ある寒い冬の年。一生忘れられない年。
私と旦那の始まりの物語。これは私達の旅行記の最初のページ。
愛する姉の願いの為。もうここにはいない大好きなカイネお姉様の願いを叶える旅の始まり。全てはそこから始まったのだ。
闘病の末に亡くなった姉・カイネが亡くなってから半年後のことだった。
彼女が生前婚約していた若き公爵キース・テイラー様が我が家にやって来た。何の目的かはもう分かっている。
幾ら伯爵家とはいえ何もない。つまり私達家族は貧乏貴族。家を存続させる為の相談を公爵家に持ちかけていた。
お姉様はキース様と政略結婚する筈だったのだ。
けれど、お姉様が亡くなった以上、別の方法を考えなくてはならない。その目は妹である私に向けられる。
「許してくれアンナ…!!」
「大丈夫ですわ、お父様。もう覚悟はしてましたから」
お姉様の代わりになる花嫁になって家を救う結婚お互い何も知らないままの愛のない結婚。私に拒否権は最初からないに等しい。
けれど、この結婚はある目的は果たすには必要不可欠なモノ。断る理由なんてなかった。
「応えはもう決まっているな?"白雪"」
キース様は冷たい眼差しで私を白雪と呼ぶ。選択肢なんてもう一つしかないというのに追い詰めてくる。
彼が言った白雪の意味。それは。夜空のように黒く長い髪と、雪の様に白い肌、真っ赤な薔薇の様な唇。
幼い頃に亡くなったお母様みたいだとお父様は言っていた。私を一目見た人は御伽話の白雪姫そっくりで不気味だと囁いた。
お姉様は父親によく似ていて、あまりお母様には似つかなかった。私とは違って赤毛で太陽の様な笑顔が似合うとても素敵な人。明るい色がとてもにある人でもあった。
けれど、その素敵な人はもうこの世にいない。残ったのは冬の化身の様な私だけ。
「キース・テイラー様。貴方との結婚、お受けします。その代わりに…」
「分かっている。フルーネル家のことは心配するな。俺がちゃんと管理する」
「ありがとうございます。それと…」
「ん?」
「あ、いえ…なんでもありません」
「?」
私はある事を言いかけるが喉から出る寸前でやめた。彼に告げるにはまだ早い。無事に式を終えてからにしようと咄嗟にはぐらかした。
そんな私にキース様は怪訝な顔色を浮かべたがわざと見ないふりをしてやり過ごした。
隣にいるお父様は私とキース様の婚約が無事に決まり安堵した表情で見守っていた。
そこから式が行われるまで怒涛の日々だった。
各自の親族に挨拶周りや、ドレス選びやら落ち着く暇が無かった。
気付いた時はもう純白のウェディングドレスを着てお父様と共にバージンロードを歩いていた。
目の前には神父様と神妙な面持ちでこちらを見るキース様がいる。
「あの"白雪姫"がカイネ様の身代わりなんて」
「でも、これでフローネル家も安泰だ。カイネ様もこれで浮かばれるだろう」
「人形みたいで不気味だと思っていたが近くで見るとこんなに美しかったなんてな」
「カイネ様も十分お美しかったけれどアンナ様の方が断然ね。うちの息子の嫁にしたいぐらいよ」
先に参列する人達のヒソヒソ声は私の幸せよりもやはりフローネル家の安泰にしか興味がない。
私をずっと不気味がって避けてきたくせに、いざウェディングドレスと純白のベールに身を包むとコロッと掌返し。しかもお姉様と比べてくる。
(今すぐにでも反論してやりたいけど我慢我慢…)
「どうしたアンナ?気分でも悪いのか?」
「あ、いえ、少し緊張してて……私はお姉様のようにしっかり花嫁修行をしてこなかったから…。幾ら政略結婚とはいえ、ちゃんとキース様の花嫁として務まるか不安で…」
「大丈夫。私達がついてる。私もアイリーンと結婚する時お前と同じ様に不安に駆られた。でも、時間が解決してくれる。それに…こうさせてしまったのも私の不甲斐なさのせいだ。アンナが気に病むことではないよ。さぁ、キース様のところに行こう。」
「はい」
本当は来客者への苛立ちで沈んでいたのをお父様に心配されてしまった。慌ててこの結婚への不安であるからと誤魔化すがそれも原因の一つであるから嘘ではない。
私はお姉様の様に完璧ではないのだ。ただ、見た目が美しいというだけ。そんな私が公爵の妻として務まるなんて到底思えない。
どうしてキース様は私を選んだのだろう?お姉様が亡くなった時点でフルーネル家を見限ってもおかしくないというのに。
疑問と不安が私の頭の中を渦巻く。
そして、私はお父様から花婿であるキース様に受け渡される。
愛のない形だけの誓いの言葉を立て口付けを交わす。お姉様とだったらきっと意味をなしたであろうとつい考えてしまう。無心になって全てを終わらせる。まるで作業の様に思えてしまう。
けれど、この結婚もある目的の一つ。最初の試練と思えばどうって事はない。
キース様がフルーネル家を見限らなかったのが救いだ。もし、見限って他の人と婚約を交わしていたら私とお姉様の計画は全て水の泡と化す。
(お姉様の願い、最初の一つ目を叶えられたわ。本当はお姉様自身が着たかった筈なのに。ちゃんと替わりになれたかな?)
