先輩のことを考えている間に、気付けば学校へと到着していた。

 当然、早朝のため私以外に生徒がいる気配すら感じられない。むしろ、先生たちもいるのかですら怪しい。

 ひんやりと冷たい金属の下駄箱から上靴を取り出し、履いてきた外履を中へとしまう。

 1日寒いところに放置されていたためか、足を入れた瞬間ブルっと冷たさが体に伝わる。

 新品でまっさらだった頃が懐かしいくらい若干薄汚れし始めてきた上靴。

 あと2年の付き合いになるが、その頃には今よりも白い部分がなくなっているのだろう。

 もはや、白という色すら視認できなそうだ。上級生の中にほぼ灰色の上靴を履いている人がいた気がする。

 上靴で廊下を歩くたびに、自分の足音が誰もいない廊下に反響し、私の耳に響く。

「本当に誰もいない・・・」

 いくら呟こうが今は誰にも届くことのない私の声。

 図書室へと向けられる心に準ずるかのように、足が自然と図書室に進んでいく。

 度重なる階段を登り、階段に取り付けられた窓から少しずつだが、生徒たちが登校してくる様子が伺える。

 皆寒いのか、口から白い吐息が漏れ出す。冬が到来したことを私たちに伝えてくれる目印。

 校舎内にいる私ですら、先ほどから吐く息は白かった。

 『図書室』と書かれたネームプレートの扉に昨日借りたままにしておいた鍵を差し込み、扉を開く。

 本来はダメな行為だが、今日だけは多めに見てほしい。なんと言っても先輩から誘われた日だから...
 
 昨日の放課後とは違って、埃っぽさが微塵も感じられない図書室。

 暖房もついていないため、ブルっと身震いをしてしまうほど中の空気はひんやりと冷たい。

 2人で座ったテーブルに荷物を置いて、万葉集を探しに本棚へ。

 ここ最近は、万葉集ばかりを借りていたせいか、すっかり場所や置いてある近くの本の配置まで完璧覚えてしまった。

「あった」

 私たちが昨日触れてからは、誰も触れていないであろう万葉集。

 先輩の温もりは消えて、冷たさが手に伝わってくる。昨日は本でも、先輩が触った後は温かかったのに...

 ガラッと古びた扉が開く音がし、入り口に視線を向けると、赤色のチェックのマフラーを首に巻いて口元を隠した先輩が立っていた。

 外が寒かったのだろうか。鼻の先がもうすぐ子供たちの元に訪れるであろう、トナカイの鼻みたく赤くなっている。

 年上なのに、ついつい可愛いと思ってしまう。お茶目なところも先輩の愛嬌のひとつなのかもしれない。

「おはよう、小野さん。今日は寒いね」

「おはようございます先輩! 鼻の先が真っ赤になってますよ」

「え、まじ?恥ずかしいな。小野さんは寒くはない?」

「ちょっとだけ寒いですけど、大丈夫です」

 先輩が来るまでは寒かったけれど、先輩が来てから温かくなった...なんて言えるわけもなく、グッと口から出そうになるのを堪える。

 スタスタと私の座席の隣に荷物を置く先輩。たったそれだけの動作なのに、目が離せないのは恋をしているからなのだろうか。

「どうしたの?立ってないで、早くこっちにおいでよ。寒いからさ」

 ずるい。「おいで」って言葉は期待してしまうよ。反則級の3文字すぎる。

「はい・・・」

 先輩の近くを通り過ぎると、甘いシャンプーの匂いが香る。顔に出さないようにしながら、先輩の隣の席に腰掛け、手に持っていた万葉集をテーブルの上へと置く。

「じゃじゃーん!僕も書いてきたよ。それと、ごめん勝手に表紙書き換えちゃった」

 リュックから古典ノートを取り出し、私に堂々と見せてくる。

 昨日まではただの『古典ノート』だったのが、『僕と私の古典ノート』と名前が書き換えられていた。

 嬉しかった。先輩の世界に私という存在が認識され、形として残されていることが。

「めっちゃ嬉しいです!私たちの秘密のノートですね」

「・・・そうだね。秘密のノートだね。僕らだけの・・・」

「どうかしたんですか?」

「い、いやなんでもないよ」

 先輩はまだ寒いのか、ほんのりと頬が赤く染まっていた。まるで、私の言葉に照れていたかのように。