黒龍に連れられるまま、目の前にそびえ立つ大きな屋敷へと足を踏み入れる。本当に自分が立ち入ってもいい場所なのかと何度も不安になるけれど、そのたびに「どうした」と黒龍が振り返り、雪華の背中を優しく押してくれた。
 その手がなければきっと、気後れして屋敷の入り口から動けなかった。

「黒龍様! おかえりなさいませ!」
「黒龍様!」

 玄関の扉の開く音に、黒龍が戻ったと気づいた屋敷の人間があちらこちらから顔を出す。黒龍の姿を見つけるとパッと顔を輝かせ、屋敷の人たちに愛されているのだと伝わってくる。
 そんな黒龍が、突然雪華のような色なしを、それも嫁として連れて帰ってくるだなんて、屋敷の人たちに受け入れられるのか。不安な気持ちから足がすくみ動けずにいると、廊下の奥から雪華の母親よりも年をとった女性が姿を現した。
 黒龍の母親、だろうか?
「黒龍様、おかえりなさいませ。もしや、そちらが……?」

 女性は板張り床に膝をつけ黒龍に挨拶をすると、未だ入り口へと張り付くから動けずにいる雪華へそっと視線を向けた。
 黒龍は女性の問いかけに頷き、雪華を手招いた。

「こちらへ来い」
「あ……は、はい」

 どうにか頷いた雪華は、土間に立つ黒龍から一歩下がったところで立ち止まり頭を下げた。

「せ、雪華と申します」
「まあ、お可愛らしい。あなた様が白姫様ですね。ずっといらっしゃるのをお待ちしておりました」

 女性は膝をついたまま、お辞儀をする。それに倣うように、玄関付近にいた他の人たちもいっせいに頭を床板につけた。

「ま、待ってください。私にそのような……」
「いえ、あなた様は白姫様。黒龍様の奥方となる御方でございます。つまり私ども使用人の奥様です」
「そ、そんな」

 この状況が飲み込めず、目の前で頭を下げ続ける女性たちと黒龍を交互に見たあと、雪華は思わず自分も頭を土間の敷き瓦へと擦りつけた。

「あ、あの私、えっと」
「ま、まあ。そのようなこと、なさってはなりません」

 頭を下げる雪華に、玄関にいた女性は慌てたような声をあげる。その様子を見ていた黒龍は、くつくつと笑った。

「そこまでにしておけ。(くず)()が困っている」
「え……あ……」

 黒龍の声に顔を上げると、葛葉と呼ばれた女性が困り果てたように眉をハの字にしていた。どうやら雪華の行動が葛葉を困らせてしまったようだった。

「すみません、私……」
「葛葉、白姫の部屋の準備はできているか?」
「もちろんにございます。黒龍様に言われた通り、支度をいたしました」
「そうか。では、部屋に行くぞ」

 まだ敷き瓦に膝をつけたままの雪華の腕を掴み立ち上がらせると、黒龍は上がり(かまち)を越超え、廊下を奥へと進んでいくむ。雪華は草履を並べる余裕さえ与えられず、引っ張られるように連れられていく。そのまままっすぐ歩くと、黒龍は廊下の突き当たりにある左側の部屋の襖を開けた。

「嘘……」

 そこは日当たりのいい広々とした部屋で、たくさんの調度品が用意されていた。生家で宛てがわれていた雪華の部屋どころか、あの家にあったどの部屋よりも広く思えた。

「ここは?」
「ここが今日からお前の部屋だ」
「そ、そんな。私なんぞがこんな豪華な部屋を与えていただくなど、分不相応にございます」

 後ずさりながら首を振る雪華に、黒龍は不快そうに眉をひそめた。

「お前は俺を、妻となる女にこの程度の部屋も与えられない男にしたいのか」
「そういうわけでは」
「いいから受け取っておけ。お前は黒龍である俺の唯一の妻だ。これから白姫として俺のそばにいてもらうのだからな」

 黒龍に背を押されるようにして、部屋の中へと足を踏み入れた。これからこの部屋で過ごすのだという実感など、これっぽっちも持てないままに。

「とりあえず、服を着替えろ」

 黒龍は部屋の中央に置かれた座卓の前に腰を下ろすと、雪華に命じた。

「着替え、と言われましても」

 生家にいたときは、かろうじて替えの着物を持っていた。といっても、他の下女とともに真っ白の布を簡単に(あつら)えた、着物と呼ぶには粗末なものを身診に纏っていただけ。どれが誰のものかなど関係なく、汚れれば着替えるだけ。
 けれど、今はそれすら持ってはいない。贄として殺されるはずだったのだから、当然ではある。
 どうすればいいか困り果てていると、黒龍は部屋の隅に置かれた(たん)()を指差した。

「その中にお前の着替えはすべて用意してある」
「え?」
「開けてみろ」

 命じられるがまま、箪笥の一段目の引き出しを開けた。

「わ、わあ……」

 中には色とりどりの着物がいくつも入っていた。思わず手を伸ばそうとして、引っ込める。雪華なんかが触ってしまえば、綺麗な着物が汚れてしまいそうな気がした。けれど、そんな雪華を黒龍はふっと笑った。