式は滞りなく無事に終えることができた。
皆の祝福は堕ちかけたフルーネル家に光を与え、ロジャー家の一員となった私には白い花びらが舞い落ちる。新郎新婦にお互いの気持ちがなくてもそれらは降り注ぐだろう。
そして、今日の夜。
本来、やるべき行為より、キース様に全てを話さなければ。婚約の話の時にはぐらかした話を。
お姉様を心の底から愛してくれた彼には全て打ち明けなくては。
式を終えた夜。夫婦になった2人が初めて迎える夜だ。
純白のウェディングドレスから着慣れた薄紫のネグリジェに着替えて夫であるキース様をベッドの上で座って待っている。
本来なら夫婦としてやるべき事があるのは知っている。けれど、それはお互いを愛し合っている場合だ。私達は違う。
私にはキース様に伝えなければいけない事がある。彼との結婚を承諾した日にはぐらかした話を包み隠さず全て話さねば。
私1人では成し遂げられない壮大な計画を。お姉様が遺した想いを彼に知らせねば。
「白雪」
背後からキース様の声が聞こえた。
入浴を終えたのだろう。ゆっくりとこちらに近づいてくる。
緊張して心臓の鼓動が激しくなる。キース様に聞こえてしまわない様にぎゅっと胸を抑える。
「き、キース様…あの、」
震え声になっている私の隣に少し間を開けて座る。緊張と不安のせいで俯いている私にキース様は優しく話しかけてきた。
「大丈夫だ。怖がらなくていい。お前が考えている様な事はしない。これはお前の家系を救う為だけの結婚。それ以上は求めない」
「あの、その…」
「今日は疲れただろう?早く休め」
労いの言葉をかけるキース様の声に少し緊張が和らぐ。
私は気持ちを落ち着かせようと静かに深呼吸をし、ぎゅっと目を瞑り意を決して言葉を発した。
「あ、あの!!!あ、貴方に、キース様に伝えなければならない事があります…!!」
「……伝えなければならない事?」
「はい…。とても大事な…私の人生を賭けた大事な話です。これはキース様なしで進められない計画があるのです。聞いていただけますか?」
「まさか、カイネも関わってたりするのか?」
キース様の口から出たお姉様の名前に私はゆっくりと頷いた。
「ええ。お姉様も関わっております。お姉様が生前に願っていたことでしたから」
「カイネが…」
「キース様。これをご覧になってください」
私は枕下に隠していた分厚い赤いノートを取り出しキース様に差し出した。
この赤いノートはお姉様が生前にある事を書き遺したもの。計画の全てが書き記されたノート。
ノートを受け取ったキース様は、そっとノートを開きページを捲る。
「これは…っ」
そのノートに記されているのはお姉様が叶えられなかった願い。
"これは私が叶えたい全て"
『キース様ととても素敵な結婚式を挙げること』
『早くこの病気を治していろんな国に行くこと』
『新婚旅行は天燈を飛ばせる国に行きたい。そこで天燈に願いを書いて空に飛ばすこと』
『アンナに素敵な人が現れて、その方と結婚する姿を見届けること』…
びっしりとページに書かれた願い事。
自分の身体を蝕む病が治ると信じて書いた願い事は叶う事はなかった。悔しくて仕方がなかっただろうという証拠が転々とページに沁みて硬くなった涙の痕が物語っている。
「アンナ。貴女にこれを託すわ。全てじゃなくていい。このノートに書いた事を私の代わりに叶えて欲しいの」
意識を保つのがやっとになってきた頃にお姉様が私に言った言葉。
ベッドの上で日に日に変わり果ててゆくお姉様に私は何もできなかった。ただ、弱ってゆく姿を、死にゆく姿を見ているしかなかった愚かな私はお姉様に「大丈夫よ。必ず治るわ」なんて嘘をつき続けるしかなかった。
そんな私にお姉様はこの赤いノートを託したのだ。
病で倒れる以前から書き始めていたので空白のページは一枚もない。
最後の数ページは私達家族とキース様への想いを認めてあった。もうその想いを書く頃には手の力が入らない程衰弱していたのであろう。書き殴りに近い文面だった。
「アンナお願い。私の目になっていろんなモノを見てきて。いろんな素敵なものを目に焼き付けてきて」
「お姉様…!!!」
「ごめんね。もう時間がないから…他に方法がないの……我儘な私を許してちょうだい…」
申し訳なさそうに涙を流すお姉様の両手を握りながら私の決意を伝えた。断る気なんて最初からない。
「必ずお姉様の願いを私が代わりに叶えます。どんなにかかっても必ず成し遂げますから…!!!」
「ありがとう。アンナ…」
お姉様は赤いノートを託したその日の深夜に静かに息を引き取った。ようやく苦しみから解放されたのだと思うが、やはり大切な人を失う悲しみの方が優る。当然だがすぐには計画を進めるなんてできなかった。
ようやく動き始めたのはキース様との婚約の話が来た頃。私がお姉様の替わりに公爵家に嫁ぐと確定した頃。
フルーネル家は他の貴族と違ってお金が無く、贅沢な暮らしはしていなかった。ほんの数名のメイドを雇うのがやっとというほど困窮していた。
そんな状況ではとてもじゃないがお姉様の願いを叶えられなかった。
だから、この縁談はチャンスだった。最初で最後のチャンスとも思えた。
フルーネル家を救う事にもなるその縁談を断る理由も、当然拒否権も無かった。
私はキース・ロジャーの公爵の財産を利用しようとしている。
なんて酷い女だろう。ただ、家系とお姉様の願いの為に私はこの人と結婚したのだから。
皆に祝福された日の夜に私の目的を全てキース様に打ち明けた。全てを知った後のキース様を見るのが怖い。
「私がしていることはとても愚かなのは分かっています。結婚したからといって付き合わせるつもりはありません。全て私1人では成し遂げるつもりです」
「……」
「せめてカイネお姉様が叶えたかった願い事を私ができる範囲で叶えてあげたいのです。とても迷惑をかけてしまいますがどうか」
キース様の顔を見るのが更に怖くなる。逃げてしまいたいに気持ちが湧き上がってくる。
「ごめんなさい。もし、許せないなら…」
「なんで全部1人でやろうとしているんだ」
「え?」
予想していた言葉とは違うものが出てきて、わたしは思わず顔を上げてキース様に目を向ける。
ノートを見ていたキース様は愛おしそうに願い事が記されたページをそっと撫でていた。
「キース様?」
「俺の財産を使うのは構わない。だがな、一つだけ条件がある」
キース様はポンと音を立てながらノートを閉じ、身体を私の方に向けて真剣な眼差しで見つめてきた。
その目に冷徹さはなく、大事な人を見つめている様な優しい目付きだった。
