「せ、先輩!」

「ん?」

「先輩が書いてきてくれた先輩オリジナルの訳見せてください!」

 先輩が頬を赤らめたまま黙ってしまったので、耐えきれずに催促してしまった。

 このまま沈黙が続いていたら、気まずいなんてものじゃない。

 好きな人との沈黙。片想い中の私からすると、心臓がいくつあっても足りないだろう。

「あ・・・あぁ、そうだったね」

 ヒラヒラっと先輩の細く繊細な指が、私たちのノートのページを一枚一枚めくっていく。

 まるで、破れてしまわないように丁寧に慎重になりながら。

「これだよ」

 先輩の手が止まり、綺麗に並び揃えられた文字に指が止まる。

 教科書の字をそのまま移したかのような偏りが一切ない完璧な字。

 なんでもできる人は、字までも綺麗なのだと痛感させられてしまった。

 上に書かれている字はどれもバランスが悪く、右肩上がりで書かれている文章もある。

 比べてみるだけで虚しくなる。まるで月と鼈だ。

『ありつつも君をば待たむうち靡くわが黒髪に霜の置くまでに』

 昨日先輩が気に入っていた和歌だ。一体どんな風に訳したのだろうか。

 確か現代語訳は、『このまま私は恋しいあなたを待ちましょう。私の黒髪に霜がおりるまで、白髪になるまでも』だったはず。

「小野さん」

「は、はい!」

「そんなまじまじと見られたら恥ずかしいよ。絶対変な訳だろうし・・・」

「ご、ごめんなさい! ついつい先輩が訳したものが気になってしまって」

「大したものじゃないよ。小野さんの訳に比べたら」

「いいんですよ。人それぞれで。だから、和歌は面白いんです。一つの和歌でも人によっては全く感じ方や見え方が変わってくる。みんながみんな同じことを思い描いていたら、つまらないですからね」

「確かにその通りだ。やっぱり小野さんはすごいね」

「そんな私は全然すごくなんかないですよ」

 手のひらで「どうぞ」と合図をしてくる先輩。僕の訳を見てくださいってことで間違いはないだろう。

 一文字も見逃すことがないように、限界まで目を開ききる。例え、乾燥して目が痛くなろうともこの瞬間だけは耐えきってみせる。

 『僕はいつまでも待ち続ける。何歳になっても僕には愛するあなたを待ち続ける。例え、お婆さんになろうとも、僕にはあなたしかいないのだから』

 ストレートな表現だった。ふと、私の頭の中をひとつの答えが過ってしまう。

 先輩は誰かに恋をしているのではないだろうか。

 そう感じてしまうほど、先輩の訳には誰かへの想いが詰まっている気がした。

 少なからず、単なる訳ではなく先輩の気持ちを代弁しているかのような...

「どうかな?」

 恥ずかしがりながら、私の言葉を待っている先輩。確信してしまった。先輩は誰かに恋をしているのだと。

 痛む心を抑えつつ、先輩の目を見る。綺麗な汚れひとつ見つからないくらい澄んだ目。

 あぁ、苦しいな。私の片想いはあっけなく散ってしまった。先輩が恋心を向けている相手は、私なはずがないのだから。

「よ、よかったです!先輩の恋心が感じられました」

「え、僕の恋心・・・」

 言ってから後悔した。言わなくてもいいことはこの世界にごまんと存在する。

 それをあえて言ってしまうなんて、私は本当に愚かで救いようがない。自分の手で自分の首を絞めているようなものだ。

「は、はい。先輩好きな人いますよね?その人に向けた言葉って感じがしました」

 もうどうにでもなれ。言ってしまったことはもう後戻りできないのなら、聞いてしまうのが1番。

「え、これだけでわかるんだ。さすがだね。僕ね、ずっと片想いなんだよ。ずっとって言ってもまだ1年も経ってないけどね」

「どうして告白しないんですか?」

「勇気が出ないんだよ。情けないでしょ。振られるのが、怖くて・・・初めて本気で好きになれた相手なんだ。その相手に振られたら、きっと僕は当分の間立ち直れない。それなら、今のまま友達のような関係の方がね」

 痛いほどに分かってしまう自分がいる。先輩の言う通り私もその気持ちに同感だ。

 好きな人とは付き合いたい。でも、告白をして振られ、距離が遠ざかってしまう未来があるくらいなら、私は現状を維持するままでいい。

 先輩と関わることができなくなってしまう方が、私は振られるよりも辛いんだ。

 そうだったんだ。先輩も私と同様に恋をして、相手に届かない想いを胸の奥底で日々育んでいたのか。

「私も同じですよ、先輩」

「小野さんも恋してるんだね・・・そっか。そうだよね。僕ら片想い仲間だね。自分で言ってみたけど、かなり切ないや」

「切ないですね私たち」

 しんみりとした空気感を引き裂くように、予鈴が校内に響く。それを合図に、私たちはテーブルの上に広げられた荷物を整理して、図書室を急いで出た。

 私たちが中にいたことがバレないように、図書室の扉を施錠したのを確認し、互いの教室へと向かう。

 先輩は1階。私は3階。当然、私の方が早く教室に着いてしまう。もう少しだけ先輩と一緒にいたかった気持ちを抑え、1年2組と書かれた教室へと向かう。

「小野さん」

 背後から彼の声が私の足をピタリと止める。

「はい」

「僕、放課後暇だから今日も行くね。それじゃ、また後で!」

 私が返事をする間も無く先輩は階段を駆け下り、姿を晦ましてしまった。

 私に残されたのは、先輩への片想いの切ない気持ちと、先輩に放課後も会えるという嬉しさだけだった。

 苦しいけど嬉しい。到底理解しがたい感情だったけれど、関わりがあるだけ私は幸せなんだ。

 チャイムが鳴ると同時に教室に滑り込んだ私をクラスメイトは、不思議そうな視線を向けてきた。
 
 私がギリギリに登校することなんて今まで一度もなかったのだから。

 あぁ、今日も放課後のことで頭がいっぱいのまま1日を過ごすのだろうな。

 自分の席の隣に取り付けられている窓には、頬を緩ませた自分が映っていた。特別可愛くもない、ごく普通の容姿の女子高校生が。

 窓の向こうでグラウンドへと走る誰かを目で追っているうちに、授業開始のチャイムが再びなった。