「手に取って見てみろ」

 黒龍の言葉に、恐る恐る着物へと手を伸ばす。柔らかな手触りは、使われている絹がどれほどいいものか物語っているようだった。

「どうだ? 気に入ったのはあるか? 気に入らなければ、他にも用意させる」
「そ、そんな! 私なんかにもったいないです……!」

 桜や母親が着ていた着物よりも高価であると、ひと目見ただけでもわかる。いくら黒龍が雪華を花嫁だと言ってくれたとはいえ、こんな高級品をもらうわけにはいかない。

「俺が自分の妻となる女に着物のひとつも贈れない男だと思うのか?」

 腕を組むとみ、おもしろくなさそうな表情を浮かべて黒龍はこちらへと視線を向ける。

「あ……」
「それに、その一枚だけではこれから生活するのに困るだろう」

 死に装束とばかりにこの着物を着るように強いられた雪華に手荷物はない。唯一持ってきたものがあるとするなら、祖母からもらった金平糖の入った瓶だけだ。これだけでどうやって生活するのかと問われれば、なにも答えられない。
 ずっとこの格好のままでいたなら、今は白い着物も薄汚れてくることが目に見えている。それどころか、山道を引きずられるようにして歩いてきたせいで、すでに真っ白だった着物も所々にほつれや汚れが目立った。
 自分のみすぼらしい格好を見下ろし、それからおずおずと黒龍を見上げた。
 黒龍の言うことはもっともで、こんなボロボロの格好をした自分を妻にすると言ってしまえば、彼が恥をかいてしまう。そう頭では理解しているけれど、どうしても受け取ることができない。

「どうして私に、こんなによくしてくださるのですか?」

 いくら伝承があるとはいえ、出会ったばかりの雪華にここまでしてくれる理由がわからない。
 雪華の問いかけに黒龍は少し黙ったあと、僅かに少しだけ表情を和らげた。

「言っただろ、俺にはお前が必要だと。お前にそばにいてほしい。それだけだ」
「黒龍様……」

 その言葉に、嘘や偽りはないように思えた。信じても、いいのだろうか。裏切られることはないと、期待してもいいのだろうか。

「――それでどうする? 着替えないのであれば、俺が着替えさせてやるが」
「え? えええ?」

 唐突な提案に、素っ頓狂な声を出してしまう。けれど黒龍はおかまいなしに話を続ける。

「着物も俺が選ぶとするか。お前に似合うのは……」

 立ち上がり雪華の隣に並ぶと、黒龍は当たり前のように着物を選び始めた。その姿を雪華はただ見ていることしかできない。

「これはどうだ?」

 黒龍が手に取ったのは、薄桃色を基調とした着物で、白や紫色など色とりどりの花が大小いくつも描かれたものだった。
 こんな華美なものが自分に似合うとはとても思えない。それでも箪笥の中にあるたくさんの着物の中から自分で選ぶことを考えれば、黒龍から差し出されたものを着るほうが断然よかった。

「は、はい。とても素敵だと思います」
「そうか。それで、どうする?」
「どう、とは?」

 黒龍の質問の意図がわからず、思わず聞き返してしまう。首を傾げる雪華に、黒龍は口角を上げて楽しそうに笑った。

「お前が自分で着られぬというのであれば、俺が手伝ってやるが?」
「なっ……だ、大丈夫です!」
「だったら今すぐ着替えろ。ああ、他に必要なものも入れてあるから、適当に探せ」

 くつくつと笑う姿に、からかわれたのだとわかる。雪華の部屋を出ていく黒龍の背中を、着物を手に持ったまま呆然と見送った。
 ひとりになった部屋で、今着ている着物を脱ぐ。

「あ……」

 胸元から取り出した、金平糖の入った小さな小瓶。どこに置くべきかと悩み、雪華は着物の入った箪笥の引き出しの隅にこっそりと隠した。ここならきっと、気づかれたり咎められたりすることもないだろう。
 箪笥に入っていた襦袢(じゅばん)を身に纏い、黒龍が選んでくれたものに袖を通す。さらりとした手触り、ずっしりとした生地の重さやきめ細やかさ、着物の質のよさが伝わってくる。
 箪笥の中には他にもたくさんの着物が用意されていた。すべてが雪華のために準備されたものなのだとしたら、いったいどれほどのお金がかかったのか。想像するだけでも恐ろしい。

「白姫、まだか?」

 襖の向こうから、しびれを切らしたような黒龍の声が聞こえる。

「早くしないと開けてしまうぞ」
「も、もう少しだけお待ちください」

 冗談ではなく本気で開けてしまいそうな黒龍の言葉に、雪華は着付けを急いだ。

「……お待たせ、しました」

 ようやく着終わり、そっと襖を開けると、廊下に立つ黒龍は雪華を一瞥したものの、なにか言うことはなかった。
 そんな態度を取られたことが惨めで、目尻に涙がにじむ。似合わないのはわかっていた。こういうのは桜や母親のように美しい女性が似合うのだ。雪華のように貧相で不格好な人間が着ても似合うわけがないにはふさわしくない。
 それを、黒龍に言われたからと浮かれて着替えて本当にみっともない。

「も、申し訳ございません」
「なにがだ?」

 勢いよく頭を下げる雪華に、黒龍は怪訝そうな声をあげた。
 雪華は黒龍の顔を見ることができず、頭を下げたまま言葉を続ける。

「私なんぞにこのように高価な着物が似合うわけがなく――」
「似合っているぞ」
「今すぐ脱いで……って、え……?」

 一瞬、耳に聞こえた言葉が信じられなくて、呆けたように雪華は顔を上げた。

「今、なんと……」
「だから、似合っていると言ったんだ。真っ白なお前に、その着物はよく似合っている。だが、白姫の()(れん)さを引き立てるには、もっと違う雰囲気のほうがいいかもしれないな」

 黒龍は考え込むように独り言をつぶやきながら着物を見ていたけれど、もう雪華の耳には入っていなかった。
 似合っている……? この着物が、自分に?
 ようやく理解できた瞬間、雪華は自分の頬が熱くなるのを感じた。そんな雪華に気づいたのか、黒龍は柔らかい笑みを浮かべる。

「どうした、照れているのか」
「そ、それは」
「よく似合っている。すごく、だ。だが、お前の可憐さには、この着物の豪華さも(かす)んでしまっているようだがな」
「こ、黒龍様!」