「白雪」
「え、は、はい!!」
「このノートに書かれてるカイネの願い事、俺にも手伝わせろ」
「へ……?手伝わせて…?えぇ?!!!」
「ったく。全部一人で抱え込んで、誰にも頼らねーでやろうとしやがって。しかも、俺の財産まで勝手に使おうとして」
(うぅ…その通りなのよね…)
図星過ぎて何も言い返せない私は2人顔を下に向ける。キース様は私のことなど構うことなく話を続けた。
「しかも、こんな結婚式の日の夜に打ち明けるとか」
「ご、ごめんなさい…」
「それに俺ら夫婦になったんだから手伝うのは当たり前だろーが。金だけじゃなくて俺にも頼れ」
「で、でも、キース様もお仕事等で忙しいですし、迷惑かけられません!!!それにコレは私達姉妹の我儘から始まったものですから…」
「俺だってカイネの元婚約者だ。手伝う権利はあるだろ?金出すのは俺だし」
最後の一言が胸に刺さる。意地悪そうな顔でこちらを見てくるが私は必死に見ないふりをする。
「……でも、俺にもやっと目的ができた。やっと、カイネが隠してた事を知れたし、カイネの役に立てる日が来た。話してくれてありがとな」
「キース様…」
「俺、カイネが病気で苦しんでる時、何もしてやれなかった。悔しかったんだ。愛する人が死にゆく姿を見るのを」
私はある光景を思い出した。その光景とはお姉様が亡くなってすぐのこと。
ようやく苦しみから解放され、寒い満月の深夜に愛する家族に見守られながらお姉様は息を引き取った。その遺体はベッドの上で眠る様に彼女の自室に安置されていた。
夜が明けて、太陽が見え始めた頃に慌ただしくキース様はフルーネル家に訪れた。その時の彼の顔は悲しみに染まって今にも泣き出してしまいそうだった。
眠る様にベットに横たわるお姉様の遺体を見たキース様は「すまないがしばらくふたりきりにして欲しい」とお父様達に懇願した。
お父様の許可を得たキース様はお姉様の自室に入ってゆく。バタンと扉が閉じると彼が泣く声が聞こえてきた。
(お姉様も私と同じ政略結婚としてキース様と婚約していた。でも、2人はちゃんと愛し合っていたんだ。だって…そうでなければ…)
そうでなければ、扉の向こうから聞こえるキース様の啜り泣きとお姉様にかける愛の言葉は全て嘘になる。
私が渡した赤いノートを愛おしく撫でていたのも頷けた。
彼の口から出た手伝うという言葉は、私と同じ気持ちからくるものだろう。
この世からいなくなっても愛しているという気持ちと会いたくて仕方ない気持ち。そして、彼女を病から救えなかった自分達への贖罪。
「せめて、このノートに書かれてる事を叶えてあげたい。だから頼む。俺にもカイネの願い事を手伝わせてくれ。この通りだ」
キース様が私に向かって頭を下げてきた。私は慌てて顔を上げる様に促した。
「え、ちょ、そ、そんな、キース様!!顔をお上げください!!!」
「だが…」
申し訳なさそうに顔を上げるキース様に私は自分の気持ちを伝えた。
「最初は全て私1人で成し遂げるつもりでした。ですが、カイネお姉様はそれを望まない気がしてたんです。お姉様はきっとキース様とその願い事を叶えたかったんだと思います」
「……」
「さっきも言いましたが、私達家族はキース様達に迷惑をかけてしまっているし、これ以上負担をかけたくない。だから、この事を黙っておこうとも考えたのですが、私との結婚とキース様の意思を聞いて気が変わりました」
「じゃあ…」
私はゆっくりと深呼吸してキース様の目をしっかりと捉える。もう迷いはなかった。
「あの、私達はまだお互い何も分かっておりません。お姉様の願い事を叶えてゆくこの旅はきっと私達を導くモノだと思うんです」
私の手元にはお姉様が遺したノート。そして、お姉様と結婚する筈だったキース様が隣にいる。
私達夫婦に空から見守るお姉様は光と共に手を差し伸べている。私達はその手に触れようと歩み寄ろうとしているのだ。
「カイネお姉様みたいに私は器用ではないですし、足手纏いになるかもしれません。だけど、キース様と一緒ならお姉様の願いを全て叶えられる気がするんです。だからお願いします」
私はキース様に誠心誠意を込めて頭を下げ手を差し伸べた。
「私と一緒に叶えてくれませんか?」
キース様へは感謝してもし足りない。これから行く願いの旅で恩返しできたらいい。
お姉様が亡くなったその日から彼の顔から笑顔が消えたと彼の執事から聞いてる。この願いの旅は笑顔を取り戻す旅にもなるだろう。
差し伸べた私の手をキース様は優しく両手で握った。
偽りの愛を誓い合った日が私達の旅の始まり。
これが愛する人が遺した願いを叶える旅行記の全ての始まりとなったのだった。
『一生忘れられない素晴らしい結婚式を挙げる』
『お父様とバージンロードを歩く』
『キース様と永遠の愛を誓う』
赤いノートに記された最初に叶えられた願い事の行に赤いインクを使ってペンで線を引く。
叶えられたモノはまだ海の向こうに行かなくても済むものばかりだ。
けれど、あともう少しで海の向こうで叶えられる願い事に赤い線が引かれる。私はその未来を心待ちにしている。
(キース様と新婚旅行かぁ…)
結婚式が終わってようやく落ち着いた頃、私達夫婦は新婚旅行に行く為に着々と準備を進めていた。
行き先はもう決まっている。それはお姉様が生前行きたがっていたラーナタルという国。
ラーナタルでは雪国でよく冬の季節になると天燈祭《てんとうさい》というとても有名な行事が執り行われている。
天燈とは、竹と紙で作られていて火の熱を使って空に飛ばすことができる提灯な様な物。
願い事を天燈に書いて空に飛ばすのが有名だが、何かの合図や鎮魂の意味を込めて飛ばすこともある。
(きっと私達の場合は願い事とは鎮魂の両方ね。この新婚旅行は、私達夫婦の為というよりお姉様の願いを叶える旅だもの。お姉様の安らかな眠りを願う旅でもあるわ)
私の脳裏にお姉様が楽しそうに天燈祭のことを話す姿が過った。
病気のせいでやつれていても彼女はいつも明るく振る舞っていた。このまま治ってしまうのではないかと思ってしまう程に。
「夜は沢山の天燈が夜空を照らしてとても美しいんだって!!早くこの病気を治してあんなと天燈を飛ばしに行きたいなぁ」
よく天燈祭の時期になると新聞に載っていて、お姉様は羨ましそうにいつもそれを眺めていた。
病院さえなければお姉様は天燈祭に合わせてラーナタルに出向いていただろう。お姉様の身体を蝕んだ病気が憎い。
(大丈夫よ。もう少しでお姉様の願いが叶うわ。きっと素晴らしい夜になるはずよ)
