幼い頃から、正月は家族で初詣に行くのが恒例行事だった。
 正月といっても、三日間たっぷりぐーたらした後の一月四日。
 近所の小さな神社で形だけ手を合わせるだけのイベントだ。
 中学三年生。高校受験を控えた歳になっても、こうして連れ出されている。
「さむ」
 冬になってから何回言ったかわからない独り言。
 俺が住む神奈川県南部は、この時期でも晴れると十度ほどまで気温が上がる。サッカー部で使っていたベンチコートを着ているから、実を言うとそれほど寒くはない。口癖になっているようだった。
「もう正月太りで大変よ~」
「わかるわ~。今日もお餅を三つも食べてしまって」
 母さんと近所のおばちゃんが世間話をしている。
 体重が減らないのを正月のせいにするこの会話は、毎年聞いている。
 両親に信仰心なんてものはなく、クリスマスもバレンタインも七夕も嬉々として楽しむような家庭だ。都合のいい時だけ祈るのは、神様に怒られそうな気もする。
 周りの友達もそうだし、案外神様も慣れっこなのかもしれないけれど。
 母が初詣に来るのは、もっぱらご近所との交流が目的だった。
 お決まりの新年の挨拶から始まり、そのまま雑談へと移行する。それが呆れるほどに長くて、付き合わされる側としてはたまったものではない。
「うちの子なんて、受験生なのに寝正月で」
「でも筒井さんの息子さんは、要領がいいから大丈夫じゃない?」
「ぜんぜんよ~」
 年末特番も見ずに勉強をしているのを知らなかったのか、とか。
 わかってるならこんなところに連れてくるな、とか。
 言いたいことは山ほどあったけれど、あの中に割り込むと余計長くなるだけなので呑み込んだ。
 わざとネガティブなことを言って「そんなことないよ」待ちなのだ、うちの母親は。
 大げさに白い息を吐いて、肩よりもやや低い高さの井戸枠に寄りかかった。
 最近知ったのだが、この井戸はもう使われていないらしい。この囲いも井戸の破損、転落防止のために設けられているものだった。
 井戸だと聞き、なにか水が出る仕掛けがあるのかと探し回った子ども時代が恥ずかしい。
 特にすることもなく、文字通り井戸端会議を聞きながらぼーっとする。
 じっとしていると、さすがに寒い。
 ふと、井戸枠の落書きに目が留まった。
『あいか 11さい』
『やまと 11さい』
 拙い平仮名と、横に引かれた直線。
 その下には、同じような文字と線が連なっている。
 思わずノスタルジーに駆られそうになって、慌てて目を逸らした。
 だから初詣になんて来たくなかったんだ。
 俺はこんなところでぼーっとしていないで、やることがたくさんあるのに。
 そう、あの頃とは違って……。
「大和、帰るわよ~」
 ようやく満足したのか、母さんがよそ行きの高い声で呼んでくる。
 俺は返事もせず、視線だけで了承を伝えた。
 なおも話し続ける母さんたちをゆっくりと追う。
 駐車場は階段を下りてすぐ。
 助手席に乗り込んで、シートベルトをした。
「そういえば、愛歌ちゃん覚えてる? ほら、小六のころ引っ越していった」
「……え? ああ、まあ」
 曖昧な返事をしたのは、忘れていたからではなくて、突然彼女の名前が挙がったことに驚いたからだった。
「高校からこっち帰ってくるらしいわよ」



 伊勢愛歌は、両手を上げて全身で喜びを表現する少女だった。
「いえーい、わたしのかち!」
 井戸の木枠にピッと引かれた、二本の横線。
 愛歌は高い方の線の横に『あいか 7さい』と書き込んだ。
「かいてだいじょうぶなの?」
「かいていいよっていわれた」
 そう言って愛歌が指差したのは、神社の管理者。
 それなら大丈夫だろうと、視線を井戸枠に戻す。
「はい、やまともかいて」
「おれのほうがたかいとおもう」
 差し出されたペンを、俺は受け取ろうとしなかった。
 まっすぐ引かれた二本の線は、それぞれが書いたものだ。
 最初に、愛歌が書く係。俺が井戸枠にぴったり背を合わせて立ち、愛歌が頭に合わせて線を引いた。
 次に愛歌が同じように背筋を伸ばし、俺が頭の位置を記したのだった。
 その高さはわずかな差だったけれど、たしかに、俺が書いた線の方が高い位置にあった。
 ちょっとだけ書き損じて波打った線がその証拠だ。
「ふふん、わたしのかちだもん」
 腰に手を当てて勝ち誇る愛歌に、悔しさが募る。
 俺は渋々とペンを受け取り、名前を書いた。
『やまと 7さい』