 思わず声をあげてしまう。黒龍は楽しそうに笑うと、雪華の頬に手を伸ばした。

「先ほどまでの困った顔も可愛かったが、そうやって照れている姿も可愛いな」
「かっ……わいい、などと……」

 自分の頬が熱くなるのがわかる。本気で言われているのか、それともからかわれているのか雪華には区別がつかない。けれど、気づけば先ほどまでの緊張感や不安は薄れ初めて始めていた。身体が強ばるほど高価な着物も、いつの間にか身体へと馴染(なじ)んできたような気がする。

「なんだ?」

 黙ったまま見上げる雪華から手を離すと、黒龍は怪訝そうな目で見つめ返す。
 家族から贄として捨てられ、すべてを失ったと思っていたけれど、そんな悲しみさえも黒龍のおかげで少しだけ和らいでいた。

「ありがとうございます」

 雪華の言葉に含まれた気持ちに、黒龍は気づいただろうか。

「ここがこれからお前の家だ。好きに暮らせ」

 きっと気づいているであろう優しい言葉に、雪華は静かに頷いた。


 黒龍の屋敷で生活するようになって、数日が経った。その間に、いくつかわかったことがある。
 黒龍は今の龍王である白龍の息子であること。白龍を(しの)ぐ力があり、龍たちは皆、人が白龍を崇めるように黒龍を恐れ崇めていること。そして黒龍の屋敷に勤めている人たちは皆、黒龍に仕えられるのを嬉しく感じているようだった。
 ちなみに屋敷に住む人たちも皆、白龍なのかと思いきやそういうわけではないらしい。人間の世界に彩りの一族と普通の人間がいるように、龍の世界にも龍王の一族である白龍とそれ以外のただの龍に区別されるようだった。
 そして屋敷に住む人たち――正しくは龍だけれど皆、利便性から人型となっている――は、雪華のことを『白姫様』と呼ぶ。生家でしていたような炊事や洗濯はいっさいさせてもらえず、ただ崇められ大切に扱われていた。
 そんな扱いには未だ慣れず、つい自分ですべてをしようとして、葛葉や、それから――。

「白姫様、失礼してもよろしいでしょうか」

 廊下から聞こえた声に「はい」と返事をすると、音を立てることなく襖が開いた。

「白姫様、おはようござい――って、またそのような! お着替えは私がお手伝いしますと申しておりますのに!」

 廊下で膝をついていた、雪華とそう年の変わらない少女は、顔を上げるなり悲鳴のような声をあげた。
 少女は初めて会った日に『(あや)』と名乗っていた。黒龍が雪華の身の回りの世話をしたり話し相手となったりするようにと宛てがってくれたのだ。

「文さん、おはようございます」
「ですから、文とお呼びくださいと何度も……。って、そうではございません! お召し物のお着替えは、私の仕事です」

 着替えや身の回りの子とすべて自分でしようとしてしまい、葛葉だけでなくこうやって文にまで注意されてしまうのだ。

「で、でもこれぐらいは自分ひとりでできますし」

 雪華はおかしなところはないはず、と自身を見下ろした。
 鮮やかな赤と橙色の着物には桃色の小花があしらわれている。生家では着ることのできなかったそれは、雪華の部屋に置かれた箪笥に入れられていた。

「それは、そうですけど。でも、だとするとそうなると私の仕事が」

 どうやら文の目から見ても、文句のつけようはないようだった。こんなところで下女として桜の着物の着付けをしていた経験が役に立つなど思ってもみなかった。
 文は自分の仕事がなくなってしまうことに不満そうだった。その表情に雪華は心苦しくなる。逆の立場なら、仕事もまともにこなしていないために叱責されるかもしれないと、雪華だって不安に感じるなってしまうるだろう。せっかく親切にしてくれている文に、恩を仇で返す形になってしまう。

「あ、あの」

 不服そうな表情を浮かべている文に、雪華はおずおずと声をかけた。

「え?」
「ごめんなさい」
「え、ええ? ど、どうして白姫様がお謝りになるのですか?」
「だって、その、文さんのお仕事を奪ってしまったから……」

 着物の袖をギュッと握りしめながら頭を下げる。
 そんな雪華に文は、ふっと控えめな笑い声を漏らした。

「え?」
「失礼しました。……白姫様、お顔を上げてください。白姫様は誤解されています」
「誤解、ですか?」

 促され、渋々顔を上げる。雪華には笑われた理由も、文の言う誤解の意味も理解できなかった。

「はい。私が白姫様のお世話をしたいのは、仕事だからではありません」
「では、どうして」

 仕事だからではないのなら、どうして自分なんかの世話をしたいと思うのか、雪華にはわからない。

「そんなの、白姫様のお世話を私がしたいからに決まっています」
「私のお世話を、したい?」

 理解ができないまま復唱する雪華に、文は言葉を続けた。

「白姫様は私どもにとって特別で、大切な御方なのです。そんな方のお世話ができることは、大変光栄にございますから」
「そうなの、ですか?」

 そんなことを言われても、にわかに信じられない。けれど、目の前で話す文の目は嘘をついているようには見えなかった。

「ええ。ここだけの話ですが、白姫様のお世話をしたい者は私の他にもたくさんいたのです。だから、どうにかこうにか勝ち取ることができてとても嬉しいのです」

 力こぶを作って見せる文に、雪華は思わず表情が緩んだ。
 気を遣わせないようにしてくれているのかもしれない、本音は違うところにあるのかもしれない。疑おうとすればいくらでも疑えるけれど、今こうやって目の前で笑う文を信じたかった。