空にいるお姉様に天燈が届いて欲しい。そう思いながら私はページを捲る。
彼女が叶えたかった願い事は沢山ある。私とキース様で叶えてあげなきゃ。
(これは個人的な願いだけど、この新婚旅行で少しだけでもキース様との距離が縮まってくれればいいけど…まぁ、こればっかりは分からないわね…)
政略結婚という形で結ばれたが、まだお互いのこと分かっていない。
お姉様の願いを叶えてあげたいという気持ちだけは共通しているがそれ以外の事は手探り状態のまま。
(キース様が私の事をどう思っているのか少し気になるし私も彼の事を知りたい。この旅を続けるには必要なことだからしっかりしないと。なんか緊張しちゃうなぁ…)
キース様が私の事を"白雪"と呼んでいたことを思い出す。
(まずは呼び方を変えてもらうことから始めなきゃね)
私の見た目から呼ばれる様になった白雪姫というあだ名はあまり好きではない。尚且つ、夫になった人に呼ばれるのも好んでいない。
この新婚旅行で正さなきゃと思いながら私はポンと可愛らしい音を立てながら赤いノートを閉じた。
「キースぅ。遂にお前も結婚なんてなぁ。しかも、あのフルーネル家の次女の白雪ちゃんなんてねぇ♪」
自室の机で仕事との書類の確認をしている俺を親友というか悪友であるバランジア家の令息リチャードがとても楽しそうに茶化してきた。
俺はあまり相手にせず、書類にサインしたり印を押す。
奴の言う通り俺はカイネの妹と結婚した。当然、交際もしてなければ愛してもいない。彼女の家系を助ける為だけの政略結婚だった。
「カイネ様のことは残念だけどさ、まさかその妹に乗り換えるなんてねぇ。どう言う風の吹き回しだよ?そんなにあの一族を救いたかったわけ?」
「別に。ただ、カイネと約束しただけ。それだけだ」
「へぇ〜?それ本当かねぇ?いろいろ怪しいけどまぁいいや。それより、もう少ししたら行くんでしょ?新婚旅行。どこ行くの?」
「別にどこでもいいだろう。お前には関係ない」
「関係なくねーよ。参考にしたくってさぁ。今後、僕が誰かと結婚して新婚旅行に行くことになったら役立つじゃん?」
変に目を輝かせながら今度行く新婚旅行について聞いてくるリチャードに俺はため息を吐く。
俺は面倒くさそうに"ラーナタルに行く"と応えるとリチャードは少し驚いていた。
「へぇ。珍しい。あんま人が多い所嫌がるくせに。ココ、結構有名な観光地じゃん」
「彼女が行きたがっているから仕方ないだろう。のんか有名な祭りがあるらしくてな」
「あ、天燈祭?アレ綺麗だよなぁ〜。一回子供の頃に連れてってもらったけ」
「なんだ?行ったことあるのか?」
「まーね。随分前だから殆ど覚えてないけど、夜の天燈上げはすんごいよく覚えてるんだよね〜。そりゃ行きたくなるわって思うもん」
俺自身はカイネがよく行きたいと言っていたが、ラーナタルの天燈祭にはあまり興味がなかった。新聞によく特集に載っていたがしっかりと読んだことはなかった。
けれどリチャードが言う程だ。よっぽど綺麗な夜空になるのだろう。
(カイネが見たがっていた夜空。どんなに綺麗なんだろうか)
今思うともっと興味を示せばよかった。カイネが死ぬという現実を突きつけられてからその後悔は日に日に増した。
もっと彼女の話に耳を傾ければ、会う度に弱ってゆく彼女をこれ以上見るのが辛いからと目を逸らさなければ、彼女の願いをもっと早く知っておけば。タラレバばかり募る。
だが、あの結婚式の夜から覆ろうとしている。
「式の時、白雪ちゃんすんごい無表情だったけど、天燈見ただけで笑うかねぇ?想像できねーのだが」
「……どうだかな」
カイネの願い事を叶えて欲しいと願った白雪が笑った顔なんて見たことがない。
この新婚旅行は元はカイネの為に行く様なもの。白雪の原動力になっている姉の願いを叶えるだけに天燈を夜空に上げようとしている。白雪自身の為ではない。
カイネの願いを叶えた時、アンナ・フルーネルは笑ってくれるのだろうか?
(その時にならなきゃ分からない。俺のこともどう思ってるかも分からないのに)
あの赤いノートを差し出した時の白雪の顔が思い浮かぶ。緊張していたのだろう。顔を赤らめて今にも泣き出してしまいそうな目だった。
俺と白雪の父親だけで話が進んでしまっていた拒否権のない結婚にも難色を示すことなく、俺と結婚してくれた彼女の勇気。
この結婚が彼女とカイネの計画の資産の為だと知ってもその計画に関わりたいと思わせてくれた。
ラーナタルへの旅行と、天燈祭でほんの少しだけでも彼女を知れたらいい。
「なー?キース?天燈になんて書くの?何か叶えたい事でもあるわけ?」
「まだ決まってない。それに、天燈飛ばしは願い事だけじゃないだろ」
「鎮魂の意味で飛ばすのは分かるけどさ、あのカイネ様が望むことかななんて思っただけ」
(……確かに)
リチャードの言う通り太陽の様な彼女は求めていない気がする。
寧ろ…
「キース様!!貴方の願い事が書かれた天燈が見てみたいの!!」
なんて言われてしまう気がする。
鎮魂を込めた天燈より、未来を見据えた天燈を求めるカイネの姿に納得してしまった。
「祭当日までには考えるさ」
「え〜!!今決めようぜ!!すんごい聞きたい!!キースの願い事ぉ♪」
俺自身の願い事。強いて言うなら、カイネの願い事を全て叶える事ぐらいだ。今のところは。
もう一つあるとすれば、俺の妻になった白雪との距離を縮めることぐらいか。
こんな事、目の前にいるお調子者のリチャードには今はまだ言いたくない。
新婚旅行が終わって、俺達夫婦の形が定まってきたら話してもいいかも知れない。
「あるけどお前には言わん」
「え〜〜!!気になるじゃん!!!教えてよぉ〜」
「そんな事より早く俺の仕事の手伝いを進めてくれ。コレが終わらなきゃ旅行に行けなくなる」
「うぐ…!!!仕事もヤダ…!!!でも、キースの願い事と旅行話を聞く為だ…!!!」
「我慢して手を進めろ。リチャード」
「はいはい…仕事やだ…」
まだ話し足りないリチャードに仕事の催促をする。リチャードは嫌だと言いつつもゆっくりとだが仕事を進め始める。
カイネの願いを叶える旅の準備は着々と進んでいる。それは白雪も同じだろう。
本来とは違う形で迎えた結婚初夜は旅の始まりの合図。あの赤いノートは旅の地図になるだろう。
願いの旅の最初の目的地ラーナタル。そこで俺達夫婦の運命が決まるだろう。
アンナとキースは別の場所で新婚旅行に想いを馳せる。