 伊勢愛歌は、いわゆる幼馴染だった。
 親同士の仲が良く、物心ついた時には一緒にいたように思う。
 小学校のクラスも同じ。
 愛歌は明るくいつも楽しげで、友達がたくさんいた。
 どちらかと言えば目立たない方だった俺は、それが眩しかった。
 彼女が引っ張って輪に入れてくれるたび、嬉しく思ったものだ。
 そして、学校が終われば決まって一緒に帰る。
 他にも同じ方向に住んでいる子はいたのに、愛歌は俺と帰ることを選んだ。
 曰く、大和が心配だから、と。
 心配される筋合いはなかったけれど、彼女はなにかと上になりたがった。
『あいか 8さい』
『やまと 8さい』
 次の年明けも、一年前よりも少しだけ上手になった文字が並んだ。
「わたしのかちだね!」
 愛歌は成長が早いのか、クラスの女子の中でも高い方だった。
 井戸枠に書かれた線を見ると、確かに成長している。だが、まだ愛歌には届かなかった。
「やまとはちっちゃいなー」
「ちっちゃくない!」
 頭の上に置かれた手のひらを勢いよく振り払った。
 その時の手が意図したよりも強く当たってしまって、俺は少し焦った。
 しかし愛歌は怒るばかりか、ふっと笑って「やったな~?」と仕返しに俺の頭をさらに撫でた。
 同い年の女の子に頭を撫でられているのが、どうにもむずがゆくて、俺はもう一度振り払った。
 でも、なぜか嫌ではなかった。
「仲良しねえ」
「ほんとに」
「あたしたちも運動しないと。ほんと、正月太りって嫌ねえ」
 母さんたちの井戸端会議が終わるまで、俺と愛歌はかけっこしたり、しりとりをしたりして過ごした。
 そのほとんどで、俺は愛歌に勝てなかった。

 伊勢愛歌は、根っからの負けず嫌いだった。
 それでいて、努力家でもあった。
 勝つために努力を欠かさず、色んなことに挑戦した。
 決まって俺も付き合わされるから、迷惑だった。滅多に勝てないし。
 愛歌は勉強もスポーツも、なんでもできたと思う。
 できないこともたくさんあったに違いないけど、少なくとも俺やクラスメイトの目にはそう見えた。
 身長も高くて、顔や雰囲気も大人っぽい彼女は、皆から一目置かれていた。
『あいか 9さい』
『やまと 9さい』
 井戸の木枠には、一年に二本ずつ、線が増えていく。
 9歳になっても、愛歌の背を越すことはできなかった。
「ふふん、今年もわたしの勝ちだね」
「まだ成長期が来てないだけだし」
「わたしも、これからもっと伸びるよ?」
 事実、俺が伸びる以上に愛歌の背は伸びていて、線の間隔は去年よりも開いていた。
 まさかこのまま一生越えられないのではないか、と焦燥に駆られる。
 同時に、一生背を比べ続けるのだと思っていることを自分で驚いた。
「来年も私の勝ちかな~」
「……他の人と競えばいいじゃん」
 愛歌も未来の話をするから、俺は恥ずかしくなって、ぶっきらぼうになった。
「なんでそんなこと言うの」
「俺ならなにやっても勝てるから、俺と競ってるんでしょ」
「違うよ」
 愛歌はすぐに否定した。
「私に勝とうとしてくれるの、大和だけなんだもん」