「ありがとう、ございます」
「なので、たくさん私にお世話をさせてくださいね?」
「……気をつけます」

 だんだんと口調が砕けてきていることに、文は気づいているのだろうか。
 指摘してしまえば、またかしこまった口調に戻ってしまうかもしれない。それが寂しくて、雪華はからかうような言葉を呑み込んだ。
 こんなふうに誰かと会話をするのが楽しいと感じるのはいつ以来だろう。祖母が亡くなってしまってから、あの家で本当の意味で雪華が安らげる時間なんて一瞬たりとも存在しなかった。
 ここでは、雪華は雪華らしく振る舞っても許されるのだろうか。ひと言ひと言、自分の口から出る言葉を確かめながら、誰かから投げつけられる悪意に(おび)え暮らす日々を送らずに済むのだろうか。
 今の雪華には、まだその答えはわからない。けれどいつかお互いにもっと砕けた言葉で話すことができればいいなと、淡い期待を胸に抱いた。


 黒龍の屋敷では、雪華の身の回りのことはすべて他の人がしてくれた。食事も洗濯も草むしりも、なにも申しつけられることはない。それどころか、雪華がなにかしようとすれば、文を筆頭に屋敷の人たちが必死に止めようとする。
 屋敷の庭を散歩したいと言えば、いつでも自由に外に出してくれる。庭にはたくさんの木々や花が植えられており、生家の庭などとてもじゃないけれど比べものにならないほどだ。
 空腹を感じれば、食事やおやつが与えられる。生家にいた頃のように、残り物をかき集めて食べる必要もない。
 こんなふうに穏やかな暮らしは、生まれて初めてのことだった。

「ここの暮らしには慣れたか?」
「黒龍様!」

 部屋でおやつにと出してもらった(まん)(じゅう)を頬張っていた雪華は、慌てて皿に戻し立ち上がった。すぐそばでは、文が膝をつき頭を下げるのが見えた。

「ああ、いい。顔が見たくて寄っただけだ」

 さらりと言う黒龍の言葉に、雪華の心臓はうるさいほどの音を立てる。
 こんな言葉を今までかけられたことなど一度もなかった。だから余計にいったいどういう反応をするのが正解なのかわからない。

「そ、そうなの、ですか」
「ああ。困っていることはないか? 足りないものがあれば、なんでも用意させるが」

 雪華の向かいに座りながら、黒龍は問いかけた。長い指先がトントンと座卓の天板を(たた)く。

「い、いえ。綺麗な着物や調度品を(そろ)えていただいて、本当にありがたく思っております。ただ」

 言葉を途切れさせた雪華に、黒龍は真っ赤な瞳を向ける。その目に吸い寄せられるように雪華は口を開いた。

「私はここでもなんの役にも立ててないなと思いまして」

 どれだけよくしてもらっても、自分はなにひとつとして返すことができない。ただ与えられるものに甘んじているだけだ。
 頭を下げ続ける雪華に、「顔を上げろ」と黒龍は言った。

「お前は俺の花嫁だからな、当然だ」
「花嫁、だから」

 気を遣っているわけでもなく、黒龍が本気でそう思ってくれているのだと伝わってくる。それでも、どうしても雪華の心には口では説明できない鬱々とした気持ちが残ってしまう。

「その着物、よく似合っている」

 この話はもう終わりだとでも言うかのように、黒龍は雪華に微笑みかける。
『でも』と引き下がることもできず、雪華は込み上げてくる気持ちを呑み込んだ。

「ありがとう、ございます」

 雪華の言葉に黒龍は頷くと、頬杖(ほおづえ)をつきながら雪華を見つめた。

「やはり、お前の白い肌には明るい色合いの着物が似合う。あの日着ていた白も綺麗だったが、お前の透き通るような真っ白な肌に載せると着物のほうがくすんでしまうからな。俺の見立ては正しかった」

 どうやら黒龍は、雪華が初めてこの屋敷を訪れた日に着た薄桃色の着物を言っているようだった。けれど、今の口ぶりでは、まるで自分で選んだかのように聞こえる。いや、まさかそんなことあるわけがない。

「白姫様」

 そばに控えていた文は、黒龍に聞こえないように小声で雪華に話しかけた。

「そのお着物をお選びになるのに、黒龍様は一刻ほども悩んでいらしたそうですよ」
「え……」
「そして本当にお似合いだと私も思います」

 文に言われもう一度、自分自身が着ている着物に視線を向ける。
 桃色の小花があしらわれた鮮やかな赤と橙色の着物。色がない雪華だからこそ、鮮やかな色合いが映える気がする。
 家族の中で自分だけ色がない。それがずっと悲しかった。みんなと同じように色を持って、彩りの一族として季節を彩りたかった。色なしに生まれたことをずっと恨んできた。
 けれど黒龍は、そんな雪華に色がないからこそ似合うものがあると教えてくれる。それがこんなにも嬉しいなんて。

「黒龍様……。ありがとう、ございます」

 泣きそうになりながらも礼を伝える雪華に、黒龍は目を細めて笑う。

「礼なら、もっと嬉しそうな顔で伝えてくれ」

 正面から手を伸ばすと、黒龍は雪華の目尻ににじむ涙を長い指先で拭い取った。

「なっ」
「どうした?」
「……なんでも、ありません」

 うるさく鳴り響く胸の音をどうにか落ち着かせるともう一度お礼を伝え、雪華は笑みを浮かべた。
 こんなふうに嬉しくも泣いてしまうなんて知らなかった。誰かの優しさに胸が苦しくなって、切なくなって、それから声をあげて泣きたくなるぐらい自分の感情が高ぶることがあるのを、雪華は生まれて初めて知った。


 黒龍の屋敷にやってきて、二週間あまりが経った。
 生家にいた頃は、一日中仕事を命じられ、夜まで座る暇さえないのが雪華にとっての日常だった。なのにここではなにもしなくてもいい。
 することがなくて退屈だ、なんて贅沢(ぜいたく)な話だとわかっている。黒龍は自分の花嫁だから、ここにいるだけでいいと言ってくれた。けれど、こうやって与えられた部屋でなにもせずにいると、ここでもなんの役にも立つことのできず立てず、ただ存在しているだけの自分を情けなく感じてしまう。