まだお互いを知らないままだけれど、カイネの願いを叶えたいという気持ちだけは同じ。
そわそわする気持ちを抑えながらも2人は遂に新婚旅行の日を迎えたのだった。
(久々の潮風。最後に来たのはいつだったかしら)
遂に新婚旅行の日を迎えた。
目的地のラーナタルに向かう為、出港日に間に合う様に私達は直行便が滞泊する港街マリングに前日入りしていた。
ここからラーナタルまでは4日。何事も無ければ天燈祭に間に合う筈。
私はお姉様の願いを叶えられるという希望と無事にラーナタルについて欲しいという不安を入り混じりながら船の上で海を眺めていた。
海を見たのは久しぶりだった。お姉様が病に倒れてから旅行なんて行かなかったから潮風がとても新鮮に思えてしまっていた。
それに、今回はいつもの様な家族旅行でこの船に乗船した訳ではない。新婚旅行として乗船しているからどこか落ち着かなかった。
(キース様が隣にいるなんて変な感じ。本来なら私のポジションはカイネお姉様だったからおかしい話よね)
お姉様が元気だったら彼女がこの光景を見ていたのだろうといつも考えてしまう。けれど、今は私が彼女の目になっている様なもの。
(お姉様もこの船に乗っている。きっとそうに違いない)
私は腕の中にあるお姉様の遺品で旅の地図となる赤いノートにぎゅっと力を込める。
「どうした白雪?気分でも悪いのか?」
「いいえ。ただ少し緊張しているだけです」
「緊張?」
「私達がこれから見るモノがお姉様が望んでいたモノになるのかって。期待を裏切る様なモノだったらどうしようって思ってしまって」
お姉様を悲しませる様な旅にはしたくない。その不安は拭いきれない。
そんな不安に駆られる私にキース様は静かに諭した。
「そんな心配しなくても大丈夫だ。カイネが望んでいた願い事だろう?どんな結果になっても彼女なら受け入れてくれるさ」
「キース様…」
「全てが上手くいく訳ではない。彼女だってそれを承知であのノートに書いたんだと思う。その考えはラーナタルに着いてからだ。とにかく今はこの船旅が無事に終えられることだけを考えよう」
「そうですね」
もう一つの不安を打ち明けるのはやめておいた。まだ彼に言うタイミングではない。
(もう少し貴方を知れたらと思うけど時間が解決してくれるのを待つしかないわね)
いつまでも不安な気持ちのままでは気持ち良くこの旅行を迎えられない。
絶対にお姉様が見たがった光景が海の向こうで待っているのだ。
(あと望むとしたら、この新婚旅行で呼び名を変えさせることね。いつまでも白雪呼びされるのはごめんだわ)
隣にいるキース様に先に自分の部屋に戻ると一声かけ、乗客の声と足音を聞きながらその場を立ち去ろうとする。こんなに騒がしい場所に来るのは久々でなんか落ち着かない。
(ラーナタルに着くまでこんな感じね。でも、仕方がないわ。旅ってこういうものだもの。不快からくるモノではないわね。期待と好奇心から来てるから)
私はもしお姉様が生きていたらどうだっただろうと想像する。きっと、お姉様も同じ気持ちになるのだろうと勝手に思ってしまう。
そして、笑顔でこの旅を終えるのだろうと。
(私達のこの旅はお姉様の為。私とキース様の距離を縮める為なんかじゃない。キース様自身が私を形だけの妻でしか見てない。でも…それでいいの。それでいいのよ)
予約した自室に入り、ため息をつきながら椅子に座る。窓ガラスがないのと部屋自体が狭いから薄暗く感じる。
(飽く迄これはラーナタルに行くための連絡船だもの。我儘言ってられない。すごい長い船旅でもないしね)
私の夫となったキース様と同室にするには少し厳しかったから別々の部屋になったが今の私達の状況を見れば最善の選択肢だと言えた。
椅子から立ち上がり、ベッド近くに置いてあった茶色い本革のトランクケースに近づきそれを開けて愛読している小説を取り出しまた椅子に座り直す。
しばらく小説を読んでいると、出港する合図がくぐもって聞こえてきた。
(……いよいよなのね)
碇が上がってゆく音がする。遂にお姉様の願いを叶える旅が始まるのだ。
「緊張する」
心臓の鼓動がいつもより煩く感じる。読んでいた小説に集中できなくなってそれを閉じ、椅子の近くの小さな机の上に小説を置いて再び外に向かう。
眩しい太陽を感じながらゆっくりと港を遠ざかり始める光景を見る。
まだ外にいたキース様の隣にもう一度近づく。
「まだ居たのですか?」
「別に部屋に居たってつまらんからな。海なんて久々だったし」
「私も同じです。それに、お姉様もこの光景を見たかっただろうなって思ってしまいます」
「見てるさ。多分俺らの隣で」
「ふふ。そうだと良いんですけど」
すると、キース様が少し驚いた様子を私の顔を見つめてきた。私は思わずえっと彼の顔を見返す。
「あの…?何か…?」
「いや、お前の笑顔を見るの初めてだったから。ごめん、じっと見ちまって」
「変でしたか?ごめんなさい。お姉様が亡くなってからあまり笑うことがなくなってしまって。お父様にもいつも心配してました」
キース様に指摘されて私も内心驚いているけれど彼が言った言葉のお陰だと思う。少しだけ笑える様になったのは。
長い様で短い船旅。4日経ったら私達はラーナタルの地に足を踏み入れる。
色んなものが違うだろう。そして、お姉様が見たがっていた天燈が浮かぶ美しい夜空。
「今だけは、この旅の間だけは笑ってもお姉様は許してくれますよね」
「何言ってんだよ。この旅の間だけじゃない。カイネはお前の悲しい顔なんて望んでないさ。笑って幸せになって欲しいって願ってる筈だ」
キース様の言う通りだと思う。
亡くなる前日のお姉様もそんなことを言っていた。
「私は貴女のすぐそばにいるから。だから…悲しい顔をしないで。笑顔でいて」
この旅やる事がまた増えた。それは本当の私を取り戻すこと。しっかりと笑える様になることだ。
(これは私自身の為。そして、キース様との未来の為)
キース様の言う通りお姉様が近くに居るのなら"いつまで泣いているの?ほら!!笑って!!この旅を楽しんでね!!"って言ってくれそうな気がした。
私は新たに増えた目的と共にラーナタルに向かうのだった。
4日の船旅がもうじき終えようとしている。船はゆっくりとラーナタルの港に近づいてきている。
私はその様子をじっと眺めていた。
(いろいろ新鮮味があって面白かったけど船酔いがきつかったな…)
あまり船に乗り慣れていないせいか船酔いが凄かった。みっともない姿をキース様に見せたくなかったから船旅の殆どを自室のベッドで過ごしていた。
