藤原(ふじわらの)定家(ていか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。
 一方式子(しきし)内親王(ないしんのう)は、いわゆるお姫さま。
 内親王は独身で生涯を終えるのが当然の時代。自由に恋愛をすることができなかった式子内親王は、もしだれかに恋をしたとしても、想いは隠さなければならなかった。

 ふたりの出会いは、定家が十九歳、式子内親王が三十歳ほどのとき。定家の父である俊成が式子内親王の和歌の師匠であったことから、ふたりは出会った。
 
 先にも触れたとおり、身分の違うふたりが恋人となることは有り得なかった。
 そんなふたりの噂がなぜ生まれたか。
 それは、定家が残した明月記(めいげつき)(定家が十九歳〜七十四歳頃までの出来事を記した日記)と、晩年に選定した『小倉(おぐら)百人一首(ひゃくにんいっしゅ)』が関係する。

 式子内親王が病に倒れたあとも、定家は足繁く彼女のもとへ通っている。しかしながら、薨去については一年後の命日まで一切触れなかった。(明月記)
 そして、定家が選定した百人一首には天皇や皇族の歌も取り上げられているが、女性皇族として選ばれたのは、式子内親王だけだった。

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 今回このお話は、藤原定家を主人公・藤原(ふじわら)(はる)に、式子(しきし)内親王(ないしんのう)冬野(ふゆの)美月(みづき)にあて、最終的に晴が大学で出会う大江(おおえ)百音(もね)は、ふたりの人生を目撃した当時の民衆として、歴史の一解釈をした代表者(読者)として登場させた。