「白姫様? どうかなさいましたか?」

 座卓の前に座り小さくため息をついた雪華に気づくと、文はそばにやってきた。
 話し相手を兼ねているという黒龍の言葉通り、文は雪華が退屈そうにすれば外に連れ出してくれたりなにか甘い物を持ってきてくれたりする。それはとてもありがたいのだけれど。

「いえ、その、こうやってのんびりしているだけでいいのかと思いまし……思って」

 たどたどしさは残るけれど、少しずつ砕けた口調で話すように気をつけて話す雪華に、文は満足そうな表情を浮かべた。

「いいんですよ。あ、でも退屈でしたらお庭に出ますか? そろそろ藤の花が見頃ですよ」

 文の言葉に頷き、庭に面した障子を開けた。縁側の前にある()脱石(ぬぎいし)の上に置かれた草履を履くと庭へと降り立った。
 文の言うとおり紫色の藤の花が満開で、小さな花をたくさんつけていた。

「すごく綺麗」
「ですよね。庭には四季折々の花がたくさん植えられています。もし白姫様のお好きなお花がないようでしたらお申し付けください。いつでも植えさせますので」
「ありがとう」

 文の言葉に嬉しくなると同時に、ほんの少しだけ寂しくなる。こうやって文が雪華を気にかけてくれるのも、仕事だからだ。
 やりたくてやっている、と文は言ってくれた。でも、どうしてもその言葉を雪華は素直に信じることができなかった。
 生家にいた頃、こんなふうに誰かと親しげに話をするなんてなかった。みんな雪華にしてみればとっては従うべき存在で、対等ではなかった。
 だからこうして文と話していると勘違いしそうになる。雪華がとってどれだけ文を親しく思っても、文にとっては使える仕えるべき相手から命令されて雪華のそばにいるに過ぎない。雪華が『白姫様』でなければきっと、文はそばにいてくれない。

「白姫様……? どうかなさいましたか?」

 知らず知らずのうちに暗くなってしまっていた雪華に、文はどうしたのかと心配した様子で問いかける。なんでもないと雪華が首を振ろうとするよりも早く、誰かの声が聞こえた。

「どうした?」
「あっ、黒龍様!」

 文は慌ててその場に膝をつくと、頭を下げた。雪華も倣うべきかと悩んでいると、隣に立った黒龍の視線を感じて取り繕うように口を開いた。

「い、いえ。藤の花が綺麗だと、見惚れておりました」
「本当か?」

 嘘は見逃さないとでも言うかのように、黒龍はまっすぐに雪華の目を見つめる。至近距離から真っ赤な瞳に見つめられると、心臓が高鳴りうまく呼吸ができない。

「ほん、とうです。とても素敵なお庭ですね」
「気に入ったのならよかった。文。もう頭を上げろ」

 地面に前髪がつきそうなぐらいに頭を下げていた文は、黒龍の言葉にようやく顔を上げた。

「文から見てどうだ。白姫はなにか困ってはないか?」
「は、はい。お困りになっているご様子はないかと」
「なら、いい。俺が不在の間、白姫のお相手はお前に任せている。頼んだぞ」
「はい!」

 黒龍の命令に嬉しそうに頷く文の姿を、雪華は複雑な気持ちを抱えながら見ていた。
 少し時間ができたから、そう言ってと黒龍は雪華と縁側に並んで座る。文はなにか飲み物を取ってきますと言ってと、その場から立ち去った。

「それで? 本当はなにか悩みがあるのではないか?」
「どうして……」
「自分では気づいていないかもしれないが、お前は感情が表情に出やすい」
「そんなこと……」

 表情を隠すように頬を押さえるが、黒龍の言葉はにわかに信じられなかった。
 これまで必死に自分の感情を押し殺して生きてきた。反抗的な態度を少しでも見せれば、『なんだその目は』と殴られる。弱みを見せれば、そこをいたぶるようにして責められる。だから感情など人に気づかれてはいけるものではない。なかったことにして殺すものだと思って生きてきた。それなのに。

「そんなに、わかりやすいのですか……?」
「ん? まあ少なくとも俺にはわかる。お前は俺の大切な花嫁だからな」
「なっ」

 答えになっているようななっていないような黒龍の言葉に、頬が熱くなる。

「からかわないで、くださいませ」
「からかってなぞいない。それで? なんの悩みがあるんだ? 言ってみろ」
「悩みというわけでは、ないですが」

 どう伝えていいいかわからず、それでも雪華が話し始めるのを黙ったまま待ち続けてくれる黒龍に、おずおずと口を開いた。

「その、もっと文と仲良くなりたいなと、思いまして」
「文と仲良く?」

 怪訝そうに聞き返されてしまい、雪華は取り繕うように顔の前で手を振った。

「い、今もとてもよくしてくださっていて、私が退屈しないように、困らないようにと手を差し伸べてくださるのですが、もう少しだけ気安く話してもらえるような関係になれればいいなと」

 口にしながら、なんとも子どもじみたこと発言だと自分でも恥ずかしくなる。

「な、なんて。忘れてください」
「なぜ?」
「え? だ、だってこんな子どものような……」
「それがお前の願いなら、なんでも叶えてやる」

 笑みを浮かべたかと思うと、黒龍は雪華の後ろへと顔を向けた。

「……文!」
「は、はい!」

 ちょうど盆に載せた飲み物を運んでこようとしていた文に、黒龍はこちらへ来るようにと声をかけた。

「な、なんでしょうか?」

 慌てて駆け寄ってきた文は、なにか失態をしてしまっただろうかと不安げな表情を浮かべていた。

「白姫はお前と友人になりたいそうだ」
「ゆうじ……え、で、ですが、それは……」

 突然の命令に困惑しているのか、文は雪華と黒龍を交互に見つめる。

「俺の命令が聞けないのか?」
「そ、そんなはずはございません」
「では、今後はそういうふうに接するように。ああ、俺は飲み物はいらん。ふたりで飲め。また顔を見に来る」