持ってきた小説も出稿の日以外でしっかりと読めた日はあまりなかった。
しかも、波も荒れていて気持ち悪さをさらに増幅させて思う様に動けなかった。
(そ、それもようやく終わるのね。もう少しでラーナタル。夜のお祭りまで時間があるからちょっとホテルで休ませてもらおう…)
船酔いでふらふらになった状態で祭りを楽しむのは嫌だった。本当はすぐにでもラーナタルの街を観光したいがこのままで行ってもきっと楽しめないだろう。
(またキース様に迷惑をかけてしまうわね。ちゃんと謝らなきゃ)
ふうっと息をつくと、キース様が少し心配そうに私に駆け寄ってきた。
「顔色悪いけど平気か?」
「あ…キース様。ま、まぁ…なんとか…」
「あんま無茶すんなよ。ラーナタルに着いたらゆっくり休め」
「す…すみません…船酔いがどうしても…」
「俺のことは気にしなくていいから。自分のことだけ考えろ。カイリの願いのことも一旦置いとけ。万全になってからでも十分だろ?」
「ごめんなさい。ありがとうございます…」
あぁ…またキース様に迷惑をかけてしまったと私は落ち込んでしまった。
船酔いにならなければラーナタルの街を巡ろうと思ったのにそれどころではなくなってしまった。自分の虚弱さが情けない。
(夜の天燈祭までには治さないと。そうじゃなきゃここまで来た意味がない)
近づいてくる街並みに心躍らせる筈だったのにと悔しさが残る船旅となってしまった。せめて、帰りだけは良いものにしたい。
そう思ってふと空を見上げると、夜に飛ばされる筈の天燈が一つだけ空を漂っていた。
(え…あれは天燈…夜に飛ばす物じゃ…)
私はお姉様が言っていたある事を思い出していた。
「実は天燈ってね、夜だけに飛ばす物じゃないの。まぁ、これは人によるけれど、明るい昼間に飛ばすこともあるのよ。昼間は願い事を、夜は鎮魂の意味を込めて飛ばすこともあるんだって。両方共とても素敵なんだろうな…」
昼と夜、二つ共天燈を飛ばしたら願い事が必ず叶うとも言っていた。
お姉様はいつも窓から空を眺めていた。早く身体を治して天燈祭に行きたいって思いを馳せていたのだろう。
(ホテルに戻る前に一度天燈を飛ばさなきゃ。きっと、お姉様もそれを望むから)
「どうした?白雪?」
「……あの…ホテルに行く前に寄りたいところがあるのですが…」
「それはいいけど大丈夫なのか?さっきまで寝込んでただろ?」
「大丈夫です。その用事だけ済ませたらちゃんとホテルで休みますから」
「まさかカイネの願い事の一つか?」
キース様の質問に私はゆっくりと首を縦に振る。そして、もう一度空に顔を向け彼に上を見る様にと促す。私のジェスチャーに気付き、キース様も空に顔を向けた。
ラーナタルに近づくつれて、空に浮かぶ天燈が増えてくる。キース様の目にその光景が映っているのだろう。少し驚いた様な表情を浮かべていた。
「夜空に飛ばす前に明るい時に一度天燈を飛ばしたいのです。とても素敵だったからお姉様も喜んでくれると思うんです。私のことは気にしないでください。天燈を飛ばしたらちゃんと休みますから」
「分かった。でも、無理はするなよ。もう誰かを失うのはごめんだからな」
快諾という感じではなかったがなんとか許しを得た。船酔いをして弱っている私の身を案じてのことだろう。
(……キース様の言う通りだけれどこれはお姉様の願い事の為なのよ。少しでも無理しないと成し遂げられないわ)
天燈祭は1日だけ行われる祭り。明るい冬の空に願いを飛ばす。弱る身体に鞭を打ってでもこの目的だけは果たさなきゃ。
表向きは私とキース様の新婚旅行。けれど、実際はお姉様の願いの為の旅。ここで弱ってはいられない。
全ては大切な人の為に。
私達が住む国より寒く雪が降り積もる国ラーナタル。
船を降り、荷物をホテルに預けて私達はラーナタルの街を巡り始めた。
まだ体調はあまり良くないが今はとにかく、天燈が売っているお店に行かないと。
お祭りのおかげか、とても人がいる。屋台や大道芸人の人がお祭りに来た人々を喜ばせている。いろんな声と楽器の音。そして、美味しそうな匂い。
ちゃんと楽しみたいのにまだ船酔いが抜けきっていない私には雑音にしか聞こえないのが悔しかった。
でも今は天燈を明るいうちに飛ばすという目的だけでも果たさなければならない。ホテルで身体を休めるのはそれからだ。
そうこうしているうちに天燈が売っている屋台を見つけることができた。
体調不良で思う様に動けない私の代わりにキース様の使いの方が買ってきてくれた。
(これが天燈…?)
まだぺったんこに縮んでいて、絵で見た様な膨らんだ形しか知らなかった私は少し驚いてしまった。
使いの方がお店の方に教えてもらったやり方を聞きながら天燈を膨らませる為に天燈の紙を破れない様に丁寧に広げてゆく。
祭りの期間中、天燈に願いを書く為の筆とインクを貸し出してくれていた。それを使って願い事を書く。
私の願い事はお姉様が叶えられなかった願いを叶えてゆくこと。
(キース様はなんで書くのかしら?)
私の隣で願い事を書いていたキース様のことが少し気になってしまう。
彼はどんな願い事を書いたのだろう?私と同じお姉様のこと?それともまた別のことかしらと。
「キース様、奥様、書けましたか?」
「ああ。白雪はどうだ?」
「私も大丈夫です」
「それでは火を付けますね」
使いの方がマッチを擦って棒に火を灯す。
竹でできた骨組みの真ん中にある固形燃料にマッチの火を灯し天燈を膨らませてゆく。ぺったんこだった紙が熱で風船の様に綺麗なオレンジ色と共に膨らんでゆく。それは外がまだ明るい朝でも感じることができるほど素敵なモノだった。
(これならお姉様にも届く気がする)
火傷と衣服への火移りに気をつけながら骨組みを持ってキース様の天燈が膨らむのを待つ。
(とても熱い。でもとても素敵なのね)
昼間の空に飛ばすだけでもこんなにときめいてしまっているのに夜になったらどうなってしまうのだろう。
身体は不調を訴えているのに心ばかりが先走る。
「ゆっくり天燈から空に向かって飛ばす様に離してください」
私は合図と共にそっと天燈から手を離した。
膨らみ上がった天燈はゆっくりと空に向かってゆらゆらを浮かんでゆく。
私が飛ばした天燈を合図に他の方々の天燈もちらほらと空に上がっていった。キース様の天燈も無事に空に上がった。
やはり夜に飛ばす方が多いせいか昼間に飛ばす人は夜よりも少ない。それでも太陽に見守られながら空に浮かぶ天燈に私は胸を躍らせていた。
(半分だけ叶えられた。早く夜になってほしい!!)
