ?」
はっとなって、顔を上げて、彼を見つめる。
ニヤッと挑戦的な笑みで、彼は続ける。
「エピローグは、まだ早いぜ。
まだ、中途半端じゃ、終われないんだろ?なんなら、最後まで、好きなように、暴れてみせろよ」
ーーーーーーまだ、中途半端なままでは、終われない。
そのとおりだ。諦めきれていないから、やめると苦しい。
好きだから、何よりもピアノが、私にとって大切で、楽しいから。
それで無理矢理やめたと思っても、それは自分に枷をつけているのと一緒で。
私はまだ、音楽を、ピアノを、楽しみたいんだだ。
ーーーーーーそれ以外に、やり続ける理由なんて、必要あるの?
ーーー他人によって左右される人生なんて、つまらない。
空気が、浄化されていく。
私、遅かったな。気づくのが。
今の声色で、確信した。
目の前の彼が、中3の時に先生に呆れられた言葉を言われる前の、確か中2の冬のクリスマスの日の、私の最後のコンクールで。私の代わりに金賞を取った人。
やっと、それに今気づくなんて。
そして今、それからちょうど、3年後のクリスマスの日で。
彼はあのコンクールの時と、全く同じ曲を、私の前で弾いてみせたのだ。
あの時の、再現をするかのように。
こんな偶然、存在するのだろうかと、疑いたくなる。
それも全部理解した私は、頭が一気に覚醒していくのを感じた。
きっと、私にとって、こんなにかっこよくて優しくて、人を導くことのできる君。
今も胸の高鳴りが、止まらない。
だから、私の憧れの、それでこそ初恋の人になるのかもしれないけど。
正直そんな邪な気持ちよりも、私は今、ライバル心が強い。
「...........日野、悠陽くん。次こそは、私、絶対に負けないから。覚悟、しててね」
そんな挑戦的な私に彼は驚いたように目を見張ったが、私の強気な笑顔を見て、満足そうに微笑んだ。
「あぁ、いつでも待ってる。それと...............」
彼は私に近づき、軽く私の肩を引き寄せて、耳元で囁いた。
「ーーーーーーーーー俺も、容赦しないぜ?」
その優しくも男らしい声に、思わず顔が真っ赤になっている私。
そんな私を見て、くすくす笑っている君。
イタズラが成功したような顔だった。
きっと私をからかったのだろう。
「.................っ、あ、明日から、どちらがいい曲弾けるか、勝負ね!」
動揺したことを隠すように焦って言いながら、私は音楽室を飛び出す。
彼ーーーーー悠陽くんの笑い声が、廊下に出た私にも、聞こえてくる。
恥ずかしいような、照れくさいような。
そんな気持ちもあるけれど。
ーーーーーーーーーこんな、ありのままの私でも、いいじゃん。
夕日がかった廊下の窓から、私は顔を出して、ゆっくりと、息を吸う。
まだまだ冬は終わらない。
校舎を出て、力強く歩いていく。
冬の、清々しい匂いを感じる。
その、なんの混じり気のない爽やかな空気を全身で受け止めながら、私は。
今までは大嫌いで色褪せたクリスマスの風景がが、ほんの少し、赤や緑といった鮮やかな色になっていくのを感じた。
今日は、彼の弾いたあの曲を、家でもう一度奏でてみよう。
肌寒い風も、街の喧騒も、キラキラしたイルミネーションも、そして仲良く歩く恋人たちでさえも。
全て私の一部になるように、体が受け入れられて、そして賑やかな雰囲気の中で。
私も心から嬉しい気持ちで、スタッカートのような足取りで。
今までで1番、晴れやかな気分のまま。
「メリークリスマス!」
優しくそう祝うことが出来たのだった。