 黒龍は「またな」と雪華に微笑むと、庭をあとにした。
 残されたのは気まずい空気と、雪華と文のふたりだけ。

「え、えっと……その」

 今から友人だ、などと命じられても文だって困っているはずだ。自分の発言が招いた事態に、申し訳なく思い文に謝ろうとすると、文が話しかけてきた。

「えっと、そうしまし……そうしたら、私は……」

 たどたどしく、文は雪華に話しかけてくれる。

「こ、これ。飲みましょ……飲もう、かな……」
「そ、そう、ね」
「あ……そこ、座ってもよろし……いいです……いいかな?」

 先ほどまで黒龍のいた場所ではなく、雪華を挟んで反対側を文は指差す。雪華が頷くのを確かめると、恐る恐るといった様子で隣に腰掛けた。
 盆に載った湯飲みを手にする。ひんやりと冷えたそれは、お茶のように見えた。

「これは?」

 温かいお茶しか見たことがなかった雪華は、不思議そうに首を傾げた。
 そんな雪華に説明しようとしたのか文は口を開く。

「井戸からくみ上げた冷たい水で、お茶を冷やしてありま、あるの。ひんやりとして美味しい、よ」

 間違わないように、友人と言える距離感になるように。必死にひと言ひと言話す文の気持ちが手に取るようにわかった。
 文の主であり、この国を統べる龍王となる黒龍に言われればどうなるかなんて、少し考えればわかりそうなものだ。

「ごめんなさい」
「え? ど、どうしたんです?」

 湯飲みを縁側に置き頭を下げる雪華に、文は慌てた様子だった。

「無理をさせて、ごめんなさい」
「あ……そんな、私、無理なんて……」

 していない、と言い切れないのが、文のいいところだ。
 嘘がつけなくて、正直で、明るくて、一緒にいると楽しくて。そんな文だからこそ、雪華はもっと仲良くなれればと願ってしまった。
 でもそれは、こんな形ではない。誰かに命令されてなる友人なんて、苦しいだけできっとなんの価値もない。

「私、ね。文ともっと仲良くなりたいって思ったの。誰かに対してこんなふうに感じたのは初めてで。でも、その気持ちは同じじゃないといけないってわかってるの」
「白姫様……」
「もしもいつか文が、黒龍様に命令されたからとか、私が白姫だからとかではなくて、雪華として仲良くなりたいって思ってくれたらそのときは、名前で呼んでほしい。白姫ではなくて、私は雪華としてあなたと向かい合いたいから」

 まっすぐに目を見て話す雪華に、文は静かに目を伏せると小さく頷いた。
 気まずい空気が文との間に流れる。

「少し、ひとりでゆっくりするね」

 雪華がそう口にすると、ためらうような素振りの裏側でほんのわずかに文が(あん)()したような気がしたのは穿(うが)ちすぎだろうか。

「では、こちらだけ置いていきますね」

 普段通りの口調に戻った文は、雪華の湯飲みだけを置いて縁側をあとにする。ひとり残された雪華は、湯飲みに口をつける気にもなれず、小さく息を吐き出した。
 視線の先には紫色の藤の花が風に揺らいでいるのが見えたる。
 あんなふうになにも考えずに、揺られていられればいいのに。そんな絵空事を考えながら紫色の花を見つめていると、視界を金色のなにかがよぎった。

「え……?」

 慌てて目をこらす。すると、そこには白金の髪色をした少年の姿があった。弟の夏斗と同じぐらい、だろうか。少年も雪華の視線に気づいたようで、こちらに顔を向けるとパッと明るい笑みを浮かべた。

「もしかして、白姫様ですか?」
「え、あ……はい」

 まるで太陽のような笑顔の少年は、嬉しそうに雪華のそばへとやってきた。

「僕は(れい)です」
「玲……様?」
「玲で大丈夫ですよ。わー、白姫様がいらしたって話は聞いていたのですが、会えるなんて想像もしていなかったので驚きました」

 ニコニコと屈託ない笑みを浮かべる玲に、雪華もつられるように頬が緩む。

「では、玲……さん、はここでなにをしていたの?」

 黒龍の屋敷にいるということは、使用人の誰かの子どもだろうか。「玲でいいのに」と不服そうにしながらも、玲はポンと手を打った。

「あ、そうでした。僕、兄様に会いに来たんですけどいなくって」
「兄様?」
「そうです、こくりゅ……っ」

 最後まで言い切るよりも先に、玲は右手を押さえてうずくまった。そこにはぱっくりと裂けた傷が広がっていた。

「ど、どうしたのですか、これは……」
「えへへ、さっきそこで木に引っかけちゃって。でもたぶんもうすぐ治るはずだから大丈夫です」
「大丈夫って……大丈夫なわけがないです」

 自分の怪我であれば水で洗い流して布でも巻いておけばいいけれど、他人の、それも夏斗と似た年頃の子どもとあっては話が別だ。先ほどの今で文を呼ぶのは少し申し訳ないけれど、文に頼んで塗り薬を持ってきてもらおう。

「心配してくれて、ありがとうございます。白姫様はお優しいですね」
「そんなこと……」
「ね、白姫様。そうしたらひとつだけお願いがあるんです」
「お願い?」

 相変わらず邪気のない笑みを浮かべながら、玲は雪華の手を掴んだ。

「僕の手に触れて、治りますようにって祈ってください」
「え……」

 玲の目的はよくわからない。けれど、小さな子どもが痛みに不安を覚えておまじないをしてほしいとせがんでいるようなものかと思い直す。夏斗もよく転んで怪我をしては『いたいのいたいのとんでいけ』をしてほしいと言ってきたのが脳裏によぎった。