天燈に夢中になって私はそっとさらに手を伸ばす。
その時だった。
「あれ…?」
さっきまで感じなかった不快感が一気に全身を駆け巡る。目の前の天燈が変に二重に見え始めた。
さらに伸ばしていた手で顔を押さえる。何かおかしい。
「白雪…?」
(なんか視界がぐるぐるしてて変…だめ…ここで倒れたら…)
必死に立っていようと足を踏ん張ろうとするも段々身体の力が抜けてゆきふらついてゆく。視界もさらにぐちゃぐちゃになって視点が定まらない。
キース様達の声もくぐもって聞こえる。
(やっぱり先にホテルで休んだ方がよかったのに…でも自分で決めたこと…だから…)
鉛の様に重くなった身体と、歪んで見えた視界と、そして、意識のブラックアウト。そこからの記憶はほぼないに等しい。
全ては自分自身を疎かにした結果が招いたことだ。
(あぁ…私のせいで新婚旅行を台無しにしてしまったわ)
ただ、一つだけなんとなく覚えている記憶がある。
微かに聞こえる聞き慣れた私の名前を連呼する叫び声が意識を手放す直前の最後の記憶だった。
幼い頃の記憶。お姉様の14歳の誕生日の出来事。
私はお姉様の為に珍しいお花を探しに家から少し離れた森に行った時だ。
斜面が急な所に青い綺麗なお花が咲いていて、それを摘もうとした時に足を滑らせて私は大怪我をしてしまった。
「ダメじゃない!!どうしてそんな無茶をしたの?!!」
お姉様が泣き腫らした顔で怪我をして帰ってきた私に怒りを向けている。どうしてそんな顔をするのか分かっている。反論なんてできやしない。
「貴女自身を大切にしてくれないならもう何もいらない…!!自分を犠牲にしてまで手に入れようとしないで…!!!」
大事なお姉様の誕生日を涙で濡らしてしまった。摘んできた青いお花も折れてボロボロになってしまっていた。
ただ、お姉様を喜ばせたかっただけなのに。
全部私のせいね。
私のせいで旅行も…。
「っ…!!!」
懐かしい夢から目を覚ました私が最初に見たのは見覚えのない部屋の天井。雰囲気からして病院ではなくホテルの客室だろう。
服も、さっきまで着ていた白いコートからネグリジェに変わっている。
驚き隠せないままゆっくりと起き上がり、周りを見渡し状況を把握しようとする。
(確か…私は…)
「白雪!!」
いろいろ思い出そうとしていた時、キース様の声が耳に入った。キース様は慌てて私がいるベッドの方に駆け寄ってきた。
「キース様」
「よかった…目が覚めたんだな」
「えっと、私、さっきまで街にいた筈じゃ…」
「天燈を飛ばした後倒れたんだよ。医者が船旅の疲労と船酔いのせいで体力が落ちてたせいだって言ってたぞ」
ぼやけていた記憶が少しずつ蘇ってゆく。
(そうだ。思い出してきた。私、倒れたんだった。調子悪かったくせに無理して…)
頭の中が後悔の渦にのまれる。口から出るのは謝罪の言葉だけ。
「あ、そんな、ご、ごめんなさい!!私…!!」
「いい、そんなこと気にするな」
「で、でも、私のせいで旅行が…お姉様の願い事が台無しになってしまって…!!!全部私のせい…!!」
「台無しになんてなってない。まだまだ取り戻せるから安心しろ」
「でも…でも…」
ショックで泣いてしまった私をキース様は怒るどころか優しく慰めてくれた。なかなか現実を受け入れられない私をそっと抱きしめてくれた。
「大丈夫。カイネだって倒れてまで叶えて欲しいなんてきっと思ってない。悲しいまま願いを叶えたってアイツは喜ばない」
私はキース様のその言葉に何も言えなかった。さっき見た夢の中のお姉様の顔が頭を過ぎる。
お姉様はきっと喜ばない。私自身を犠牲にして叶えた願い事は彼女は拒絶するだろう。
もう、お姉様が悲しみの涙で腫らした顔を見たくなかった。
「もし、今回がダメならまた来年くればいい。俺達には沢山時間がある。叶えてない願い事だってまだまだあるだろう?」
キース様の優しい問いに私はゆっくりと頷いた。
「ならさ、焦らずゆっくり叶えていこう。アイツも、カイネもそれを望むから」
「……ありがとうございます。キース様」
抱きしめていた腕の力を緩め、そっと私からほんの少しだけ離れた。
「あ、そうだ。もう身体は平気か?」
「はい。さっきまで感じていた違和感がもうないので。あまり無理をしなければ大丈夫かと」
「そうか。夜の天燈祭はこれからなんだけど動けるか?」
私はキース様の言葉に驚き、慌てて窓の方に顔を向ける。
窓には青空ではなく、まだ夜に変りたての点々と光る星と紺色の空の色だった。
最大の目的である夜の時間はまだ始まっていないのとを知って私は安堵した。
正直、倒れた事もありあまり無理はできない。これ以上キース様に迷惑をかけられない。
けれど、この夜の天燈祭はどうしても行きたい。今のタイミングで目を覚ましたのなら尚更だ。
(ま、間に合った…!!翌朝だったらアウトだった…!!)
変に慌てる私を見てキース様はフフっと笑った。
「本当、カイネそっくりだな」
「え?どこがですが?」
「そうやって無茶して慌てるところが」
あっと思い顔が真っ赤に熱くなるのを感じる。
確かにお姉様も私と同じで無茶して後悔する性格だった。よくお母様やお父様達を困らせてたっけ。
「全部1人でやらなくていいだろ。俺に頼ってくれ。一応、お前の旦那なんだからさ」
(うぅ…ぐうの音も出ない…)
「それに結婚式の日に言っただろ?カイネの願い事を手伝わせてくれって」
お姉様のことを心の底から愛してくれた人は、私と同じ様に彼女の為に奮闘すると誓ってくれた。
私は彼の決意を疎かししてしまいそうになっていた。
彼の言葉に偽りなんて無い。彼無しではこの度は続けられない。
「ごめんなさいキース様。もうあの様な事はしません。実は夢の中でお姉様に叱られてしまったのです。どうしてそんな無茶をしたのかって」
「カイネが?」
「ええ。パートナーの助言を無視して叶えた願い事なんてきっとお姉様は喜びません。だから、その、キース様のお言葉に甘えてもいいですか?」
キース様は嬉しそうな笑顔で当たり前だろうっと私の頭を撫でた。誰かに頭を撫でられたのは久々だったせいか少し恥ずかしかった。
「あ、キース様。今時間は」
私はキース様に時間の確認をお願いする。キース様はスーツの内ポケットに入れていた懐中時計を取り出し時間を確認する。
「えっと…お、そろそろ出た方がいいかもな」
そろそろ出た方がいいと言う言葉に反応して私は急いでベットから降りて支度を始める。
もう無茶はしないと宣言したが、私の中の野望と好奇心が勝手に身体を動かしてしまう。でも悪い気はしない。
「今すぐに支度します!キース様は先にロビーに向かっててください!!」
「あ!!おめー言ってるそばから!!無茶するなっての!!」
「もう平気ですから!!ほら!!これじゃ着替えられない!!」
私は無理矢理部屋からキース様を押し出した。
彼にはちゃんと埋め合わせをしよう。何か彼が喜ぶ様なことを考えておかなければ。
倒れる前まで感じていた不快感はもう無く、今は胸を躍らせる様な気持ちが駆け巡る。
明るい青空に飛ばした天燈も素敵だったけれど、これから見るであろう夜空に飛ばす天燈も素晴らしいものになる筈だ。
お姉様の悲願の一つが叶えられようとしている。ここで立ち止まっていられなかった。
「次倒れたら許さん」
「分かっておりますわ。私ももう急に倒れてしまうのはごめんですから」