 伊勢愛歌はかわいかった。
 別に俺が思っているわけではなくて、いや思っていないわけではないけれど、少なくとも周囲の評価はそうだった。
 男子たちは愛歌を恋愛対象として見るようになり、女子たちは愛歌をクラスの中心人物として扱った。
 誰が好きだとか、誰と誰が仲いいだとか、クラスはそんな話題で持ち切りだった。
「大和って伊勢と仲いいよな」
「別に仲良くない」
 咄嗟にそう返したその日から、愛歌と二人で下校するのはやめた。
 それでも、いつもの初詣では顔を合わせた。
 初めて、初詣に来たくないと思った。愛歌を避けているから、気まずいのだ。
 来ないとお年玉を貰えないというので仕方なく車に乗り込んだのだった。
 二人とも、しばらく黙ったままだった。
 何も言わず、交互に線を引いた。
『あいか 10さい』
『やまと 10さい』
 今年も、愛歌が勝った。
「なんで最近、一緒に帰ってくれないの?」
 お決まりの勝ち台詞の代わりに、彼女はそう言った。
「別に。たまたまだよ」
「うそ。ずっと避けてるもん」
「普通だよ。女と帰るほうがおかしいし」
「なにそれ。今までずっと一緒に帰ってたじゃん」
 そうだけど、なんとなく嫌になったのだ。
 理由を上手く説明できなくて、俺は口を噤んだ。
「みんなそう。なっちゃんは樹くんが好きだっていうし、樹くんはわたしが好きとかいうし。わたしはなっちゃんに怒られるし、意味わかんない」
 クラスメイトが既に告白しているということに、驚いた。そんなの、アニメやドラマでしか見たことない。
「なんか、みんな大人になって、わたしだけ置いていかれてるみたい。わたしがおかしいのかな?」
「……ははっ」
「なによ」
「いや、変なこと言うから」
 愛歌がこんなところでも負けず嫌いを発揮していて、思わず吹き出してしまった。
 彼女はむくれて頬を膨らませたけど、おかげで険悪だった空気が柔らかくなった。
「わかった。もう愛歌を避けない」
「うん。約束」
 絡ませた小指が柔らかくて、少し照れる。
「でも大和に負けたくないから、一緒には帰らない」
「一緒に帰ったら負けなの?」
「そうだよ。その代わり、学校終わったら遊ぼうね」
 その日から、学校の代わりに放課後が俺たちの時間になった。
 クラスで人気者の愛歌を独り占めしているような気持ちになって、少し優越感を覚えた。

 伊勢愛歌は、思ったことをはっきり口に出すタイプだった。
 でもこの日だけはなぜか、言い淀んでいた。
『あいか 11さい』
『やまと 11さい』
 もう漢字で書けるのに、今までに揃えて平仮名で書いた。
 俺たちの名前は少しずつ上に上がっていて、もう井戸枠をはみ出しそうだ。
「身長は、わたしの勝ちだね」
「ほんのちょっとだけね」
「50m走は大和に負けちゃったけど」
「次も勝てるように頑張るよ」
「……うん」
 愛歌はいつもより元気がなかった。
 彼女が膝を抱えて井戸の前にしゃがみ込むから、俺も隣に座った。
 俺に負けたのが、相当悔しかったのかもしれない。
 まだ身長も勉強も絵も音楽も、全然勝ててないけど。
「髪伸ばそうかな」
 愛歌が視線を泳がせながら、そう言った。
 本当に言いたいことは、別にある気がした。
「どうして? 走るのに邪魔だって言ってたのに」
「だって大和の方が長いじゃん。こういう細かいことから勝っていかないと」
「長い方が勝ちなの?」
 俺の髪は、確かに目元が隠れるくらいには長い。後ろも、女の子ほどじゃないけど伸ばしていた。
 対して愛歌は、男の子と見紛うほどに短い。
 それは、彼女が樹くんの告白を断ってから、さらに顕著になった。髪を切ったところで、彼女の整った顔がより露わになっただけだったけれど。
「大和は髪長い子の方が好き?」
「……まあ、どっちかと言えば」
「じゃあ、伸ばそうかな」
 どういう意味なのか聞く前に、愛歌の顔がくしゃりと歪んだ。
 涙を堪えている表情だ。彼女は決して涙を流さない子だったけれど、顔によく出るからわかりやすかった。
「私、引っ越すの」
「え?」
「福岡だって」
 地理の授業は苦手だったけど、とても遠いことはわかった。
 引っ越す、という意味がわからないほど、子どもではなかった。
 ずっと一緒にいたのに、会えなくなる。
 そんな実感がわかない程度には、子どもだった。
「身長、来年には勝てると思ったのに」
 全然呑み込めなくて、ようやく出てきたのはそんな言葉だった。
「ごめん、勝ち逃げだね」
「ずるいよ」
「ごめんね」
 なんで責めてしまったのだろうと、すぐに後悔した。
 なのに、いつも強気な愛歌が弱っているのを見て、言葉が止まらなかった。
「いつまで福岡にいるの?」
「わかんない」
「帰ってくるの?」
「わかんない」
「もう、会えないの?」
「わかんない」
 愛歌は涙を拭いながら、そう繰り返すだけだった。
 愛歌は三月の終わりまではこっちにいて、終業式の日も一緒に遊んだ。
 だから、実は嘘だったんじゃないかと思った。
 でも、六年生が始まった時には、彼女はいなくなっていた。
 当然だけど、次の初詣にも愛歌はいなかった。
 いつもは愛歌が持ってきていた油性ペンを、今年は俺が持ってきた。
 俺の身長は井戸枠よりも大きくなっていて、線を引くことはできなかった。