「ふふ、わかりました」

 雪華は小さく笑みを漏らすと、玲の怪我をした手を両手でそっと包み込み、懐かしいまじないを唱えた。

「いたいのいたいのとんでいけ」

 玲の怪我が少しでも早く治りますように、と願いを込める。
 その瞬間、雪華の手からまばゆいほどの白い光が発せられた。

「なっ……」

 言葉を失う雪華をよそに、玲は目を見開き笑い声をあげた。

「すごい。これが、白姫の力……」
「今、なんて?」

 ようやく収まった光に、雪華は先ほどの玲の言葉の意味を玲に尋ねようとする。けれど、それよりも早く誰かの足音と、それから。

「白姫!」
「黒龍、様……」
「白姫、今の光は……。って、玲? どうしてお前がここに」
「あ、兄様!」

 雪華と玲を見比べ怪訝そうな表情を浮かべた黒龍に、玲は嬉しそうな声をあげると駆け寄っていった。

「兄様に会いに来たんだよ」
「会いに来たと言いながら、どうして白姫と一緒にいるんだ」
「だって、兄様のお嫁様になる人だよ? 気になるに決まってるでしょ。それにほら、噂の白姫様を見てみたかったし」
「それが本音だろ」

 眉間に寄せた(しわ)を伸ばすように黒龍は人差し指を当てた。
 この状況についていくことができず、けれど口を挟んでいいのかもわからず、雪華は自分の手のひらを見つめていた。
 先ほどの光はいったいなんだったのだろう。玲はあれを『白姫の力』と言っていた。彩りの一族としてなんの価値もなかった自分に、なにか力があるのだろうか。

「……白姫、聞こえているか」
「あっ。す、すみません」

 自分を呼ぶ黒龍の声に顔を上げた。黒龍は玲とともにこちらへ視線を向け、慌てて返事をする雪華に「こちらへ来い」と手招きをした。

「紹介が遅れた。これは、弟の玲だ」
「玲です。さっきは驚かせてしまってすみません」

 両手を後ろで組むと、玲は無邪気な笑みを浮かべた。雪華は驚きを隠すことができず、急いで頭を下げる。

「あ、黒龍様の弟君、だったのですね。雪華と申します」
「弟君だなんて。さっきみたいに玲って呼んでくださいよ」

 邪気をわずかたりとも含まないような笑みに、雪華も自然と笑顔になる。とはいえ、黒龍の弟である玲に、馴れ馴れしい態度を取るのはよくない。

「では、玲様と呼ばせていただきますね」
「えー、玲でいいのに」
「わがままを言うな」

 不服そうに唇を尖らせた玲を、黒龍がたしなめる。

「はーい」

 雪華に接するのとは違う黒龍の一面が見えて、思わず笑みがあふれる。
 本当は夏斗とも桜ともこんな関係を築きたかった。雪華がもしも色なしじゃなければ彼らのように笑い合えたりしたのだろうか。
 あり得るはずもない過去や未来を想像しても仕方ないとわかっている。雪華が色なしとして生まれてきたのは変えようのない事実だ。それなら、今をどうやって生きるかを考えるほうがきっといい。

「黒龍様。ひとつ聞きたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「……質問による」

 黒龍は眉をひそめ、顔をしかめる。まるで雪華が今からする質問の内容がわかっているかのように。
 それでも雪華は聞かなければいけない。

「先ほど、玲様が怪我をされていたので、その手を握りしめて怪我が治るようにと祈りました。その直後、まばゆいほどの光が発生したのですが、黒龍様はなにかご存じですか?」
「ああ」

 知ってはいる、けれど答えたくない。そう、態度が物語っていた。
 冷たい口調に、これ以上深入りするのは得策ではないのかもしれないと先ほどの決意が揺らぎそうになったとき、明るい声が響いた。

「あれは白姫様の力ですよ」
「玲!」

 黒龍の咎めるような声など気にも留めないとばかりに、玲は話し始めた。

「僕も初めて見たんだけど、白姫様には癒やしの力があるらしいんです。その力のおかげで、ほら」

 玲が右手を開けて見せる。先ほどまで確かにあったはずの傷口が、まるで最初からなかったかのように消えていた。

「白姫の、力」

 そうつぶやくと、自分の手のひらと玲の右手を見比べる。
 先ほどの光が、白姫の力なのだろうか。白姫の力とは、いったい。
 答えが知りたくて顔を上げた雪華の目に映ったのは、険しい表情をした黒龍の姿だった。

「玲、余計なことを言うな!」
「え……」

 投げつけるような黒龍の言葉に玲はビクリと肩を振るわせ、大きな目に涙を浮かべた。

「ご、ごめんなさい。僕、言っちゃいけないことだって知らなくて……っ」
「玲様!」

 着物の袖で涙を拭うと、玲はその場を走り去る。
 しかしそんな玲を、黒龍をこの場に残して追いかけるわけにもいかず、雪華はただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
 黒龍に促され、自室へと戻る。座卓の前に座る黒龍に倣って、雪華も正面に座った。
 黒龍は眉間に深い皺を寄せてなにか考え込んでいるように見える。
 先ほどの光の正体を、玲だけではなく黒龍も知っているようだった。それどころか、雪華には知られたくなさそうな口ぶりにさえ感じだった。
 いったいあれはなんだったのだろうか。
 黒龍に気づかれないように、座卓の影で自分の手のひらを広げる。
 なんの変哲もない、いつも通りの雪華の手だ。
 そういえば、以前はあかぎれと手荒れがひどかったけれど、ここに来てからずいぶんとよくなった。開いたり閉じたりしても痛まないのは、すべて黒龍のおかげだとありがたく思う。そんな黒龍が雪華には黙っていた。それを無理に聞くことに、なんの意味もない気がする。
 雪華のためになるのであれば、きっといつか話してくれるはずだ。それまで待とう。
 そう告げようと顔を上げた雪華は、まっすぐこちらを見つめる黒龍と目が合った。