強引にロビーで待たせていたキース様は少しブスッとしていた。まぁ、そうさせてしまったのは私ですが…。
でも、もうあの船酔いから体調不良は完全になくなっている。少しベッドに横になったおかげで夜の天燈祭に間に合いそうだ。キース様にちゃんとお礼をしなきゃ。
私はある事を思い出す。それは、この旅行が始まってからずっと抱いてきた違和感。
(私達まだ夫婦らしい事何もしてない…)
幾らお姉様の願いを叶える為の旅行だとしても、本来は新婚旅行という新たに誕生した夫婦の為のもの。空の上から見てるお姉様に苦言されてしまいそうだ。
私はお母様達がいつもしていた事を思いつく。
「あの…キース様?」
「ん?」
「えっと…腕組んでもいいですか…?」
「な、なんだよ。急に腕組んでくれなんて」
「だって私達夫婦なのにそれらしい事してないから。このお祭りの間だけでもいいので…だめなら…」
恥ずかしさでしどろもどろしてる私に一瞬だけ困惑した表情を見せるも、すぐに察してくれたのかそっと腕を差し出してくれた。それに応える様に彼の腕に私の腕を組ませてもらった。
こんなに密着して街を歩くのは始めてだった。あの昼間の散策の時も2、3歩離れて歩いていたからどこか新鮮味があった。
(お父様達も2人で街にお出かけする時こんな感じだったわね。次は私がやる番だなんて)
少し緊張しながら祭りで賑わうラーナタルの街を練り歩く。さっきよりも人が増えている気がする。
昼間の時と違って光が漆黒の星空のお陰でとても冴えて見える。
「白雪。お前が倒れる前に飛ばした天燈になんの願い事を書いたんだ?」
「お姉様の願い事が叶います様にって書きました」
「そうか。じゃあ自分のやつはまだってことか?」
「そうですけど…でもこの旅はお姉様の願いの為の旅ですから。それに私自身の願いはまだ…」
まだ何も考えていない訳ではない。ただ、彼の前でキース様の前ではまだ打ち明けたくなかった。
一つだけお姉様の為ではない願いがある。天燈に書くのを躊躇してしまう様なものだ。
私は最後の応えをはぐらかす様にキース様が天燈に書いた願い事が何か聞き返した。
「お前にはまだ秘密」
「秘密って…!そんな事言われたら気になるじゃないですか!」
「後でちゃんと話してやるよ。ほら、着いたぞ」
納得のいく応えが聞けないまま天燈飛ばしの会場に着いてしまった。
すでに大勢の人が天燈を飛ばす準備を始めていた。
周りはオレンジ色の火の灯りに照らされていた。
「これが夜の天燈…」
「まだ飛ばす前からそんなんだと身が保たんぞ」
「だってとても素敵だったから…昼間と違うのね」
「まぁ、夜は火を映えさせてくれるからな。そうだ。一斉に飛ばすみたいだから願い事書くなら今のうちに書いとけ」
奥様これをと使いの方から天燈と筆を渡される。
けれど、今回は書く気になれなかった。さっきの私自身の願いが書く為の手を止めさせていたのだ。
(お姉様への鎮魂と…あとは…私自身の願いは…)
私自身の願いは彼だ。キース様のことだ。
政略結婚とお姉様の願いで繋がった絆が違う形に変わる事を心のどこかで願ってしまっている。
そんな愚かな願いをこの神聖な天燈に私は書けなかった。
何も願い事が書いていないまっさらな天燈を昼間に教えてもらった通りに地面に設置されていた蝋燭立ての火を使って膨らませてゆく。
(キース様はお姉様を愛している。私達は形だけなのよ)
そう言い聞かせて私は天燈が勝手に飛んでしまわない様にしっかりと抑える。
キース様の天燈に目をやると彼の天燈にも何も書かれていなかった。
しばらく待っていると、一斉に飛ばす合図としてラッパの様な笛の音が会場に響き渡る。
火が灯る無数の天燈が夜空へと解き放たれてゆく。
私もそっと天燈を離し、夜空に登ってゆく天燈を見守った。
漆黒の夜空に天燈の暖かい光が漂う。海面にもその光が鏡の様に映し出されていて幻想的だった。
(これがお姉様が叶えたかった願い。夜空を照らす天燈の光…)
いろんな願いと鎮魂が込められた光。昼間のものとは全く違う。
その光景に感激して立ち尽くしてしまう。不安も緊張もどこかに行ってしまった。
動けなくなっていた私の手を誰かがぎゅっと握ってきた。私は驚いて気配を感じた方を身体を向ける。
「き、キース様?!!」
「驚かせてごめん。大丈夫か?」
「あ、はい。ごめんなさい。予想以上に凄くて…お姉様に見せてあげたかったって…」
また一つお姉様の願い事が叶えることができたが、こんなに素晴らしい光景を彼女本人の目で見せてあげられなかったのが悔しくてたまらない。
彼女の目の代わりになれると思っていたが、もうその人はこの世にはいない。
(神様はどこまで私達に残酷なの?)
まだ元気だった頃のお姉様の顔が頭に浮かび、堪えていた涙がボロボロと流れてゆく。感情が爆発する。
「っ…!どうして?どうしてお姉様なの?本当は私じゃダメなのに。此処にいなくてはいけないのはお姉様なのに」
「白雪っ」
「こんなに素敵な空を見せてあげたかったのに。どうしてお姉様が死ななければいけないの…!」
白雪姫と蔑まれる私には眩し過ぎる光だった。
溢れてゆく涙にも暖かく優しい天燈の光が映る。
優しい手に頰を触れられている様な感覚がした。
「"アンナ"!!」
「っ…」
キース様の声が私を現実に引き戻す。白雪ではなくアンナとしっかりと私を呼んでくれた。
私は堪えきれない想いを必死に抑えながらキース様の胸に飛び込む。
止まりそうにない涙が彼のスーツに染み込んでゆく。それでも何も言わずにキース様は私を受け入れてくれた。
「ごめんなさい…私…」
「カイネもちゃんと見てるさ。この光景を」
「お姉様も…?」
「言ってたんだ。アイツが亡くなる前に。ずっと側で見守ってるからって。アンナの幸せを願ってるって」
「……」
「俺とカイネの最後の約束と、さっき天燈に書いた願い事。教えてやるよ」
私の知らないキース様とお姉様の約束と願い事。
それは。
天燈祭が終わった後、私達にほんの少しだけ変化があった。まだしっかりとお互いを知らないままだがこの変化はとても良いものになるだろう。
「その様付けはやめねーか?キースでいい」
「キース…ですか?なんか変な感じですね。じゃあ、私の呼び方も変えてくださいな」
「え"、まさか」
「あの時みたいにちゃんとアンナって呼んでください。それが条件です」
しどろもどろになるキースに私は可愛らしさを感じてしまう。だって夫婦になったのですもの。寄り添える仲でいたい。
そう思わせてくれるのはやはりあの約束と願い事のせいだろう。
「しら…じゃなくて、アンナ」
「はい、なんですか?」
「あ〜慣れねぇ〜…」
「私もまだキースのことを様付けしそうですからお互い様ですよ。それに…」
「直す時間もカイネの願いを叶える時間もたくさんある」
「フフ♪そうですよ。私達にはまだやらなくてはいけない事が沢山あるんですから!!」
赤いインクの線が願い事が書かれた文字の上にまた引かれてゆく。その線がページを埋め尽くすにはまだまだ時間がかかるだろう。
この願い事の旅は終わりがまだ見えないのだから。
キースとお姉様が交わした約束。
「ねぇ、キース。約束して欲しいの。アンナを幸せにして。あの子を私の幻影から解き放ってあげて」
そして、願い事は。
「どうか貴方達の行く道にいつまでも光があらんこと」
とてもカイネらしい約束と願い事はゆっくりと果たされて続けゆく。
これは天燈に魅入られた若い夫婦の旅行記の最初の物語。