「あ……」
「白姫、手を」

 黒龍に促され、雪華は座卓の上へと自分の手を置いた。
 黒龍は雪華の手を開かせると、そっとその手に触れた。雪華のものよりもゴツゴツとして大きな、男の人の手。
 重ねた手を黒龍は優しく握りしめた。

「白姫には祈りの力があるんだ」
「祈りの、力ですか? ですが、私にはどれだけ祈っても季節を彩ることはできません」
「白姫が祈るのは季節を彩るためではない。龍の傷を癒やすためだ」
「龍の傷を、癒やすため?」

 黒龍の言葉と、先ほど玲の手のひらにあった傷の、ふたつが繋がった気がした。

「もしかして、私が祈ると玲様や他の方についた傷が治るのですか?」
「飲み込みが早いな。そうだ。お前が祈れば、たちまちに傷は治る。先ほどの光はその力によるものだ」
「私の、力……」

 目の前で、もう一度閉じたり開いたりを繰り返してみる。

「この力で、他の方の役に立てるのですか?」

 先ほど玲が負った怪我のように、自分が癒やすことで役に立てるのなら――。
 けれど雪華の期待は、黒龍の言葉ですぐに打ち砕かれる。

「龍は基本的に人間と比べると傷の治りが早い。だから、そう必要とはしないがな」
「そうなの、ですか」

 落胆しながらも、治りが早いほうがいいに決まっていると思い直す。怪我したあとにしか使えない力だ。こんな力の使いどきなんてないほうがいい。

「ああ、もう。そんなあからさまに気落ちした表情をするな」
「も、申し訳ございません」

 どうやら表情に出ていたらしく、落胆していたのを黒龍に見抜かれてしまう。頭を下げる雪華に、黒龍は眉間に寄せていた皺をさらに深めながら諦めたように口を開いた。

「ただ龍の中には同じ龍を襲うやつらもいる」
「同じ龍を?」

 どうしてそんなひどいことを。つい口走りそうになって、考え直す。人が人を傷つけるように、龍にも同様のことがあっても不思議ではないのかもしれない。
 黙っている雪華に、黒龍は話を続ける。

「龍の中には、俺たちのように人の形に成る者だけではなく、理性を持たないただの獣のような者もいる。そいつらは龍だろうがなんだろうがおかまいなしに襲いかかる」
「そんな……」

 無意識のうちに声を漏らしてしまった雪華に、黒龍は「大丈夫だ」と優しく頷く。

「そういう龍たちを近寄らせないために、俺たち治安維持部隊がいる」
「治安維持部隊、ですか?」
「ああ。外からよそ者の龍たちが侵入しないように、俺たちが守っている。だからお前はなんの心配もせず、ここにいればいい」

 大丈夫だと黒龍は言うけれど、理性のない龍たちの侵入をどうやって防いでいるのか、想像しただけで身震いしてしまう。

「心配です」
「なに?」

 雪華の言葉に、黒龍は不快そうに眉をひそめる。けれど。

「黒龍様がお怪我などされないか、心配で仕方ありません」
「お前は……」

 言い切った雪華に、黒龍は驚いたような表情を浮かべ、それから口角を上げた。

「この机がなければ、今すぐお前のことを抱きしめていたんだがな」
「なっ」

 なにを言うんですか、そう続けようとした雪華よりも早く、黒龍は困ったように笑みを浮かべた。

「それぐらい嬉しかった。心配してくれて、ありがとう」

 そう言う黒龍があまりにも優しい顔をして見つめていたので、雪華は戸惑いを隠すために(うつむ)いた。けれどそれと同時に、この人の役に立ちたいという気持ちも湧き上がる。
 逸らした視線を、雪華は再び黒龍へと向けた。

「先ほど黒龍様は『龍は基本的に人間と比べると傷の治りが早い』とおっしゃいました。基本的に、なら例外もあるということでしょうか?」
「お前は(さと)いな」

 ふう、と息を吐くと、黒龍は渋々といった様子で口を開く。

「龍の傷は治りが早い。ただひとつ、例外がある」
「例外、ですか?」
「ああ。龍同士でつけた傷は治りが遅いんだ。それどころか、傷口から()み、腐敗し、最悪、死に至る」
「そ、そんな……!」

 同族同士でつけ合った傷で死んでしまうなんて、想像しただけで胸が痛くなる。

「その方たちの力に、私はなれないでしょうか」

 ためらいがちに、けれどまっすぐに話す雪華の言葉に、黒龍はため息をついた。

「だから聞かせたくなかったんだ。白姫ならきっと、そう言うと思ったから」

 その言葉には、どこか雪華を心配するような気持ちが混ざっているように聞こえた。さらに黒龍は続ける。

「白姫の力があれば、今苦しんでいる者たちは助かる」
「それでは!」
「だが、その力は白姫の寿命を縮める可能性がある」
「私の、ですか?」

 黒龍は「ああ」と頷くと、苛立ちを押さえるように髪をかき上げる。

「昔、力を使って早逝した白姫がいたという話が残っている。お前をそうはさせたくない」

 真っ黒な瞳は、まっすぐに雪華を見つめていた。

「無理は、しません」
「約束できるか」
「はい」

 見つめ返す雪華の瞳に、黒龍は「仕方ないな」とつぶやく。

「お前の命より大切なものなどはないのだと覚えておいてくれ」
「わかり、ました」

 頷く雪華に、黒龍は少しだけ安堵したような表情を浮かべているように見えた。
 しかし雪華は、ごめんなさいと、心の中で黒龍に謝る。
 わかったなんて嘘だ。今まで『色なし』と呼ばれ、生家でもここでも役立たずの自分にも役立てることがあるのが嬉しかった。それが例え、自分の命を削るとしても。